晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

はしわのわかば 菅江真澄テキスト

天明6年(1786年)、菅江真澄はそれまでの仙台領胆沢郡から、東磐井郡大原に移り、芳賀慶明邸に滞在する。

天明3年に郷里を出てから、3年目であり、真澄は33歳である。

「はしわのわかば」は、4月から6月までの日記で、付近を巡遊し、正方寺、黒石寺、そして一関の配志和神社に詣でる。

大型本で、全三五丁であるが、残念ながらこれにも図絵はない。

大館市立粟森記念図書館の蔵本となっているが、これは後年秋田滞在の際に、改写したものだとされているが、この日記を記していた頃に描かれた図絵はどうなったのだろうか、気になるところである。

滞在中に、郷里の三河から恩師の植田義方氏から手紙を受け取っている。

 

この日記のなかでも、彼はこの3ヶ月ほどの間に、多くの人たちに出会い、歌の贈答を行っている。

その地の名士の邸宅に居留し、主人の知人たちと交友を結んでいたのである。

和歌を贈り、またそれを返すのは大事なことだったのだろう。

多くの歌が、おさめられている。

桜を見るために、先の滞在地だった前沢を訪ねて、旧知の人たちと再会を果たしている。

また、近隣の神社仏閣を訪れていて、それらにまつわる歴史などを聞き、日記に記載している。

 

大原では芳賀慶明、前沢では村上良知というその地の庄屋にそれぞれ数ヶ月居留している。

そこで、多くの人たちと知り合う機会があったことだろう。

そのようにして、次の目的地やお世話をしてくれる名士を紹介してもらっていたのではないだろうか。

 

はしわのわかば表紙 大館市立粟森記念図書館蔵

はしわのわかば序文

 

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私のとってのパソコン 「電子書籍をつくる」

ブログの更新が滞って、なんと1ヶ月以上になってしまった。

今までで、最長期間かも知れない。

原因は、パソコンに放置されていたファイルの整理をしていて、それが面白くてブログに手がつかなかったからである。

このブログのタイトルの下に、「趣味は、山、本、音楽、PC、その他」と書いてある。

それが、私の興味を惹く事柄である。

かつては、これらに関する雑誌や本を買っていたこともあるが、今は何も買わない。

それどころか、新聞の購読もやめてから、何年になるだろう。

だから、それらの情報は、インターネット上にあるさまざまなサイトから得ている。

 

昨年頃から、パソコンのハードディスクの掃除をしていた。

さまざまなサイトからダウンロードして未整理のままだったファイルを、整理してひとつの電子書籍に、まとめるということをやっていた。

城址城跡、古典文学、歴史に関わるもの、音楽関係、そうして最後にコンピュータ関係まで来て、やっとひと段落しそうである。

未整理だったものを、電子書籍化するための整理をして、不足してるものを収集するだけであれば、それほどの手間はかからない。

ついでに、サイトのリンク集などを見ていて、面白そうなのをチェックしてみる。

長い期間放って置いたサイトだと、ほとんどのサイトはリンク切れになっている。

なかには、ちゃんとみることができるサイトもある。

そんなことを繰り返しているうちに、時間はあっっという間に経ってしまう。

この数ヶ月、一日のかなり長い時間をパソコンの前で費やしている。

 

こうして、大量のファイルをひとつの電子書籍にまとめる、ということをやっている訳である。

そうすれば、見たい時に見たり、読んだりすることができる。

ネット上にある記事は、いつまでも存在しているわけではない。

いつのまにか、サイト自体が無くなっていることがある。

もしかすると、サーバーが変わっただけで、探してみればどこかに移っているだけかも知れない。

世の中に、「テキストマニア」とか「情報マニア」というようなことばがあるとすれば、私はそれに近いかも知れない。

いろんなテキスト、いろんな情報が多くあるサイトがあると、それだけでうれしくなってしまう。

電子書籍には、EPWINGという規格があって、私がその規格の電子書籍を自作するようになって、20年くらいになる。

電子書籍ということばが使われるようになって、どれくらいになるのだろうか。

 

現在、最も使われている電子書籍の規格は、PDFではないだろうか。

これは、Adobeという会社がつくった規格で、かつては専用のリーダーが必要だったが、その後ブラウザで表示できるようになって、加速度的に普及したような気がする。

電気機器などを購入すると、印刷された冊子の「取扱説明書」が必ずついてきたものだが、今はPDFファイルになっていることもある。

機器のメーカーのサイトには、取扱説明書のPDFファイルが必ず置いてある。

かなり古いものもあるので、役にたつものである。

大学や研究団体の研究収録なども、それぞれのサイトにPDFファイルであったりする。

今は、かつてのように分厚い冊子を印刷して配布したりは、しないのかも知れない。

そういえば、私が勤めていた頃、職務の研修団体の機関紙のようなものを、それまでの紙の印刷物からPDFファイルに変更したことがある。

会員200名ほどの団体のサイトを新設したので、それが可能になったものだ。

おかげで、印刷屋に依頼していた印刷費が浮くことになった。

さかのぼって考えてみると、印刷屋さんへの依頼の原稿も手書きだったのが、途中からワープロなどで入力したファイルに変わっていたんだったな。

世の中、いつのまにか少しづつ変わっているのだ。

 

しかし、PDFという規格は、辞書事典のように数多くの情報からなる書籍には向いてない。

事項を検索することが難しいし、ファイルのサイズがとても大きくなる。

私が使っている「EPWING」という規格は、岩波書店の「広辞苑」をCDに収録するために作ったものらしい。

1986年に、富士通岩波書店ソニー大日本印刷の4社で製作し、当初は「WING」という名前だった。

更に、汎用性を持たせ「EPWING規約」を制定した、とある。

EPは、「Electronic Publishing 電子出版」の略であるということは、今回ウィキペディアで調べて、初めて知った。

ということで、「広辞苑」のような辞書や事典のようなものを想定して考えられたもののようだ。

ところが、実際のところ、それほど浸透しなかったように思われる。

当時、ブリタニカ国際事典、平凡社の世界大百科事典、小学館の日本大百科事典などのCD版が発行されているが、すべて各社の独自規格で発行されていた。

今では、過去の遺物になっている気がする。

 

そんな規格の「EPWING」を、私は使っている。

それは、「EBSTUDIO」というソフトウエアを使えば、自分で自分用の電子書籍を作れるからである。

hishidaさんという方が、EPWING関係のソフトウエアを公開している。

各社が独自企画で制作していた百科事典のCD版を、EPWING規格に変換するツールを使ったのが最初だった。

そして、「EBWIN」というビューアを使えば、無料でデジタル版の百科事典を楽しむことができたのである。

ebstudio.info

Windows用の「EBWIN」というビューアの他に、iOS用やAndroid用の「EB Pocket」というビューアもある。

電子書籍は、やはり書籍なので、ノートPCの前で座って読んだり見たりするよりは、タブロイドでねころんで読みたいものである。

そこで、iPad電子書籍を転送してみた。

iPadなどiOSの機器は、Windowsとは流儀が違っている。

私は、ずっとWindowsを使ってきたので、iOSiPadくらいである。

iPadに転送するには、「ifunbox」という専用アプリを使わなければならない。

iOSの機器では、メモリカードが使えないのだ。

その結果、次のように書籍が表示された。

EBPocket

「EBpocket」は、「EBWIN」に比べて、かなり機能が制限されている。

フォントが固定されていて、変更ができない。

フォントはかなりきれいだけれど、Windows版では可能な「縦書き表示」ができないの不便である。

文章によっては、縦書きで読みたい。

 

