ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

だ(たい)せいのキス

だ(たい)せいのキス

 

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(材料)

ローソンの鯖の味噌煮缶 1つ

 

五ぶづき精米 3合

 

水 500ml

 

鷹の爪 1本

 

ヒマラヤピンク岩塩 適量

 

セブンイレブンのオレンジジュース 1ℓ

 

沖縄県の角煮入り味噌

 

 

(準備)

ちいさい灰皿

 

煙草の吸い殻 2本分

 

100均セリアの器

 

2年ほど使用された木製箸

 

人 1人

 

2週間以内のキスの思い出

 

敷布団 2枚の敷布団を重ねたものを1組

 

6畳の和室

 

 

(調理)

・1回目は浄水で米を研ぎ

2回目は水道水で濁りを流すようにやさしく研ぎましょう

炊飯器(鍋でも可)に米を投入し、500mlの浄水を加えます

 

鯖の味噌煮缶を開封し、炊飯器へ汁ごと投入します

 

鷹の爪1本を半分に割り、材料へ加えます

 

スプーンなどで鯖の身をを崩しながら、まんべんなく米と混ぜます

 

岩塩を加えて、もう一度軽く混ぜます

 

炊飯器にスイッチを入れてシャワーの準備をしましょう

 

 

セブンイレブンのオレンジジュースを開封し、浴室へ持って入ります

 

身体を清潔にするために、普段通りのシャワーを浴びてください

 

寒ければ入浴してください

 

身体が温まったところでオレンジジュースを3口をほど摂取してください

 

風呂から上がったら髪を生乾き程度に乾かしてください

 

保湿が必要な方は保湿も済ませてください

 

この行程を完了する頃に炊飯が終われば成功です

 

・炊きあがった鯖飯を空気をいれるようにしてかき混ぜ、炊飯器に蓋をし、15分ほど蒸らします

 

冷蔵庫から沖縄の豚の角煮入り味噌を取り出します

 

指定の食器を用意し、布団に入り、スマートフォンでセンチメンタルな音楽を聴きながら待ちます 

 

眠ってしまわないように注意しましょう

 

蒸らし終えた鯖飯を食器によそい、入っていた布団が冷めないうちに持って戻ります

 

 

(実食)

布団に入り出来上がった鯖飯を1口摂取してください

 

おいしい、と思ってください

 

そして2週間以内のキスの思い出の相手に「鯖飯を作った」「おいしい」と伝えてください

 

すぐさまオレンジジュースを1口摂取します

セルフネグレクト

 「セルフネグレクト

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 某動画サイトでセルフネグレクトの取材が配信されている。

取材を受けた男性は非常にハキハキとした調子で応対していた。

まさか精神的に病んでいるとか、生活に困窮しているとか、そんな様子は一切伺わせないような余裕のある話っぷりである。

実際には彼のような人がセルフネぐレクトに悩む人なのだ。

男性が話す調子とは裏腹に、後ろの部屋では絶望的ともいえる光景が広がっていた。

部屋は雑誌や趣味で集めていたものが床に散らばり、足の踏み場おろか、ほとんど腰を下ろす場所すらない。

黒ずんだ浴槽は使った形跡すらなく、男性本人もシャワーだけで済ましていたという。

男性は派遣社員として週七日働いている。

そんな彼が自身をいたわることせず、またその余裕もないのだ。

 

 セルフネグレクトとは、自身の身の回りの快適性や健康の管理ができない状態の総称であるらしい。

悲惨な例では、岐阜県セルフネグレクトの父を持つ一家が、父が死に、母が死んだのちに、息子が餓死した状態で見つかるといったものもある。

高齢者などに見られる孤独死だが、比較的社会との交流がとれる四十代半ばの年代でもセルフネグレクトによって孤独死を迎えるケースがあとを絶たないらしい。

 空調に無関心で登山などで発症する「低体温症」によって弟を亡くした男性が紹介された。

男性の弟はまだ四十半ばであり、ある日突然仕事の取引先が連絡が取れなくなったということで自宅を訪問したところ、すでに亡くなっていたそうだ。

弟の自宅はパソコン機器などで散らかり、セルフネグレクトの傾向が見られたという。

散らかった部屋でクーラーのリモコンを紛失したまま猛暑や冬を乗り越える人もいる。

男性の弟もその一人だった。

弟の死をきっかけに男性は安否確認をするラインアプリを開発し、運営しはじめた。

登録者が「今日は元気ですか」という質問に「ok」と返事をし、返事がなければ再三のメッセージを送信する。

それでも連絡がなかった場合は登録されている連絡先に報告するという仕組みだ。

 

