白血病になった時の話

人生で二度白血病にかかりました(現在は寛解しています)。その時の記憶を遡りここに記していきます。

治療が中断されてしまった結果

突如治療の副作用で発症した『急性膵炎』。

幸いにも回復はしましたが、その原因となった『ロイナーゼ』はもう使えません。

予定ではあと何度か使用するはずでした。



つまり『寛解導入療法』が中断されてしまったことです。

そのことで、ガン細胞を寛解させられていない可能性が高まりました。

もし寛解出来てなければ治療は更に強く、辛いものになります。



ですが、幸いな事に検査の結果、寛解している事がわかりました。

本当に良かったです。



看護師の彼女には

『アンタに似て素直なガン細胞だったね』

と言われますw

激痩せ

痛みの症状はなくなっても、飲み食いするとまた症状がぶり返す危険性があった為、血液検査の結果が良くなるまで絶飲食は続きました。

体重は7キロも落ちていました。

48キロくらいだったと記憶しています。

足もびっくりするくらい細くなりました。

ふくらはぎはなくなりましたね^^;

ずっと個室の中で食べることも飲むことも出来ず、動くこともほとんどなかったので当然ですが、自分の身体ではないみたいでした。



症状から2週間以上それが続き、やっと医者が食事を再開してみようと言ってくれました。

めちゃめちゃ嬉しかった(T . T)

久しぶりの食事は全て重湯と形のない汁でしたが、信じられないくらい美味しかったです。

その後、症状がぶり返すこともなく膵炎は治りました。

だんだん食事も元の形あるものに戻り、体重も少しずつ戻っていきました。

絶飲食

急性膵炎の治療法は点滴と膵臓が休まるまでひたすら絶飲食です。

腸などの検査で1日くらいの絶食は経験したことがありましたが、水すら飲んではいけないのは初めてでした。

それがいつまで続くのかもわかりません。

先生によると、この病気は死の危険性もあるそうです。

部屋は大部屋から個室に急遽移動になりました。


初めのうちは麻薬でふわふわしていたので問題は無かったのですが、麻薬が減量されて意識がはっきりしてくると空腹も感じてきます。

病院の唯一の楽しみと言っていいほど食事は重要です。

白血病はただでさえまともに食べれない事が多くなる病気です。

しかしそれには吐き気や口内炎などが伴う為に食欲はあまりないんですよね。

この時は吐き気もなく、口内炎も麻薬で痛みが抑えられていたので、食欲は普通にありました。

テレビとケータイを見るくらいしかする事がなく、ずっと空腹と喉の渇きと戦うのはとても辛かったです。


何でもいいから早く食べたい。

味を感じたい。

毎日そう感じていました。

そんな僕をみかねて看護師さんが『口内を保湿するジェル』のサンプルをくれました。

リンゴかなにかの味付きだったと思います。

久しぶりに感じた味は本当に美味しくて、そのまま飲んでしまいたいくらいでした。

麻薬

急性膵炎は膵臓の急性炎症らしく、とにかく痛みがすごかったです。

一般的にはアルコールの摂りすぎでなるイメージがありますね。

(チュートリアルの福田さんもそうだったはず)

その痛みを抑える為にかなりの量の医療用麻薬を使っていました


消えた痛み

医療麻薬の効果は絶大で、膵炎の激痛を抑えられるほどのもの。

その時僕は口内炎にも苦しんでいたのですが、その痛みはほぼなくなっていました。

口内炎は何もしなくても痛いので、痛みが無くなるってことはとても嬉しい事でした。


けど、いいことばかりではありませんでした。


副作用

何日も服用を続けていくと段々眠気が強くなり、いつでも眠いという状態になっていきました。

ふわふわベッドに浮いているような感じでとても常に心地良かったです。

全てを忘れて気持ちよくなれるようなこの感じ、麻薬をやめられない人の気持ちが分かった気がしました^^;


麻薬を続けていくに連れ、症状はふわふわ以外にも出始めました。

どこからか知り合いの声が聞こえてきたり、枕元にお医者さんが立って僕に話しかけてきたり。

嫌な感じはしません。

むしろ心地良かったです。

そのうちに女の子がやってきて、ベッドに腰掛けました。


幻聴、幻覚です。


看護師さんに

「ここに女の子が座ってるー」

と伝えると、看護師さんは

「ちょっと待ってて」

と部屋を出ました。


すぐにお医者さんがやってきて、麻薬を減量しました。

結構まずい状態だったらしいです(⌒-⌒; )

