めずらしくTVer

さいきんはNetflixの契約もきれてTVえrも見てなくて

ゆるキャン△3期をみるくらいだった(今日は6話みた)

 

きょうはひさしぶりに家が夜涼しいのでTVerをみていた

ゴッドタンが第19回コンビ愛たしかめ選手権で

Aマッソ・阿佐ヶ谷姉妹・オズワルドだった

 

そのあとアメトーークみている

女子ビビリ1グランプリ

ここにもAマッソ加納が出ている

 

くやしいがオレはAマッソ加納さんの顔が好きなのでしょうがない

(黒髪になっているオダウエダ小田さんの顔も好き)

 

まあダンナがいるからいいんでしょ

 

しかしそろそろ眠くなってきたので寝ることにする

明日は火曜だ

どのようにトラペジウムをみるのか考えなくては・・・

なんか19日に文学フリマにいきたくなってきた

のも考えなくてはあかん

リトルプレスのことを考えはじめているのだ

(昨日は店先で『雨犬』をよほど買おうかと

思ったがかわりに『カーシェアグルメドライブ』を買った)

この2冊はどちらも

大手取次の行う流通にのっていない本である

(大手とは日販・トーハンのような大手である)

だいたいカーシェアのほうはISBNもついていないしね

 

雨犬とはこれである

mimeibooks.com

 

まあそれでね

 

「カーシェア」のほうは吉本芸人さんによるマンガなのだが

これが

Amazonでプレミアつけて取引されてるんですよ!!

はあ!

 

こういうのに腹が立つタチである

なんてこったい転売屋め

みたいな気分である

 

これがアマゾンのよくないところである

 

もちろん

需給の不均衡と情報の少なさが

生み出した現象なんだけどね

 

日本の古本屋ではどうだろうか

 

おお0件だ

 

とにかくさあ=~=~

「高く売る」が目的になったらそれは終わりなんだよ

 

むつかしいね

自営業するなら古書店? その問題点とは

こういうのが経験があると(古い経験だが)

それを記憶を掘り起こすことだけはできる

・移住したい

・移住先で自営したい

古書店やりたい

・店舗あり(できればね)(移動販売もやりたいけど)

 

・古書とか音楽CDとかを売るには

ネット

がありそれは「店」なら「場所」「テナント」が必要で

ネットは自分でオンライン販売するのか

自主オンライン販売サイトを利用するのか

大手のアマゾンマケプレとか楽天とかに店を出すのか

 

ちょうどこないだnoteで「ワシオが楽天の店舗から撤退した理由」を

読んだばかりだ

なぜ、最悪の業績なのに年商の20%にもあたる1億円の売上を手放してまで楽天市場から退店するのか|鷲尾 岳 / ワシオ株式会社 3代目社長

 

ここにある記述は誠実であり

楽天においてどのようなどんなことが影響してくるのかが

わかる

 

つまり

楽天でもアマゾンでもなんでもネットというのは

「めずらしくもないものを売るーものすごいたくさんの人に向けて」

である

だからロングテールで考えるしかない(規模がでかければでかいほど集積おおきくもうかる)

 

店は実店舗であればそれは「その場所」で「そこで出会う本・音楽」であり

一期一会であり

さらにいえば店主と客の出会いである(話をするのかしないのか)

 

まあつまりどこにでもある商品(しかもコピー可能)であっても

セレクトして並べた関連と関係性

ジャンル(本の棚は宇宙の秩序である)の一望見通し感

古書店の棚は店主の脳である

みたいなことですよ

音楽もそうなんだけど音楽はあまりに本よりもさらに

ジャンル細分化ときいてみないとわからん感があるので

Spotifyで試聴とかそういうことになってしまう・・

 

そう音楽はサブスクの登場によってさらに大きくかわった

その環境

こないだ話していたのだが

結局スマホで聴くようになると

CDプレーヤーも買わなくなってしまうのである

カーステにCDなんて聴く装置がついていないのである

ラジオもねえのかよ!ないかもね

 

そういう人に「レコード」を聴かせるのはけっこうたいへんだす

という話だった

お金をためてさあ=~

 

本はその点

電子の電子書籍みんなすきかというとそうでもなく

電子への抵抗とか電子よみにくいとか

どうしてもあれは紙の本とは違うものなんだよ

女子と男子が違うのとおなじように紙の本と電子の本はちがうものだから

電子のは本ってよびたくないね

差別ではない

身体障害により紙の本をよめない人にとって電子がゆいいつの

選択肢になっていることも知ったしかし

しかしオレは電子はだめなんだよオレがダメなんだからしょうがないんだよ

 

紙の本を売るんだよ

古書でもせどりでも

リトルプレスの本でも自主出版でも

 

ここでしか買えないということではなくても

出会いになればいいんだよ

 

オレは 「おべんとう」「かわ」を売りたいよ

取引できるならね出版社と

できないなら古書にするしかない

 

とかいろいろ考えてしまうねえ

ネットで売らないなら

実対面売しかないんだよ

それは限度があるよね

 

でも古書をネットで売るのはもうたぶん飽和なんだよ

飽和

オレ自身が古書をネットで買うことにまるで興味がない(メリットないし)

のことがその証拠である

まあオレはブコフに売ることがあってもブコフで買うことはまずありえない

人間だからなあ

 

バリューブックスとかどういう利益構造なんだろうね

やはりスケールメリットなのかなあ

 

とかいろいろ考える

 

古書はたぶん数をたくさん売る方面じゃないような気がする

んだよ・・・・

でもモノを売ってその金で食うならたくさん売るしかないよね

 