 生産性が高まった現代では機会が人に代わって労働する環境が増えている。

テクノロジーの進歩、といえば聞こえはいいが。

実際には一方的な期待となっているのが実情だ。

テクノロジーを導入することができない企業は人員を増やし、取引先のニーズに応えるべく機械と同等かそれ以上の生産性を労働者に課す。

ここで根本的な限界が見えてくる。

我々はいわば自己メンテナンスが可能な労働者であったが、機械と同等かそれ以上のパフォーマンスを発揮するとなれば、必然的に自己メンテナンスの機能が難しくなる。

疲れた体を風呂に入って労わり、栄養のある食事をつくり、睡眠する。

これらを私たち自身で行うこともまた労働の一環であり、個人の要領には違いがあるにせよ、一度その要領を越えれば風呂を貯めたり、食事をつくったり、睡眠をとることすら難しくなるのだ。

機械には大抵の場合、技師がついている。

彼らが仕事を与え、機械の不調に合わせてメンテナンスを行い、休息をとらせることによってはじめて生産性のある労働が保証されている。

我々人間も機械も、労働においてはそう変わりのない存在であり、生産性を求められる環境においては相応のマネジメントが必要だ。

生産性を求められる環境にいかにして個人レベルでのマネジメントを導入できるかが、持続的な社会を構築するうえでの課題だと思われる。

 

 

 

 

(筆者から)

個人的な見解については散文を作成したいと思います。

 

 

 

 

from界to世

 

from界to世

 

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 世は界を得ないままで在る。

その世を、この世を確たるものにするにはどうすればいい。

ある偉大な人は見聞きしたもの、体験したものを基に界を与えた。

どの世界にも事実が存在し、それを前提に形をつくる。

作家の仕事といえば、そこへ光を与えることであり、形が影を得て、それが現実となる。

 

 

 世界よ

どこに目がある

どこに耳がある

どこに口がある

どうすればわたしは手をつなぐことができる?

 

 

事実を知れ。

それが絶え間ない偽りだという前提があれど、絶え間なく知れ。

史実を知れ。

それが永遠の偽りだという前提があれど、永遠を知れ。

事象を与えろ。

その音に全てが共鳴しなくとも。

現象を与えろ。

その光に何も浮かびあがらなくても。

繰り返し、繰り返せ。

それは世界を生む。

鯨肉

「鯨肉」

 

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 暖色蛍光灯の下でも血は黒々としていた。

その電球から発せられる光の下では、すべてが柔らかい輪郭を帯びたのに。

手術室のような白明りで満ちるスーパーマーケットにあった時と何ら変わりのない質感を帯びていた。

 

黒が 赤を 帯びている

逆さにしても おんなじ

どこでだって おんなじ

流れ出た事実なのだから

 

 鯨肉は血にまみれていた。

売れ行きは芳しくないようだった。

血まみれの食材というのは、一般にあまり好ましく思われない。

鮮度に難がある場合があるし、生理的に血を受け付けない人が多い。

豚バラ肉は桜の花のような色合いで横たわっている。

牛肉は血を見ようとすれば確認できるが、商品としては宝石のようなディスプレイ。

鶏は血の気はないものの、肉感に溢れて、健康的な印象だ。

スーパーマーケットとはそういう場所だ。

 喫煙や小食などによって貧血の気があるソウスケは鶏レバーを求めてきた。

一週間後には岡山への旅も控えているのにも関わらず、夜勤の日々に疲れ果てて、身体は干からびたように貧相。

食わねばならないのに食えないのは煙草のせいか。

それとも己の魂か。

ソウスケは魂を認めはしたが、従わない性質だった。

 

 スーパーマーケットに到着すると、まず途方に暮れる。

明確に買うものを考えていないばかりか、その欲求すらもないからだ。

 

 土はどこ? 土はどこ?

