知性とは目に見えるものだけで判断しないことだと思う

教室の前の席で真剣に授業を聞いている人がいる。

 

ある人は言った。

「あの人、真面目だよね〜。」

 

学生の間ではよくある光景である。

 

またある人は思った。

「この人は真面目という言葉をどういう意味で使っているんだろうか。」

 

[真面目]という言葉は、本来物事に一生懸命に取り組んでいて評価されてしかるべ精神であると思う。

 

しかし、学生の放つ[真面目]という言葉には、一種の暴力性や、私はそうはなりたくないという羨望が見え隠れしているように思われる。

 

ただ授業を真剣に聞き、ノートをとり、先生に分からないところを質問しにいく彼を、多くの学生は、自分とは違う人で、あまり関わりたくない、一緒にされたくないと、思った。

 

そして彼はクラスの中で真面目な人と位置付けられるようになる。

 

本当は、もっと色んな側面を内在している個の人物を、ワンフレーズで言い表してしまう、その人の人柄を決めつけてしまう、その短絡的なものの見方に、知性の脆弱性を感じざるを得ない。

 

「受験に落ちる」という事が、受験制度がある以上は必然的に起こり得る。

 

ある人は言った。

「あんなに頑張っていたのに、可哀想ね。」

 

またある人は言った。

「彼は大きな挑戦をした。あっぱれといいたい。」

 

受験が落ちるということを、単に失敗として見る。それもよくある光景である。

 

しかし、本来は受験に落ちるまでに、彼は色んな葛藤や苦難にもがき苦しみ、頭を使い、色んな感情に晒されながら、多くの知恵と経験値を得たはずである。そして意を決して挑戦に踏み込んだ彼の逞ましい精神性には、賞賛の言葉を贈るべきだろう。

 

ある一つの物事があって、目に見える部分、すぐ意味がわかる部分でしか、判断をしない人と、目に見えない部分にまで思考を巡らせ、自分には分からない部分にも、きちんと向き合える人がいる。

 

「受け入れる」という言葉がある。

目の前に、自分には大したことがない理由で泣いている友達がいる。

 

ある人は言った。

「辛いよね。でも、そんなことで泣かなくても。」

 

またある人は言った。

「私には、あなたの苦しみがどれほどのものかは分からない。でも、きっと、とても辛かったんだろうね。よく、頑張ったね。」

 

相手を受け入れるということは、相手の気持ちを理解することではない。全く同じ経験をしていないのだから、相手の気持ちなんて、大抵の場合は分かるはずがない。だけど、なぜ辛いのかよく分からないのだけれど、目の前の人が、辛いというのは、わかる。だからその痛みに、寄り添う、ということができる。気持ちは分からないけれど、抱きしめてあげることができる。それが、相手を受け入れるという事だと思う。相手の気持ちを勘くぐったり、表面的に同情することでもないのだ。自分の価値観で人の感情の善悪を決めつけるなんて以ての外である。

 

人生には、分からない事が山ほどある。初めて出会うことが沢山ある。そのときに、その物事の見えている部分、わかりやすい部分だけで判断するのではなく、物事に内在する多くの側面を知ろうとし、物事の奥側に潜む本質的な問題や背景に目を向ける。本当にそうなのか?と疑ってみる。そういう風に、思考をじっくりと煮込んでいく。よくわからないのだけれど、そのまま、歪めずに私の中に落とし込む。そして、色んな想像力と知恵を働かせながら、その物事に対する自分なりの答えを見つけ出していく。それは骨の折れる作業であるが、その思考の潜水にこそ、知性の本質がある。

 

そう思う。

 

 

母親の願い

日曜日の15時くらいに、母親が居間で眠っていた

 

その表情は悲しくなるくらい安らかだった

 

人生で幾多の出来事を乗り越えてきたその果てにある、とても幸せなものをみている

 

溢れんばかりの優しさが刻み込まれた表情からは

 

いつ神からの迎えがきてもおかしくないような

そんな気がした

 

彼女の顔は

白く、美しく、儚かった

死んだ人のようだった

きっとこの人は天国に行くのだろう

そう思った

 

 

美人薄命という言葉がある

 

人は十分に満たされると

神からの迎えが来るのではないかと思う

 

多くの愛を受け

多くの人を愛し

そして神に愛された人

 

顔がただ美しいのではなく

心の透き通った美しさが

美しい人の顔に刻み込まていく

 

美人薄命

 

本当の美しさを兼ね備えてしまった人は

多くの人に悔やまれながら

短い生涯を終えるのではないか

そう思う

 

目尻に刻まれた幾多の笑い皺

垂れ下がった目尻

母親の微笑みには

何の屈託もなく

ただ真っ直ぐに人生をみつめる

彼女の強かさと

人への真っ直ぐな愛が見えた

 

