たくさんの愛をもっと 生きている限りずっと

いつも感じていること、心に溢れてくることを、日常の中からそっとすくい上げて、ささやかな文章に残せたらいいな

西洋占星術

去年の緊急事態宣言中、とてもヒマになってしまったので、西洋占星術に関する情報の交流会のような場所に通い始めました。

それから約10ヶ月。

初めは恐る恐る、みなさんの占星術に対する熱気にドキドキしながら様子を見てましたが、今となってはもう、毎回楽しくてしかたありません。

不思議なものですね、人生って。

コロナがなければ、占星術を深く勉強することもなかったかも知れません。

中学生の頃、好きで好きで、レポート用紙に友達のことをいっぱい占って書いてあげて渡してました。

占星術を勉強できる専門学校があれば絶対行きたいと本気で思ってました(笑)

 

しかしながら、西洋占星術とは、10天体(またはそれ以上)、12星座、12ハウス、アスペクト(角度)などの組み合わせを、どう読むか。

それにはかなり個人差が出る気がします。

「注意点」にフォーカスした読み方。

「良い面」を活かす読み方。

個人の運勢を超えた、哲学的なテーマをもとに読む方法。

星を読むその人の人生観までが、関わってにじみ出てくるものかと感じます。

 

毎日のように、新しい気づきがあり、今日もまた何個か心に留めたいこと発見しました。

ただの占い、ではなく、「見てあげたい」という愛をベースに、相手の生き方を肯定するような読み方ができるように。

そんなスタンスの私で、無理なく楽しく自由に人生の中に組み込んでゆけること、それが願いです。

 

今日は満月の日です。

私の太陽星座、乙女座の終わりの方で午後4時ごろにちょうどまんまるになってたはず。

記念に、今日はこんな記事、書いてみました。

これからの私たちは天体たちの織りなすストーリーにどう影響されるのか、チェックするのがワクワクの日々です。

 

ゆるす

ゆるす、という感覚は、とても分かりにくい感覚。

許す、という漢字と、赦す、という漢字。

天赦日という吉日がありますね。

天がすべての事をゆるしてくれる日という。

悪いことをしてもゆるされる、ということではないというのは、そのイメージから伝わります。

何をしてもいいよ、という許可がじゃんじゃん与えられる?

それもそれで、無秩序な感じもする。

 

私が、セルフヒーリングをするとき、最近はこんな世界を描いています。

持病である喘息は、胸や気道が詰まる…それは言いたい事を言えない自分がいる(いた)という事実に気づくためである、という考え方。

幼少期を含め、子供頃はずっと親の顔色を見ながら育ったという、思い出したくないしんどさが、私にはあります。

そんな幼い自分の側に時空を超えて寄り添います。

「言えなかったんだよね。」
「本当はとっても言いたいことがあったんだよね。」

「怒られるのが怖かったよね。」

「泣きたかったんだよね。」

背中をさすりながら、でも大丈夫だよ。

言えなかったことが悪いことなのではないよ。

よく頑張ったので、そこは君のとても誇らしいところだよ。

泣いてもいいよ。

寄り添っていいよ。

ここにずっと一緒にいていいよ。

本当は君は心優しくて、すごくすごくいい子なんだ。

君に会えて私はとても嬉しいよ。

 

そう語りかけながら、しばらくしばらく深い呼吸をする。

 

自分を愛するということは、そうやって過去の自分をゆるしていくことなのではないかな?と、実感する時間です。

 

そのときの「ゆるす」という感覚は、許可というものでもなく、罪を許すというというものでもなく。

言葉にできないのです。

 

そして、言葉にしなくても良いと思うのです。

そして、自分に対してだけでなく、他人にも、周りの事象にも、そんな思いを向けることが徐々にできるんじゃないか、できたら幸せかな、どうなのかな。

 

毎日、問いかけています。

 

ゆるす、ということ、私の今年のテーマとして、ここに久しぶりに書いてみました。

 

 

この世に生まれる順番

この間、通勤の帰り道、黄昏時の道をテクテク歩いてるときに、ふと覚醒したことがあります。

覚醒というとかなり大袈裟ですが…。

 

私自身、両親との人間関係や様々な経験を通じて、ああ私の方が大人だな、と思う事が時々あります。

これは決して自己欺瞞でもなんでもなく、むしろ、世の中そんな風にご自分の親に対して感じられる方、多いんじゃないかと感じたりします。

親の困っていることに対する解決策を、私の無意識のうちにいつの間にか提供してて、お互いそれに気づかずに、やがて時空を超えて繋がったのを感じたことが、私の場合何度かあるのです。

 

また、自分の子どもを育てることを通して、自身が「教えてもらう」「育ててもらう」という表現も、よく耳にする考え方、とらえ方です。

先に生まれたから自分の方が正しい、という順番ではなく、むしろその逆なのです。

そうです、その「順番」についてなのです。

 

過去何千年を通しての地球上のあらゆる人々の歴史を思うと、生活様式や科学、医療、教育、法律など、全体的に「進化」してきています。

それは、結局のところ、前の世代、その前の世代より「大人になった」今の世代が世の中を作り替えていく、その連続の結果ではないかと思うのです。

 

