Art・Philosophy・Regionality

大阪から岡山に移住して10年の管理人によるブログ。哲学対話、地域の文化・芸術に関することをアップしていきます。

当たり前のように、「担当変わるから」と・・・

今日の会社での出来事。

 

ミーティング中、上司から当然のように「〇〇さんがいなくなるから、別の●●さんにリーダーになってもらうけど、いいよね」と他メンバーの前で言われて。

その場では、他の人の手前もあって「はい、いいです」と答えたけど・・・。

すっごくモヤモヤ。

これまで色々工夫して頑張ってきたのは何??

そして、妊娠っていけないことなの? 当然のように他の人にポスト奪われるものなの??

そりゃ、いなくなる分誰かにフォローしてもらわないといけないし、それはわかっていて私も引き継ぎなどできるだけのことはするつもり。

だけど、もうちょっと言い方があるやろ、上司。

私も物分かり良く「わかりました」なんて返事するんじゃなかった。

夜になって、モヤモヤが大きくなってきてなんだか腹も立つし情けなくもなった。

このモヤモヤはなんなのか、もう少し考えたい。

 

「できない」を「できる」に変換してみる

妊娠してからというものの、日々、「できない」が増えていく気がする。例えば・・・

 

■妊娠してできなくなったこと

・1時間以上集中してPCに向かうことと残業(目がチカチカして頭痛と吐き気がしてくる)

・出張

・旅行

・遠方での勉強会・研修参加(インプットがあまりできない)

・運動

・妊娠していない時と同じスピードで歩くこと

・お酒が飲めない(これから泡の美味しい季節なのに・・・!)

・パテ&生ハム&チーズ食べれない(嗚呼・・・)

・掃除→洗濯→料理 の家事マラソン(これまで一気にやってたけど、今は一つ一つやることも億劫に)

・夜更かし

・・・

 

このほかにもあげたらキリが無さそうだけど、「できない」結果、「できる」ようになったことを考えてみるとどうだろう。

 

 

■妊娠してできるようになったこと

・ゆっくり、ぼちぼち、のペースで仕事をこなす(少しやってちょっと休憩、するとふっと何かを思いつくことも!)

・ゆったりと歩く(子どもやお年寄りと同じペースで歩いてると、歩きながらスマホや猛スピード自転車の怖さが身に染みるし、今まで気づかなかった素敵な風景に出会えることが多くなった)

ハーブティーやお茶の美味しさをしみじみ味わう

・お米の美味しさに気づく(梅干しおにぎりはソウルフードや〜!)

・夫のありがたみに気づく(ご飯作れなくても文句言わない。休日に家事をやってくれる。)

・早寝早起き

 

・・・一番は、「ああ、妊娠・出産したあの先輩は、こんな思いをしてたんだな」と今更ながら思い知ったこと。当時の私、何もわかってなかったな・・・あの先輩に対してもっとできたことがあったはず、と後悔。

そして、出産経験があるor妊娠を応援してくれる女性の先輩・子育て中の男性の先輩のサポートのなんとありがたいこと。周囲への感謝の気持ちをずっと忘れないようにしたい。そして、無事に出産できた暁には、この経験を何かの形でお返ししたい。

 

目下の課題、できるようになりたいことは、

・「やらないといけない」の領域を見直すこと

・体調が悪くて耐えられない時は、我慢せずに声をあげること

 

 

身体の変化は自分が変わるチャンスでもある。

「できない」ことは割り切って、「できない」を「できる」に変換して、少しずつ、少しずつ、「できる」を増やしていきたいな。

 

妊娠発覚! そして「できない自分」と向き合う

3月1日、転職先への入社日と同時に発覚した妊娠。

「なんとかなるやろ」という楽観と、「自分の体と心がどうなるのかわからない」という不安とで葛藤の日々。

これまでは当たり前にできていたことも、集中力が低下してプロセスが抜け落ちたり、パフォーマンスが落ちたり。「こんなの自分じゃない」と落ち込むことも沢山あるけれど、こうして文章にすることで、そんな「できない自分」と折り合いをつけて行ければ。

 

そして、特に今は「外から見ると普通と変わらない」からこそ、電車やバスなどの公共空間でしんどい思いをすることも。

だけど、特に人気のある飲食店ではお店の人から席を指定されることもしばしば。硬い木の椅子だと冷えるし、腰にくるんですよね・・・ソファー席がいいんだけど・・・だけど「他の人に迷惑かな」とかいろんな遠慮や葛藤があって、ちょっと言い出しにくいんですよね。