シャーロックホームズ全集

これは、はるか昔に、つくった書籍である。

英語版を日本語訳したものを公開していたサイトからダウンロードしたものだ。

 

ウイキソースに掲載されている文献

ウィキソースは、自由に利用できるテキストをウィキペディアが集めたサイトである。

青空文庫」にはないような作品がある。

少しづつ収録数が増えているが、これから充実していくことを期待したい。

 

やっと、ひと段落かな。



 

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ボクの音楽武者修行  小澤征爾

小澤征爾さんが、亡くなった。

言うまでもなく、日本を代表するクラシック界の音楽家である。

若い頃から、クラシック音楽を愛好してきた私にとっては、身近な存在だった。

とは言っても、彼の演奏会に一回も行ったことはない。

私がクラシックのコンサートに通っていた頃には、彼は海外で活動していることが多く、日本にはあまりいなかったのだろうか。

彼の得意とするレパートリーが、私の好みのものとちょっと違っていたこともあったかも知れない。

 

そんな私が、小澤征爾さんという人に出会ったのは、高校の図書館で彼が書いた本を読んだからである。

それが、この文章に掲げた「ボクの音楽武者修行」という著書だった。

昼食の弁当を、教室ではなく別棟の図書館近くの階段に腰をおろし、グランドを眺めながら食べることを日課にしていた。

高校生活から、ややドロップアウト気味で、あまり教室にいたくなかったのだろう。

食べ終わると、そのまま図書館で気に入った本を読む、というルーティンだった。

そんな感じで、この本を見つけ読んでいた。

それほど厚くもなく、装丁も軽い感じで、「なんだろう。」と読み始めた。

毎日、図書館に通っていたのだから、かなりの書籍を読んだと思うのだが、著者と本の名前を覚えているのは、この本だけである。

よっぽど、印象深かったのだと思う。

まだ、日本人が外国に旅行するのが、とても難しい時代に、ヨーロッパをスクーターで旅する。

そして、各地の指揮者コンクールに参加するのが目的である。

でも、その後読み返したりしたことはない。

そういえば同じ頃小田実さんという人が世界一周旅行をして書いた「何でも見てやろう」という本もあったが、これは読んでいない。

 

当時、私はまだクラシック音楽を聴き始めてはいない。

ギターに興味があって、とりあえずウクレレをいじったりしていた。

小澤征爾という指揮者のことも知らなかった。

タイトルからして、「ボクの音楽武者修行」で、「僕の」でも、「私の」でもない。

とっつきやすかったのだろう。

私が、この本を読んだのは、高校1年だから、1969年ごろである。

小澤さんの訃報を聞いて、もう一度この本が読みたくなって、調べてみた。

この本自体は、1962年に音楽之友社から初版が出ているようだ。

「ハナメガネ商会」という古本屋さんのサイトで、見つかったが、在庫はありませんとなっている。

おおば比呂司さんが挿絵を担当していて、表紙には蝶ネクタイの若者がスクーターに乗っている。

車輪の轍は、五線譜のよう描かれているが、旅行に携帯していたらしいギターはない。

その後、2002年に新潮文庫として発売になったが、現在は絶版になっているようだった。

図書館の分館で蔵書の状況を調べてみたら、沼南の分館にあることがわかったので、取り寄せを予約した。

検索で一冊しか出てこなかったので、柏市に分館は十数館あるけど蔵書は一冊だけということなのかな。

そういう訳で、分館に届くのを待っている。

 

私が、高校生だった頃、外国へ旅行するのは困難だったと、書いた。

小澤征爾さんは、1935生まれなので、1953年生まれの私より18歳上である。

その彼がヨーロッパに行ったのは、1959年である。

その頃の為替レートは、1ドル=360円である。

若い人には、想像できないかも知れない。

しかも、社会はまだ戦後の延長のような状態であり、海外旅行なんて考えられない。

池田隼人首相が、「所得倍増政策」を打ち出したのは、1960年昭和35年で、それが高度経済成長につながって行く。

為替も、1971年から変動相場制に変わっている。

スクーターは、船便で送ったのだそうだ。

そんなことができるのだから、ずいぶんと裕福な境遇だったのだろう。

幼い頃から、クラシック音楽をやるというだけで、それなりの環境にいなければできないことである。

彼の場合は、ピアノを習っていたのだが、指の故障によって、指揮の方に転換しなければならなかったらしい。

 

10年で所得を2倍にするという「所得倍増政策」は目標どおりに成功したのだろうか。

今の感覚で考えれば、10年で2倍というのはなんとも無謀な試みに思える。

でも低金利の今と違って、当時はかなり高金利の時代だった。

郵便局の定額貯金というのがあって、年利6%くらいだった。

これで預ければ、10年で2倍になりますと宣伝しているのを見た記憶がある。

年利6%で計算すると、単純に計算すると、1.8倍くらいにはなる。

定額貯金は、半年複利だったので、利子に利子がつくというものだったので、2倍になったのかも知れない。

所得倍増政策は、成功したのかも知れない。

私が大学を卒業した1976年頃には、なんと若者たちもボーナスをもらえば、海外旅行が可能な状況になっていたのだから。

1980年代になって、私は結婚したのだが、新婚旅行ということになって、妻は海外旅行はどうかな、と言い出した。

私は、海外なんて行ったことないし、パスポートも持っていない。

結局、上高地と美ヶ原で妥協してもらった。

hanamegane.com

私が、クラシック音楽にコンサートに出かけていたのは、20代から30代、時代にして1970年代から1980年代の頃である。

東京にどれくらいのオーケストラがあるだろうと、数えたことがある。

たしか、八つくらいのプロのオーケストラがあった。

NHK交響楽団が、たぶんトップクラスだったろう。

NHKだから、正式には日本放送協会交響楽団なのかな。

日本フィルハーモニー交響楽団というのもあった。

これは、経営不振から解散騒ぎになって存続はしたが、脱退者が新日本フィルハーモニー交響楽団を結成した。

私がよく行ったのは、東京交響楽団のコンサートだった。

上野公園の東京文化会館定期演奏会の会場だったので、電車に30分くらい乗れば、行けた。

東京都交響楽団というのもあったが、「都」の一字多いだけで、なぜ同じような名称なのかわからなかった。

東京と名の付くのは、東京フィルハーモニー交響楽団もあったし、東京シティフィルハーモニック交響楽団もあった。

こうなると、もうわけがわからない。

あともう一つ、読売日本交響楽団というのがあったな。

名前からわかるように、読売新聞と日本テレビのオーケストラだった。

これでは、外国人からしたら、みんな同じに見えるだろうな。

もしかしたら、この他にもプロのオーケストラは、あったかも知れない。

 

東京だけで、これだけあるのは、たぶん多いだろう。

それだけ、多くに人たちがクラシック音楽を楽しんでいる。

小澤さんは、若い頃、ヨーロッパでこんな辛辣な言葉を浴びせられたという。

「アジア人にモーツァルトが理解できるのか。」

これは、アジア人に対する、差別的な感覚から来たものかも知れないし、

アジアにおける西洋のクラシック音楽の受容についての、想像力の欠如かも知れない。

 

 

