羊のことば

小さく小さく

怒り

なにをそんなに怒っているんだ。

都会にいて荒んでしまったのか。

なにに急かされなにに焦っている。

イムリミットが迫っているのか。

 

なにを示せば満足か。

それができていないのはなぜか。

実行すればよいのに、それを行うのを引き留めているものはなにか。

 

その意識だ。

金銭価値でしか世界を量れなくなるのが、大かっこおとなになることの弊害だ。

お金を価値と等価にみてはいけない。

その意識を破壊せよ。

その意識によって押し止められていることが、心を失うようにさせている。

どうしてその意識の方に向くようになったのか。

 

人並みをいまいましい心持ちで認める。

その心理状態が異常を顕に示している。

足りていないこと、心的飢餓が、余裕を失わせる。

それは居場所の欠如と故郷の喪失に由来する。

 

その欠如が金銭価値に心を向かわせるのだ。

畢竟、自分を知らない状態が、自分を見失う状況へ至るようにさせる。

それは絵に描いたユートピアを鑑賞し、その世界に生きる人々に嫉妬するようなものだ。

金銭の価値はあらゆる次元を一次元に貶める価値基準なのだから。

 

お金は最後に行き着く価値で、お金から価値が興ることはない。

怒りはお金の扱いを過ったことによって、行き着いた心境だ。

そしてそれは居場所のないことが原因だ。

どうしようもない弱さ


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一人の脳みそは小さく脆弱だ。

すぐに情報で飽和状態になり、大切なものさえいくつも取りこぼす。

それで良いのだろうか?

心のない人生はなにだって構わないのだとどこかで覚ったことをなぜ忘れてしまえるのか。

泣いても仕方がない。

心は泣いているか?

失いそうな心は心に泣いているのか?

どうすれば人は人をやめないでいられるだろうか。

大切な約束などを忘れるというのは人を失っている兆候だ。証拠かもしれない。

誰かの気持ちを取りこぼしているんだ。

誰かの切なる気持ちをないがしろにする行為なのだ。

自分一人のためでは問題にはならないが、誰かを損なう結果を伴うことがゆゆしきことなんだ。

心を失っている。それもずいぶん以前から。

それは生きるに価しない生の没落だ。

 

どうすれば取り戻せるのかという話ではない。

その状態に持っていっている自分が下した決断の責任を追求しているのだ。

「お前が生をないがしろにしたのはいったいどういう了見だ」と問われている。

それは明白な歴史問題なのだ。

「お前はこの先同じことを繰り返すのだろう。だとしたらそれは価しない生を肯定する悪行を続行することと同義だ」と糾弾される。

それは死を幾界も超えて恐ろしい罪と、罰だ。

本当にその事が一番恐ろしいのだ。心を失うことこそが。そして、心を失うことが恐ろしいのだという知恵を忘れることが。

取り返しのつかないことをしているという厳然たる事実を突きつけられて、恐れおおのいても歴史は変わらない。

そこには罰がある。償わなければならない罪がある。

どんなにどんなに取り繕ったところでそれはすぐ隣にある。目をそらしたとしても、心がそれを記録し続けている。全て勘定して、そしてその債務の明細を一度に突きつける準備はいつでもできている。

 

なにをして過ごそうか。

何一つ許されることはない。

自分の心が許さないだろう。

このままでいることを容認するか、決起して心に奉仕するか、二つに一つしかない。

さらに悪くなることができる。だとしたら、ただひたすら透明になっていくばかりだ。ゆっくりと石になっていくのと同じだ。

どうやって変わればいいだろう?

誓約をするのを急いでも、それは反古にすることを約束している行為に等しい。

自分の心に必要なのは印字された条項なんかではない。それを作成したところで、契約は破り去ることができることを説明しているにすぎない。

計画は常に頓挫する。

どうして心から目をそらすようになったのかを明らかにするんだ。なぜなら一度は心を失うことの恐ろしさを知っていたのだから。

その知恵を忘れさせた、自分の内部の働きをつまびらかにするんだ。

それを憎み、敵視し、生涯に渡りそれと対決する歴史を紡げ。

この内的命令、召命と言い換えてもいい、それがなぜ発令されたのかを小さく脆弱な脳みそを振り絞って考えることだ。

それが贖罪だろう。

世界が存在しないことの様式


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世界は存在しないというのは分かった。世界が全ての意味の場についての意味の場であるという定義の下であれば。しかし、我々が世界を呼ぶ仕方は、そのもとで全ての意味が起こるということを第一義としているのではないとを今一度思い直してみよう。

