明晰夢工房

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「古代文明は都市と遊牧民の交易から生まれた」という観点が面白かった第一回『3か月でマスターする世界史』

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NHKEテレ『3か月でマスターする世界史』が先日スタートした。番組冒頭から岡本隆司氏が佐藤あゆみアナに「コロンブスと聞くと何を思い浮かべますか」と問いかけ、佐藤アナが「新大陸の発見です」と答えると、「新大陸の発見という視点は、ヨーロッパという特殊な地域から見たものです」と指摘する一幕があった。「世界史をアジアの視点からとらえ直す」という番組の軸がここで示された形になる。

 

第一回は、古代文明の誕生と遊牧民との関りについて見ていく回。とかく大河とのかかわりが強調されがちな古代文明について、この視点は新しい。古代の都市は農耕地域と遊牧地域の境界に生まれているが、これは両者が交易をおこなっているからで、交易の拠点として都市が生まれる。商業が活発になると貧富の差が拡大するため、富める者は富を外敵から守るため都市を城壁で囲む。遊牧民も外敵になるため、強固な城壁が必要になる……といった内容だった。中国については、古代都市と遊牧民の関係性は『紫禁城の栄光』で明確に描きだされている。

 

 

それではどうしてシナの古代都市は、みなモンゴル、山西の高原と北シナの平野部の接点に多く発生したのだろうか。この謎を解くカギは、モンゴル高原遊牧民族と、北シナの平野部の農耕民族とのあいだの貿易関係にある。遊牧民は家畜の皮を着、ミルクやヨーグルトを飲み、バターやチーズを食べ、羊毛をかためてつくったフェルトのテントに住む。これは一見まったくの自給自足経済のようであるが、人体の維持に絶対必要な炭水化物、つまり穀物は農耕民族から買い入れなければならない。そこで歴史時代以前から、高原の遊牧民たちはキャラヴァンを組織しては北シナの平野に降りていって、そこの農耕民と貿易をしなければならなかった。そうした取引場、定期地位は当然農耕地帯のへりにある。北京、邯鄲、安陽、洛陽、西安、咸陽あたりでひらかれたわけで、ここには農耕地帯の奥地からも多くの人びとが交易のためにあつまってきて、やがて定期市は常設の市場となり、そのまわりに集落が発達しはじめた。これが北シナの古代都市の発生である。(p22)

 

これと同様の関係性が、シュメール諸国とセム系の遊牧民族のあいだにも見出せる。ウルではラピスラズリを用いた財宝が出土しているが、これはバダフシャーンで採れたものだ。アフガニスタンとウルを結びつけたのは遊牧民で、他にもメソポタミアで不足している木材や金属をもたらしたものは遊牧民だと考えられる。メソポタミアは大麦の収穫倍率が20~80倍になるほど農耕に適していたが、それでも文明が発達するには遊牧民との交易が欠かせなかった。このように各地の古代文明に共通項を見つけていくのが第一回の特徴だった。他にもメソポタミアにおいて、アッシリアの過酷な支配が失敗したのちアケメネス朝の寛容な統治が長続きしたことが、中国における秦と漢の関係と相似形であることも語られていた。

 

広大な領域国家の誕生にも遊牧民がかかわっている。馬の騎乗をはじめたスキタイがオリエントまで勢力を伸ばすと、オリエントでも同様に騎乗をはじめる。騎兵は敵の背後に回り込んで包囲殲滅ができるため、騎兵を擁する国家は強大となり、アッシリアのような強大な帝国が生まれることが番組中で触れられていた。同様に中国でも趙や秦のように軍馬を確保しやすかった国が戦国時代に強国となり、やがて秦が中華を統一する流れがある。

 

全体として、細かな知識を追うより歴史の構造を大づかみに把握する番組内容には好感が持てたので、次回にも期待したい。

 

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NHKEテレ『3か月でマスターする世界史』が面白そうな件

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4月3日からEテレで『3か月でマスターする世界史』が始まる。テキストのサンプルを見てみると、第1回と2回のタイトルは「古代文明のはじまり カギは”遊牧”」「ローマもオリエント?」といった興味深いものになっており、番組を観る価値はありそうだ。テキストの「はじめに」にでは岡本隆司氏が「アジアから世界史をひも解くと、新しい世界史が見えてくる」と語っている。「西洋中心主義とは?」「キリスト教の発祥はヨーロッパ?」といった回もあるようで、全体としてアジアの視点から世界史をとらえ直すシリーズになりそうだ。

 

 