しんどい時は、自分から声を上げられるようにならないと。命を預かっているんだから。それはわかっていても、いざそういう場面になると、なかなか言い出せないんです。どうしてなんだろう。

かといって、他者の善意をあてにするのはちょっと違う気がする。押しつけられるものでもないし。「自分は今弱くて、困っていて、だから助けてください」と自分から言えるようになりたいのです。

 

【哲学カフェ】レポート「安心って、なに?」

9月18日(月・祝)14時〜16時、岡山大学まちなかキャンパス 城下ステーションにて、哲学カフェを開きました。テーマは「安心って、なに?」

今回初めて進行役をさせていただくにあたり、当初、私のこれまでの仕事や興味・関心から「教育」に関するテーマを考えていましたが、全く違うテーマを選びました。ここ最近、身の回りで、期せずして自分や相手が不安になってしまう/させてしまうような出来事が相次いだことから、ぜひ、「安心」について考えてみたいと思ったのです。

台風が過ぎ去った爽やかな青空のもと、女性7名、男性4名合計11名の方が参加してくださいました。

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対話の冒頭、「どんなときが“安心”と思えますか?」と伺ったところ、

「1日を無事に終えられたとき。失敗して怒られないのが安心。」

「世間で不安なことばかり起こるので、自分で安心と思えることは少ない。不安でない状態が安心。自分はなく外部によって安心かどうかが決まる。」

「普段は安心できる場所でも、一緒に過ごす人との関係性によって、安心できない場所にもなりうる。」

などの声が少しずつ出てくる中で、思考の絡み合いのきっかけとなったのが、車椅子で参加されていた女性の発言でした。

「私はこの通りできないことが多いけれど、何ができなくてどういうことをして欲しいかを理解し、助けてくれる人が側にいると安心。」

すると、ある一人の参加者の方から、岡山市が発行している「ヘルプカード」の紹介があり、それに対して参加者の方から様々な反応がありました。

「こういうカードを持っていないと助けてもらえない世の中って、ちょっと怖い。将来的には差別に繋がるのでは。」「カードを持っていないから助けてもらえない自己責任に問われることも起こり得る。」という懸念が出る中、

「いやいや、自分から助けて欲しいと言えない人にとってはこういうカードは有難い。周囲の人にとっても、この人は助けが必要なのだと判断でき、関わり方を変えられるので、安心に繋がるのでは」

と、ここから自助・互助論へ展開しました。

 

「自分の能力を高めて自分でできる範囲を保つことが安心だが、自分の能力の限界を超える部分はいつでも他の人の力を借りられると保証されていたら安心。必要な時にお願いできる人との関係性があるのが安心」という関係性についての意見も出る中で、ユニバーサル・デザイン(以下UD)が論点になりました。

「日本ではUDを推進しているけれど、そもそも欧米では、あえて不自由さを残し、人の手を借りることを前提にしている。日本では、自立することを目的にしているが、海外では助け合うことが当たり前なのでは。」

「UDとはいうけれど、実は誰にとってもUDというものはないのではないか。例えば、目の不自由な人が歩きやすい道が他の障害を持った人にとっても歩きやすいとは限らない。」といったインクルーシブ教育にも繋がる視点が展開されました。

さらに、「自分が体験していないから共感が足りない」という若い女性の発言がきっかけで、「体験」や「共感」は、助け合いに必要かどうかの議論に。

「何かをされるときに、いちいち共感されると重たく感じる」

「間違った共感のされ方もある。自分とは異なるのに相手の経験からそうと決めつけられると、傷ついてしまう」

「 “体験・共感・助ける“は、別々。同じ体験をしても共感できないこともあるし、共感しても、助ける行動を取らない場合もある」という行動論に発展します。

そして、「自分から助けを求めたり、手助けしましょうかと声をかけたりできないのは、SNSやwebサイトからの情報に頼って受け身になり、対人コミュニケーション力が低下したから」というテクノロジーの発達による弊害のご指摘があり、そこから、「電車やバスで席を譲りましょうかと提案したけれど、断られて気まずい思いをした。それ以降、声をかけづらくなった。」「手助けが必要かどうかはその人により、ケースバイケースなので、周囲にとっては判断が難しい。周りの人が不安になる。」という流れで、最初に話題になった「ヘルプカード」ってなに?という疑問に繋がります。