今はかなり薄れましたが、暫くはその気持ち良さを忘れられずにいましたねw

麻薬は一回やってしまったらもうダメってのはよくわかります。



激痛

最初の抗ガン剤が終わりました。

白血球が下がるのも早く、すぐに病棟から出る事を禁じられました。

それでも、個室から出られず、看護師か見舞いに来る母親にしか会えなかった昔の入院生活よりかはかなりマシに思えました。

 

 

第2の治療

次に使う抗ガン剤はロイナーゼ。

子供の時の治療にも使ったものです。

基本的に子供に使う薬らしいですが、僕はギリギリ使えるとのこと。詳しくはよく分かりません。

8日間くらい毎日数時間連続で流す薬です。

アレルギー反応が出やすい為、心電図を付けながらの投与でした。

 

異常 ?

初日の投与時に異変は起きました。

何か喉が狭くなるような感じがして息苦しさを感じたのです。

そのことを医者に伝えると、抗癌剤は一時中止になりました。

アレルギーを抑える薬を投与すると症状は改善しました。

医師の判断で抗癌剤を再開。

今度は問題も起こらず、無事に治療を終えることが出来ました。


痛み

ロイナーゼ投与4日目の夜。

この時の僕は、副作用で口内炎に悩まされていました。

喋れはするものの、飲みづらい薬は一旦飲むのをやめていました。

その中には胃薬も入っていました。


消灯前、僕はお腹に違和感を覚えました。

なんだかお腹が痛い気がする。

それを看護師さんに伝えると、胃薬を飲まなくなったせいかな?ということになり、カテーテルから流し込むタイプの胃薬を投与してその日は休みました。


激痛

突然の痛みに僕は目を覚ましました。

お腹をガンガン殴られてるような訳の分からない痛みに僕はもがきました。

痛み止めの飲み薬も点滴も試してみましたが、全く効きません。

医療用の麻薬を大量に投与し、やっと痛みを抑えることができました。


血液検査の結果、急性膵炎だということが分かりました。

これらロイナーゼが起こす可能性のある副作用の一つでした。


カテーテル

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ここでいうカテーテルとは、中心静脈という太い血管に入れる点滴の管のことです。抗ガン剤や腎臓を守る為の点滴、高カロリーの栄養の点滴などを流す為に使用します。

 

中学生の入院時と社会人での入院時では違いがありました。

 

 

昔のカテーテル

僕の場合は右側の鎖骨の下からカテーテルを挿入しました。

刺す時は変に動かないようにとの理由で、眠くなる薬を投与してから処置しました。

カテーテルは抜けないよう皮膚に縫い付け固定します。

今でもその跡が若干残っています。

 

採血はこのカテーテルから血を引く事ができ、いちいち皮膚から刺される事がないので楽ではありました。

 

風呂に入る時は水が入らないように、回りに防水テープをペタペタ貼っていました。

風呂上がりにはそこを消毒します。

 

カテーテルはトラブルがない限り、退院するまで刺しっぱなしです。

 

 

新しいカテーテル

骨髄移植を行う時は、昔と同様に鎖骨の下あたりからカテーテルを挿入します。

しかし、抗がん剤による寛解導入療法、地固め療法を行う時は、PICCカテーテルという管を入れて治療しました。

PICCカテーテルも太い血管に入れることには変わりないのですが、二の腕から挿入すること、特に縫い付けたりはしないことに違いがあります。

成人になったこともあり、局部麻酔のみで眠くなる点滴は使用しませんでした。

血管を探られるような感じに違和感がありましたが、特に問題なく終えられました。

はじめのうちは管が寝てる間とかに抜けちゃわないか心配でした(⌒-⌒; )

(抜けることはなかったです。)

 

昔はカテーテルから採血出来ていましたが、それは無くなって普通に皮膚からの採血になりました。

これは少し不便になりました。

採血苦手な人は毎週3回以上あるので地獄です(⌒-⌒; )

 

シャワーに入る時も刺し口を防水テープで貼ることはしません。

逆に綺麗に洗った方が清潔とのこと。

勿論終わった後の消毒はします。

(湯船に入るのは不衛生とのことでなくなりました。)

 