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無人探査機が月面に着陸した日

2024年1月20日JAXA無人探査機が月面に着陸した。

アメリカ、ソ連、中国、インド、に次いで日本が5カ国目ということになるらしい。

とは言っても、アメリカとソ連の探査機が着陸したのは、1966年であり、なんと半世紀以上昔のことである。

またまた、はるか昔の話になるが、私の少年時代は1960年代であり、アメリカとソ連による宇宙進出の時代だった。

私は、1960年に小学校、1966年に中学校、1969年に高校に入学している。

考えてみると、1960年代はそのまま少年時代だった訳である。

 

宇宙開発については、アメリカは慎重だったようで、ソ連の方が主導権を握っていた。

1961年に人類最初の有人宇宙飛行を行ったのは「ガガーリン」だったし、1963年に初の女性宇宙飛行士となったのは「テレシコワ」だった。

二人とも、子供たちのあいだでは、超有名人だった。

地球は青かった。」はガガーリンで、「私はカモメ。」というのが、テレシコワの宇宙でのことばだったと思う。

その頃には、テレビの衛生中継もできるようになったので、ニュースなど宇宙の映像が放送されるようになっていた。

ソ連に遅れをとっていたアメリカは、ケネディが大統領になってそれまでの方針を変換したらしい。

私が高校生になった1969年に、アメリカは有人探査機を月に着陸させた。

アームストロング、コリンズ、オルドリンという乗組員の名前とともに、月面で行動する映像はテレビで盛んに放送されていた。

とは言っても、インターネットもない時代なので、それなりにということである。

 

その頃、日本の科学者は何をやっていたのか。

私の記憶にあるのは、糸川英夫博士というロケット研究家が、ペンシルロケットの打ち上げ実験をしているというニュースである。

ペンシルロケットというから、ほんとにおもちゃのようなロケットだったのだと思う。

それが、なぜか私が住んでいる秋田県日本海側の海岸でやっているのだというので、とてもよく覚えている。

たしかに、東京大学生産技術研究所の附属施設能代ロケット実験場が、1962年に開設されている。

現在は、JAXA宇宙科学研究所の管理下にあるようだ。

でも、今になって考えてみると、とても不思議に思える。

かたや、ソ連アメリカは有人宇宙飛行できる人工衛星を打ち上げ、月に着陸しようという時代に、おもちゃのような小さなロケットを打ち上げることを必死でやっていたのだ。

あまりにもレベルが違いすぎるのにめげることなく、自分たちの力で実現しようとしていたのである。

そして、1966年の月面着陸から半世紀以上遅れて目的を実現している。

着実に問題点を解決していこうとする科学者たちの姿勢には、感心してしまう。

 

私が育ったのは、秋田県北部の白神山地山麓にある町である。

1972年にそこを離れて、首都圏に住むようになった。

そして、1976年に就職するのだが、どうもその年に郷里の町の山奥にロケットの燃焼実験場が建設されたらしい。

話には聞いていたが、詳細は知らなかった。

先日、郷里の幼なじみと電話していたら、仕事の関係でその実験場の敷地に入ったということだった。

どんな所かと、JAXAのサイトを調べてみた。

JAXAの関係の施設は、全国に20ヶ所くらいあった。

能代ロケット実験場というのはあったが、私の郷里の施設はのってなかった。

そこで、Googleマップを見たらあった。

JAXAではなく、三菱重工の施設だった。

なるほど、三菱重工が製作して、JAXAに納入してるのか。

三菱重工田代ロケット燃焼実験場

郷里の山「田代岳」の登山口の先に、実験場が見える。

拡大すると、こんな感じである。

ここには、戦後の短期間、農業集落があったらしいが、離農してしまったらしい。

中学生の時に、この近くの登山道を使って田代岳に登ったことはあるはずだが、集落までは行ったことがなかった。

大館市のサイトを見たら、この施設が縁で、ロケット発射場のある南種子島町と友好町締結しているとある。

 

無地探査機が月面着陸して、数年後にはアメリカは有人の探査機を着陸させた。

果たして、JAXAはこれから、どんな計画を立てているのだろうか。

 

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柳田国男と菅江真澄

菅江真澄は、それほど知られている人ではない。

私の学校生活の中でも、彼の名や作品は教科書などでは扱われていなかった。

現在は、どうなのだろうか。

だから私は、二十代になって,菅江真澄の研究者である内田武志氏の新聞記事を読むまでは、その名を知らなかった。

郷里の秋田のローカル新聞の記事によると、民俗学者である内田武志氏が血友病のために病床にあって、その研究対象が菅江真澄という江戸時代の旅行家である。

江戸時代後期に、出羽国陸奥国を旅して、さらに蝦夷地まで渡って数年滞在している。

そして、最終的に晩年の長い年数を秋田で過ごし、亡くなっている。

 

江戸時代という、旅行することがそれほど容易ではなかっただろう頃に、郷里を離れて半生をたびですごし、異国の地でその生涯を終える。

晩年の長い年月を送ったのが、私の郷里である秋田であることもあって、菅江真澄という人に興味を持った。

内田武志氏は、1980年に亡くなっているが、私が新聞記事を読んだ時はまだ存命だったので、その数年前だと思う。

私は、1976年に就職しているので、勤め始めてまもなくだったのだろう。

その頃は、まだインターネットも無い時代である。

どうやって本を探したのだろうか。

今考えてみると、図書館や書店を歩いたり、めぼしい出版社の目録でも眺めるしかなかったんじゃないだろうか。

インターネットのある今は、検索すればなんでも探すことができる。

それでも、菅江真澄に関する書籍を何冊か見つけて、手に入れることができた。

ほとんど知られていない人だと思われるのに、全集も刊行されていることを知った。

14巻からなる「菅江真澄真澄全集」は、1971年に未来社から発行されていた。

編者は、内田武志氏と宮本常一氏だった。

まもなく、私が購入した全集は、1981年の第三刷だった。

 

1971年といえば、昭和46年であり、私がまだ高校生だった年である。

この頃に、全集が編集された訳である。

しかし、調べてみると、その数十年前に、菅江真澄のまとまった著作集が刊行されている。

秋田県郷土史家であり民俗学研究家である深澤多市氏によって、「秋田叢書 別集 菅江真澄集」が編集された。

秋田叢書」は、秋田県内の郷土資料を集成したもので12巻が、1928年から1934年に発行された。

それと並行して、「別集菅江真澄集」6巻を刊行している。

昭和初期の時期に、講演会で秋田を訪れた柳田国男氏が、深澤氏に菅江真澄研究の重要性を指摘している。

それが、真澄の著作集をまとめる契機になったらしい。

柳田国男氏は、「菅江真澄」という書籍を昭和17年に刊行しているが、すでに昭和初期に雑誌等に発表した文章をまとめたものである。

その序文で、「菅江真澄について私の書いたものは、大正九年に公表した『還らざりし人』が秋風帖に出て居るのを最初にして」と書いている。

長年にわたって研究や考察を続けたのだろう。

菅江真澄」に収録されている「菅江真澄の旅」という作品では、天明3年(1783)30歳から、文化11年(1814)61歳までの、真澄の動静が年月日単位で克明に抜き出され整理されている。

