あした
救い
せめてもの救い、避けては通れない壁。
今なら打ち明けられるという過去など、何の意味があるのだろう。
あのときあの女の子に出会わなければ、あのときあの音楽に出会っていれば。
ライブハウスの明かりはいつも肝心な場所を照らしてはくれないから、フロアーの端っこで天井ばかりを眺めているんだ。
先見の明があればね、だとか野郎どもは言う。そんなものどこを探したってありゃしない。ありゃしねえよ。
リズムに乗れないギタリストが、誰かのリフをパクって、気取って身体をそるのさ。ひどくうるさいんだ。耳をふさぎたいんだ。音楽が必要な世界で必要な音楽が鳴っていないのだから。
二の腕に歯型がついていた。誰かに噛まれたのか、自分で噛んだのか、覚えていない。でも、どっちだっていい。あのギタリストの家を燃やしてしまいたい。
炎の中に風景を描くんだ。僕はあの子の唇に触れて、あの子は僕の想い出に触れて、触れなくて、触れたような気がして、もう一度とそんな風に願うふりをして、本当はそんなこと起こってはいないのに、起こって欲しいと願っただけなのに。
青色や赤色の塗料をキャンバスに塗りたくって僕は寝床についた。明日があるだとか、明日はあるだ?とか、どうだっていい。
朝起きて、キャンバスを確認した。それはしっかりそこにあって僕は安堵した。
たとえばこんな絵のように誰かに打ち明けたい過去が形をなすことがあるのだろうか。曖昧な会話と曖昧な態度の先に立ち上がるのは、手に触れる想いの結晶となりうるのだろうか。
言葉はあふれる。言葉はあふれない。言葉が突き上げてくる。言葉のために言葉を、僕は言葉を。
もう一度出会い直すことができるなら、こんな態度と言葉であの子に向き合うのさ。
君ならわかってくれるか。わかってくれるだろう。僕の痛みを、彼の苦しみを、彼女の悲しみを。僕は全力でフラッグを振り、叫ぶ。
春
4月。僕は窓際で山尾三省の本を読んでいた。カーテンの隙間から光が射している。ソファーで山岸さんが寝ている。
遠い生活
色が白い女の子だった。とにかく顔が好きだった。バドミントンが得意な女の子だった。少し目が細くてたまに眼鏡をかけていた。弓道をやっていたからか細くてスタイルがよかった。低い声も好きだった。ずっと眺めていたい。笑顔がとびっきり可愛かった。照れてる姿も好きだった。
もう一度そんな女の子と下北沢のライブハウスで出会いたい。話しかけられたい。ステージでは奇妙礼太郎が歌っている。彼女がふいに言う。そのシャツいいですね。それは古着屋で買った60年代物の薄汚いワークシャツ。店員に内ポケットの縫い目が表に出ているところがいいんですよ、と言われ買ったやつだ。
ステージ上のライトがずっと点いている。あまり点滅したりもしない。お客さんはあまり身体は動かさず、じっと聴き入っているように思えた。
ライブが終わったらその女の子とチェーン店の喫茶店でコーヒーを飲みたい。彼女はたぶんカフェラテを注文するのだろう。
二人で散歩したい。東京タワーに登りたい。遠いところに行きたい。東北がいい。旅館に一泊したい。美味しいものを食べたい。そして新幹線で帰る。最寄り駅から家までは一人。星も月も見えない夜空。ただただ曇っている。部屋は蒸し暑く、寝つけない。Tシャツを脱いだり着たりを繰り返す。正解がわからない。蒸し暑い。
春の夢
何もかもがめんどくさい。
人間関係。食事。排泄。生きても死んでも地獄。地獄から這い上がれる気がしない。
自分の中の何が他人を遠ざけているのか、わからなくなる。
店の中でタバコが吸える場所はないかと目で探しながら、すでに飲み終わったビールジョッキに口をつけ、最後の一滴を欲している。
「最近映画観てないな」と彼女が言った。
「俺も」
「わからなくなってきた」
「うん」
「生きることの意味が」
「気持ちいいね」
「え」
「スカッとする」
「酒しかないのかな」
「逃げる道」
「酒しか」
「同じことの繰り返し」
「嫌だ」
「マスター、ビールおかわり下さい」
通販で買った紺のトレンチコートのボタンを外し、濡れたTシャツに風を入れる。
「私もビール」
あいつがトイレから戻って来る前に何か言わなければいけない。そんな風に思っているのにうまく言葉が出てこない。
目の前に置かれたビールの泡を見ながら、あいつに殴られてるシーンを思い浮かべた。
「ビール来てるよ」と彼女が言った。
「俺は」
「うん」彼女の頬が少しあからんでいる。「パーマまたあてたんだね」
「そういうの気付くんだ」俺は自分の髪に手をやった。
「気付きたくなかったけど気付いちゃったから言ってみた」と彼女が笑った。「私のこと、本当はどう思ってるの?」
こんな時に思い出すのはいつもとりとめないことばかりだ。
初めて上京した時に見た新宿のビル群のこと、映画館をはしごするために1人で東京中を歩き回ったこと、真夜中に携帯の電源が落ちて自分がどこにいるのかわからなくなったこと、飼っていた鳥が逃げたこと、沖縄にいる妹にドラえもんのグッズを送ったこと、パン屋の店員の女の子がかわいいからとそのパン屋に何度も通ったこと。
「本当に本当のことを言ってもいいの?」
「うん?」