昔は退院までずっと刺しっぱなしのカテーテルでしたが、今は熱が出るとすぐ抜くように変わっていました。

管に菌が付着している可能性があるかららしいです。

カテーテルを刺すのも処置する場所に行って局部麻酔して変なところに管を通さぬようにやるので楽じゃありません。

僕は2、3回刺し直しました。

 

因みに熱が出たら両腕から採血をします。

より正確に検査結果を出す為です。

 

 

最後に

昔と今でかなり色々と変わっていました。

楽になった事もあれば大変になった事もあります。

でも全ては医学的な面から見れば良くなっているのでしょう。

 

ざっくり考えても僕は人生で100回以上は採血の針を刺されてるでしょうね( ̄◇ ̄;)

車の話

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話は少し前に戻ります。

病名が分かり、北海道に帰って治療することを決めました。

しかし僕には一つ考えないといけないことがありました。

車のことです。

 

 

車のこと

僕はもともと中古の軽自動車に乗っていて、就職してからもそちらに運んで使っていました。

中々気に入ってたんですが突然の不良でエンジンがダメになり、廃車になってしまったんです。

ショックでしたし、通勤にも使っていたので早急にどうにかしなければならなかったんですが、ひょんなことから数日後には新車ですぐに新たに軽自動車を購入したんです。

 

130万くらいだったと思います。

新車の匂いとか好きでしたねw

 

 

病気になって

車は北海道に持っていくことも可能でしたが、支払いがあります。

月に3〜4万払っていたのですが、働けなくなった今その金額はとても厳しいものでした。

実家も家計が厳しくて肩代わりもできないですし、職場復帰がかなり先の話になることは前の闘病生活から分かっていたことでした。

手放すという選択が妥当に思えました。

そうするしかなかったです。

 

 

車を渡す日

買ったばかりという事で車は80万程で引き取ってもらえました。

しかしそれでも残り50万の支払いが残ります。

一度に払える財力もなく、ローンを組む必要があったので金利も加わり60万を超えました。

ない車のローンを払い続けなければならない。

こんな虚しいことありますかね。

最悪でした。

でも仕方ない。

 

店の人が車を取りに来て、自分のものだったはずの車が去って行った時急に涙がこみ上げてきて訳も分からず号泣しました。

自分でも気付かなかったんですが初めての大きな買い物でしたし、車への思いみたいなのがとても強かったみたいです。

とても苦しかった。

 

 

最後に

今は車のローンは払い終えられましたが、その分払うことが遅れた奨学金の返済がまだ70万近く残っています。

このままじゃ払いきれません。

でも健康であればどうにかできます。

 

病気が奪うものは健康だけじゃないんです。

時間もお金も自由も他にも色々奪われます。

今また健康に生きられていることをとてもありがたく思います。

 

読んで下さりありがとうございました。

昔と今

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医者との再開

僕が入院した病院は、子供の頃の治療で入院した病院とは別です。

そして昔は小児科でしたが今は血液内科という聞き慣れないところになりました。

 

僕は小児科の頃お世話になったお医者さんがこの病院に異動したという話を思い出し、小児科へ会いに行きました。

先生はまだこの病棟にいるとのことでしたが、たまたまこの時は席を外していました。

 

病室に帰り暫くするとその先生はわざわざ僕に会いに来てくれました。

何を話したかよく覚えてないんですが、

『今は小児科ではないから私は治せないけど、しっかりこの血液内科で治してもらって』

っていう事を言ってもらいました。

 

こんな形で再開はしたくありませんでしたが、元気をもらえました。

 

 

脱毛

昔の抗ガン剤治療では、髪は抜けはするものの急激に抜けることはありませんでした。

しかし大人の治療は別でした。

 

1月くらいで髪は抜け始め、その量もかなり多かったです。

髪が薄くなるとドライヤーの熱を直に感じて、乾かすのが大変でした。

タオルで拭いたり、手櫛をしたりしても髪はごっそり抜けます。

数日であっという間に髪は無くなりました。

 

昔に経験していた僕は抜けることは分かっていたのであまりショックではなかったです。

ただそのスピードにびっくりしました。

 

病院食

昔の病院食はとても食べられたものじゃなかったんですが、ここは割と食べられました。

大人になったから文句を言わなくなったというのもあります。

美味しいと思えるメニューも僅かですがありました。

凍ったマンゴーが好きでしたねw

ラーメンだけはまずくて大嫌いでした(⌒-⌒; )

 

 

病棟

昔は免疫が下がると隔離され、部屋から出ることはできませんでしたが、ここは病棟自体が特殊な作りになっており、空気が綺麗に保たれている為病棟内は自由に歩き回れました。

なのでシャワーも入れました。

これがすごく大きい!