「もうこの翁に對して私の抱いている感慨は、説き盡したといってもよいのである。」とまで書いている。

しかし、「二十年来の望みであった彼の身元生ひたち、どうして此様な大きな旅をすることになつたかといふ、隠れた動機はまだ少しも明らかになっていない。」と続けている。

のちに、「菅江真澄真澄全集」を編纂する民俗学者の内田武志氏は、若い頃に柳田国男氏から菅江真澄を研究対象とすることを、助言されたという。

彼が、秋田県鹿角市の出身であったからである。

それらを考えると、菅江真澄研究において、柳田国男氏の果たした役割はおおきなものだったと思う。

もしも、秋田叢書や全集が発行されていなければ、菅江真澄という人は今よりももっと知られていなかったかもしれない。

真澄は、生前に多くの著作を秋田藩の藩校である明徳館に献納している。

それは明治維新後、秋田県に引き継がれて、現在は秋田県立図書館に所蔵されている。

真澄の没後残された著作は、墓碑建立に尽力した人たちに形見分けされたが、明治期に旧藩士真崎勇助氏が収集し、現在は大館市の粟森記念図書館の蔵書となっている。

 

インターネットで、「菅江真澄」を検索すれば、書籍だけではなく、多くの研究サイトやブログを見つけることができる。

それは、真澄が旅した足跡を考えれば、理解できる。

信濃、越後、出羽、陸奥、そして蝦夷地まで、多くの文章に真澄の見た風景が残されている。

今の都道府県でいえば、長野、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、そして北海道。

真澄が立ち寄った至る所に、記念碑や説明板などがあるのだろう。

真澄の文章によって、その地の江戸時代後期の姿がよみがえる。

菅江真澄という人は、一般的にはそれほど知られてはいないが、消えてしまったわけではない。

 

ドナルドキーン氏の著作に「百代の過客」がある。

上下二巻から成り、後に続巻も出た。

サブタイトルが、「日記にみる日本人」である。

私は、興味深く読んだのだが、残念ながら菅江真澄の日記は選ばれていない。

今、手元にある下巻は、「室町時代」の日記22編と「徳川時代」の日記28編が取り上げられている。

ほとんどが、著者の名は聞いたことがあっても、読んだこともないものだ。

松尾芭蕉による数編を除けば。

真澄の日記は選ばれていないが、貝原益軒の「西北紀行」についての文章の中で、真澄の日記について記述している。

 

「彼の日記の影響も、見逃すことはできない。例えば益軒の百年あとに旅日記を書いた菅江真澄の膨大な日記は、益軒の伝統を継ぐものである。」

 

キーン氏は、「日記という最も私的な文学形式の中に表された、作者自身の言葉による日本人のイメージを発見し得たと思う。」と書いている。

柳田国男氏は、真澄の短歌は凡庸だとして、酷評している。

しかし、民俗学者の研究対象として、早くから評価していた。

そのあたりに、菅江真澄の著作の特質があるかも知れない。

 

 

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かすむこまかた11 菅江真澄テキスト

近隣(チカドナリ)の翁の訪来(トイキ)て、都は花の真盛(マサカリ)ならむ、一とせ京都(ミヤコ)の春にあひて、嵐の山の花をきのふけふ見し事あり、何事も花のみやこ也とて去ぬ。

数多杵(アマタギネ)てふものして餅搗(モチツキ)ざわめきわたりぬ。

けふも祝ふ事あり。

日暮(ヒクレ)れば某都(ナニイチ)某都(クレイチ)とて両人(フタリ)相やどりせし盲瞽法師(メシヒノホフシ)、三絃(サムセム)あなぐりいでてひきたつれば、童どもさし出て、浄瑠璃(ゾウルリ)なぢよにすべい、それやめて、むかし/\語れといへば、何むかしがよからむといふに、いろりのはしに在りて家室(イへトジ)のいふ、琵琵琶に磨碓(スルス)でも語らねか。

さらば語り申(モフ)さふ、聞たまへや。

 

「むかし/\、どつとむかしの大(オホ)むかし、ある家に美人(ヨキ)ひとり娘(ムスメ)が有(アツ)たとさ。

そのうつくしき女(ムスメ)ほしさに、琵琶(ビハ)法師此家(ヤ)に泊りて其母にいふやう、わが家には大牛の臥(ネタ)ほど黄金(カネ)持たり。

その娘をわれにたうべ、一生の栄花見せんといへば母の云やう、さあらば、やよ、おもしろく琵琶ひき、八島にてもあくたまにても、よもすがらかたり給へ。

明なば、むすめに米(ヨネ)おはせて法師にまゐらせんといふを聞て、いとよき事とよろこび、夜ひと夜いもねず、四緒(ヨツノヲ)もきれ撥面(バチメム)もさけよと語り明て、いざ娘を給へ、つれ行むといふ。

先(マヅ)ものまゐれ、娘に髮結(カミユハ)せ化荘(粧)(ケハイ)させんとて、磨碓(スルス)をこもづゝみとして負せ、琵琶法師の手を引かせて大橋を渡る。

娘は、あまり負たる俵の重(オモ)くさふらふ也、しばらく休らはせ給へと、休らひていふやう、いかにわがおやのさだめ給ふとも、目もなき人の妻となり、世にながらへて、うざねはかん〔うめき見んといへる事也〕よりは今死なんとて、負ひ来つる台(シタ)磨碓(スルス)をほかしこめば、淵(フチ)の音高う聞えたり。

女は岩蔭(イハカゲ)にかくれて息(イキ)もつかずして居たり。

かの琵琶法師ひとりごとして云やう、あはれ夫婦(ウバオチ)とならむよき女(ムスメ)也と聞て、からうじて貰(モラ)ひ来りしものをとて、声をあげてよゝとなき、われもともにと、その大淵に飛込(コミ)て身はふちに沉(シヅ)み、琵琶と磨臼(スルス)はうき流て、しがらみにかゝりたり。

それをもて琵琶と磨臼の諺(タトヘ)あり。

とつひんはらり」

 

と語りぬ。

 

廿二日 六日入(前沢町川岸場)にいたる。

明なば、あるじ常雄、仙台にとみなる事とてたびだち、畠中ノ忠雄がりとひ、松島にも行かまくなンどかたりぬ。

うまのはなむけとて人々酒飲む。

 

言の葉の色をりそへてひろはなむまがきが嶋の梅の花

 

花の波こゆてふころもきさらぎの末の松山たのしからまし

 

と書てあるじに贈る。

また行道といふ人もぐして行ければ此行道にも、

 

言の葉も今ひとしほの色そはむ帰さのつとをまつしまのうら

 

かくてくれたり。

 

廿三日 つとめて常雄、こまの荷鞍の旅よそひして、行道をいざなひて行ぬ。

旅立の跡寿(アトフキ)とてまた盃とりぬ。

此人々の語るを聞ヶば、此ほど白鳥村(前沢町)にて狢(ウジナ)の仕態(シワザ)にや、家のうちとに銭を雨のごとくふらせ、さま/″\あやしきことあり。

また母体(モタヒ)(前沢町)の観音堂の、うゝと呻吟(ウメク)音(コエ)し、また鳴動(ナリウゴカ)せり。

これも貉(ウジナ)のなす事にやなンどあやしみてかたりぬ。

そは、いにしへもさる事あり。

文徳天皇実録』の中に、天安元(八五七)年のころ六月六日、参河ノ国の庁院のひんがしの庫振リ動シ事見えたり。

またそのおなじとし(六月三日)、

 

「在陸奥極楽寺定額寺充燈分並修理料稲千束墾田十町」

 

云々と見えたり、その寺、極楽寺はいづこならむかし。

けふもくれたり。

 

