新疆の若干の歴史問題(中国国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)

以下の文章の翻訳を試みました。

中華人民共和国国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』(2019年7月)

 グーグルの機械翻訳が使い物にならないので、拙訳を試みました。1章ずつ追加していきます。

新疆の若干の歴史問題

(2019年7月)

中華人民共和国 国務院新聞弁公室

目次

はじめに

1.新疆は中国領土の不可分の一部である

2.新疆は従来「東トルキスタン」であったことはない

3.新疆の各民族は中華民族の構成要素である

4.ウイグル(維吾爾)族は長期の移住と融合によって形成された

5.新疆各民族の文化は中華文化の構成要素である

6.新疆は歴代、多種の宗教が併存する地域であった

7.イスラム教はウイグル(維吾爾)族が最初からの信仰ではないし唯一の信仰でもない

おわりに

附録:中国歴代紀元簡表

 

 

はじめに

 中国の新疆ウイグル(維吾爾)自治区は、中国の西北、ユーラシア大陸の内奥に位置している。モンゴル国、ロシア、カザフスタンキルギスタンタジキスタンアフガニスタンパキスタン、インドの八ヵ国と隣接しており、有名な「シルクロード」はここで古代中国と世界とをつなげ、多くの文明が一堂に会する場所であった。

 中国は統一された多民族国家であり、新疆の各民族は中華民族の血のつながった家族の一員である。長い歴史的発展の過程で、新疆の運命は常に偉大な祖国そして中華民族の命運と密接に関連してきた。しかし、ある時期以来、国内外の敵対勢力、特に民族分裂主義勢力、宗教過激主義勢力、および暴力的テロリズム勢力(以下「3つの勢力」と呼ぶ)が、中国を分裂させ瓦解させる目的を達成するために、下心を持って歴史を歪曲し、是非を混同してきた。彼らは新疆が中国固有の領土であることを抹殺し、新疆が古来、多民族集住、多文化交流、多宗教併存であった等の客観的事実を否定し、新疆を「東トルキスタン」などと言いふらし、新疆「独立」を騒ぎ立て、新疆各民族と中華民族大家庭、新疆の各民族文化と多元一体の中華文化とを引き裂こうと企図している。

 歴史を改竄することはできず、事実を否定することはできない。新疆は中国の真正な領土であり分割できない一部分である。新疆は従来決して「東トルキスタン」であったことはなく、ウイグル(維吾爾)族は長期的な移住と融合とによって形成されたものであり、中華民族の構成要素である。新疆は多文化多宗教の併存した地区であり、新疆各民族の文化は中華文化の懐の中で成長し発展したものである。イスラム教はウイグル(維吾爾)族の最初から信仰した宗教ではないし、また唯一信仰した宗教でもなく、中華文化と融合したイスラム教は中国の肥沃な国土に根ざし健康に発展している。

 

1.新疆は中国領土の不可分の一部である

 中国における統一された多民族国家の形成は、社会経済発展の歴史的な必然である。歴史上、中華民族並びにその先民を育てた東アジア大陸には、農耕地区だけでなく、遊牧地区なども存在する。各種の生産生活様式を持った族群の相互交流、移住と集合、衝突と融合は中国における統一された多民族国家の形成と発展を促進した。

 中国歴史上、最も初期の諸王朝、夏、商、周は前後して中原地区で興起し、その周囲の大小の氏族、部族、部族連盟の徐々の融合によって形成された族群は諸夏あるいは華夏と一般に呼ばれている。春秋時代から戦国時代にかけて、華夏族群は同王朝周辺の氏族、部族、部族連盟と交流融合し、徐々に斉・楚・燕・韓・趙・魏・秦など七つの地区を形成し、また別個に東夷・南蛮・西戎北狄などの周辺諸族と連係した。紀元前221年、秦の始皇帝は初めて統一された封建王朝を樹立した。紀元前202年、漢の高祖、劉邦は再び統一された封建王朝を樹立した。