 

因みに昔は湯船に入ることが許されていましたが、今は不衛生ということで無くなってましたね。

 

 

面会

基本的には家族しか許されなかったです。

そして子供は面会できません。

子供は菌を持っている可能性が高いからという理由だそうです。

幼稚園や小学校で菌をもらってる可能性があるからみたいです。

 

昔と比べると色んなルールが厳しくなっています。

命を守る為には当然ですが、改めて大変な病気だというのを実感しますね。

医学の進化

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一通り検査が終わるといよいよ抗ガン剤治療に入ります。

昔の記憶が蘇ります。

また辛い日々が始まるのだろうか。

そう思っていました。

 

吐き気止め

以前にも抗ガン剤をする前には必ずするものでした。

しかし昔のものは全然効かず、寧ろこれから始まる抗ガン剤の象徴ということでそれによって吐き気を起こすようなものでした。(予期嘔吐)

だから期待はしていなかったんです。

 

いよいよ治療が始まるという時に渡されたのは小さなカプセル薬一つでした。

名前はイメンド。

これを3日間服用するとのこと。

僕は単純に疑問でした。

『こんな薬で吐き気が無くなるのか?』と。

これだけ?とわざわざ医者に確認するほどです。

 

久しぶりの抗ガン剤治療

いよいよ抗ガン剤治療です。

待ちに待ってない治療です。

最初の抗ガン剤は昔トラウマだったオレンジ色の抗ガン剤です。

(色だけで同じものでは無いかもしれません)

イメンドを飲み治療開始です。

 

昔であれば食事なんて以ての外で吐き気でダウンするところです。

ですが吐き気は全然やってきません!

衝撃でした。

あんだけ苦しんだ吐き気が全然来ない。

ましてやお昼ご飯が食べられるなんて!と。

医学はこんなに進化したのかと感動しました。

 

イメンドという薬が生まれたのは革新的だったそうです。

初めて白血病にかかった人からしたら吐き気は感じるかもしれませんが、吐き気止めが少しも効かない昔を知ってる僕からすると本当に衝撃でした。

 

服薬

以前と同様にプレドニンも処方されました。

昔は苦味が苦手でカプセルに入れてもらっていましたが、さすが大人になってからはそんな事はしませんw

苦味は変わりませんが…。

 

そして昔は異常な食欲が湧いて急激に太りましたが、今回はそれを気にして食べ過ぎないように注意しました。

以前ほど太る事はありませんでしたね。

顔は丸くなりましたが(^_^;)

 

北海道へ

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こちらの病院で治療するのか、それとも北海道へ戻って治療するのかと医者に言われた僕です。

まず僕は親にまた病気になってしまったことを伝えました。

そして、この地で治療する事を伝えてその日は電話を終えました。

 

ですが次の日親側から電話があり、

『サポートも出来るしそっちで1人じゃ大変だろうから北海道で治そう』

と告げられ、やはり北海道に帰って治療しようと考え直しました。

 

思いかえせば…

今回健康診断での採血結果がおかしい事から病気の発見へとつなげることが出来ましたが、思い返してみると前兆がありました。

 

病気がわかったのが9月だったので、その4ヶ月前のことです。

丁度ゴールデンウィークが始まる日です。

僕は激しい頭痛と高熱で苦しんでいました。

前の日は何ともなかったのにその日から突然です。

熱は39度を超え、このままでは良くないとフラフラながらも車を運転しクリニックへ行きました。

どうやらウイルス風邪のようでした。

ウイルスは抗生剤が効かないので、解熱剤と鎮痛剤のみが処方されました。

熱が出たり痛みが強いとその薬を飲みました。

自然に治るのを待つしかないのでとても辛いです。

しかし僕の白血病はウイルスをやっつけるはずのリンパ球がおかしくなる白血病です。

リンパ球がまともに働いていなかったのかウイルスは中々治らず、結局ゴールデンウィークは全てウイルス風邪との戦いで潰れました。

 