この番組にはゲストとしてローマ史家の井上文則氏が登場するが、井上氏は東洋史への関心も深い研究者で、宮崎市定の評伝も上梓している。井上氏はローマ帝国シルクロードとの関係を重視していて、『軍と兵士のローマ帝国』でもシルクロード交易がローマの常備軍を支えていた、と書いている。常備軍の維持は多大な財政的負担をともなうもので、シルクロード交易の関税収入がなければそれは不可能だったという。シルクロード交易は、漢の西方進出とローマの東方進出の結果実現したもので、井上氏はカエサル凱旋式パレードで沿道に絹の日よけを用いたことをその象徴として紹介している。ローマ史はローマ史として完結しているわけではなく、ユーラシア史全体の枠組みのなかで捉える必要がある、という視点がここにはある。第2回ではこのような井上氏の史眼を楽しめる回になりそうだ。

 

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番組のナビゲーターを務める岡本隆司氏には数多くの著書があるが、『「中国」の形成』で書かれている『アジアと西洋の「大分岐」』は非常に面白い内容で、豊かだったはずの清朝産業革命が起きなかった理由を教えてくれるものだった。今回の講座でもこの「大分岐」に触れてくれることを期待したい。

 

(追記)第一回では古代文明誕生の背景に遊牧民の活動があったことに焦点を当てていた。古代の都市は農耕地域と遊牧地域の境界に生まれているが、これは両者が交易をおこなっているからで、交易の拠点として都市が必要になる。商業が盛んになると貧富の差が拡大し、富める者はその富を守るため都市を城壁で囲む。遊牧民は都市の交易相手でもあるが、外敵でもあるため、強固な城壁が必要になる。農耕民と遊牧民の対立関係はシュメール諸国とセム系の遊牧民族の間にはじめて見出せるが、同様の関係を漢と匈奴のあいだにも見てとれる。アジアに共通する文明の「型」を見ていくのがこの番組の特徴のようだ。

「才能が欲しい」という言葉の裏にあるもの

お前にゴッホ並みの画才を授けてやろう、と夢のなかで女神さまにでも言われたなら、喜ぶ人は多いだろう。しかし、お前にゴッホのような人生を送らせてやろう、と言われたなら、これはちょっと喜べない。「ゴッホは生涯一枚しか絵を売れなかった」は実は間違いだそうだが、それでも才能にふさわしい評価を得られない人生だったことに変わりはない。創作を志す人は誰だって才能を欲しがるが、才能さえあればいいわけでもない。実のところ、皆が欲しがっているのは才能によって得られる賞賛だ。才能があってもそれを埋もれさせたままで終わる人生は、だれも望まない。

 

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生成AIで「才能の民主化」ができるという話がある。ここでいう「才能」とは、普通の意味とは異なるようだ。上記のまとめに載っているパブリックコメントを書いた人は生まれつき手が震え、絵を描く「遺伝的才能」がないのだと主張している。そこだけを読めば、先天的なハンディを持たず絵を描くことができる多くの人は「遺伝的才能」に恵まれているという話だと取れる。「民主化」とはそうした「遺伝的才能」を持たない人にも絵を生み出す道を開くという意味であり、生成AIを使えばそれは確かに可能にはなる。

 

生成AIを用いて自分好みの絵を生成し、それで満足できるのなら、ここで話は完結する。「才能」を純粋に「絵を生み出す能力」という意味で使っているのなら、生成AIでそれを手にすることはできる。だが、ゴッホの例で説明したとおり、「才能」という言葉は単なる能力という意味を超えて用いられることがしばしばある。「才能の民主化」を望む人が求めているのは、純粋な描画能力だろうか。それとも、人気絵師の持つ名声や経済力だろうか。まとめ中のパブリックコメントには、「特権階級」という言葉が二度出てきている。支障なく絵を描けるだけの人を「特権階級」などと呼ぶだろうか。これは、人気や名声を持つごく一部の絵師にふさわしい言葉ではないのか。

 

「才能の民主化」を求めている人が何を欲しがっているのか、本当のところはよくわからない。ただ多くの場合、「才能が欲しい」は、才能に付随する承認まで含めての欲求になる。私はときどき、「創作できる人は輝いている。私にはその輝きがない」といった嘆きの言葉を聞くことがある。その輝きとは、突き詰めれば脚光を浴びる、ということだ。創作していても輝けない人はいくらでもいるのに、スポットライトの眩しさに目がくらんでいる人には、そちら側は見えていない。生成AIで「才能が民主化」されれば、同等の「才能」の持ち主が大量に出現する。しかもAIの描いた絵という時点で評価しない人も多いから、よけいにスポットライトは当たりにくくなる。となると、生成AIを高度に使いこなせる一部の人だけが評価されることになる。才能は「民主化」できても、賞賛までは「民主化」できない。