あ、ここに あった ここに ここに

わたしは見つける 惹かれる 流れる

漂流者はプラスチックとお似合いよ

 

 容器を買うのか、言葉を買うのか。

わたしは言葉を買った。

『鉄分が牛肉の〇倍!』

言葉の手段が鯨肉であっただけだ。

そうでなければこの鯨肉は廃棄物となっていただろうか。

少なからずとも、彼の肉片のすべてが売れたわけではあるまい。

 

『動物愛護』『哺乳類』『十年前の給食』『母の子宮』

などを連想しつつ、ソウスケはそれらの因果を理解しようと散歩する。

最中、予定にはなかった鶏もも肉をカゴへ入れた。

血の気はもう十分だった。

 

 鯨肉を捌いたのは次の日だった。

ソウスケが粗末にするには、少々値の張るものだったし、なによりこの血も飲めぬようではこの先生きていけない気に触れた。

それくらいの覚悟を持っていない限りは口にしたくないと考えていた。

 

 あら、あなた結構スジがあるのね

ここも ここも スジだらけ

嫌だなあ まな板が血だらけ

ここも ここも 血だらけ

わたしも血だらけだよ まだ生きているんでしょう?

なにか答えなさいよ

 

 刺身用として売り出されていたものだったが、気休めにレモン果汁とニンニクをもみ込んで冷蔵庫で寝かせた。ほんとうに気休めである。

それでも臭みは取れる確信があったから、これで腹痛でも起こせば後の祭りである。

あとは鯨がおとなしく己に取り込まれてくれることをソウスケは祈っていた。

さようならは五枚の蓋

「さようならは五枚の蓋」

 

 

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 さようなら。おとうさん。

 さようなら。おかあさん。

 さようなら。兄弟。

 さようなら。おばあちゃん、おじいちゃん。

 さようなら。恋人。

 さようなら。自分。

 さようなら。さようなら。

 

 

 さようなら、ということが何度ありましたか?

それも生きている人に別れを告げたことが。

ご遺体にさようなら、というのは差し迫った儀礼でありますが、まだご存命の人に「さようなら」というのはなかなか無いことですし、あるとしたら貴方はどこかわたしに似ていましょう。

 

 さようなら、といったところで何になるのだ。

狭い世の中、偶然すれ違うことだってあるし、人はとことん気分屋であるから「気分転換」くらいの気持ちで「さようなら」という文句をしたため詠んだときの、心に閉じ込めたセンチメンタルな決意を換気してしまう。

二人はふたたび同じ窓の内側で時を過ごすわけでありますが、それでもやはり時間のいたずらとかですれ違い仲たがいを繰り返し、終いには「さようなら」をもう一度繰り返す。

今度も以前と同じようなセンチメンタルな決意を、心の窓を何重にも増設して逃がすまいとするのだけれど、そんな具合では長くは息がもたないということで、次第に窓は一枚、また一枚と開かれていき、網戸の一枚になったころに私たちは老後の生活に飽き飽きし始めるわけである。

 

 一種の現実主義に傾倒しはじめた人は上のようなことを言うかもしれない。

そしてこれは限りなく正解に近く、悲観的です。それもまたさようなら。

 

 わたしたちが「さようなら」をするときというのは、大抵の場合は特定の個人に対してであります。

大勢に向けて「さようなら」というのは実際不可能なものでありますし、多くの人がそうしているように「さようなら」の断絶の側面にばかり着目しているようでは利己的だと言わざるを得ません。

ただ、あなたがわたしのように非常な運の持ち主であるか、もしくは聡明な頭脳を活かしてこのプロセスを実験せんとするのであれば有望です。

 

 「さようなら」を普遍的なところから掘り下げていけば、まずは恋愛を避けては通れません。

一度きりの恋は人の数だけ存在しますが、永遠に一途の恋はそうそうない。

初めて恋に落ちた相手とそのまま婚約し生涯を終えるまで添い遂げる、というのは私の知るところの文芸の世界にしか成立していません。とりわけ現代では。

もちろん現実にもそういった史実は存在するのでしょうが、私も含めて人は複数回の恋をするものです。

その節目には幾度となく「別れ」があり、場合によっては「さようなら」以上という事態も起こりえるわけでありますが、まず「別れ」と「さようなら」の違いについて考えてみたいと思います。