廿四日 けふ村上良知のもとに行とて、童にみちあないさせて、かたらひつゝ行に、此ころふりし春雪とともに去年の真雪(サネユキ)も消えて、道のぬかりて、ありきつらしとて芝生に腰うちかけて休らふに、兎ひとつ飛出(トビデ)てはせ行を見て童の云ク、むかし田螺(タツブ)が歌をかけたり、

 

「旭さすこうかの山の柴かぢり耳がながくてをかしかりけり」

 

とよみたれば兎、

 

「やぶしたのちり/\河のごみかぶりしりがよぢれてをかしかりけり」

 

と返歌せしなどかたりもて、午の貝吹くころ徳岡につきたり。

 

廿五日 あしたより空うら/\と長閑なるに、鶯のこゑだに聞ぬなンど、うたものがたりのふみどもくり返し見つつ、そが中に、

 

「ふる里に行人あらばことづてむけふうぐひすのはつ音きゝつと」

 

源兼澄卿のよみ給ひしは、正月ノニ日逢坂にてと聞え給ひしをなンど語りつつ、

 

鶯のはつ音も花もにほはぬに春はなかばも過んとすらむ

 

けふはなめて、菅神に手酬(タフケ)奉らむ梅さへ咲かでをろがみ奉る也。

三四日、ことなければ日記もかゝず暮たり。

 

三十日 忠功寺なる玄指といふ僧(ホフシ)、去年の霜月身まかれり。

けふなんその百日斎忌(モゝカノトフラヒ)とて法のわざあるに、

 

遠ざかる日数ももゝの花かづらかけてやよひの空に手向む

 

良道の歌に、

 

冬がれの梢の霜とかれし身もつるのはやしの花やしのばむ

 

きさらぎもけふにはつれば、あすのやよひは、ことふみにしるす。

 

 

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鉄道地図帳を楽しむ

年末に出かけた書店の店頭で、こんなポスターを見つけた。


f:id:seiko_udoku:20240108163529j:image

昭文社の全国鉄道地図帳の最新版が、発売されるということだ。

我が家には、地図帳は何冊もあるが、世界地図や日本地図を除けば、ほとんど「道路地図」である。

「鉄道地図」と名のつくものは、今まであまり無かったと思う。

それにしても、こんな大きな書籍のためのポスターは見たことがない。

この数年は、鉄男や鉄女という言葉があるくらい、鉄道オタクが多いらしい。

そういう状況だから、それらを対象にこんな地図帳がでるのだろう。

私は鉄道は好きだが、そこまでのめり込んではいない。

ポスターには、廃止になった鉄道も網羅してあるとなっている。

よく見ると、この地図帳は三年前に発売されたものの改訂版で、「増強版」だという。

今回の売りは、開業に至らなかった「未成線」とともに「森林鉄道」も収録してあるという。

それを見て、「おおっ、森林鉄道、これは絶対欲しい」と思った。

 

「森林鉄道」ということばで、ピンとくる人は少ないと思う。

私のように、林業の盛んな山間部で育っていなければ、見たことはないだろう。

しかも、私が小学生だった1960年代に、日本国内のほとんどの「森林鉄道」は廃止になっている。

国有林を管理していた林野庁が運営していたのだろうから、国有林事業が行われていた地域で、伐採された木材を製材所のある地域まで運搬していたのだ。

このあたりのことは、このブログに何回か書いたことがある。

田んぼの中にあった我が家と、100mくらい離れた商店との間に森林鉄道のレールが通っていた。

それが、時代がトラック輸送に変換していった。

その頃になってやっと、我が家のある村にも、バスが運行されるようになった。

だから、私にとっては、バスや鉄道よりも身近な存在だった。

もちろん、木材輸送のためのものだったので、乗ったことはない。

ja.m.wikipedia.org

ポスターには、森林鉄道合計8000kmとある。

8000kmって、すごいんじゃないか。

JRの営業距離を調べてみた。

現在の在来線はJR東日本が7400kmで、JR西日本が4900kmだった。

もっとも、国鉄が民営化によってJRになる前後に、多くのローカル線が廃止されたり、第三セクターになったので、今よりはかなり営業距離がながかっただろう。

さっそく、Amazonで注文した。

444ページで、3960円だった。

いい値段だけど、その価値はありそうだ。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4398653120?ref=ppx_pt2_tab_b_prod_image

かつての日本列島は、人間の体の動脈や静脈のように国鉄や私鉄が身体中をつなぎ、さらに毛細血管のように森林鉄道が隅々まで延びていた、と言えるだろう。

 

注文した地図帳は、二日ほどで届いた。

とりあえず、気になる地域を開いてみる。

まず、私の郷里である秋田県、そして青森県岩手県のあたりである。

いずれの県も、かつて森林鉄道が敷設されていた。

しかし、よく見ると、青森県岩手県に比べて、秋田県に敷設されていた森林鉄道が圧倒的に多い。

森林の面積が占める割合は、どの県も同じようなものだろうが、どうしてこんなに違うのか。

秋田県は、秋田杉で知られているが、木材を商品化する取り組みが進んでいたのだろうか。

たしかに、山間の農村地帯である郷里の町では、林野庁の営林署があって、そこで勤務する人たちが多かった。

秋田県内の山間部は、この地図を見ると河川の支流に沿って森林鉄道が延びていて、ほんとに毛細血管のようである。

秋田県北部を流れる米代川の支流である「岩瀬川」が、白神山地に向かって北上している。

それに沿って敷設されていた森林鉄道「岩瀬林道」は、その本線は1966年に廃止された。

岩瀬川の支流に沿っていた支線は、1969年には全て廃止されている。

日本全国の森林鉄道も、1975年くらいには完全に姿を消したらしい。

ページをパラパラめくって、最後の沖縄県を見てみた。

沖縄には、鉄道が無いということを聞いたことがある。

鉄道地図帳ではどうなってるのか、気になったのだ。

沖縄都市モノレール」というのはあった。

2003年に開通したのだそうだ。

私が驚いたのは、戦前には沖縄にも鉄道が走っていたことである。

なんと、沖縄県の南部、那覇を中心とした地域にはかなりの鉄道が敷設されていた。

沖縄県営鉄道」というのがあって、嘉手納線、糸満線、与那原線などが那覇から伸びている。

他にも民営鉄道らしい「沖縄軌道」や「沖縄電気」などの名前ものっている。

企業線らしい「製糖工場甘蔗運搬軌道」というのもある。

しかし、すべて1944年、1945年あたりで、廃止されている。

戦況の悪化が原因だろうが、戦後どうして復活しなかったのか。

その辺の事情を、ウィキペディアでは次のように記載している。

 

 

沖縄本島では、大正時代に軽便鉄道路面電車、馬車鉄道といった数々の鉄道路線が開業したが、昭和初期に入ると沖縄電気の路面電車糸満馬車軌道がバスとの競争に敗れて廃止され、残った沖縄県営鉄道と沖縄軌道も太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止し、鉄道の施設は空襲や地上戦によって破壊され、アメリカ合衆国による統治下に置かれた戦後は道路整備が優先され、残った線路も鉄不足のため回収され生活用品と成り代わった。鉄道は復旧されることなくそのまま消滅した。」