それならモノではなくてなにかを動かす手を加える手で動かすサービス

なんでもや草を刈るゴミを捨てる・・の方が古書よりは

もうかるんじゃなかろうか単純に

あるいは両方やるか

(すこしずつでチリツモ方式)

 

ゴミ捨てとは不用品処分である

 

古物取り扱い商・・・

違い

やはり女性が女性のほうが向いている職というものが

あるのではないか仮説

オレはどうしても看護業務は女性のほうが向いていると

思うのよ・・・・なんとなくだけどさ・・・

というのは「ある程度以上の女性がもつ周囲に対して

遠慮を少なくして話しかけてずけずけと話しているように

みえて周囲の空気をむりやりにでも明るくする無駄な会話を

うながす潤滑材としてプライベートにずけずけのりこんでいるようにも

みえるがも~あんたにはかなわないな~~とかいって話にむりやりその

人をつれこむというか

そういうのをいまの基準でパラハラと言う断言する人もいるだろうけど

厳密にはこのようなタイプのおばちゃんが使うテクニックは

パワハラにならない方法をつかっているように見えるんだ・・・

そしてその方法は男性には使用できない・・・どんなにフレンドリーな男性でもある程度以上の年齢(35より上くらいかな~~)になってしまうと男性は

そういう手段が使えなくなると思うんだ仮説

 

だからさあ

看護師は女性のほうがいいと思うんだよ

 

(この話はオレの実感からスタートしているので理屈で肉付けする

ことが大変にむつかしい・・・

がしかし

論文書くわけじゃないんだからいいんだよ)

 

オレが思っているのは「女性がもつ他人のこころをやわらげるような力」であって

もちろんすべての女性がそれをもっているわけではないが

あきらかに男性より女性のほうがその力を身につけていることが「多い」のであってそれは

社会がつくるジェンダー

に関係しているであろうと思っているが

それ以外のこと=出生時が女性||うーん~==

ことばで「出生時がじょせい」 って書いたけど本当にそうなのかな?

何をみて助産師とか医師とか性別を判断しているの>?

性器を観るだけ?

 

仮性半陰陽だったらどうすんの??

 

まあそういうケースもあるでしょう

 

オレはここではLBGTQ+の話をしていない

LBGTQ+と看護業務に関係があるかどうか知らないからだ

 

あと同性介護の原則とかいうことになっているのかなっていないのか

介護の世界に同性じゃないとだめですというときに

看護はどうなっているのかもオレは知らない

そしてLBGTQ+がそこにまきこまれたときにどうなっているのかもしらない

 

しらないことは沢山あるが

おそらく日本全国で統一もしていないのではないか?(要出典)

 

患者の女性がぜったいに男性看護師にさわられたくないと

言ったときにそれは権利として通るか通らないか(正しい正しくないの

問題ではなくて)

権利ってなに?いやなことを強制されない権利>?

 

女性看護師にさわられたくない

と主張した人がいまだかつてどこかに実在したか?

 

「がまんしろ」とか言われるのか?

実際問題の問題だからといわれるのか?

とかあらゆるケースを考えてしまうよ

 

夕食くうか

とにかく

とにかく次の週末(新海映画のリバイバル上映とかこうべでウェンディ&ルーシーとか・・・)が来るまえにトラペジウム問題(はやく観れ)を解決しなくてはいけないそれこそ夕方上映精神集中さえあれば可能なはずだついでにシネマイレージカードを更新しれ

舞台

そういう

たとえば「喫茶店を舞台にした小説・マンガ」はかずあるし

部室を舞台にした漫画もたくさんある

それこそ「家のリビングを舞台にした」もあるが

 

それこそ 家のリビングに家族だけしかいないと閉塞するし

部室はいろんな出入りがあるし

茶店なら知らない人まで座っているのである

 

いろいろあるね

 

そういうのを「舞台」として考えると

「そこに人があつまる偶然/必然」があるし

それは

あるいみで強制的な「学校」があって

そこの儀礼とか習俗とかが大きくあるのが日本の学生マンガ学生の映画

であるが

いうなれば「こどもでもなく大人でもない」

 

最近複数の場所でそれを目にしたのだが

つまり「ティーンエージャーの誕生」である

それは1950年代アメリカあたりからの

こどものような「大人への服従」がなくて

大人のような「労働の義務」もないのである

 

まあはじめから人間には服従も義務もなくてないほうが

いいに決まっているのだけれども

 

だから「平日にがっこうではなくどこか違う場所をさまよう」はなしの

非日常性も舞台になるのであるが

 

とか考えた

自分メモ

・店に人が集まるのを人徳というが

人徳は金で買うものでもないしなにか訓練して得るものでもないが

いわゆる気みたいなものか(引き寄せという言葉の使われかたが

きらいだがスピ方面でなければ別にふつうの言葉でもある)

 

・それは他方からみれば「べつに理由はないけどあの場所にいきたい

あそこであの人の顔をみたい べつになにを話ししたいわけでもないが」

みたいなことじゃんけ

 

・というか

どんどん個人商店がこの世から消えていくなかで

個人書店’(新刊の場合でもニッパントーハンの大手取次によらない

独立系)は

すこしずつ増えていく

それは小商いとして可能な部分というのと

人間の人間場

場がすくなくなっていくのを代替している(部活の部室的なかんじは

いいものでもある)

(が いっぽうでわるいものでもある)

 

・これが「お金をだしたオンラインサークル」になると

またこれが違ってくる

 

・人間があつまる理由とはやはり「気」なのではないか

この場合は「気持ちの気」「空気の気」である

きれいなととのえられた場所・・・

 

・そういう場所で「移動することもあるようなイベント」

例 インストアライブとかコーヒーをその場で飲むとか云々

 

以上自分メモでした