 

創作活動がしたいという欲求は、たいていは創作物で評価されたい、という欲求を含んでいる。後者を切り捨てられないからこそ、多くの人が創作で苦しむ。AIを用いれば創作のリングにすら上がれない、という苦しみは解消できるかもしれないが、リングに上がった先の苦しみもある。ほとんどの人は望むほどの評価を得られないし、そうした苦しみが「同人小説で感想をもらえないので筆を折りたい」といった形でネット上に吐露されていたりする。この苦しさから自由でいられるのは、創作自体を楽しめる人だ。自分が好きなものを創っていれば心が満たされるというタイプは、評価を必要としない。禅僧・小池龍之介が「精神の自給率が高い」と表現する人々だ。実のところ、創作能力などよりもこのようなメンタルを持てることこそが、もっとも得難い「才能」なのかもしれない。創作は長く続けなければ実を結ばないし、楽しめる人ほど長続きしやすいからだ。こういう、実はもっとも大切な「才能」をAIで民主化できないところに、世の理不尽さと人間の奥深さとがある。

 

 

古代ギリシア民主政の真実とは?歴史学者が「衆愚政」への異議を唱える

 

 

古代ギリシアの民主政は、しばしば「衆愚政」とセットで語られる。だが『古代ギリシアの民主政』によれば、『歴史学者が「衆愚政」という、価値判断の込められた語を用いてギリシア民主政を説明することは、今日まずありえない』という。実は衆愚政という言葉自体が、もともと民主政を批判するために用いられたもので、中立的な表現ではないのだ、と本書では主張されている。では、民主政を批判するためのレッテルが、古くから用いられてきた理由とはなんなのか。

 

古代ギリシアの民主政』では、その理由のひとつを、民主政を批判する側の声が大きかったことに求めている。古代アテネは民主政の国だったため、一部のエリートが思い通りに国を動かすことができず、不満を抱いた彼らは民主政を批判した。その批判はプラトンアリストテレスの著作として、後世に残された。

アテナイ民主政は、一般民衆が権力を握る支配だっただけに、一部のエリートから憎悪や反感を買った。そしてエリートたちは、民主政を手きびしく非難するテクストを書き残した。その系譜は、プラトンの『国家』や『法律』、アリストテレスの『政治学』のような哲学の古典として、体系的な政治理論の形で近代に受けつがれた。(p7)

プラトンアリストテレスの著作が今でも読み継がれているのに対し、民主政を擁護する側の声は小さい。それはペリクレスの演説などに断片的に見られるだけで、実際に民主政を支えた人々の声は、あまり残されてはいない。だが考古資料からみえてくるものもある。たとえばアテネ裁判員は青銅製の身分証を首から下げていたが、この身分証は、しばしば貧しい市民の墓から副葬品として見つかる。彼らが国家の運営にかかわっていたことを誇りに思っていた証拠である。こうした名もない人々が民主政を支えていたが、残念ながら彼らが著作を残すことはなかった。

 

古代アテネの民主政に過ちがなかったわけではない。たとえば有名なアルギヌサイ裁判では、アテネの将軍6名が暴風雨に襲われた兵士たちを救えなかったとして死刑にされている。有能な将軍たちを市民みずからの手で葬ったこの裁判は、衆愚政における群集心理の典型とみなされている。『古代ギリシアの民主政』では、こうしたアテネ民主政の迷走の背景を解説している。当時アテネペロポネソス戦争のさなかにあり、30万もの人々が避難するため移住してきていたので、異常なほどの過密状況にあった。加えて、この頃疫病が流行しており、多くの遺体がろくに埋葬されることもなく捨てられていた。アテネ市民がきわめてストレスフルな状況に置かれているなか、後世「衆愚政」と批判されるいくつかの出来事が起こった。確かにアルギヌサイ裁判は行き過ぎだっただろうが、古代アテネの民主政の実態を知るには、この後の時代のことも知る必要がある。

 