 漢代から清代の中晩期に至るまで、新疆の天山山脈の南北を含む広大な地域は西域と総称された。漢代以来、新疆地区は正式に中国の版図の一部となった。漢王朝以降、歴代の中原王朝は強い時もあれば弱い時もあり、西域との関係も緊密な時期もあればそうでない時期もあった。中央政権の新疆地区に対する統治はしっかりしていた時もあれば緩い時もあったが、いずれの王朝も西域を国土と見なして当該地区に対する管轄権を行使した。中国の統一された多民族国家の歴史の発展において、新疆の各民族人民は全国人民と共に中国の広大な境域を開拓し、多元一体の中華民族大家庭を創造した。中国多民族の大一統の格局は、新疆の各民族人民を含むすべての中華の子女が共同奮闘して作ったものである。

 前漢初期には、中国北部の遊牧民族である匈奴が西域を支配し、不断に中原を侵犯した。漢の武帝が即位した後、一連の軍事的並びに政治的措置を取って匈奴に反撃した。紀元前138年と紀元前119年に、張騫を二度西域に派遣し、月氏烏孫などと連合して共同で匈奴に対処した。紀元前127年から紀元前119年の間に、三回出兵して匈奴に重い打撃を与え、内地の西域の要衝に通じる重要経路には前後して武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を設置した。紀元前101年、輪台等の地区で屯田を行い、地方官吏を置いて管理した。紀元前60年、天山山脈東部北麓を支配していた匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が漢に降り、前漢が西域を統一した。同年、西域都護府を設け西域を管轄する軍事機構とした。西暦123年、後漢西域都護府を西域長吏府と改め、続けて西域を管轄させた。

 三国の曹魏政権は漢の制度を継承し、西域に戊己(ぼき)校尉を置いた。西晋は西域に西域長吏そして戊己校尉を置き軍事政治事務を管轄した。三国両晋時代、北方の匈奴鮮卑・丁零・烏桓等の民族グループは内地に移動し、最後には漢族と融合した。327年、前re凉政権は初めて郡県制を西域に拡大し、高昌郡(トルファン盆地)を設立した。460年から640年、トルファン盆地を中心として、漢人を主体の住民とした高昌国が設立され、闞(かん)氏、張氏、馬氏、麹(きく)氏と(支配者が)交替した。隋代、中原の長期の割拠状態が終了し、郡県制は新疆地区の範囲に拡大された。突厥、吐谷渾(とよくこん)、党項(タングート)、嘉良夷などの周囲の民族は前後して隋朝に帰附した。唐代には、中央政権による西域の管理は大幅に強化され、前後して安西大都護府そして北庭大都護府が設置され、天山南北を統括した。于闐(ホータン)王国は唐の宗属と自称し、唐の国姓である李を名乗りました。宋代、西域の地方政権と宋朝朝貢関係を保持した。高昌回鶻王国は中朝(宋)を尊んで舅と為し、西衆の外甥と自称した。カラハン王朝は何度も使節を宋に派遣し朝貢した。元代、北庭都元帥府、宣慰使等を設け、軍事政治事務を管轄し、西域に対する管理を強めた。1251年、西域に行省制を実施した。明代には、中央政権が哈密(ハミ)衛を設立し、西域の事務を管轄する機構とし、併せて嘉峪関と哈密(ハミ)の間に前後して安定、阿端、曲先、罕東、赤斤蒙古、沙州の六衛を設け、西域事務の管理を持ちこたえた。清代、清朝ジュンガルの叛乱を平定し、中国西北境界を確定することが出来た。以後、新疆地区にはなお一層の系統的な統治が実施された。1762年、伊犂(イリ)将軍が設立され、軍事政治一体の軍府体制が実行された。1884年、新疆に省が設立され、かつ「かつての領土が新たに帰属した」の意を取って、西域は「新疆」と改称された。1912年、新疆は積極的に辛亥革命に呼応し、中華民国の一省となった。

 1949年、中華人民共和国が成立し、新疆は平和解放された。1955年、新疆ウイグル(維吾爾)自治区が成立した。中国共産党の指導の下、新疆の各民族人民は全国人民と共同して団結し奮闘し、新疆は歴史上最良の繁栄と発展の時期に入った。