 

世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である。(『なぜ世界は存在しないのか』、講談社選書メチエ、109頁)

 

世界は何より、そこに私が投げ出されて、私が対峙しなければならない現実として、まず私は経験するだろう。そこにおいて全ての現象が意味として浮かび上がる場所、ではなく、そこは本質として私を含まない、私を除く全てが現れる場所である。

 

世界はその点では、私の視野に等しい。私の五感、私の窓だ。世界とは窓だ。であるので、世界は私に現れる意味の場とはならない以上、世界が存在しないという構成上の理屈は実際成り立たない議論もできるが、ここではそこを深く追求するのは止めよう。今は世界が私にとって投げ込まれている当の場所であり、そこから私の内には無い意味が私に到来する(あるいは私が意味に晒される)場所ではあるが、私自身を産み出し、養育し、私を生きるようにさせた母体(コーラ)ではないということを言うに留めておこう。

 

マルクス・ガブリエルが存在の成立をそれ自身の論理的構造から否定する世界は、従って、限定的な使われ方の世界に限られる。そこにおいて全てが説明されるはずのXが想定されることを否定しているのだ。科学それ自体はガブリエルも是とするものであり、科学的知をすべての存在の「根源」と信じる主義主張に異を唱えているだけなのだ。ガブリエルはそれを偶像崇拝と同じフェティシズムによるものと説明する。

 

定義を違えればそもそも論が成り立たなくなるのは当然のことであり、あまりこの角度から追求してもフェアなやり方とは思えないので、世界の存在様式について述べるに当たり、全体主義的な言説に陥らないよう注意しながら論を進めるように努めることにしよう。

 

さてここで、世界ではなくでは何が私に意味をもたらすのかを問うならば、それは先程も言及したように「到来」によって、もしくは世界からの「出会い」において、と答える。意味がその偶発的に観測される「事件」とするところにそれが起きる場所である世界の意味からの疎外を確認することができる。

 

意味の場を再定義する。ガブリエルは存在は「常に意味の場において存在する」としている。私もその通りであると思うとともに、その意味の場は私と所与の「到来するもの」と出会うところにのみ成立する、と考える。意味の場とはここではデリダの引用するティマイオスの「コーラ」ということになる。そしてそれは常に存在の背後に退きつつも、存在「前」には存在を予期し、用意し、待望し、存在の現前とともに背景へと退くことを本質とする。

 

コーラとしての意味の場は、意味の場における意味の場ということをこそ成立させないものだ。すなわちコーラにおけるコーラというのはありえないのだ。意味の場はそのうちに現れるものの到来とともに消散してしまうからだ。コーラとは、語りえないものの類なのだ。

 

存在はあるコンテキストに「おいて」の他に存在することはない。というのは鋭い指摘だ。存在と場所は不可分な関係だ、そして、その「おいて」には存在という語に親しい程に一般的な概念として「場所」なるものが対応する。その場所こそが、意味の場なのだ。

 

世界は外なる対象だ。私の目を窓枠にした外の景色だ。世界はおそらく射影的なもので、現象から世界へは一方通行に投影する一方、世界の側から現象を復元することはできない。それはあくまで次元を減少させた影のようなものに過ぎない。それならば、世界のなかで世界を対象に取るようなことも可能ではないか。世界はプラトンの洞窟の壁に過ぎないのであれば。

 

世界は、世界のなかに現れてはこない。(同、110頁。)

 

意味の場とはそれでは一つの神ではないかという指摘について応答しなければならない。神は彼方のあなたとしてある。

 

存在の四つの様式というモデルを導入する。ここでモデルは世界像ではなくあくまで仮説的な試みの範疇を出ないことを断っておく。この、存在の様式は一般に存在というのとは異なっている。存在の様式は率直な言い方をすれば「ある、というこの感じ」だ。

 

私―世界―あなた―神

の四つを私にとって現に存在する四つの実体とする。私の窓から見える事柄の四種類の現れ方とも言い換えられる。これまでの、世界は存在しないという文脈での存在は、この四つのうち、「世界」に属する。それはただ在るという仕方の存在だ。物的であり、在るか無いかが問題とされる。

 

一方「あなた」はその物的な存在のあり方とは異なり、在るか無いかという問題範囲に収まることはない。たとえ「あなた」は実は存在しないのだとしても、それでではもうお終い、さようなら、という態度をとることはできない。その者はたしかに私に影響を与えたし、これからも私の亡霊であり続ける可能性がある。「実は存在しなかった」という事柄の真偽の価値の質が、「世界」に属する物に対するのとは決定的に異なり、その事態はそのまま私にとっての語りかけ(メッセージ)として受け取られる。「世界」における非存在は私にとってなんの関わりもないが、「あなた」の不在は、もう私に関わってしまったものの欠落という経験であることになる。