アテネがスパルタに降伏し、デロス同盟が解体したあと、アテネではスパルタ進駐軍の圧力を背景に「30人政権」が成立した。30人政権は護衛隊300人を用いて富裕者を手当たり次第に逮捕し、財産を没収した。30人政権は「30人僭主」ともよばれる過激な暴君集団であり、アテネ市民には恐怖とともに記憶に刻まれる体制だった。しかし30人政権は一年も続かず、民主政が回復すると、アテネ市民は30人政権の残党との共存を選んだ。多くの市民が30人政権を恨んでいたが、それでも「悪しきことを思い出すべからず」と誓いを立て、報復することはなかった。政治学者Y・シュメイルは「民主主義とは嫌いな人々との共生である」と主張したが、アテネ市民はこれを実践したことになる。寡頭制支配の失敗を経て、アテネ民主政はより成熟した体制になった。

 

古代ギリシアの民主政』によれば、アテネ民主政の最盛期は前四世紀になる。ペロポネソス戦争の敗北で覇権は失ったものの、この時期アテネは民会の出席者数を確保するため、民会手当を導入している。この結果、前五世紀には年10回程度だった民会の回数はは、前四世紀後半には40回程度にまで増えている。市民の政治参加意欲も旺盛で、ほとんどの市民が生涯に一度は評議員を務めた。民衆裁判所の制度も整備され、前325年頃には複合裁判施設がアゴラの北東部に建設された。ペリクレスは「政治に無関心な者は役立たずとみなされる」と言ったが、前四世紀のアテネでもこの価値観は維持されていたことになる。アテネの民主政は、その後変質しつつもも生きながらえる。民主政の期間をクレイステネスの改革からローマ共和国のスラに占領されるまでとするなら、四百二十一年間も続いたことになる。

 

しかし、こうした歴史的現実としての民主政は忘れ去られ、有徳のエリートによる統治を理想とするプラトンアリストテレスの教説が権威になった。西欧では、彼らの著作を読むエリートたちは王権を擁護する立場にあり、民主政など危険な体制としか捉えない。市民革命の時代に入っても理想とされたのはローマ共和制であって、アテネの民主政ではなかった。そして反革命側のエドマンド・バークは、アテネ民主政をフランス革命と同様の暴虐とみなしていた。西欧思想界における反民主主義の伝統は長く、第二次大戦後にようやくこれが払拭されることになる。

民主主義が普遍的な価値として、ようやく体制のちがいを超えて認められるようになったのは、「ファシズムと民主主義の戦い」に連合軍が勝利した第二次大戦後のことである。そしてギリシア民主政の実証的研究が、碑文や考古学的遺物などの史料も用いて各国の歴史学界で本格化するのは、1970年代になってからであった。(p234-235)

 

エピクロス派はタイムロッキングコンテナを導入するべきか

 

アンデシュ・ハンセンが大ベストセラー『スマホ脳』でスマホ依存の危険性を説いてから、すでに三年が経った。それでも、スマホの誘惑を断ち切れない人は多い。それなら物理的にスマホとの接触を断つしかないわけで、タイムロッキングコンテナの登場となる。ROLANDさんに至っては自ブランドから「タイムロックポーチ」を発売している。彼ほどストイックな人でもこうした機器が必要になるほど、スマホの誘惑は強力だ。スマホ抜きの生活が難しい現代において、ストイックに生きようとすれば、人はみずからを柱に縛りつけるオデュッセウスのようにならなくてはいけないのだろうか。

 

 

ご存じのとおり、ストイックの語源は古代の哲学の一派、ストア派である。ストア派スマホの使用を制限すべきだろうか。『哲人たちの人生談義』によると、ストア派は「自然に反する魂の動き、あるいは度を越した衝動」をもたないよう、心を鍛錬しなくてはならない。寝る直前までスマホを触りたくなるのは、明らかに「度を越した衝動」だ。ストア派たるもの、スマホを目の前にしても情念に惑わされない状態に至ることが求められる。ストア派の理想とする賢者は、あらゆる情念のない境地「アパテイア」に至った者だが、この境地に達した人物が実際にいたのかはわからない。賢者になれないなら、次善策としてタイムロックコンテナを導入したほうがいいのかもしれない。

 

では、エピクロス派はどうか。エピクロス派は快楽を追求したといわれ、ストア派の対極にあるイメージがある。いくらスマホを見てもよさそうだし、毎日ガチャを回そうが、ネットポルノ漬けになろうが、叱られることはなさそうだ。だが、実はエピクロス派の追及した「快楽」とはそういうものではない。『哲人たちの人生談義』によれば、エピクロスの考える「快楽」とは次のようなものだ。

快楽が人生の目的であると言うときに、われわれが意味しているのは、われわれの説を知らずに同意しない人びとや悪意を持って受け取っている人びとが考えているような放蕩者の快楽や性的な享楽の中にある快楽のことではなく、身体に苦痛がなく、魂に動揺がないことである。(p80)