 

 個人的には「別れ」とは「さようなら」を最小にとどめたものであると認識しています。

現代でよく用いられる「別れ文句」で言えば、「友達に戻ろう」とか、「違う形でお互いを支え合おう」とかがありますね。

これはお互いを視野に入れつつ、なおかつ会合の余地を与え、干渉しあえる距離に置きつづけるためです。

「恋人」という間合いはちょっと息苦しいから、友達でいる。

そうすれば毎週末のデートプランを捻りだしたり、熱中している趣味をあきらめたり、相手や自分の両親から婚約を急かされる心配だってありません。

友達でさえいれば、人恋しいときにはちょっとした時間に会えるし、熱中している趣味にも精が出て、両親も「またいい人が現れるよ」と態度を軟化させる。

ただし「別れ」というのは時間のいたずらによって引き起こされるものですから、その期間もまた時間のいたずらによって引き戻されるのです。

これについては細かく説明する必要はないでしょう。私たちの身の回りのカップルが何度も繰り返すプロセスです。

上のことを踏まえると「別れ」とは交際の延長線でしかない、ということが証明できませんか?

いつでも会って、いつでも交わえるのですから。

 恋人という建前がなくなったのです。

我々は恋人関係を成立させた瞬間から恋人関係を目指します。

ひとまず休憩として友人関係という平行線へと着地するという算段であります。

ですから恋人がうんざりした様子で「別れよう」と言ったのではないなら、焦らずに「ひとまず休戦だな」と受け入れるのが賢明なのでしょう。

わたしは出来ません、でしたけれど。

 

 では「さようなら」とは如何なるものでしょうか?

「別れ」が最小であるなら、「さようなら」が最大かというと違います。

「さようなら」を行使しても完全な絶縁には至りません。

完全な絶縁に至り得る手段については文末でご紹介したいと思います。

 私たちのコミュニケーションにはいくつか手段があります。

文字や表情、身振り手振りなどによる視覚的なもの。

料理などを振る舞い相手の要望に答えたりそれを読み取る味覚的なもの。

相手のにおいで性対象を判断する嗅覚的なもの。

助けたり傷つけたりする触覚的なもの。

意思疎通をフリースタイルに行う聴覚的なもの。

以上、一般的には「五感」と呼ばれる、視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚によって我々のコミュニケーションが成り立っていると仮定します。

我々はどこかへ赴き、見て、味わい、嗅ぎ、触り、聴く。

ある人物に自身の欲求と合致するものを見出したら、自身が相手に提供できる五感をアピールする。

そして相手もこちらに合致するものを見出せば、状況が悪くない限りはカップル成立となり、ふたりは恋人関係を目指すのです。

ここでは「思想」というものが抜け落ちた状態で話を進めますが、ひとまずは生物的な側面から掘り下げていきましょう。

 さて、カップルが成立するまでのプロセスを「五感」を用いて書き連ねてまいりましたが、ここで二人は岐路に立たされます。

どうやら仕事が忙しいとか、相手の性癖が嫌だとか、生活に希望が持てないとか、時間のいたずらによって終わりが近づいてきました。

残念なことにこのケースでは女性が男性にはもう会いたくないようです。

けれども彼とのテキストメッセージは他の誰よりも正直な話ができるし、文章だけなら仕事の合間でも交流できそうです。

一方で、彼は彼女ともっとセックスがしたいし、生活を共にしたいとも考えていました。

二人の水掛け論は沼地を作りそうな勢いでありましたが、次第に彼の涙ぐましい思いやりが彼女の意見を聞き入れました。

女性はあまりにも自分が一方的な気がしてきたので「季節に一度は会う」という約束を男性に取り付け、二人は「お別れ」しました。

 

 しばらく経って男性側からこう連絡が入りました、

「さようなら」

彼女は何か不吉なものを感じながらも、多忙であったので動けず、しばらくは彼の安否を想像しました。

数か月後に女性が風のうわさで聞きつけた情報によると、彼は女性とのテキストメッセージだけの交流が嫌になったのだというのです。

なぜ嫌になったかというと、テキストメッセージでの交流には彼女との交流や生活、セックスなどが結びついて彼から離れないまま、その欲求ばかりが膨れ上がるという事態を迎えていたからです。