 

私はわがままな子供だった

 

それでも母は辛抱強く

 

ただ私のために尽くしてくれた

 

 

母親の生涯は悲惨だった

 

母の幼い頃

父はお酒を飲むと暴れだし

幼い母と母の弟に怒鳴りつけ

家のことを全て放置した

 

母の母は家を出て

母は姉として弟を守り

学校にも行けず

毎晩父の帰る時を恐れた

眠れず、怒鳴られ、真冬には家の外に追い出された

そして養護施設へ送られた

それが彼女のせめてもの救いだった

 

大人になり

母は父と出会った

日々が大変だったとき

父の優しさに落ちてしまった

そして子供も授かった

結婚はしていなかった

そして結婚することもなかった

 

父はうまい話にのって会社をおこし

ギャンブルにはまり

挙げ句の果てに会社は倒産した

そして2人は離れた

2人の子供がいた

 

母の弟も会社をおこした

だけどうまくいかなかった

ある日、命を絶った

 

彼女の身内で悲劇が繰り返されたのだった

もちろん彼女の人生が全て悲劇だったわけではなく

幸せな日々もあったに違いなく

多分今もそこそこ、幸せなのだ

子供は2人ともそこそこの大学にいかせられた

なんの非行もなく育った

大学受験に関しては、少し子供に悪癖があって焼きもきすることもあっただろう

特に私は彼女に多くの心労をかけたに違いない

娘の努力を知っていた分

教科数が桁違いな無謀な国立大学に挑戦したが故に

教科を絞れば受かったであろう私立大学に落ちていく私を見るのは、さぞ辛かっただろう

 

でもそこそこの大学には入学した

子育ては間違っていなかった

彼女はきっと

一旦は親としてやるべきことをやりきったことに

ほっとした

 

ほっとした

 

幾多の苦労を経験して

人生の黒い部分をいくつも見てきた

だからとりあえず

子育てを大きな失敗なく終えたことに

彼女は安堵した

 

安からに眠ることができた

 

母親の願いは

 

変わらない

 

自分の子供が

なるべく辛い思いをせず

悲しい思いをせず

幸せに笑って過ごしてくれること

 

人生を恨まず

前を向いて

穏やかに生きること

 

人生の暗闇に溺れず

死を図ろうとなんてせず

「明日を生きたい」

そう思って生きてくれること

 

ただ彼女の願いはそれだけだ

 

私はもう彼女を悲しませなくない

もう悲劇を経験してほしくない

 

だけど私は怖い

多分母親も怖いのだ

 

なぜなら

娘は、私は

何者かになろうとしているから

 

ただみんなと同じように生きるのではなく

高く、何かもっと高いものを求めて

生きようときているから

安泰ではなく

リスクのある人生を歩む可能性があるから

大学受験のときのように

何かに必死に囚われて

大失敗してしまうかもしれないから

 

誰かに騙されたり

無思慮に行動したり

大金を何かを求めるが故につぎ込んだり

 

そういう行動をしかねない怖さ

 

多分彼女はそういう怖さを私に抱いている

 

彼女は

普通に、生きてほしいのだ

 

大きな夢や希望なんて持たずに

 

普通に、どこかの会社に勤めて

周りの人と幸せに

生きてほしい

ただそれだけだ

 

 

私は何か大きな野望を抱いていた

 

貧乏だったこと

惨めだったこと

周りと同じようにできなかったこと

母親の周りに不幸な出来事ばかりなこと

 

そういう境遇に何か劣等感と

ここから抜け出したいという強い想いに駆られていた

もう闇は見たくない

恵まれて生きてきた人に負けたくない

そういう想いを抱えていた

だからいつも上にいこうと

普通ではだめだと

成功してやるんだと

そういう意識に駆られていた

 

今も

その地に足の着いていない向上心は

残っていて

何か大きなことを成し遂げたい

もっと光のある場所へ行きたい

そういう原動力にどこか突き動かされている

 

だけど

「なんか違うんじゃないか」という違和感がある

 

最近思う

私は前ばかりみて

全く周りが見えていない

視野が極端に狭くなって

その方向しか見えてない、見ようとしていない

地に足が着いていない

浮き足立ったまま

どこか一点を目指している

 

 

日々の小さなこと

今自分ができること

今目の前にあること

今、大切にしなければいけないこと

それは何か?