エピクロスが求めていた快楽とは心が平静であることで、SNSで発言をバズらせたりポルノを見たりして脳を興奮させることではない。ドーパミンがたくさん出るタイプの快楽は、エピクロス派がめざすものではないのだ。確かにエピクロス派は快楽を追求するが、SNSでバズろうとすれば失敗して炎上するかもしれないし、ポルノ漬けの毎日を過ごしていれば不健康になる。一時的な「放蕩者の快楽や性的な享楽」を追求して、結果として苦痛を増やすのは、エピクロス派にとっては避けるべき事態なのである。

 

エピクロス派は心の平静さを求めるため、その邪魔になるものは積極的に排除しなければならない。このため、快楽追及の努力は、ある意味ストイックなものになる。たとえば『ギリシア哲学者列伝』には、エピクロスのこんな言葉が収録されている。

快楽が第一の生得的な善であるからといって、すべての快楽をわれわれが選択するというわけではない。むしろ、それらの快楽からより多くの不快なことが続いて生じるときには、多くの快楽を見送るようなときもある。また、長い時間にわたって苦痛を耐え忍ぶことで、より大きな快楽がわれわれに生じる場合には、多くの苦痛のほうを快楽よりも善いものだとみなすのである。

アンデシュ・ハンセンは『スマホ脳』において、スマホの長時間使用が睡眠障害やうつ、集中力の低下などをもたらすと警告した。これは「快楽からより多くの不快なことが続いて生じる」ことに他ならない。エピクロス派にとってはぜひとも避けるべき事態だ。意志の力でスマホの使用を制限するのが困難なら、エピクロス派は心の平静さを保つため、タイムロッキングコンテナを利用するだろう。スマホを見なくなって空いた時間は何に使うべきだろうか。より上質な快楽追及のために参考になるのは、アンデシュ・ハンセンの『運動脳』だ。

 

 

アンデシュ・ハンセンは『運動脳』で、ウォーキングやランニングでうつ病を予防でき、気分が晴れやかになると説いている。これらの運動はセロトニンノルアドレナリンドーパミンなどの神経伝達物質を分泌させ、感情に影響を与えるからだ。「幸せホルモン」と名づけられるセロトニンは心をリラックスさせてくれるので、エピクロス派がめざす精神の平静さをもたらしてくれる。エピクロス派がこの本を読んだなら、日々運動に励むようになるだろう。『運動脳』に書かれているとおり、ランニングは一時的にはコルチゾールを分泌させ、身体はストレスを感じる。しかし、これはより多くの快楽を感じるために必要な苦痛になる。ランニングを続けていると、身体がストレスに慣れるため、運動以外の原因でストレスを抱えていても、コルチゾールの分泌量が少ししか上がらなくなるのだ。ストレスを減らすことは、幸福が増えることを意味する。日々ランニングを継続できる人は、このような効果を意識的に、あるいは無意識的にわかっているから続けられるのだろう。ストイックに身体を鍛え、栄養に気を配る健康マニア達は、自覚なきエピキュリアンと言えるかもしれない。

古代ローマ人が奴隷の買い方からマネジメント法・解放の仕方まで教えてくれる貴重な一冊『奴隷のしつけ方』

 

 

古代ローマにおいて、人口の二割程度は奴隷だったといわれる。奴隷なくしてローマ社会は成り立ないので、彼らにきちんと働いてもらわなくてはいけない。といっても、ただ鞭で叩いて服従させればいい、というものではない。奴隷も人間であり、マネジメントするにはそれ相応の方法がある。ローマ人はどのように奴隷を管理していたのだろうか。『奴隷のしつけ方』著者のマルクス・シドニウス・ファルクスがそれを教えてくれる。マルクスはローマ史家ジェリー・トナーが生み出した人物で、この人物の口をつうじて帝政期ローマにおける奴隷制の実態がくわしく語られる。マルクスは、奴隷はファミリア(家)の一員だという。ファミリアは国の縮図であり、奴隷はその構成要素として欠かせない。主人への絶対服従を強いられ、法的権利を持たない奴隷こそが、ローマ社会の根幹を支えていた。奴隷を知ることは、古代ローマそのものを知ることなのである。

 