アメリカの軍政下でなければ、鉄道は復活したのではないかと思う。

終戦時は、まだ廃止して1年くらいしか経っていなかったのだから、復旧は難しいものではなかっただろう。

しかし、沖縄が日本に復帰した1972年ごろには、鉄道から自動車の時代になりつつあった。

本土は、新幹線網を全国に張り巡らしていったけれど、鉄道自体が存在しない沖縄では、新幹線をということにはならない。

私は、まだ沖縄に行ったことがない。

もしも、沖縄に鉄道があったら、魅力ある旅ができただろうな、と思う。

そういえば、佐渡にも行ったことがない。

佐渡のページを見ると、鉄道があった形跡がない。

こんなに大きな島で、鉄道が無かったというのは、大変なことだったろうな。

同じく大きな島である淡路島のページも見た。

淡路島には、淡路鉄道が島の南部を横断していた。

大正時代に開通したが、1966年に廃止された。

 

なにしろ、400ページを超えるのでデータ量がものすごい。

当分は、ゆっくりと眺めることにしよう。

 

 

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かすむこまかた10 菅江真澄テキスト

廿八日 毛越寺のふる蹟見なんとて田の畔づたひして、礎の跡なンどにいにしへをしのぶ。

 

廿八日 毛越寺の衆徒某二人、日吉(ヒエ)ノ山に登り戒檀ふみにとて旅立ければ、此法師たちに、故郷に書(フミ)たのむとて、

 

ふる里を夢にしのぶのすり衣おもひみだれて見ぬ夜半ぞなき

 

と、そのふみにかき入れたり。

 

廿九日 けふもとし越なりとて家々の門餝り、窓てふ窓のあるごとに、あらたに、しりぐへ繩ひきはえ、しで

かけて、とし忌(ミ)せり。

此月は小にて、けふ正月(ムツキ)は極(ハツ)る也。

 

ニ月朔日 けふは松の林に竹の森とて栗の樹(キ)の鬼打(オニウチギ)立て、正月(ムツキ)の門松竹荘飾(カザル)にひとし。

こと郡にては厄年(ヤクドシ)の人あれば歳直入(トシナオシ)とて祝(イハ)ひして、むつきのことたつごとにすれど、此磐井ノ郡はおしなめてしかり。

何事も胆沢ノ郡とはことにして、としの始めの門松も栗の木を庭中に立て、つま木をあまたとり束(ツカ)ね置(オキ)て、竹のうれに餅さしはさみて、田ノ神、星祭の守礼(マモリ)なンどおしたる下(シタ)にさし、十五日には臼(ウス)、杵(キネ)、鉏(スキ)、鍬(クハ)にも竹(タカ)はさみ餅をさしそなへ、十八日まで十五日(モチイヒノセク)の小豆粥(カユ)を喰(ク)ひ、此日、稲の穂のたなごばらみにはらめる形(サマ)に太箸(フトバシ)を作りて、その稲姙身(イナバラ)箸(バシ)にて十八日(ジウハチ)粥(カユ)を咋(ク)ひをへて、太箸(イナバシ)を十文字(クモデ)に級皮(シナ)にて縛(ユハヘ)て、ほたき屋の梁を投越(ナゲコ)して、その箸を屋根裡(ヤバラ)に打立(ウチタテ)る例(ナラハシ)なり。

また此郷(ムラ)の近隣(チカドナリ)ノ里なる山ノ目といふ処には、門松も根こじたるわか松をたて、その枝に正木(マサキ)の蔓(カツラ)をうちからまき餝るといへば、

 

君が代はまさ木のかづら長かれと千歳を松の枝にかくらむ

 

ニ日 厄年祝(トシナホシ)に行かふ人とら道もさりあへず、雪もたひらになりぬ。

上中(カミナカ)下みなうちあげしゐろりのもとには、若男(ワカゼ)どもあまた酒のみうたふに、たきたつる榾(ホダ)の火燄(ホノホ)たか/″\ともえて、火(ヒ)の散(コ)、火棚(ヒダナ)の煤(スゝ)に付てければ、鼻(ハナ)すれ/\とて指もて、みな、おのが鼻をすりにすりぬ。

しかすれば、火棚(ヒダナ)てふものゝ煤(スゝ)に、火埃(ヒホコリ)の付たるを鎮(シズメル)る咒(マジナヒ)なりといふ。うべならん火消ぬ。

 

三日 よべよりいたくふりぬ。

今朝は若水汲(ムカフ)はてなりとて、此大雪(オホユキ)ふみ分(ワキ)てくみもて来(キ)けり。

やをら年繩(トシナハ)とりをさめて、けふは注連縄(トシナハ)ひきの祝言(イハヒ)とて小豆粥食(ク)ひ酒飲(ノミ)て、ひねもすうちあげあそぶ。

 

四日、五日は風吹つれど、

 

六日 あしたは春雨めきて、夕月ほの霞て出ぬ。

琵琶法師来りぬ。

是も慶長のむかしより三線(サミセム)にうつりて、猫の皮も紙張の撥面(バチメン)ニ化(カハ)りたるが多し。

曾我(ソガ)、八嶋、尼公物語、湯殿山ノ本事(ホンジ)、あるは千代(チヨ)ほうこといふ女の戯ものがたりなンどの浄瑠璃をかたれり。

こたびは「むかし曾我也」声はり上て、

「ちゝぶ山おろす嵐のはげしくて、此身ちりなばはゝいかヾせん」

と、語り/\て月も入りぬ。

明なばとく出たゝむとて枕とれば、ひましらみたり。

 

七日 ふたゝびといひて千葉の家を出たり。

高館の猫間(ネコマ)が淵(フチ)のふる蹟(アト)、梵字が池のあせたる跡(アト)、中尊寺になりぬ。此あたりに勅使清水といふあり。

いにしへ按察使中納言顕隆卿こゝにくだりおはして、此水めし給ひしといふ。

文治のいくさに焼(ヤカレ)残りたる庫(クラ)の内に、牛黄、犀角、象牙の笛、水牛ノ角、紺瑠璃ノ笏、黄金ノ沓、玉幡、黄金華鬟〔以玉餝之〕、蜀江錦、ぬひめなき帷、こがねの鶴、しろがねの燈籠、南(ナム)廷鉑(テイハク)、なほくさ/″\の物ぞ多かりける。

そを右大将頼朝公わかちて、葛西ノ三郎清重、小栗ノ十郎重成なンどいふ人とらに此宝器(タカラ)どもを給(タマ)はりし事は『東鑑』をはじめ書(フミ)ごとに見えたり。

そを見て御館(ミタチ)の栄えたりし世ぞしのばれたる。

また『奥州征伐記』二ノ巻に

 

「文治三年云々、秀衡が病気の様子を尋ね給ふに、顔色老(オヒ)おとろへ最期近く相見えたれば、もはや相果申つらむと言上しける処に、奥州より秀衡が使者として、由利ノ八郎惟平鎌倉に来る。

鷲ノ羽千尻、矢根、駿馬三十匹、金作ノ太刀三振、砂金等進上す。

これは秀衡がかたみのこゝろ也云々」

 

と見えたり。

なほその篤厚(アツシ)事をおもふべし。

かくて衣川の土橋をわたりて、やがて前沢の駅(ウマヤ)に出(イデ)て、霊桃寺の長老かねてねもごろにものし聞えたまへば、しばし物語して上ハ野の徳岡にいたりて村上が家にやどる。

 

八日 けふは疫癘(エヤミ)ノ神のあまくだります日とて、是(コレ)避(サケ)る祭リとて粢餅(シトギ)をつくりて、しる小豆(アヅキ)にかいまぜ、そを烹(ニ)て神に奉り、人みな喰ふめり。