 

目の前が見えていなかったのだ

遠くばかりみて

幸せはもっと近くにたくさんあるはずなのに

 

もう母親を困らせてはいけない

早く大人になって

現実を、見よう

 

現実が見えたとき

私のやるべきことと

大切にしなければいなないこと

それが見えてくるような気がした

 

バイト先に尊敬する先輩が1人いる

 

ある日、先輩の友達が遅刻してきた

 

彼はいった

 

「遅刻するってことは、その仕事を大切にしてないことやぞ。小さな仕事をちゃんとできないやつが大きな仕事をできると思うのか?」

 

小さな目の前のことを

大切に、しっかりとやっていく

 

正論すぎて

核心をつき過ぎていて

 

心に刺さった

 

目の前にある小さなことを大切にしよう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「報われない努力」について社会は冷たすぎるんじゃないか

結果がでないと、人は幸せにはなれないのだろうか

 

「努力が報われない」ことを悲観する風潮が、社会にはある

 

結果の伴わない人間は

 

「負け組」と揶揄され

 

人々から嘲笑を受ける

 

まるで彼らは「可哀想な人」

 

またあるときは

 

努力が足りなかった

 

能力不足

 

そういう欠陥があったかのように言われる

 

確かにそれは一理あるだろう

 

だけどそういう社会って冷たいなって思う

 

とてもとても、冷たい

 

冬のカナダの空気くらい冷たい(知らないけど)

 

でも

 

別に結果がでなくても幸せだよって私は思う

 

私は大学受験が不本意な結果になった

 

ある大学に行きたくて高校1年のころから

 

夏休みもずっと勉強した

 

偏差値はちゃんとやれば上がったし

 

偏差値が10上げることとか

 

そんなに難しくなかった

 

だけど

 

私は高3の1回目の模試でE判定だった難関国立大をめざし

 

見事に失敗した

 

私の努力不足、分析不足

 

それは間違いなくて

 

家族からもかなり批判をうけて

 

彼らを説得する腕も

 

認めてもらう実力も

 

全部が欠けていた

 

センター試験がおわったあと

 

自己採点の結果に胸が苦しくなった

 

頭がくらくらして

 

何も考えられなかった

 

今まで感じたことのない虚無感と絶望感が

 

私の体中を覆い囲んだ

 

どうすればいいのかわからなかった

 

「立ち止まってる場合じゃない」そんなことはわかってた

 

だからなんとか机に向かっても

 

頭がはたらかなくて

 

自分の無力さが私の心を蝕んでいった

 

だけど目指してきた大学を受けきりたい、そういう思いが諦めきれず

 

その報告を進路部へしにいったとき

 

先生たちは何も思ってないのに

 

先生たちの顔を見ると苦しくなって

 

自分への自尊心がなくなっていって

 

現実が受け止めきれず

 

見えない批判をあびているようで

 

たぶんとても怖かった

 

だけどそれを見ないようにして感じないようにして

 

抑え込んだ

 

だけど

 

ある女性の先生に言葉を発した瞬間

 

涙が溢れてきた

 

なぜ自分が泣いているのかよくわからなかった

 

泣くようなことを言われたわけでも

 

そんな状況だったわけでもなかった

 

なのに

 

涙が止まらなくて

 

進路指導室で、ボロ泣きしていた

 

 

 

 

 

 

「センター後に泣いてる人は落ちる」

 

ある人に言われたことがあった

 

「ああ、自分だ」

 

完全に弱気だった

 

でもその先生は

 

「泣きたいときは我慢せずに泣いたらいいから。」

 

そう言ってくれて

 

その優しさで

 

もっと涙がとまらなくなった

 

そんなこともありながら

 

受験を終え

 

結果は残酷だった

 

だけどそのあと

 

私は涙を流すこともなければ

 

心が痛むこともなかった

 

「また頑張ろう。」

 

たぶん私が3年間という高校生活と受験期を経て得たのは

 

「少しの自信」

 

であって

 

努力したのに報われなかったという

 

「惨めな気持ち」でも「自身の喪失」でもなかった

 

たしかに、惨めな気持ちがなかったというと嘘になる

 

結果報告を友達にするのは辛かった

 

お世話になった先生方にも気が引けた

 

だけど

 

 そんな気持ちよりももっと

 

努力したこと、やりきったことへの自分の肯定感がうまれた

 

だから別に「結果」がでなくても

 

そんなに不幸じゃないし

 

また挑戦していけばいいと思う

 

結果が出せなかった自分の努力不足や分析不足、つまり実力不足には変わりはない

 

それは認めていかないといけない

 

でも社会はそういう人にとことん冷たいなあという気がしてならない

 

私だったら

 

そういう人にこそ

 

批判でも嘲笑でもなくて

 

「よくやった」と抱きしめてあげたい

 

そういう社会になればもっと世界は生きやすいのになあと

 

そう思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「成長」とか「目標」とか、しんどいよね。

この世界は合理性を追求しすぎているんじゃないかと思う。

 