 

「神」はその向こう側だ。私ともはや無関係ではない窓の外との約束、また、契約の象徴的語法だ。世界は、日常会話的に私に対峙するものとして語られる場合、「神」に属するものかもしれない。「神」はもちろん神として語られるものであるし、運命や人権と呼ばれることもある。それは私自身をこの現実に「相応しくする」約束と私が信じるものなのだ。

 

「私」は私が、私のことだと感じるもののことである。全てはここへと立ち戻ることによって、私にとっての意味となる。

 

宗教の特質は私が自分自身に対し隔たっていることにその本質があるというのがガブリエルの表現だ。そして、これは「神」を「私」に見出すことが大切なのだということと解釈できる。

 

神とは、どんなものも――たとえわたしたちの理解力を超えていようとも――けっして無意味ではないという理念にほかなりません。(同、220頁。)

 

キルケゴールの定義によれば、「神」とは「すべてが可能である」という事実のことだからです。(同、235頁。)

 

芸術においては、退くものとしての背景の気付かせを近代芸術は明確に企図していることをガブリエルは伝えている。

 

対象は、そのようにしてわたしたちと世界とのあいだに立ち、自らの身をもって自らの意味の場を覆い隠すとともに、世界それ自体は存在しないという決定的な事情をも覆い隠しています。(同、267頁〜268頁。)

 

結局の所、いっさいのものは何らかの背景の前に歩み出ていますが、当の背景がそれ自体として前に歩み出ることはありません。たとえばマレーヴィチの作品を出発点とする思考の歩みを自らたどってみれば、このことに気づき、世界は存在しないことがわかります。いっさいのものがその前に歩み出ているような究極の背景それ自体などというものは存在しません。(同、268頁。)

 

意味の場が何者をも存在することを受け入れる揺りかごであるのはやはり「神」のようであるが、その形而上学的性質の非形而上学的遺失によって、意味の場は形而上学であることを免れている。

 

意味の場は上述の四つのカテゴリのいずれにも属さない、というのは意味の場であるコーラは私の窓そのものであるからだ。つまり存在の到来を待ち望む額縁、用意されているのは絵ではなく額縁、そこにおいて絵画はまっさらな状態から描かれるのだという当の舞台。絵画は我々はそれが白紙から描かれたというその事実性に価値を見出すのだ。

 

ガブリエルの言う主観的パースペクティヴィズムでもなく客観的パースペクティヴィズムでもない「存在論的な事実としてのパースペクティヴィズム」は、この地平を指していると考えることもできる。つまり、人は自分の持つ窓からしか《世界》を眺め渡すことができないという有限性とその後の地平を。

 

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』は全体主義の萌芽的心象とすら決定的に決別する書だった。そうであることに疑いの余地はない。しかし私個人としてはこの四つのカテゴリにおける意味の場すなわちコーラの位置づけを見出だせたことが最も大きい収穫だった。

 

思弁的実在論の旗手メイヤスーの『有限性の後で』にせよ、新しい実在論ホープ・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』にせよ、彼ら新しい時代が声高に呼びかけているのは、どの信念信仰も等しく実在可能的であること、そして唯一つあるいは有限数の真に実在する実体のみ可能であるという主義主張を排除すべきであるということだ。

 

そこから語り始められる哲学とはなんだろうか。

私にとっての外部である世界から意味がどのように私に訪れるか。この《私》として何が大切であるかは未だ明らかにはされておらず、この地平の先にある予感を抱く。

有限性の後での後で

カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』(人文書院)を半年くらいかけて読了した。

哲学史を時代として求められている科学哲学に引き継がせるための基礎研究的側面があった。

次回への課題は数学の絶対性と安定性を存在的および存在論的に(もちろん事実論的原因から)証明する、ということで、それを早く読みたい気持ちだ。

一番の見所として、副題にも示されているように〈偶然性〉こそが必然的かつ絶対的で、それ以外はそうではないということを明らかにする展開が非常にスリリングで、読み物としても楽しめた。

非常に雄弁で、時に詩的にもなる文体は半年も私を惹きつけて止むことはなかった。

しかし、難解は難解で、私では半年かけてやっと一周を終わらせることができる程には思考力を伴う読書だった。

この書自体は、情熱的に強い動機のもと書かれたのだろうことは一目瞭然で、それは科学への思考を哲学として行うにはあまりにも乖離した、カント由来の非接触主義的現代哲学思潮を打破したいという、〈喫緊の課題〉の解決を望むべく練られていた。