奴隷をしつけるには、まずいい奴隷を選ばなくてはならない。マルクスは第一章「奴隷の買い方」において、奴隷の選び方をくわしくアドバイスしている。まず気をつけるべきは奴隷の出身地だ。マルクスが言うには、身の回りの世話をさせるなら若いエジプト人がいいそうだ。逆に、荒っぽいブリトン人は向かない。どこの奴隷が一番いいかは意見が分かれるが、同じローマ市民だった者を奴隷にしたくないという点は誰もが同意する。誇り高いローマ市民が奴隷にされる姿は見たくないのだ。次に、マルクスは奴隷の価格について語る。健康的な成人男性の平均的な価格は1000セステルティウスだが、500セステルティウスで家族四人を一年養えるというから、奴隷は高い買い物だということがわかる。だからこそ、奴隷商人にだまされて欠点の多い奴隷を買わないよう気をつけなくてはならない。奴隷商人は病気の奴隷の顔に紅を塗ったり、脱毛剤を使って青年を少年に見せかけようとしたりするので、買う前に入念なチェックが必要だ。性格を知ることも重要で、陰気な奴隷はやめたほうがいいという。マルクスいわく、「奴隷であることがすでに辛いのだから、そのうえ気鬱症でひどく落ち込むとなれば先が思いやられる」からだ。ローマ人は奴隷のつらさは理解しつつも、奴隷制を自明のものと考えている。

 

よく吟味して奴隷を買ったなら、次は奴隷のマネジメント法を知る必要がある。第二章「奴隷の活用法」では、褒美の与え方と役割分担について語られている。いい働きをした者には食事や自由時間などで報いてやらねばならない。奴隷に食品を与えるには「薬を処方する医者のようでなければならない」とマルクスは説くが、これは奴隷という身分にふさわしい食事を与えよということだ。奴隷に贅沢はさせられないが、特別な褒美としてエトルリア産のハードチーズや奴隷用のワインが与えられることがある。褒美として食料だけでなく質のいいトゥニカや靴が与えられることもあり、さらには奴隷から解放されることもある。いつの日か自由になれるという希望は、奴隷のモチベーションを上げる効果があるようだ。そして、奴隷を効率的に働かせるために、役割分担を決める必要がある。一人一人の身体的特徴や性格に合わせ、適切な仕事を割り振らなくてはいけない。牧夫なら勤勉でやりくり上手な者、耕夫なら背の高い者、牛飼いなら声が大きく優しい者……などなど、マルクスはそれぞれの仕事にふさわしい特徴をあげている。もっとも力が入っているのは農場管理人の選び方で、マルクスは管理人の心得を30個もあげている。この中には「隣接する領地の住民と懇意になり、必要なときに人手や道具を借りられる関係を築く」というものまであり、奴隷にそこまで求めるのかと驚く。自分に代わって農場を運営することまで奴隷にさせるのがローマ人なのだ。

 

がんばった者に褒美を与えたり、適材適所を心がけたりと、マルクスの奴隷マネジメント法は意外なほどまっとうにに思える。彼は奴隷などいくらこき使っても構わない、とは思っていない。マルクスにとり、奴隷はどんな存在だったのだろうか。第四章「奴隷は劣った存在か」を読めば、彼の奴隷観を知ることができる。この章でマルクスは、「自由人でも品性の卑しい人間はいるし、奴隷でも高潔な人間はいる」と語る。人間の評価は身分ではなく、精神の質で決まると彼は考えているのだ。ここにはストア哲学の影響がみられる。ストア派にとっては、色欲や飽食といった悪徳に染まっている者こそが真の奴隷になる。だからマルクスは、奴隷の失敗を許し、時には彼らと食事を友にせよと説く。奴隷は運悪くその境遇に落ちただけであるという彼の考えは、奴隷は本性が劣っているというギリシャ人よりかなり進歩的に思える。しかし、マルクス人道主義者ではない。第五章「奴隷の罰し方」に移ると、彼は急に現実的になり、時には力ずくで奴隷をしつけなくてはいけないと主張する。マルクス自身は奴隷に体罰を加えるときは請負人にやらせているが、これは怒りを制御するためだ。怒りにまかせて奴隷を打てば、相手や自分が怪我をすることもある。だからマルクスは度を越した暴行を加えることには批判的だ。「理性的な体罰」を推奨するマルクスは当時としては奴隷に寛容だったのかもしれないが、やはり古代人の寛容さには限界もある。

 