「出よう。ここから」
「え」
「あいつを置いて」
「できない」
彼女が目を見開いた気がした。
ババ抜きでジョーカーを引いたときのような気分だ。誰にもバレないようにすましているあの感じ。このジョーカーを誰かに渡したい。渡したいけれど、ずっと持っていてもいいかもしれない。
「気にしないで」と彼女が言った。
「や、いまの忘れて」と俺は言った。「いや、やっぱ忘れないで」
「どっち?」
「いやさ、映画でも音楽でも漫画でも何でもいいんだけど、すごく良い作品に出会った時には世界中のみんなのことが大好きって気持ちになってね、そんでそんな気持ちでいつも過ごしたいって思うんだ。でもね、毎日毎日働いてくたびれて満員電車に乗ってると誰彼かまわずにらみつけてるわけ。そんなことしたくないんだけど本当は。や、でもそれが本当なのかな、そんな感じ」
胸が苦しかった。俺はビールを一口飲み、席を立つ。トイレから出てきたあいつを抱きしめる。
「なんだよ急に。離せよ、気持ち悪い」
もっと強く抱きしめる。
「いい匂いすんな。お前」
「やめろって」
あいつから腕を離してトイレに向かった。あいつの匂いがまだ残っていた。鏡に映る自分を見る。そのもう一人の自分に何かを話しかければ、応えてくれるのではないかという錯覚があった。
洗面台に視線を落とす。きれいに畳まれた白いハンカチが置いてある。それを見ていたら訳もなく哀しくなった。
俺はさっきまで一緒だった彼女のことを思い出そうとした。彼女の爪は鮮やかな赤色で艶やかだった。
サンデーモーニング
私が「アイスコーヒーお願いします」と注文したときに、カウンターの向こうに立つ店員が不思議そうな顔を浮かべて言った。
「アイスでよろしいですか?ホットもございますが」
私は彼女の優しさに心から感謝しながら、「そうですよね、こんな真冬にアイスを注文する大バカ野郎はいませんよね」と笑った。
「お客様の自由ですので、大バカ野郎だとは思いませんが、私ならホットを頼みます」と言いながら彼女は自分の頬を撫でた。
私が照れて何気なく後方を見遣ると、長い列ができていて、全員が私をにらんでいた。
彼女は「一瞬ですよ。何もかも一瞬なんです。だから、その」と何かを言いかけて、やめた。
私は恥をかかされた気持ちになり、大声を出した。
「ここにいる奴らは恋を知らないんですよ!誰かを好きになったことがある人間ならね、あんな目で人を見ることなんてできやしませんよ。ところであなた、とても素晴らしいことを言いましたね。一瞬。恋はね、その一瞬が永遠に変わる唯一の魔法ですよ」
「魔法使いになれる瞬間ですね、恋は。私があの人たちを石にしてしまいましょう。そして、ゆっくりホットコーヒーを飲んでください。あれ、アイスコーヒーでしたかしら?」
「いや、何でしだっけ?私が欲しがったのは。わからなくなるんですよ、時々。あなたがさっき言った、というか、あなたのことをさっきあなたって呼びましたっけ?君でしたか?それとも店員さん?お給仕さん?どうでもいいか。どうでもいいわけないか。どうでもいいことなんて。ねえ」
私はそう言いながらジャケットのポケットに手を入れて小銭を取り出そうとしたら、指先に何か別のものが触れた。それは小石だった。先日河川敷に行った際に拾ったものだ。それを握ったり離したりしながら、もう一度後方の長い列を見た。
私はすぐ後ろに立つ男に言った。「この店のBGMはジャズですね。ほら、ドラムがシンバルでリズムをとってるでしょ?スウィングですよ、これが。スウィングジャズ。音楽はね、恋と同じで永遠。だから時間を忘れてお楽しみください」と頭を下げ、ポケットから石を取り出した。「ほら、何か感じるでしょ?」
男は「ただの石じゃないか。早くしてくれ、私には時間がないんだ」と言った。
私は男に「時間が止まる瞬間をしっかり感じてください。このリズムが今なんですよ」と言った。彼女はクスクスと笑った。
私は彼女の笑顔に癒されながら「今日が私の65歳の誕生日なんです。誰も私に微笑みをくれたことなんてなかったんです。迷惑をかけたのはわかってます。でもね、初めて知ったんです。アイスコーヒーを一つ頼むのがこんなに難しいことだったなんて」
「難しい?簡単ですよ」と彼女は言い、ホットコーヒーを差し出す。
ゆうた
コインランドリーのパイプ椅子に座り、目の前のテーブルに置いてあった自由にお使いくださいという紙が貼られた小さなカゴから洗濯ばさみを手に取った。それで左手の人差し指の爪あたりを挟み、周りを見渡した。薄汚れた茶色の棚に巻数がばらばらの漫画。その横には忘れ物用の洗濯物入れ。白を基調とした壁。掛け時計。洗濯機が6台。1台は僕が使用している。
蛍光灯が1つチカチカと切れそうだったのでポケットにあったレシートの裏に、蛍光灯が切れそうです、と書いてテーブルの上に置いた。
しばらくすると腰の曲がったおじいさんが入ってきた。僕が会釈すると彼は「ゆうた、ゆうたか」と聞いてきた。きっと誰かと勘違いしてるんだろうと思い「違いますよ」と答えたが彼はまた「ゆうた、ゆうたか」と言った。
「そうです、ゆうたです」と答えると、「おまえはゆうだじゃないだろ」とあきれられた。