北海道へ

再発と診断されてから1週間も経たないうちに僕は北海道へ帰ってきました。

そして次の日には病院に入院しました。

 

一通り色々な検査をしてからまた抗癌剤との日々が始まるのです。

『またか…やだなぁ』

そればっかり思っていました。

 

 

再発

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健康診断での採血結果で白血球の値が平均を下回りました。

再検査の為に僕は別の持病で通っていたクリニックに向かいました。

とても信頼できる先生です。

事情を話し、採血を終えてその日は帰宅しました。

 

採血結果

結果は変わりませんでした。

白血球数の平均を前回と同じくらい下回る結果でした。

どうしてだろうか。

大丈夫だよな…?

不安がよぎりました。

平均を下回ると言っても大幅では無かった為、先生と相談しもう一度検査する事になりました。

 

再々検査

またも検査結果は変わらず。

寧ろ前回より少し値は下がっていました。

これは一度骨髄を調べた方がいいのではという事になりました。

このクリニックでは検査することが出来ない為、大きな病院で検査をする事になりました。

数年ぶりにマルクをする事になったんです。

先生に紹介状を書いてもらい、そのクリニックを後にしました。

 

大学病院へ

血液内科を受診しました。

僕を担当してくれた医者はその病院の血液内科の教授だったかと思います。

診察は淡々としていました。

必要な事だけをするような、決まった作業をこなすような冷たさを感じました。

 

久しぶりのマルク

以前は腸骨の側面から採っていた骨髄ですが、うつ伏せになって腰のあたりから採るように変わっていました。

完全に検査器具やその様子が見えないので良いかもしれません。

体勢的にも楽でした。

久しぶりで緊張しましたが、検査も淡々と進みました。

久しぶりに感じた痛み。

もう二度と感じるはずではなかった痛みです。

 

検査結果

後日検査の結果を聞きに再度病院へ行きました。

『大丈夫だろう。大丈夫なはずだ。』

そう言い聞かせていました。

 

呼ばれて診察室へ入ると教授はすぐに僕に言いました。

 

『再発ですね。うちの病院で治すか北海道で治すか選んでください。』

 

サラッと言いました。

まるで『風邪ですね』と診断するくらいのテンションで。

 

今思えば酷い医者ですよねぇ。

貴方にとっては沢山いる患者の1人かもしれないですが、僕にとっては本当に辛いことなのに。

 

気持ち

再発と告げられた時の僕は割と冷静でした。

ぼんやりと

『あー、再発したのかー』と。

一度目の闘病から、

『もう白血病の治療は耐えられないから再発しても治療しない!』

と思ってたんですが、不思議と諦めてはいませんでしたね。

 

 

社会人 二度目の予兆

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社会人2年目。

僕は大学を卒業した後、北海道を出てとある派遣会社に入社しました。

そしてその後ある会社に派遣され、1年を過ぎたころでした。

 

就職してから

今まで実家暮らしだった僕は家事という家事をほとんどした事がなく、洗濯すらまともに出来ない状態でした。

就職が決まりこれでは生活できない!と母に色々教えてもらい、最低限の事は出来るようになりました。

 

就職してからは学生と社会人の違いが最初こそ辛く感じましたが、沢山いた同期の繋がりもあり乗り越えられました。

しかし派遣されてからはそういう息抜き的なのもなく、仕事について行くのでいっぱいいっぱいな日々でした。

与えられた仕事をこなさなければ!という思いから仕事中心の生活になってしまい、仕事が進まないと落ち着きませんでした。

一つこなしてもまた新たな仕事がくる。

それどころか仕事はどんどん溜まって行く一方です。

 

やがて僕は朝ご飯も食べずに会社に行き、昼休みご飯も食べず仕事をし、夜になってやっと食事を摂るという生活をするようになりました。

勿論疲れ果てて帰ってきて自炊なんかしたくありません。

必然的に晩御飯は家の近くにあったマクドナルドとすき家の繰り返しになりました。

最悪な生活です(⌒-⌒; )

 

精神状態

そんな生活をしてるものですから僕はどんどん弱っていきました。

体重は5キロ痩せました。(50キロくらい)

目が死んでいると言われました。

座り仕事だったので背中が痛いです。

仕事でミスを発見する夢を見て目が覚めます。

そして実際そのミスが起きていますw

仕事していない時は頭痛がします。

仕事の事しか考えられません。

休みの日は何をしていいのか分かりません。

 