若干辟易するのはその思いの強さゆえの性急さだろうか。

ただ確かなのは、カントから現代へ続く思潮を相関主義と呼び、それがもたらした哲学の科学に対する冷めた視座への批判の精確さ鋭敏さには驚嘆の色を隠せないということだ。

恐ろしく秀逸な時代的書物だ。

2006年に著されたこの書物はもう古典だというのに、それ以後大学生だった私の耳にはついぞ聞こえてこなかったのは、この素晴らしい訳書がおこされたのが2016年になってからだったのだ。 その頃にはもう社会人だった。

仕方のないこととはいえ、なんとなく悔やまれる。

私にとって、いま、『有限性の後で』の意義とは、必ずしもメイヤスーの筋書きに完全に沿うものではない。 おそらくカント批判にこそこの書物の歴史に対して与える影響の真髄はある、と見ている。 それというのは、相関主義のスキャンダルの暴露からの絶対性の復権への道筋を勇敢にも示したことだ。

勇敢にもというのは現代のこの哲学者を茶化す意味合いでも、無条件に崇拝する意味合いでもなく、後追う者に哲学をする勇気を与えたという意味だ。

相関主義のスキャンダルとは、絶対主義的主張への否定にはまず必ず(およそ必然的に)その絶対性を思考しアクセスせずには、その必然性の否定の活動を行えないということだ。 すなわち相関主義は絶対性を思考でき、かつそのどれもが必然的でないことを知っている。 それは偶然性(非必然の知)の絶対性を認めなければ成り立たないとまで言い切る。(p.96より)

絶妙で繊細な議論だ。

もう一度この書物を読むだろう。 その時に簡単な形式化をしてみたいと思う。

人間

人間が<究極には無意味でない>地平が、人間個人には無く、誰も持ち得ることがない<人間の総体>にあるのかという疑問が解消されないでいる。

 

何者か秀でた者達のみが<人間の総体>的になし得た偉業に携わることができ、そうでない一般の消費者には、その層を支える経済に参画する権利と、そこから産み出された産物を観賞、享受する意味しかないとすれば、<人間の意味>とはなんだろうか?

 

特定の一部層のみが本質的に意味を為し得、それ以外の者達が全て代替可能の物でしかないのだとすれば、あまりに浅はかで救われない人間という存在だ。

 

だから、二つの主張を戦わせたい。

少数の能ある者のための<人間の総体>なのか、それとも一つ一つの淘汰され得る個体にも十全な意味が宿るのか。

 

そして、<人間の総体>と生というものがまさに生ききられる場所としての<個>が存在と意味にどう関わってくるのか。

ITが私達にもたらしたものAI

私達にITがもたらした価値を位置づけるとこうだと思う。

時間、速さ、体験、能力

そして、ITがもたらすものそのものはこうだと思う。

  • Automation
  • Remote Comunication
  • Simulation

人の手を離れての人の代わりをするであり、 人をいついかなる時でもつなぐであり、 過去から寄せ集まったもので未来に近似するものを導き出す粘土

それで必要十分なのかなと思う。

人間がこのITに求め、それ以外をITに求めないその価値とは、 時間と能力だ。

ITは人一人の肉体由来のスピードの限界とスタミナの限界を凌駕していくものだ。

ITはこれまでのあらゆる技術に関わり、既存のそれらを限りなく増幅していく。

  • Extended
  • Amplified

それが、ITの技術に対しての特質だ。

そして、いずれ、ITは私達をここへと誘っていくだろう。

  • Virtual

仮想的であることはこれからどんどん加速していく。 そうでないような未来はきっとありえない。

  • AI

私達はついに出会うことになるのだろう。 ITに対して、出会うということがあるとしたらきっと、AIにということの他無いのだから。

これらのキーワードを忘れないように書き留めておきたい。

書く行為

映像との対比において、文章はその芸術的役割を終えたのか。

 

相対的に、文章は思想的意図を伝える担いが増したとは思う。

 

すなわち、それぞれの表象手段が、その役割の範囲をより一層狭め、モジュール化している、そのような時代にあると思う。

 

この考えは、当時セミプロの女流詩人が、「映画はもう文学を越えている」と語った8年前からずっと、心の片隅に網を張っている。

 

映像技術の躍進により、映画で表される表現と迫力・美は文学と並ぶ手前にある臨界点をとうに突破したのだろう。