  長い歴史の過程において、中国の境域は分裂していた時期もあったが、統一されていた時期もあり、統一と分裂のサイクルが繰り返され、国家の統一発展が常に主流の方向であった。中原地区に異なった時期にかつて諸侯国や割拠政権が存在したこたがあったように、新疆地区でも地方政権割拠の状況が数多く出現した。しかし、これらの政権割拠の期間が長く、状況が深刻であっても、最終的には再統一に向かった。歴史上、西域には異なった時期に存在した「国」は、都市国家・行国・封国・王国・汗国・王朝・属国・朝貢国などの形態を含め、漢代の西域三十六国はもちろん、更には宋代のカラハン王朝、高昌回鶻王国等、元代のチャガタイ汗国、明代のヤルカンド・ハン国にしろ、みな中国境域内の地方政権の形態を取っており、全て独立国家ではなかった。すなわち地方割拠政権であり、みな濃厚な中国との一体意識を持っているか、自身を中原政権の分枝と見なしているか、中原政権に臣属していた。宋代の著名な歴史文献『突厥語大詞典』は当時の中国を上秦(上China)・中秦(中China)・下秦(下China)の三部分に分け、上秦は北宋、中秦は遼朝、下秦をカシュガル一帯、三位一体で完全な秦と為した。『長春真人西遊記』では漢人は桃花石と呼ばれ、相応して『突厥語大詞典』では、回紇(古代ウイグル)人は塔特・桃花石、直訳すれば中国回紇(古代ウイグル)人となる。カラハン王朝時代の硬貨には、常に桃花石・ボグラ=ハーン、秦(China)の王並びに秦と東方の王等の呼称があり、中国の一部分であることを示している。

 

2.新疆は「東トルキスタン」であったことはない

 突厥は6世紀中葉にアルタイ山に興った遊牧部族であり、552年には柔然汗国を滅ぼし、突厥汗国を建てた。583年、突厥汗国はアルタイ山脈を境に東西の二大勢力に分裂した。630年、唐は派兵して東突厥汗国を滅ぼした。657年、唐は回紇(古代ウイグル)と連合して西突厥汗国を滅ぼし、中央政権は完全に西域を統一した。682年、北部に配置されていた東突厥の部衆が唐に叛き、ひとたび後突厥汗国政権を樹立した。744年、唐朝と漠北の回紇(古代ウイグル)、葛邏禄(カルルク)などが連合し後突厥汗国を平定した。回紇の首領クトゥルグ・ボイラは功績により懐仁可汗に冊封され、漠北に回紇汗国を樹立した。突厥は我が国古代の一遊牧民族であり、また汗国の滅亡に随って8世紀中後期には解体し、そして中央アジア西アジアに西遷する過程で現地の部族と融合し、多くの新らしい民族を形成した。新らしい民族とかつての突厥民族との間には本質的な区別がある。こうして、突厥は我が国北方の歴史舞台から退場した。

 中国の歴史上、新疆は「東トルキスタン」と称されたことはないし、いわゆる「東トルキスタン国家」のようなものが存在したことはない。18世紀前半から19世紀前半にかけて、アルタイ語系の「突厥」(テュルク)語族が西洋によって様々な言語に区分されるに随って、一部の国の学者や作家は頻繁に「トルキスタン」という語を使用した。それは天山山脈以南からアフガニスタン北部、おおよそ新疆南部から中央アジアに至る地域を含め、かつ習慣的にパミール高原を境界として、この一地理区域を「西トルキスタン」と「東トルキスタン」に区分した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、「汎テュルク主義」と「汎イスラム主義」の思潮が新疆に流入してから、国内外の分裂主義勢力はこの地理的用語を政治化し、その含意を拡大し、すべてのテュルク語を使用しイスラム教を信仰する民族が連合し、政教一致の「東トルキスタン国家」を形成するよう騒ぎ立てた。いわゆる「東トルキスタン」の議論は、国内外の民族分裂勢力、国外の反中国勢力が中国を分裂させ、中国を解体させる政治的ツール並びに行動綱領となっている。

 

3.新疆の各民族は中華民族の構成要素である

 中華民族の形成と発展は、中原の各民族の文化と周辺諸民族の文化との不断の往来と交流、融合の歴史的過程である。先秦時期の華夏族群は長期に渡る周囲の族群との多元的な融合を経て、特に春秋戦国時代の500年余りの大激動による合流と融合を経て、秦漢の際に至って、更に進んで周囲の族群と融合して一体となり、中原人口の多数を占める漢族を形成し、これより中国歴史の過程の主体民族となった。魏晋南北朝時期、様々な民族、とりわけ北方少数民族が中原に大移動し、大融合の局面が出現した。13世紀の元朝が設立され、空前の規模の政治的統一の局面は空前の規模の民族移動を推進し、元朝境域内で広範な民族雑居の局面を形成した。中華各民族は長期の発展の中で、最終的には大雑居、小集住という分布特徴を形成した。多民族は中国の一大特色であり、各民族は共同で祖国の素晴らしい山河、広大な境域を共同で開発し、共同で悠久な中国歴史と輝かしい中華文化を創造した。