「ヘルプカードって、“お守り”みたいなものかも」

「お守りってなんだろう。なぜそれを持つことで安心するのだろう」

「持つことで、外部から自分を守れる?」

「それって安心じゃなくて、油断しているのかも」

などなど意見が出る中で、進行役の私は、モヤモヤし始めました。

そのモヤモヤを、実体験をもとにぶつけさせていただくと、私がとても気になっているのは「安心」そのものではなく、何度か話題にも出てきた「安心できる関係性」であることがわかりました。

そこで、「安心できる関係性」について残り20分で深めていくことになりました。

「相手にとってここまで踏み込んでも大丈夫だろうと思っても違うことがある。」

「同じ相手でも、時と場合によって許容範囲が異なるから難しい。」

「傷つかないためには自分をさらけ出さないでおくべきだが、親子や夫婦のように、自分をさらけ出すことによって始まるとされる関係もある。」

「安心できる関係性とは、何かしらの共通点があることが条件かもしれないが、逆に“互いに同じ“だと思っていると、本来違う点があるのにそれが理解できないこともある。同じだと思うことは、油断なのかも」

「相手によって適切な距離感を保つことで安心を得られるが、相手にとっては縁を切るということも関係性の一つの選択肢としてありうる。」

などなど、ラスト20分間でかくや、と驚く様々な視点が出てきました。

私にとっては、最後の、たとえ親子であっても縁を切るということが選択肢としてありうる、という意見が印象に残りました。自分にとっての安心を優先すると、相手を不安にさせたり傷つけてしまったりすることもあるかもしれませんが、その後の関係性に救いはあるのでしょうか。もう少し時間があれば、このあたりについても皆さんと深めたかったですが、今回は時間切れでお開きとなりました。

初めての進行役で課題もあり、参加者の方々にとって物足りないと思う点も多々あったかと思いますが、それでも、何か心に残った言葉や気づき、新たな問いを持ち帰っていただければとても嬉しいです。 

ご参加くださった皆様、本当にありがとうございました。

また岡山のどこかで、哲学カフェをご一緒できれば嬉しいです。

【哲学カフェ】レポート「社会って、なに?」

2018年2月18日(日)13:30〜15:30、岡山大学 城下ステーションにて、哲学カフェを開きました。テーマは、「社会って、なに?」

 

岡山大学城下ステーションは、3月末で閉じられます。

私が最初にここに来たのは5年前、まだ教育系出版社にいた頃に知り合った岡山大学の職員に誘われて参加した「岡山大学若手職員塾」。

それから転職して岡大職員として大学に携わり、ポートランドで街の仕掛け人に会い、岡山の文化事業に携わり・・・紆余曲折を経て、一市民として、こうして哲学カフェをさせていただいたことに感謝します。

 

まちなかで、こうした、誰もが対等に、平等に議論ができる場が普通にある状態をめざしたいという願いで始めた哲学カフェの進行役。

 

今回は、県外から来られた方や大学生、元高校教諭やNPO職員、看護師・保健師など、多様なバックグラウンドを持つ18名の参加者。

哲学カフェが初めてという方が半分近くで、どんな議論ができるのか、ワクワクした雰囲気の中、始まりました。

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対話の冒頭、「社会」についてどんな風に感じているかを伺ったところ、ある参加者から、「障害者も、健常者も平等に生きていける社会ってどんな社会なのだろう」、という発言があり、「社会とは、守らなければならない約束やルールを共有している状態ではないか」という仮説が提示されました。

 

そこから、「ルールを持つという点では、猿などの動物も同じで、社会は人だけのものではないはず」、という意見が出ましたが、自ら社会と認識できているかが重要、という認識論の観点で検証し、一旦、人間のものとして議論が進みます。

 

次に、社会の成立条件について話し合われました。

「人が二人以上いると社会が生まれる」

「電車の中も社会。会話の有無や関係性に限らず、安心してそこにいられるかどうか」

「ルールや価値観、目的を共有している単位が、社会と言える」

などの意見が出る中、「人はいつから社会にいるのか」という話題になり、「それは生まれた瞬間から死ぬまでだ」「いや、胎内にいる時からではないか」「むしろ、細胞レベルから宇宙まで、社会と言えるのでは」など、社会には空間・時間軸で様々な広がりがありそうだということが共有できてきました。

 

社会がそういった広がりのあるものなら「社会人になる」とはどういうことなのか。大学生の参加者から疑問の声が上がりました。

「学生と社会人の違いってなに? 責任の違いだけ?」

「”18歳選挙権”に戸惑う。社会人じゃないはずの学生が、社会のことを決めるよう求められるのに違和感を持つ。」

「大学にいると、社会に出ていないことを弱点のように言われて苛立ちを感じる。“社会人”という言葉には、そうでない人を追い出す意図のようなものを感じてしまう。」

といった意見が出て来ました。

 