荒神アラガミ)祭(マツ)リのよしにや、また吉田の疫神斎(ヤクジンサイ)、津嶋の御葦流(ミヨシナガシ)の如(ゴト)に鎮疫斎(チムエキサイ)なンどおこなへる神事(ワザ)ありけるか。

 

この九日、十日、十一日、十二日、十三日、十四日と日をふる雪に、たヾ埋火のもとさらずふみ見つゝをれば、人の訪(ト)ひ来て、二月の木の股(マタ)さき、三月の蛙(カヘル)が目がくしとて零(フ)り、雪のはては涅槃(ネハン)なりといひ諺(ナラハ)しさふらふ也なンど語りぬ。

 

十四日 けふは空晴て長閑なれば、雪ふみならし、わらまきちらし、莚しきて童あまた群れ集りて、笛吹、太鼓、銭太鼓、調拍子(テビラカネ)にはやして鹿舞(カセギオドリ)の真似(マネ)をし、また田植踊(タウヱヲドリ)のまねして遊び、また箱の蓋(フタ)を頭に戴(イタダキ)て念仏舞(ヲドリ)のさまをし、また劎舞(ケムバヒ)てふ事せり。けむばひは、けむまひを訛りていへる也。

此劔舞(ケムマヒ)てふものは、いか目の仮面(オモテ)をかけ袴着(キ)、繦(タスキ)して髪ふりみだし、軍扇を持(モチ)、また太刀はき、つるぎをぬきて舞ふ。

此劔儛(ケムマヒ)を高館物化(タカダチモツケ)ともいふ也。

そはいにしへ、高館落城の後さま/″\の亡霊あらはれし中に、さる恐(オソロ)しきものゝあらはれしかば、そのあらぶる亡魂(ナキタマ)をとぶらひなごしめんとて、物化(モツケ)の姿(サマ)に身を餝りなして念仏をうたひて、盂蘭盆(ウラボン)会ごとに舞つる也。

品こそかはれ、遠江ノ国の戈が谷(ガケ)の念仏盆供養にひとし。

それを、男童(ヲノワラハ)の春遊びにせしもあやしかりき。

 

十五日 けふは仏の別れ(涅槃会)なりといひて、寺々にまゐる人いと多し。

 

七八日もことなければ、きのふまで日記もせざる也。

 

 

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人生七十古来稀なり

ローリング・ストーンズのメンバーが80歳であるということを、このブログに書いた。

彼らより10歳下の私も、先日70歳の誕生日を迎えた。

古稀」である。

「人生七十古来稀なり」というのは、杜甫の詩にあるらしい。

杜甫は八世紀の人だが、自身は58歳で亡くなっているようだから、70歳はなかなかあることではなったのだろう。

同時代を生きた詩人李白も、享年61歳である。

現在の日本では、平均寿命がなんと男女とも80歳を越えている。

女性87歳、男性81歳なのだそうだ。

あくまでも平均だから、個人差が大きい。

私の父も妻の父も、ともに大正末期の生まれだったが、60歳を過ぎて何年も経たないうちに亡くなった。

 

「人生七十」という言葉で、思い出したことがある。

織田信長が、映画の中で舞いながら歌っていた歌に、こんな歌詞があった。

 

「人間五十年、下天の内をくらふれば、夢幻の如く也」

 

小学生の頃に見た映画の記憶が、強く残っている。

私の小学校時代は、年に一回学校の体育館で映画の映写会をやっていた。

まだ、テレビが充分に家庭に普及していなくて、映画の時代だった。

30分くらいバスに揺られれば、町の映画館に行けた。

1時間かけてもっと大きな大館の街なら、映画は3、4館もあった。

敵は本能寺にあり」という映画を、たぶん低学年の頃だった。

本能寺の変」を扱った、小学生には難解だと思われる映画である。

年に一回なので、いくつも作品を見たはずなのに、この作品だけ覚えている。

癇癪を起こした信長が、光秀の眉間をわり、血がながれる。

 

この時の俳優は誰だったのだろうと、気になったので調べてみた。

松竹作品で、公開年は1960年である。

ということは、小学校入学の年だ。

その何年後かに、見たのだろう。

主演は、織田信長田村高廣明智光秀が八代目松本幸四郎である。

松本幸四郎は、現在十代目らしいいので、私がよく覚えているのは、市川染五郎だった九代目幸四郎である。

ずいぶん昔だ。

東千代之介も出ていたような記憶があったのだが、思い違いだった。

もしかすると、その後見た映画と混同しているのかもしれない。

 

「人間五十年」は、幸若舞の小唄の歌詞で、「平敦盛」のなかにあるということだ。

戦国の頃には、人間の寿命は五十年くらいの感覚があったのかもしれない。

でも、江戸時代の平均寿命は何歳くらいなのだろうと、調べたことがある。

そしたら、なんと35歳から40歳くらいだというので、驚いた。

いくらなんでも、若すぎるだろうと思うが、結局幼児の死亡率の高さからこんなことになったようだ。

どうして、江戸時代の平均寿命が気になったのか。

このブログでも取り上げている菅江真澄という江戸時代の紀行家が、郷里を離れて日本の北方へ旅に出かけたのが、30歳の時だったということを知ったからである。

30歳というのは、結婚したとしても、まだ子どもは自立してなくて、まだまだ頑張らなければならない年齢である。

菅江真澄は、その年齢でまだ健在の父母を残して、旅に出かけたのだ。

真澄は結婚していなかったらしいが、何が彼を旅にかり立てたのだろうか。

江戸時代には、子どもが自立する40代くらいで隠居したらしい。

子どもに、バトンタッチということだろう。

そういえば、伊能忠敬は50歳で隠居して、念願の暦学や天文学を勉強するために、江戸に出ている。

 

私は、30歳になろうとする時に、結婚した。

だから、30代、40代は子育てに費やされた。

息子を三人育てて、やっと末っ子が学校を卒業する頃に、定年退職した。

今やっと、フリーな生活を送っている。

「人生いろいろ」、である。

何が待っているか、わからない。

五つ上の姉は、55歳の誕生日前に亡くなったし。

その時、私は40代の終わりだったけれども、その後世界がそれまでと違うように見えるようになったな。

 

 

 

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かすむこまかた⑨ 菅江真澄テキスト

「是はもろこしのごかん(後漢)のめいてい(明帝)の御代に、かぶむと申ス老人にてさふらふ也」

 

と老翁(オヂ)、老嫗(ウバ)両人(フタリ)出(デ)て、己(オノ)がむすめの死(ミマカリ)し事をなげき、塚にをみなへし、おしこぐさの生たるを記念(カタミ)の色と見つつ、涙に袖をぬらしたるさま也。

また「姨捨山」を舞ふ。

いと/\恐(オソ)ろしく、むくつけき男(ヲノコ)の仮面(オモテ)かけ、髪ひげわゝけたるが出(イデ)ぬ。

またおなじさまに女の仮面(オモテ)に、髪は、おどろと乱レたる狂女の姿して出たり。

その女の詞に、

 

「旅の人に、ものとひまゐらせたくさふらふ」

 

男いらへて「いかにさふらふぞ」

 

「原部山(ハラベヤマ)にかゝりて善光寺へは、いづくをまゐりさふらふ」

 

「あら多の人や、なにのもの見か、さふらふぞ」

 