 新疆地区は古来、中原地区と密接な関係を維持してきた。早くも商代には、中原は西域と玉石の貿易があった。漢代には、張騫は「西域を掘鑿」しシルクロードを打通し、結果、使者は道に相望むや、商旅は途に絶えず(使節が道路を見ると、旅の承認の行き来が絶えることはなかった=往来が繁華であった、という状況を作り出した。) 唐代、「絹馬互市」(*1)(絹馬貿易=農耕民の漢人側が絹・茶など、遊牧民側が馬・羊などとをそれぞれ交換する交易のこと)は繁栄を続け、「天可汗(*2)の大道に参ずれば」内地に直通し、沿道の宿駅は数多く分布し。西域の先民と中原との密接な連携の紐帯となった。于闐(うてん、ホータン)楽、高昌楽、胡旋舞など西域の舞楽も宮廷に深く入り、長安では西域風が流行した。今の新疆庫車(クチャ)の亀茲の楽は中原で名声を博し、隋唐から宋代の宮廷の燕楽の重要な構成部分となった。近代以降、中華民族が危急存亡の生死の分かれ目に直面した際、新疆各族人民は全国の人民と共に、奮起して反抗し、共に国難に赴き、共に感涙の愛国主義の楽曲を創作した。新中国成立以来、新疆各族人民は平等・団結・互助・和諧の新時期に入った。

 新疆は昔から多民族の集住地区である。最も早く新疆地区を開発したのは先秦から秦漢時期に天山南北で生活した塞人(サカ)、月氏人、烏孫人、羌人、亀茲人、焉耆人、于闐人、疏勒人、莎車人、楼蘭人、車師人及び匈奴人、漢人等であった。魏晋南北朝時期の鮮卑柔然、高車、■(口に厭)噠、吐谷渾、隋唐時期の突厥吐蕃、回紇(古代ウイグル)、宋遼金時期の契丹元明清時期のモンゴル、女真、党項(タングート)、カザフ、キルギス、満、シボ、ダフール、回、ウズベクタタール族等、どの歴史時期にもすべて漢族を含む異なった民族の人口が大量に新疆地区に進出し、異なった生産技術、文化観念、風俗習慣をもたらし、融合と交流の中で社会経済の発展を促進した。彼らは新疆地区の共同開発者である。19世紀末に至って、ウイグル(維吾爾)、漢、カザフ、モンゴル、回、キルギス、満、シボ、タジク、ダフール、ウズベクタタール、ロシアなど13の主要民族が新疆に定住し、ウイグル(維吾爾)族の人口が多数を占める、多民族集住の構造を形成した。各民族は新疆地区で生まれ育ち、分化し、混じり合い、血は水よりも濃い、禍福を共にする関係を形成した。各民族はみな新疆の開発、建設、防衛の為に重要な貢献を行い、みな新疆の主人である。現在、新疆には56の民族が共に生活する、中国の民族成分が全て揃っている省級行政区の一つである。その中でも、人口100万を超えるのはウィグル(維吾爾)族、漢族、カザフ族そして回族の4つの民族、人口10万を超えるのはキルギス族、モンゴル族の2つの民族である。新疆地域は新疆各民族の故郷であるだけでなく、中華民族の共通の故郷の構成部分である。

 新疆地区の民族関係の変遷は、常に中華各民族の関係の変遷と関連してきた。各民族にはわだかまりや衝突もあれば交流や融合もあり、団結凝縮、共同奮闘前進が常に主流である。新疆各民族を内包する中華民族は、分布上、交錯雑居、経済上の相互依存、文化上のまるごとの吸収、感情面の相互親近は、汝の中に我有り、、我の中に汝有り、誰も誰からも離れられない多元一体の構造を形成し、これは一つの大家族の中の異なった成員の関係である。中華民族の大家族の中で、新疆各民族は兄弟のように相親しみ、事あらば助け合い、禍福が関わり合い、栄辱を共にし、共同で生産活動を行い、外からの侵略を防ぎ、民族分裂に反対し、祖国の統一を擁護する。