ですから彼は「さようなら」と言って、唯一残されたテキストの手段すらも絶った。

しばらくは断絶による苦しみが続きましたが、これは結果的に彼を救いました。

彼には新しい恋人ができたようです。

 

 上はよくある筋書きです。

閉ざされた五感のいずれかが膨れ上がる欲求に耐えきれずに一切を絶つ。

遠距離恋愛でも、生活圏内の恋愛であってもよくあることです。

もちろん、これが起こり得ないケースもあります。

そもそも双方のどちらかが恋愛感情を抱いていなかったか、男性側がポジティブ思考によってこの関係を楽しみ、なおかつ自身の出会いに専念できる人格の持ち主であった場合です。

しかし、これは生来の気質であり解決策としてポジティブな思考を擦り付けることは賢明ではありません。

だから「さようなら」という手段があるのです。

 

 「さようなら」とは五感に蓋をする行為です。

目を閉じ(隠す)。

口を背け(固める)。

息を止め(塞ぐ)。

手をしまい(縛る)。

耳をかさない(詰める)。

 

 「さようなら」のあとには二人の場所は針の穴ほどのスペースしかありません。

風のうわさだったり、センチメンタルな思い出が通る穴しかないのです。

ですが、針の穴だって立派な穴です。

ここに「さようなら」という言葉が絶縁に至らしめる効力を持たないことを証明できます。

我々は動物的な五感の他に「記憶する」「思考する」「想像する」などの第六感を備えました。

「さようなら」によって物理的な手段は隔たれたとしても、精神的な手段は残されているのです。

もしも、あなたが「さようなら」をした上で誰かに接触を試みるのであれば六感を用いてみましょう。

これは神秘などではなく、現実的に行えることです。

ただ、問題はどの色のどの糸を針の穴に通すのか、ということ。

その糸さえ見つかれば、あなたは「さようなら」の先から相手との関係を保つことができましょう。

匿名で、しかしあなただと分かる手紙を送りつづける。

一方的ですのでほどほどに。左様なら。

 

 もうお気づきになられたかもしれませんが、完全な絶縁に至り得る方法について述べたいと思います。

六感を塞ぐのです。

とはいえ、これも時間のいたずらによっていずれ生じるのですが、ここで紹介するのは即効性のあるものです。

「さようなら」という五感用の蓋の上に、さらに蓋をするのです。

蓋をしているのを見ないようにする。墓標のない土葬です。

わたしはある女性に言いました。

「この狭い世の中どこかで会うかもしれないけれど、その時は他人のフリをしましょう」

 

確かに埋まって、強固です。

けれど、光が差すことがありますから、わたしもろとも焼けてしまうまでは気が抜けません。

すべにともなう

「すべにともなう」

 

 

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 日常に涙するとは情けないでしょうか

例えば太陽がもっとも照り付けていた時期にわたしは日常の頓挫を経験しました

些細なことなのです

些細なことだったのです

朝には、たとえそれが昼だったとしてもおはよう、とか言って朝食を食べるか食べないかとかを議論する

何をたべるか

何をするのか

何時までには帰るのか

くそみたいに些細なことじゃないですか

 

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 個人的なお話をします。

たとえば私が、何をたべるかとか、何をするのかとか、何時までには帰るのかとか、そういったくそみたいに些細なことに高尚な幸福感を抱いてしまうことです。

日常を志したのは、冷え性の恋人に三月のほうじ茶を淹れたときで、葉から淹れるものですから、ティーパックとは違って私の分も淹れてしまうわけであります。

そうすると二人とも同じ体温になりまして、互いに感じることは違えども、違うということも同時に知ることができまして、知っているのもそこに居るのも二人ということになりまして、恋人が行ってしまったあとにも、彼女がその日に対面する人々はこんな時間があったなどとは念頭にも置かず、ましてや私のような不出来な者が多大な幸福を抱いているとはつゆ知らず、秘密で秘密になるのです。

とても稚拙な気持ちかもしれませんけれども、わたしは

 

 

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 白い壁が囲っていたところにもう一つ囲いを作ってみる

くぼんだ空間には何かあったと思えば消え

あったと思えば消え

消え

 

 

 

 

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 救済を求める声に身がすくむのは

ようこうそ、人間人へ!