仕事する為に生まれてきたみたいだ。

ずっとそう感じていました。

 

予兆

そんないっぱいいっぱいの生活でも続けていれば慣れていくもんなんですね。

段々とメンタル面も強くなっていき、やがて朝食と昼食も食べる余裕が出てきました。

死んだ目も体重も少し良くなりましたw

仕事の為に生きてる感はまだありましたが(⌒-⌒; )

 

そんなある日会社の健康診断があったんです。

よく覚えてないのですが、採血もあったんですよね。

その採血の結果で白血球が基準値を下回ってたんです。

といっても平均が3000〜9000くらいで僕の値は少し下回るくらいだったと記憶しています。

再検査との診断でした。

 

再検査といってもきっと大丈夫だろう。

気楽に考えていました。

でも今思えば心の底で嫌な予感がしていました。

大丈夫なはずだ!

また病気になるはずがない!

と自分に言い聞かせていたんです。

治療の終わり・仲間の通夜

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維持療法も段々頻度が減っていき、短期の入院治療がなくなり、やがて

外来治療も終わりを迎えました。

やっと抗癌剤から解放されたんです。

これほど嬉しいことはありません。

抗癌剤が終わったということは全ての治療プランが終わったということです。

治療が始まってから大体3年くらいでしょうか。

長い長い闘病生活が終わりを告げました。

 

通院

治療が終わっても定期的に通院を続けます。

血液にまた異常が出てきていないかを調べる為です。

採血は毎回して、たまにマルクで骨髄を調べます。

5年は続いたかと思います。

5年生存率というやつですね。

 

白血病は治療プランが終わったからもう大丈夫!なんて簡単な病気ではありません。

再発の可能性があるからです。

実際、闘病仲間が再発して亡くなりました。

 

闘病仲間

彼は5つ年下の男の子でした。

亡くなった親友と同様に地元が一緒だったんです。

(病気は地元に原因があるのでは?なんて思いましたね^^;)

大人しくて勉強も遊びも一生懸命なとても良い子でした。

 

僕が退院してから暫くして彼も退院したという事を聞きました。

無事に退院出来て良かった。

と思っていたのですが、現実はとても残酷でした。

 

再発

退院してから半年もせずに彼の病気は再発しました。

その話を聞かされた僕はとても複雑な心境でした。

地獄の入院生活をまた繰り返さなければいけない彼が本当に可哀想で辛くて言葉になりませんでした。

 

そして数ヶ月後に彼は亡くなりました。

 

通夜

亡くなった闘病仲間は数人いましたが、葬式に出たのはこれが初めてでした。

『来てくれてありがとう』と彼のお母さん。

通夜が始まりお坊さんのお経が始まり、一連の流れが終わった後、僕と彼との最後の対面がありました。

とても優しい表情の彼。

当たり前ですがお母さんは泣き噦っていました。

僕は言葉もなく抱きしめてあげることしか出来ませんでした。

 

なぜ

あんなにいい子で一生懸命で頑張ってた子が、どうしてこんな辛い病気で、こんな若さで亡くならなければならなかったのでしょうか。

帰りの車中僕はずっと泣いていました。

 

さいごに

僕が寛解して5年生存率を超えられた一方で治療の甲斐も虚しく亡くなった仲間、再発して亡くなった仲間がいました。

その事を忘れてはいけません。

 

この記事にて一度目の白血病になった時の話を一旦終わりとします。

(また書き忘れた伝えたい事があれば記事を追加するかもしれません。)

 

読んでくださりありがとうございます。

髪質の変化

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退院後も抗癌剤治療は外来と短期入院で続いていました。

ですがその頻度は入院時に比べると大分落ち着いていた為、日に日に髪の毛の量も元に戻っていきました。

今回は白血病になり、抗癌剤治療する前と後で髪質がどう変わったのかについて話します。

 

病気になる前の髪質

病気になる前の僕の髪質は固くて太く、ヘアワックスなど付けなくても立つほどでした。

幼い頃は髪が伸びてくると『五右衛門みたいだ』とよく親に言われましたねw

 

病気になった後の髪質

放射線をして全て髪が抜けました。

その後生えてきた髪の毛は以前とは対照的で、細くて柔らかくなりました。

髪も立たずに流れるような感じに生えるように変わりました。

でもそれだけじゃありません。

 