 (*1)「絹馬互市」=絹馬貿易。農耕民の漢人側が絹・茶など、遊牧民側が馬・羊などとをそれぞれ交換する交易のこと。

 (*2)天可汗(テングリカガンの漢訳)、遊牧民が唐の太宗(李世民)に贈った称号。遊牧民の最高君主、「世界皇帝」を意味する。

 

4.ウイグル(維吾爾)族は、長期にわたる移住と融合によって形成された

 ウイグル(維吾爾)族の先民の主体は隋唐時期の回紇(古代ウイグル)であり、モンゴル高原で活動し、烏紇、袁紇、韋紇、回紇など多くの漢訳名称があった。回紇人は突厥の圧迫と奴隷のような酷使に反抗するため、鉄勒諸部族中の仆固、同羅部族などと共に回紇部族同盟を結成した。744年、回紇各部族を統一した首領・骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は唐朝の冊封を受けた(懐仁可汗)。788年、回紇の支配者は唐朝に上書し、自ら「回紇」と改称することを願った。840年、回紇汗国は黠戛斯(今のキルギスの祖)に攻め破られ、回紇人は内地に移り漢人と融合した一部を除き、その他は3つに分かれた。1つはトルファン盆地と今日のジムサル地区(新疆東北北部)に移り、高昌回紇王国を建てた。1つは河西回廊に移り、当地の諸族と交流融合し、ユーグ族を形成した。1つはパミール以西に移り、後に中央アジア今のカシュガル一帯に分布し、カルルク、ヤグマーなどの部族と共にカラハン王朝を樹立した。回紇人は相次いでトルファン盆地の漢人タリム盆地の焉耆人、亀茲人、于闐人、疏勒人などを融合し、近代ウイグル(維吾爾)族の主体を構成した。元代、ウイグル(維吾爾)族の先民は漢語(中国語)ではまた畏兀儿と称された。元明時期、新疆各民族は更に融合を進め、モンゴル人とりわけチャガタイ汗国のモンゴル人は基本的に畏兀儿人と一体となり、畏兀儿は新しい血を補充した。1934年、新疆省は政令を発し、維吾爾を漢文(中国文)での規範的な称号として使用することを決定しました。というのも相互の団結を擁護するためであり、初めてUygurという名の本義を精確に表現した。

 歴史上、ウイグル(維吾爾)の祖先は突厥人によって奴隷化され、両者は奴隷化される者と奴隷化する者と関係であった。ウイグル(維吾爾)族の祖先である回紇は初期は突厥の支配を受け、唐朝の軍隊の支持の下、兵を起こして東突厥汗国に反抗し、かつ前後して西突厥汗国、後突厥汗国を攻滅した。西突厥汗国の滅亡後、突厥(テュルク)語族の言語を使用していたいくつかの部族は西方に移動し、その中の一支は長期に渡って転々として小アジアに西遷し、現地の諸民族に溶け込んだ。ウィグル(維吾爾)人は突厥人の後裔ではない。

 近代以来、若干の「汎テュルク主義」分子は西遷して現地の諸民族に溶け込んだ一部の部族がテュルク語族の言語を使用していたことを口実に、テュルク語族の言語を使用する諸民族は皆テュルク人であると言いなした。これは下心があるものである。語族と民族とは2つの異なった概念であり、本質的な区別がある。中国でテュルク語族の言語を使用するものにはウィグル(維吾爾)、カザフ、キルギスウズベクタタール、ユーグ、サラ等の民族があり、彼らは皆各自の歴史と文化の特質があり、決して所謂「テュルク族」の構成部分ではない。

 

5.新疆各民族の文化は中華文化の構成部分である

 中華民族には5000年以上の文明の発展史があり、各民族は共同で悠久なる中国の歴史と燦爛たる中華文化を創造した。秦漢の雄風、盛唐の気風、康煕乾隆の盛世、これらは各民族が共同で成し遂げた栄光である。多民族多文化は中国の一大特色であり、また祖国発展の重要な原動力である。

 古来、地理的な差異と地域発展の不均衡により、中華文化は豊富な多元状態を呈し、南北、東西の差異が存在した。春秋戦国時代、各々の特色を持った地域文化は大体形成されていた。秦漢以降、歴代を経て、中国の広大な境域には、移住、集合、戦争、和親、交易などを通じて、各民族の文化は不断に交流融合を続け、最終的に気風広大な中華文化が形成された。