人間人間人間人間人間人間人間人間人間人間人間人間人間人間人間人間人間

わたしは「間」の先に誰も用意がないので、あなたを人扱いすることはできぬ相談なのであります。

わたしもあなたから怪物扱いされる道理なのであります。

人を立てると「ようこそ人間へ!」

だからって胎児のポーズで世間を渡るのが無謀であることはあからさまで

だからってママを作ってしまおう、というのはあまりにも軽率で

鬼だらけならまだ笑えた地獄も、人間人ばかりであるから「世」に「間」などが生まれる始末なのであります。

 

そうざんしょ そうざんしょ

 

見てごらんなさいこの景色を

ママ。 マんマぁ。 マァマ。ママ―! ママさん。 ママ? あーあ(?)

にゃー

 

 

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間をとって、間をとって、間をとって、間をとるのです。

終いにはとり合いになりますから、そしたらまた間をとって....

バイパス

バイパス

 

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 冬は肌を意識的にさせる。

いつもどんなときでも、肌が内臓を守り、わたしにも肌があるのだということを思い出させてくれる。

定期的に届く食事。

開きにくいドアノブに掛かったパンは外気よりも生々しい温度を保っている。

いずれわたしの肌になるのだから道理である。

脳で考える、と人は思い込むのだけど、実際は、肌で感じ、脳で思い、筋肉が覚える。

これらが合わさることで、はじめて「考える」ということになる。

旅は合理的に、また常にこのプロセスを繰り返す行為だから、散歩が精神科医から手放しの賞賛を受けるのも道理なのだ。

この季節に坊主にしたくなるのもまた上記の事々を踏まえると道理で、わたしはありとあらゆる毛を取り除いて、この肌を寒さで感じたい。

坊主にする夢を見た。

 

 

 

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 人を動かしても世界は変わらない。

世界を動かしても人は変わらない。

人が道を歩いても道は道のままで、人体に記憶が残るのみ。

道が人を歩いても、道は道のままで人は人のまま。

「変容し続ける」という姿勢が重要視されるのは、変容することに備えるためである。

変わらない世界にふと現れた迂回路。

そこが己と世界をつなぐ境界だと察知するための訓練だ。

人は世界に追いつくし、世界は人に追いつく。

ただこれは平等に、ではない。わたしたちがそうであるように。

身近な誰かの内向を繁栄させようとわたしは努める。

いつでも迂回路を見つけられるように。

インクはその設計のためにある。

 

 

 

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 親愛なるタロットカードによると私の子供時代に終わりがやってくるらしい。

それも「明日から子供時代は終わりです」といった具合で。

明日から終わる、という通告には慣れていて、慣れていることに慣れていない。

慣れるというのはそれが習慣であるということ。字の通り、明白だ。

わたしは新しいサイクルが始まり、終わることを習慣化している。

終わりは始まりで、始まりは終わり。

それが繰り返されることをどこからでも知っている。

だから終わりにはいつも「もう少しだけ」と思ってみる。

らしくないインクの無駄遣いをして、それを口で詠んでみる。

すると筋肉はそれを記憶して、しばらくは「もう少しだけ」がすべてが終わったあとでも舌の上に味を残す。

次が始まるまで、その内容物を考える。

前夜の空気はやけに澄んでいる。気を付けて。

 

 

 

 

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 釣りが大嫌いな十代を過ごした。

ただ連れて行ってもらうこと、エサを仕掛けることは大好きだった。

魚が掛かっても、決して釣られるなよ、と思った。

一度釣られると、お前さんは二度釣られる。

一度釣ると、わたしも二度釣る。

お前さんとわたしは同時に釣られるのだ。

だから釣られてくれるなよ。

幸いにも上司との釣りでは一度も釣れたことがない。

「三度目の正直ですね」

「そういうことになるな」

アメリカのスポーツをしながら、アメリカンスピリットを吸う。

なるほど、ここがアメリカか。

とても寒い。肌を忘れる寒さだ。

ひたすらにバイパスを探しながら夏餌を投げ入れる。