マルクスがそう考えていたように、ローマ人にとり奴隷とはあくまで一時的な状態であり、奴隷制度は社会的慣習にすぎない。だから、奴隷が解放されることもある。だが、主人が奴隷を解放することにどんなメリットがあるのだろうか。それは第九章「奴隷の解放」を読めばわかる。まず第二章でも語られたように、解放という希望をちらつかせることで、奴隷にやる気を出させることができる。希望があるからこそ、苦しい奴隷生活にも耐えられるのだ。また、女奴隷の場合、解放して妻に迎えることもある。奴隷の身分のままでは結婚できないからだ。ここで気をつけないといけないのは、解放の条件として結婚を明記することだ、とマルクスは語る。老いた主人がほれ込んだ女奴隷を解放したら若い男と逃げてしまった、というケースがあるからだ。さらには、奴隷がみずから自由を買い取る場合もある。この場合、自由を与えて得られた収入で別の奴隷を買うことができる。このように、ファミリア(家)を構成する奴隷がつねに新陳代謝を繰り返すのがマルクスにとって望ましい状況になる。

 

とはいえ、解放されても奴隷が完全に自由になれるわけではない。解放後も数年間は主人のため労働しなくてはならず、女奴隷なら子供の一人を代わりに置いていくことを求められることもある。解放されても奴隷と主人との縁は切れず、だからこそ主人から事業を支援してもらえることもあるのだが、マルクスが解放奴隷にまかせる事業とは金貸しや貿易など、身分の高い者がやりたがらないものだ。こうした仕事に従事したのち、彼らはファルクス家の墓に入ることを許される。このような人生を送った奴隷たちは、幸せだったといえるだろうか。この本は終始マルクス側の視点からしか語られないため、奴隷たちの心中は想像することしかできない。ただ解放奴隷の墓には、彼らの本音を知るヒントが刻まれている。

 

自由になった解放奴隷の多くは、それまでできなかったことを成し遂げようと必死になりました。解放されたことを彼らががどれほど誇りに思っていたかは、今日に残る彼らの墓を見ればわかります。多くの墓にはトーガを着た姿が彫られていますが、トーガはローマ市民でなければ着用できないものでした。解放奴隷のなかには大きな権力と莫大な富を手に入れた者もいますが、それはほんの一部にすぎません。けれども、若干社会の階段を上がり、生活水準を上げ、家族にも少しいい暮らしをさせることができた解放奴隷は大勢いました。(p227-228)

 

解放奴隷がローマ社会でどんな職に就いていたかは、『古代ローマ ごくふつうの50人の歴史』でくわしく知ることができる。

 

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ローマ帝国軍に入隊したい人のための懇切丁寧なガイド『古代ローマ帝国軍非公式マニュアル』

 

 

「帝国は諸君を必要としている!」という帯の文句に惹かれ手に取ってみると、かなり内容の充実した一冊だった。これを読めば、ローマ帝国軍の入隊手続きや軍団兵の装備、陣営での生活や都市の攻略法、さらには除隊後の生活まで知ることができる。栄えあるローマ帝国軍の兵士になりたい人は必読。逆にローマを敵視している人にとっては、ローマ軍の内情がよくわかる貴重な一冊になる。

 

ローマ帝国軍にはだれでも入隊できるわけではない。本書の一章には帝国軍の入隊資格について書かれている。ローマ市民権を持っていること、独身であること、身長が5フィート10インチ(約173センチ)以上あること、などの条件に加え、「男性器がそろっていること」というのもある。軍隊は男の世界だが、去勢者は入ることができない。視力がよいこと、人物がきちんとしていることなども重要で、有力者からの推薦状もあったほうがいい。これらの条件を満たしている者は試験を受け、入隊宣誓をすませたのち25年間の兵士としての生活をスタートさせることになる。ローマ市民権を持っていなくてもあきらめる必要はない。補助軍になら入隊できるからだ。補助軍は非市民の歩兵部隊で、軍団兵のの8割ほどの給与でより危険の大きな仕事をする。除隊時にはローマ市民権がもらえるので、危険を冒す価値はある。

 

軍団兵は装備を自前でそろえなくてはならない。兵士にとっては剣や兜などが一番大事だと思えるが、第4章「軍団兵の道具と装備」を読むと、意外にも一番金をかけるべき装備はカリガ(サンダル)だという。軍団には行軍は欠かせないもので、カリガは平時からつねに必要だからだ。足に合っていて革がやわらかく、靴底の鋲が新しいものを選ばなくてはならない。この鋲は蹴りの威力を高めることができ、群衆の征圧など、相手を生かしておきたいときには役立つ武器にもなる。しかし硬くなめらかな床では滑りやすいという欠点もあるので、兵士はこの特徴をよく知っておく必要がある。

 