「あのわらはべなにを申ス。

なに、あの男、ものぐるひの女こそ、幼少五ツのとし親におくれ、伯母(ヲバ)に養育(イヤウイク)せられて人と成(ナ)りさふらひしが、女がとかう憎(ニク)むよて、八旬(ハチジユン)に余る老母を腹部山(ハラベヤマ)へ捨置(ステオ)き、やかん(野干)の食(ジキ)となすによて、その怨霊(ヲリヤウ)にて、かやうにくるふなれ」

 

こは、男も女もものにくるふさま也。

 

姨捨山とはさふらふらむ、おもひもよらぬはらべやまかな」

 

なンど、互(トモ)にものあらがひして、やがて諏訪のみやにいたりしとうたひて、

 

「おもしろき社檀につきてさふらふ、宮人をもまたばやとおもひさふらふ」

 

やをら宮奴(ミヤツコ)も出来てくさ/″\のものがたりをして、宮奴、神をすゝしめ鈴ふれば、神鈴)ミスヾ)の音のおもしろからぬよと、ものぐるひの女うたひて、またうたふ。

 

「秋の野に、すだく鈴虫、業平の小鷹狩リ、みよりのたかの鈴ならば、それは神にもいやまさん」

 

と、うたひ/\て、はてぬ。

さるがうなンども、かゝる俳優(ワサヲキ)よりやはしまりけむかし。

御燈(ミトモシ)なンどもなから消行キ鶏(トリ)もいくたびか鳴ぬ。

戯れ小法師も衆徒も酔(ヱイ)て謡曲(サルガウ)うたひ、また順礼唄を聞つゝこゝをたちづるとき、鈴木常雄

 

見るになほしのばれぞする此寺のありしむかしのすがたばかりは

 

とありしを聞て、

 

夜もすがら聞くも尊しこゑ/″\にうたふも舞ふものりのためしを

 

千葉氏の家に帰り来てしばしとてふしぬれば、ひましらみたり。

 

廿一日 人々、よべのこうじにやあらむ、いぎたなうひるになりて起つれば、手あらひものくふうちに坏とりいそぎぬれば、好キ人ははやさしむかひ、いなふねのいなにはあらで、最上川といふ白(オホサカヅキ)をを挙(アグル)もあり。

()鏡のいとく大なるをもてつぎめぐれば、ゑひにゑひて、御殿、隼、三ケの瀬とつぎ給へなンど、なほ最上河のあらせの波を酒に譬て濁る酒を飲べくあらんなンど、下戸の並居を見て、賢しとものいふよりはとて、ひたのみにのみぬ。

床の上に鳥足の文字かゝりたるはなにならんと見れば、「心静酌春酒」といへることなり。

あなおもしろし、をりにあへり。

是を題とあれば、

 

山まゆもゑめるばかりの長閑さにむかふもあかぬ春のさかづき

 

また常雄。

 

たのしさよこゝろのどけき春の日にあかでぞめぐる千代の盃

 

村上良道。

 

春風の吹もしづけき此屋戸にあかでぞくまんちよのさかづき

 

かくて長き日もくれたり。

 

廿二日 人々出たゝむといへば空くもりたり。

雪ならむとて、けふも、あるじめくなり。

なによけむとて鮏(サケ)の散子(ハラゝゴ)、鮭(サケ)ノ鮓(スシ)、くろがら、あか魚、とりならべて海遠き山郷(ヤマザト)はこゝろにまかせじ、此氷頭(ヒヅ)鱠にて一ツまゐらせたくといへばまた飲(ノミ)て、価なき宝といふとも、このひと杯(ツキ)のにごれる酒にはなンど、はやうた唄ふこゝちにゑひぬ。

常雄、顔はあしたより夕日のてれるがごとにて、

 

をりにふれて思ひぞ出むもろともに今をむかしの余所にしのばヾ

 

とあるのを見て、その筆をかりて、その紙のはしに、

 

おもひ出て袖やぬらさむもろともにいまをむかしの余所にしのびて

 

けふも、ひねもす酒宴(ウタゲ)のみにてくれたり。

 

廿三日 天気(テケ)よければ出たつ人々をこゝに別れて、我(オノレ)ひとり止りて、此あたりのふるきところ/″\見てむといへば、なほ、いつまでもありてなンど懇’ネモゴロ)にいへり。

廿四日 廿五日 雪ふれゝば出たゝず。

あるじの翁ノいへらく、いつも花の内は雪のふれるもの也といへり。

十五日の削花、また皮木(クロギ)の稗穂(ヒエボ)、削木(アカギ)の粟穂(アワボ)、また麻(アサ)からなンどを庭の雪に正月(ムツキ)尽(ミソカ)まで餝(カザリ)立れば、しか、花のうちとはいへるなり。

 

廿六日 空晴て長閑也。

けふなむ達谷村(平泉町)にいたりて山王の窟見んとて、千葉某あないして深雪(ミユキ)ふみしだき、かついたりぬ。

いと/\高き窟(イハヤド)の内に堂を作り掛(カケ)たり。

よこたふ梯(ハシゴ)はる/″\と登れば内間ひろげ也。

真鏡山西光寺とて坂上ノ将軍田村麿の建立にて、百八体の毘沙門天を安置(スヱマツリ)、鞍馬寺を摹(ウツ)したる処といへり。

そのいにしへ赤頭(アカガシラ)、達谷(タカヤ)などいふもの此窟(イハヤド)に籠(コモレ)るを、此君うち平(ムケ)給ひしといふ。

大なる円相(マロガタ)の裡(ウチ)にさゝやかなる田村将軍ノ霊像(ミガタ)をすゑまつる、そが右の方には、もろこしの軍扇をもたまへり。

正月二日(イニシフツカ)の夜は手火炬(タヒマツ)を投合(ナゲアハ)ふ祭あれば、板鋪、柱みな燋(コゲ)たり。

此むつきの二日の火祭を追儺(オニヤライ)といふ、そのため、しか、ところどころむかしより焦(ヤカエ)たりといへり。

百体八軀(モゝマリヤハシラ)の毘沙門天王も、としふりこぼれて、今、はつかばかり残れるをすり(修理)して十体(トハシラ)ばかりたてる也。

蛇歯(ヲロチノハ)、鬼(オニ)ノ牙(キバ)などの宝物(ミタカラ)あり、中尊寺に見しものにひとしかりき。

梯子(ハシゴ)下(オリ)来(キ)ぬ。

五尺(イツサカ)ばかり高く、鼻垂(ハナタレ)大仏とて岩面(イハヅラ)に刻たり。

こは源義家将軍弓の上彇(ウハハズ)もて彫(カキ)給ふよし、某(ナニ)仏(ホトケ)の頭(ミグシ)にやといへり。

姫待が滝といふあり、また、かづら石といふあり。

此滝のもとに達谷(タカヤ)麿身を潜(ヒソメ)て、女の来るを捕(ト)りて家面蔓(カヅラ)もてつなぎ、この岩に縛(ユハエ)おきたるよし。

また、葉室中納言某ノ卿の御娘をも捕りしものがたりあり。

此処(コゝ)に九葉の楓(モミヂ)とて尖(トガリ)九ツありて、秋はことにやよけむ楓樹(カへデ)ありとて、やゝ日影に解(トケ)わたる雪かき分て朽葉拾ふ。

また崩山(クヅレヤマ)といひ五郎櫃(ゴロビツ)森ともいふ山あり、いかなるよしの名なるにや、知るてふ人もなし。

五串(イツクシ)の滝なンど見べき処いと/\多かれど、雪消(ケ)なばふたゝびとて千葉の家に帰る。

 

 

 

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