面接では「実績」や「頑張ったこと」や「その人の能力」を問われ、本人の実力や向上心を評価される。

 

学校でも会社でも、結果が求められ、「よく頑張ってる人」が評価される。

 

目標をもって日々邁進、日々成長、そういう「人材」であることが求められる

 

そういう世界は生きにくい

 

 

私はたぶん、「頑張ってきた」人間だと思う

 

中学時代の成績は学年でも5本指には入っていただろうし

 

頑張って念願の高校に合格した

 

高校では夏休みも必死に勉強して

 

部活も進学校のくせに入って

 

しんどいくせに

 

とにかく真面目にこなしてきた

 

これがわたしの「成長につながる」そう信じてきた

 

そして今もどこかで、頑張らないと、そう思ってる

 

だって、いい企業に入れないことが怖いから

 

何かを成し遂げていかないと評価してもらえない

 

評価してもらえないと、妥協した人生を送る可能性が高くなる

 

いきたい会社に入れず

 

やりたいことができず

 

不満を抱えながら生きていかなければならないような気がするから

 

 

 

私は今やりたいことは何なんだろうと、考える。

 

思いつくものをあげると

 

美味しい料理を作ってみんなに喜んでもらいたい

 

家族の人と、友達と楽しく食卓を囲みたい

 

美しい風景の絵を描きたい

 

誰かがほっと癒されるような文章をかきたい

 

 

だけど、普段は「やるべきこと」に忙殺される。

 

ただ、周りの人と一緒に笑顔で、喜んで生活できれば、それ以上に幸せなことはあるのだろうか。

 

今年、私の母親は、お盆休みは毎日出勤だった。お正月もない。

 

土曜日に休んでも、日曜日にはまた会社へでかけていく。

 

人間の人生は、仕事のためにあるのだろうか。

 

そういう現実に、私は心が痛くなる。

 

もっとみんなが、ゆったりと時間を過ごして、心にゆとりをもって生活できないのだろうか。

 

私は小さいころに、母とお菓子作りをするのが好きだった。

 

家族みんながほっこりと休んでいる、日曜日が好きだった。

 

だけど今は

 

母親はずっと仕事をして

 

いつもバタバタ動いていて

 

しんどそうだし、それを見ている私もしんどくなる。

 

人間というのは、もっと幸せになれないのだろうか。

 

母親は、養護施設で育った。

 

母親は小さいころから虐待を受け、家のことをすべて受け持って、毎日祖父の怒りに怯え、叔父とともに切ない幼少期をすごしていた。

 

勉強をする時間なんて、彼女にはなかった。学校には、そんなにいけなかった。だから彼女には学歴なんてなかった。

 

そうやって小さいころから苦労してきた彼女が、今も、お金のために、身を削って働いている。

 

 

もっと、幸せになっていいはずなのに。

 

私には、家の家事を手伝うくらいしかできない。

 

それに、彼女が仕事に忙殺され、安い給料で心が休まらない現実は変わらない。

 

現実は、世界は、そんなに冷たいのか。

 

もっと、みんなが幸せに、笑って過ごすことはできないのか。

 

もう誰の辛そうな顔もみたくない。

 

やりたくもない仕事に身を売って生きることが、そんなに正義なのだろうか。

 

歴史を振り返ると、人間の生活は、もっと豊かだったのではないかと思う。

 

豊かというのは、金銭的な意味ではない。

 

もっと人々は人とのつながりに喜びを感じ、ともに助け合って、ただ大切な人と時間を共にするだけで幸せというような、精神的な幸せを感じて生きていたのではなかろうか。

 

人ごみに押されながら

 

人々の疲れた表情を見ながら

 

毎日やりたくないことを我慢し続けている私たちをみながら

 

将来そうなる可能性のある自分を想像しながら

 

世界はもっと人に優しい世界になれるんじゃないかって

 

そんなに頑張らなくてもいいんじゃないかって

 

みんなやりたいけどできてないことがたくさんあるんじゃないかって

 

世界が優しくなればもっと人は優しくなれるんじゃないかって

 

もう誰も惨めな想いを、つらい思いを、妥協の人生を歩む苦しみを

 

経験しなくてもいいときが来てくれるんじゃないかって

 

どこかで、心から、期待していて、祈っていて、願っている。

 

自分にそんなに付加価値なんてなくても

 

すごい人じゃなくても

 

英語がぺらぺらじゃなくても、高学歴じゃなくても、色んな経験やスキルなんてなくても、美しくなくても、細くなくても、得意なことなんかなくても

 

そのままのわたしたち自身をもっと肯定してくれるところが

 

もっと増えれば、世界はもっとやさしくなれる

 

もっと輝きだす

 

そう思うんだ