向上心の強い志願者には第5章『訓練・規律・階級』が参考になる。ローマ兵は最初はなんの特権もない「ムニフェクス」からキャリアをスタートさせることになるが、技能を身につければ特別な任務をもつ「インムニス」になることができる。インムニスには書記や鍛冶、旗手など様々なものがあるが、ムニフェクスよりも待遇はよい。ローマ軍では旗手は年金基金の管理を担当していて、数字に強い者が務める。これは、自分の年金の状況を知っている者が旗手なら、敵の投げ槍から必死に守らねばならないというローマ人の知恵が生み出した慣習だ。特別な技能がなければ、「プリンキパリス」を目指す手もある。優秀な兵士がなれるプリンキパリスは、歩哨の組織運営を行うテッセラリウスや、百人隊長の代理を務めるオプティオなどを務める。プリンキパリスになれれば百人隊長に出世する道も開けるので、上昇志向の強い兵士はめざす価値がありそうだ。

 

陣営もローマ社会の一部なので、軍団兵の陣営にもローマらしさがよく出ている。第7章「陣営の生活」には、兵舎内で軍団兵はそれぞれ七人の兵士と親密な付き合いをする、と書かれている。プライベートな空間などないが、ローマ人にとって一人の空間とは異質なものだそうで、食事や入浴、トイレですら知人と話す場だった。軍団兵も同様ということである。もっとも、兵舎内には軍団兵がいないことが多く、案外広々とした空間になる。兵士はあちこちに派遣されるからだ。高官の護衛や関所の警備、道路の建設や商人の護送など、兵士は幅広い任務に就かされる。軍団は建設作業員や蹄鉄工、書記など人材の宝庫だから、戦闘以外のさまざまな仕事にも対応できる。

 

とはいうものの、軍団兵の本来の仕事は戦争だ。第6章「軍団兵の命を狙う敵たち」を読めば、ピクト人やゲルマン人ダキア人やベルベル人など、軍団兵が向き合う敵の特徴を知ることができる。山塞の防衛に長けたピクト人やピルム(ローマの投げ槍)を巧みに避けるベルベル人、強力な鉈鎌ファルクスを振るうダキア人などは皆それぞれに手強い。だが、最も恐れるべきはパルティア人だ。パルティアは多様な騎兵隊を持っていて、それぞれの役割は異なる。まず弓騎兵が大量の矢を浴びせ、相手が消耗したところに騎兵が突撃する。特に重装騎兵カタフラクトの突撃は強力で、守りも硬い。ローマの弓はパルティアの弓ほど矢が遠くへ飛ばないので、なるべくこんな敵と戦わずにすむよう祈るしかない。

 

どんな兵士も、生きのびられればいつかは除隊の日がやってくる。25年の務めを終えた兵士たちが第二の人生としてどんな道を歩むのかは、第11章「除隊とその後」を読むとわかる。軍団兵の経験を生かすため、軍に関連する職を選ぶ者は多い。つまり、陣営に必要な飲食や物資を提供する事業をはじめるのである。また、新しい領土に入植する者もいる。征服された土地を確実に維持するには、軍隊経験の豊富な者たちが最適というわけだ。衣食の保証のない自由な生活が苦痛なら、いっそ軍に再入隊する手もある。最初の入隊が10代なら、もうしばらく兵役を務められるらしい。劇的な道として、ローマへ反逆を選んだ者すらいる。補助軍を除隊したスパルタクスアルミニウスなどがそうだ。軍の内情をよく知る彼らは、敵に回すときわめて厄介な存在になる。ローマ軍に入ると、こうした危険な敵と戦わなくてはいけないこともある。軍団兵が戦った経験を死ぬまで自慢できるのは、それだけ大きなリスクを背負っているからなのである。

 

この本を読んでいて、ローマ軍団兵として25年間無事に務め上げるにはどうすればいいかを考えていた。この時代、生活が保障され、除隊時に年金までもらえる軍隊はローマ帝国軍しかない。規律は厳しくても、生活の場としては悪くないところだ。なるべく戦わなくていい都合のいい軍団はないか……と探してみると、イベリア半島に駐屯している第7軍団「ゲミナ」についての記述が目をひく。「この軍団に入って期待できるのは、たまに山賊の見回りに出るとか、守備隊任務とか、昼寝の技術を開発するぐらいである」そうだから、あまり強敵と戦わずにすみそうだ。戦功を誇ることはできなくても、皇帝トラヤヌスがこの軍団出身であることは自慢できるだろう。平和な属州で、除隊まで平穏無事に過ごせるのはなかなかいい人生かもしれない──といった妄想をかきたててくれるのも、本書の魅力のひとつだ。