 早くも2000年前には、新疆地域は西方へ向かって中華文明が開け放った門戸であり、東西文明の交流と伝播の重要地域であり、ここでは多元な文化が粋を集め、多様な文化が併存した。中原文化と西域文化の長期間の交流と融合は、新疆各民族の文化の発展を推進しただけでなく、多元一体の中華文化の発展を促進した。新疆各民族の文化は最初から中華文化の刻印が打たれている。中華文化は終始、新疆各民族の情感の拠り所であり、魂の落ちつく所であり、精神のふるさとであり、また新疆各民族の文化の発展の原動力の源である。

 中原と西域との経済的文化的交流は先秦時期に開始した。漢代には、漢語(中国語)は西域の官府文書の共通語の一つであり、琵琶、羌笛などの楽器が西域からあるいは西域を通して中原に移入し、中原の農業生産技術、儀礼制度、漢語(中国語)書籍、音楽舞踏などが西域に広く伝播した。高昌回紇は10世紀の後半まで唐代の暦書を使用し続けた。唐代の詩人、岑参(しんじん)の詩句「花門(少数民族)の将軍 胡歌を善くし、叶河の蕃王 漢語を能くす」は、当時の新疆地区の住民が漢語(中国語)を併用しており、文化繁栄の情景の描写である。宋代には、天山山脈南麓の仏教芸術はまだまだ繁栄しており、今なお多くの遺跡が残っている。西遼時期、契丹人はカラハン王朝を征服し、新疆地区と中央アジアを支配したが、典章(制度文物)礼制は多く中原の旧制を踏襲した。元代、多くの畏兀儿(ウィグル)等の少数民族が内地に移住して生活し、漢語(中国語)の使用を学習し、ある者は科挙の試験を受けて各級の官員に採用され、一群の政治家、文学者、芸術家、歴史家、農学家、翻訳家等が頻出し、新疆各民族の文化の発展に寄与した。明清時期、イスラム文化の影響を受け、新疆各民族の文化は域外の文化を吸収または衝突する過程で発展を続けた。近現代以来、辛亥革命、ロシア10月革命、五・四運動、新民主主義革命闘争の影響の下、新疆各民族の文化は現代的に変貌し、各民族の国家アイデンティティ中華文化アイデンティティは新たな高みに到達した。新中国成立後、新疆各民族の文化は歴史上前例のない大繁栄大発展の時期に入った。歴史は証明している。新疆地区はおよそ多言語が併用され、交流が頻繁な時期には各民族の文化は勃興し、社会が進歩した時期であった。国家に通用する言語と文字の学習が新疆各民族の文化を繁栄発展させることは重要な歴史の経験である。

 新疆各民族の文化は終始、中華文明の沃土に根を下ろした中華文明の不可分の一部である。イスラム文化が新疆に伝わるより前に、ウィグル(維吾爾)文化を含む新疆各民族の文化は既に中華文明の沃土の中で枝葉を茂らせていた。7世紀のアラブ文明体系に淵源するイスラム文化は、9世紀末から10世紀の初め、イスラム教が西域へ伝来して初めて新疆各民族の文化に影響を与え始めた。宗教の文化に対する影響は、自ら願って受け入れる場合もあれば、文化衝突や甚だしきに至っては宗教戦争のような強制的な方法を通す場合もある。新疆では、イスラム教はかなりの程度で後者の方式で入っており、これは仏教が流行していた時代に創造された新疆各民族の文化芸術に重大な破壊をもたらした。イスラム文化の新疆への伝来に対し、新疆各民族の文化は抵抗だけでなく、選択的に吸収して中国化の改造を行い、中華文明に属する特質と方向を改変しなかっただけでなく、中華文化の一部分に属するという客観的事実を改変しなかった。9世紀から10世紀にかけて誕生した英雄叙事詩『マナス』は、キルギスの歌手によって代々伝唱され加工され、国内外に名声を博した文学巨編である。15世紀前後、モンゴル族オイラートの英雄叙事詩『ジャンガル』は新疆地区で徐々に形成され、『マナス』『ケサル王伝』と共に中国少数民族三大著名叙事詩の誉れを受けている。ウィグル(維吾爾)族の文学は優れた作品が頻出し、代表作には『福楽の智慧』『真理の入門』『突厥語大詞典』『十二ムカム』など、すべて中華文化の宝庫中の珍品となり、新疆各民族の中華文化の形成と発展に対する貢献となっている。