また、「いわゆるコミュニティ的な意味合いでの『社会』と、労働社会・経済社会などの『社会』との違いは何か」

という論点が出、社会はどうやら複数あり、それらが多層的に存在していそうだと参加者の間でイメージできてきました。

 

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そんな中、「子育て中のお母さんが『社会と繋がれていない』と不安になる気持ちに共感するのはどうしてだろう」という声があり、ある特定の社会と繋がれていないと不安になってしまうことについて考えてみました。

「社会は複数あって、私たちはそのいずれにも自由に参加できるはず。しかし、世の中は、社会に成果を求め、生産性などわかりやすい指標で優先順位をつけている。だから、本来とても濃密な関係性を持つ社会であるはずの母と子であっても、不安になってしまうのでは」

「1対1の親密な関係は、立派な社会。だから、不安になっているお母さんを元気づけたい。」

「人は、それぞれの社会観を自由に持てる。他者の社会観を押し付けられるべきではないのでは」といった社会観へ展開しました。

 

さらに、「より良い社会の実現のために政治や権力はどこまで必要か」

「社会とコミュニティとはどう違うのか」

「安心できる社会の実現のため、私たちの意識や姿勢として、共感してもらうのではなく、理解してもらうこと、説得しようとしないこと。また、”追い出さない”ことが重要なのでは。」

などの議論に発展していき、2時間があっという間に過ぎてしまいました。

 

「社会」という一つのキーワードで、これだけ多くの論点が生まれたことに驚きました。

個人的には、以前教材企画のためヒアリングした高校生から言われた、「社会って聞くと、遠い感じがする。自分事に思えないのに、"きみは社会にどう貢献するのか”って聞かれるのは戸惑う」という言葉が心に突き刺さったままだったので、今回、その理由がわかった気がします。

私たちは多様な社会に属していますが、それらは、特定の社会に疎外されがちだということ。あの高校生達は、そうした”押し付け”を敏感に感じ取り、無意識的に拒否していたのかもしれません。

 「自由でいる」ことと「追い出さない」こと。「理解する」ことと「受け入れる」こと。 「私と社会」を考えるとき、そうしたことを意識してみたい、と、今は思います。

(写真撮影:鉤流佳典)

 

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「哲学カフェ」とは

1992年、パリの街角のカフェで生まれ、日本では1999年から始まった、年齢・性別・職業・経験・社会的立場など、あらゆる違いを超え、誰もが平等に話し合う場。 「お金があったら幸せ?」「平等って何?」「人生に恋愛は必要か?」など、私たちの暮らしに関わるテーマについて、飲み物片手にみんなで話し合い、結論を出すのではなく対話そのものを楽しみながら、共に考えます。

 

 

【アート】Hiroshima Art Document 2017

不思議な、展示でした。

 

会場に入ってまず目に飛び込んできたのは、壁一面のQRコード

それらは、Buiper Wareの映像作品群。

他の展示でよくある「見てみて、体験してみて!」というフレンドリーさはほとんどなく、ビジターは自ら能動的にQR-コードを読み込んで一つ一つ再生しなければ、映像を見ることができません。携帯を持ってない人はどうするんだろう?という懸念はさておき、まずこのビジュアルが独特で、猟奇的な感すらありました。

いちいちスマホで読み込むことにちょっと辟易しながら、それでも、その行為を結構楽しめた自分がいました。データ通信容量がすぐいっぱいになりそうだし、面倒くさくなってきたので、途中で再生するのを諦めてしまったけれど。

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地下におり、金庫室を通り過ぎると、小さな赤いランプで照らされた小部屋に行き当たります。

最初、薄暗くて何があるのかよく見えなかったのだけれど、目が慣れてくると、原爆の火の玉と、熱風にやられた人々が横たわる絵。ドミニク・パスカリーニの『巨大 火の玉』《Great Ball of Fire》という作品です。

折しも隣の金庫室では、エノラゲイから空撮された原爆投下の瞬間や、被爆直後の広島市街写真、熱風で変形したガラスや瓦などが展示されており、具体的なそれらの資料よりも、シンプルな装置と絵で構成されたこの作品から却って、爆発の下での人々の苦しみや土地に焼き付けられた凄惨な記憶が想起されました。

 