癖毛になりました(⌒-⌒; )

うねうねした軽いパーマをかけたような感じに変わってしまったんです。

でもそれが結構いい感じで気に入ったんですけどねw

 

看護師さんによると、抗癌剤治療後にクセ毛になるのは、頭皮が抗癌剤でダメージを受けて毛穴がゆがむからだそうです。

 

二度目の髪質の変化

放射線治療後、細く柔らかく軽いパーマのかかったような髪に変わったわけですが、暫く経つとまた髪質の変化が見られました。

 

軽いパーマ感がなくなり直毛になったんです。

ストパーかけたみたいでした。

パーマが気に入ってたので少し残念ではありましたが、直毛は羨ましがられましたね。

 

頭皮はシャンプー

髪質が元に戻ってきたのはちゃんとシャンプーをしてたからじゃないか?と看護師さんに言われました。

髪が無くなりツルツルになると身体を洗うついでに頭も洗っちゃう人がいるんですが、頭皮は弱いので良くないみたいなんです。

一瞬で洗い終わるので楽ではありますが、やらなくて良かったです(⌒-⌒; )

 

まとめ

固く太い、ヘアワックス付けなくても立つほどの髪

 

柔らかく細い、軽いパーマをかけたような髪

 

  • 暫くして変化してきた髪質

柔らかく細いのは変わらず、ストパーをかけたような髪質

 

髪質が良くなったのは、髪がない時でもしっかりシャンプーをしていたからなのでは無いか?

 

経験談なだけで皆さんがこうなるとは言えません。

一つの経験談として知ってもらえると嬉しいです。

読んでくださりありがとうございます。

維持療法と高校生活

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僕は高校に進学しました。

退院はしましたがまだ白血病の治療は終わっていません。

 

維持療法

今後は外来での治療と、短期入院での治療があります。

この最後の段階の治療を維持療法と言うそうです。

 

  • 外来治療

外来治療では、1時間程抗癌剤を入れていました。

見ただけで吐き気を起こす、僕のトラウマなオレンジ色の抗癌剤です。

吐き気は起こすものの、少量だからか吐く事はあまり無かったと記憶しています。

 

飲み薬でプレドニン(ステロイド薬)も飲んでいました。

副作用で顔が丸くなったり、食欲が増えます。

薬を飲んでる期間は、吐き気があるからというのもありますが、太るのが嫌で一切食事を摂っていませんでした。

例え薬の副作用が原因であったとしても、太った自分がコンプレックスだったんです。

 

  • 入院治療

入院治療は4、5日間でした。

毎日抗癌剤を入れます。

2、3ヶ月に1回くらいのスパンで入院治療していたと思います。

 

通院

病院は基本的に平日しかやっていません。

なので必然的に学校を休んで通うことになります。

なので僕はよく早退して病院に向かっていました。

よく早退する僕が周りにはどう映っていたのでしょうか。

 

高校での自分

入学してから、僕は自分が白血病で入院していたという事を誰にも伝えていませんでした。

それは例え病気が原因であろうと、髪が抜けて太った自分を知られたくないという思いがあったのだろうと思います。

病気の事を聞かれると当時を思い出し、吐き気が呼び起こされるのもあったと思います。

 

よく早退する僕に『なんで帰るの?』と問い詰められても。

中学の卒業アルバム見せてと言われても。

僕は全て誤魔化し続けました。

 

担任の先生だけが僕の病気を知っていました。

 

体育の授業

僕の高校の行事にマラソン大会がありました。

全員参加で男子は10kmくらい走らなければならないハードな行事です。

初めての体育の授業はとても厳しいもので、授業開始から終わりまで只管一定ペースで走り続けるというものでした。

元々体力がない上に最近まで入院していた僕には当然無理です。

1人だけ付いて行けませんでした。

死にかけでしたね(⌒-⌒; )

 

体育教師はとても厳しい人で、全然付いていけない僕に

『お前なんで付いて来ないのよ』と

キレました。

僕は息絶え絶えに病気で最近まで入院していた事を説明しました。

 

次回から僕は歩くだけで良くなり、マラソンにも参加しなくていい事になりました。

厳しかった教師は僕にだけ優しくなりましたね。笑

ですが、皆んなが出来る事が自分には出来ないという事が悔しかったことも覚えています。