最終目的地にいる「大人」は何を目指しているのだろう。

そのための、その大人を育てるための「子ども」でいる今の私たち。

先に生まれた方が子ども、そして、これからの子孫が大人。

そんな順番のからくりがあるんじゃないかと、ひらめいた黄昏時でした。

人を大切にすること

お風呂に入りながらボーッと考えてました。

友人など、身近な他人を大切にするって、どういうことかな。

大切にするということは、丁寧に扱うこと。

その人のことを丁寧に扱うとはいったいどういうことなんだろう。

 

例えば、簡単なイベントとか近場への行楽でもいい。

その人と一緒に楽しめるプランを考えて打ち出して、少しでも良い時間を人生の中に作り出すこと。

長い人生の中で、ああ、あの日は楽しかったなと、少しでも心豊かになれるひとコマをお互い作る、それに協力する、ということが、その人を大切にすることなのかな、とぼんやりしながら、脳内では不思議に透き通った片隅の部分に浮かんできたので、すぐにこうやって書いておきました。

 

ある友人を丁寧に想い、その人の思い出になるような時間を探してあげる。

すると、別の友人から、私にとって良い思い出になりそうな素敵な提案が届いたりする。

そんなことがあります。

 

人を大切に。

人生を丁寧に。

私のこれからのテーマになるかも知れません。

私とコーヒー

だんだん朝夕の肌寒さに身が引き締まる季節になってきました。

私は年間を通じて、温かい飲み物を好むのですが…

職場には象印のステンレスボトルに、最近は黒豆茶のパックと熱湯を入れて香りも楽しんでます。

もともとアトピー体質だったりしたので、昔から刺激物としてコーヒーは避けてきていました。

飲まないので、美味しさも分からず、お店では紅茶系ばかりを選んで。

それが、40代半ば頃から、コーヒーも少しずつ楽しめるようになってきました。

きっかけは、私の憧れの男性がコーヒー好きで、私がコーヒー飲めない話をしたら子ども扱いしてからかってくれて、楽しかったからです。

その男性が一度だけ、即席ドリップですけど、コーヒーを淹れてくれたことがあります。

それはそれは、本当に美味しくて、今でもその時の嬉しさがよみがえります。

私自身も即席ドリップしか淹れることはできませんが、温かい想いを今も胸に抱きながら、湯気と香ばしい香りに癒される時間を大切にしています。

開設して1年以上過ぎました

前回書いた投稿内容、無事彼には元気も戻り、コミュニケーションも元に戻りました。

このコロナ禍の中で、変容する人間関係は多々あると感じます。

自分の中での整理整頓、言ってみれば断捨離のようなこと、自分軸や方向性を見つめ直す、誰にとっても少なからずそういう時期なのかも知れません。

 

私自身もここ数か月は、健康問題や人間関係から、日々のあたりまえへの感謝の気持ちを突き付けられるような思いを何度となく感じています。

 

ここのブログをなぜ1年前に開設したのか…

それこそがまだ、自分軸だったり、方向性だったり、そういうものに向き合う前のプロローグだったでしょうか。

これから、今年後半も佳境にさしかかります。

思いついたこと、これまで以上に、自分自身へのお手紙のような気分で、ここに書いていけることを望んでいます。

 

テーマ性もなく、ただただ思いつくままですが、何かに繋がるといいな、それが過去の私と未来の私との架け橋でもいい。

普段はニコニコと人前でふるまう私と、迷い道にいてウロウロしている私。
その架け橋なのかも知れない。

自分の潜在意識に眠る思いを、言葉を、可視化できるようにしていければと思います。

残暑厳しい毎日の中、巡り来る秋風の季節を朝晩に感じながら、少しでも前進できる今日でありますように。

 

想像力と理解力

私の大切な人が、このコロナ禍の影響で、人との交流を絶ってしまっている。

とてもとても悲しくて、私自身の辛さや不安は、言葉にしきれない。

でもそこで、私が、自分の彼を想う気持ちを伝えたとしても、彼には全然響かないのです。

それくらい参ってしまっているのかも知れない。

私には、彼の今の精神状態が分からない。

離れていて、連絡も取れず、どうしたらいいのか途方に暮れているのです。

 

いろんな記事やブログの中に、このコロナ禍において大切なのは想像力であると、数ヶ月前から言われてきていました。

事実、想像力はかなり鍛えられる自粛期間ではあったかと思います。

今は私に、何が必要なのか、今日考えました。

そして、それは理解力なのではないか、との考えに行きつきました。

 

彼を襲っている辛さを「想像」して、出来る限り「理解」する。

他人なのだから、ちゃんと理解できるわけではないけど、出来る限り、そこが大事。

まあ、何も言ってきてくれないので、何を理解したらいいのかというのが正直なところなんだけど。

 

久しぶりの投稿で、明るいものを書けませんでした。

この気持ちが落ち着くまで、もしかしたら自分への日記がわりに書き続けるかも知れません。

 

でもそれで、まずは私自身が、安定した気持ちに戻る事、それが今一番欲しいもの。

自分が穏やかでないと、豊かな気持ちで想像も理解も難しいだろうから。

自分にヒーリングや瞑想の時間を与えながら、乗り越えていくのを、ここに書かせてください。