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会場を後にし、次の予定までの時間をつぶすために偶々入ったカフェで、偶然、原爆被爆者の方による語り部の会に遭遇しました。

間近で直接被爆体験をお聞きするのはこの時が初めてだったのですが、当時の状況を具に淡々と語られ、「今はこうして色々な人と出会えて平和を訴えられて幸せ」と笑うその方の笑顔の皺の奥深くには、言い尽くせない感情や痛みが隠されているように感じます。その場には外国人の参加者もいて、用意した英語の原稿で体験を語る被爆者の方もいらっしゃいました。最後は笑って記念撮影をピース姿で撮っていたけれど、原稿にならない、本当の感情や想いを、いつかお伺いしてみたい。

 

<Hiroshima Art Document 2017 概要>

会場 / 旧日本銀行広島支店

会期 / 2017年10月28日(土)〜11月8日(水)

開館時間 / 10時〜17時

入場無料

 

アーティスト /

ヴェロニク・ジュマール/ 仏

ヤングジェ・リー / 韓国、スウェーデン

ドミニク・パスカリーニ / 仏

N.E.T.(ジャン=フランソワ・ブランによる提案)/ 仏

Buiper Ware / 日本

 

主催 / Creative Union Hiroshima

共催 / 広島市

後援/ 広島県広島県教育委員会、Institut Francais Japon- Kyusyu、中国新聞社、

    NHK広島放送局

助成 / 芸術文化振興基金

協賛 / 三菱地所(株)

協力 / キヤノンマーケティングジャパン(株) 

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【哲学カフェ】「自分の人生は自分で選べる?」〜江田島ELCAP 哲学カフェ〜

江田島中町公民館で、ELCAP(Etajima×Local×Calture×Art×Philosophy)のメンバーが哲学カフェ※ をすると聞き、参加してきました〜!

 

今回のテーマは「自分の人生は自分で選べる?」

 

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対象は、江田島にお住いの20代〜60代の女性、9名。

 

ちょっと重いテーマで、どうなることかと少し不安でしたが、本質的で、じっくり考えたい「問い」がいくつも出てきました。

 

・小さなところでは選択できるが、大きなところでは選択できない

・「選択できる自由」って何?

・選択肢が多すぎたり、選択の基準がなかったりすると不自由。

・幸せ・いい人生ってどんなもの?

・「選択できる」というcanで語れるのはこの時代だから。本当は、法律や文化や時代背景に制限される。

・選び方やプロセスこそが大切。人生をかけて、自分にとっての「選ぶ基準」を探しているように思う。

・人生は洗濯(洗濯)物

 

リアルで具体的な人生経験に基づいた言葉の一つひとつが胸を打ちました。

机上の空論ではなく、生活を営む上で紡ぎ出される言葉には、力、色、重みを感じます。

 

松川さんの、参加者一人ひとりの言葉の背景を読み取る、「待つ」ことができる進行には毎度ながら感じ入ります。「多文化共生」や「社会的包摂」などといった概念を具現化するのは、結局、こうした一人一人の人間・市民の態度かと。

一市民として当たり前に、このような働きかけができるようになることが私の目標の一つです。

 

そして、今回が初めての江田島上陸!

美しい海・山・内海に囲まれた変化に富んだ地形に加え、 古くは海運の拠点であった港、今も自衛隊に活用されている旧海軍の官舎など、歴史・文化・産業等いくつもの軸や要素で編まれた島。今度、ゆっくり色々と巡りながら探索してみたいものです。

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※ 「哲学カフェ」とは

1992年、パリの街角のカフェで生まれ、日本では1999年から始まった、年齢・性別・職業・経験・社会的立場など、あらゆる違いを超え、誰もが平等に話し合う場。 「お金があったら幸せ?」「平等って何?」「人生に恋愛は必要か?」など、私たちの暮らしに関わるテーマについて、飲み物片手にみんなで話し合い、結論を出すのではなく対話そのものを楽しみながら、共に考えます。

 

【告知】

9月18日(月・祝)に、岡山大学 まちなかキャンパス 城下ステーションにて、「安心って、なに?」というテーマで哲学カフェの進行をさせていただきます。
初めての進行役ですが、参加者の皆さんから多様な意見を引き出せれば嬉しいです。

既に定員一杯でお申込みは締め切らせていただいておりますが、終了後レポートいたしますので、興味を持っていただけた方はそちらをご覧いただければ! 今後も定期的に岡山の街中で気軽に参加できる哲学カフェを開催したいと思っています。