 中華文化アイデンティティは、新疆の各民族文化の繁栄と発展の基礎である。歴史上、おおよそ中央王朝が新疆に対して効果的な統治を行い、社会が安定した時代に、新疆各民族の文化と中原文化の交流融合は円滑になり、経済文化は隆盛繁栄した。おおよそ新疆各民族の文化は中華文化の仁愛を崇め、民本を重んじ、誠信を守り、弁証法的に話し、和合を尚とび、大同を求める思想を継承し、多元な文化を吸収融合、相反するものも包括し、多元一体の特徴は益々顕著になっており、新疆各民族の文化はますます進歩している。新疆各民族の文化が繁栄発展するには、必ず時代と共に進み、開放、包容の理念を樹立し、中華各民族文化との交流融合を堅持し、世界の多民族文化と交流し学び合い、各民族共有のスピリッチュアルホームを構築しなければならない。

 

6.新疆は歴代、多種の宗教が併存する地域である

 中国は古来、多宗教の国であり、組織的、制度的に比較的強固ないくつかの大宗教以外にも、大量の民間信仰が依然として存在している。道教民間信仰が中国で生まれ育っただけでなく、その他にも国外から流入した。新疆地区もまた歴代多種の宗教が併存し、一つの宗教或いは二つの宗教が主であり、多数の宗教の併存は新疆の宗教構造の歴史的特徴であり、交流融合と共存が新疆宗教関係の主流である。

 新疆での多種の宗教の併存状況の形成と進化とは長い歴史的過程を経てきた。紀元前4世紀以前には、新疆で行われていたのは原始宗教であった。おおよそ紀元前1世紀頃、仏教が新疆に伝来され、4世紀から10世紀にかけて、仏教は全盛期を迎えた。同時期、祆教(ゾロアスター教)は新疆各地で流行した。16世紀末から17世紀初めにかけて、チベット仏教は新疆北部地域で徐々に興隆した。道教は5世紀前後に新疆に入り、主にトルファン、ハミなどの地で盛んであり、清代には新疆の大部分の地区でもう一度復興した。マニ教景教ネストリウス派キリスト教)は6世紀に相次いで新疆に伝来した。10世紀から14世紀には、景教は回紇(古代ウィグル)等の民族が信仰し隆盛した。

 9世紀末から10世紀初め、カラハン王朝はイスラム教を受け入れ、10世紀中葉には仏教を信仰していた于闐(ホータン)王国に対し40年以上の宗教戦争を発動し、11世紀初めには于闐(ホータン)を滅亡させ、イスラム教の推進を強制し、この地区で千年以上の歴史を持つ仏教を終結させた。イスラム教の不断の伝播に伴い、ゾロアスター教マニ教ネストリウス派キリスト教などの宗教は日ましに衰退した。14世紀中葉、東チャガタイ汗国の支配者たちは、戦争などの強制的手段により、イスラム教を徐々にタリム盆地北縁、トルファン盆地、ハミ一帯に押し広げた。16世紀初めまでに、新疆ではイスラム教が主要な宗教で、多種の宗教が併存するという構造が形成され今日まで続いており、もともと地元の住民が信仰していたゾロアスター教マニ教ネストリウス派キリスト教などは次第に消滅していき、仏教と道教が今なお存在している。17世紀初め、オーラート部モンゴル人はチベット仏教を受け入れた。おおよそ18世紀以来、プロテスタントカトリック、そして東方正教が相次いで新疆に伝来した。

 新疆には現在、イスラム教、仏教、道教プロテスタントカトリック、当方正教などの宗教が存在する。モスク、教会、寺院、道観などの宗教施設は2.48万ヶ所、宗教聖職者は2.93万人である。その内訳は、モスク2.44万ヶ所、仏教寺院59ヶ所、道観1ヶ所、プロテスタント教会(集会所)227ヶ所、カトリック教会(集会所)26ヶ所、東方正教会の教会(集会所)3ヶ所が存在する。

 世界の大部分の国と同様、中国は政教分離の原則を遵守している。いかなる宗教も政治に関与したり、政務に関与したりすることは出来ない。宗教を利用して行政、司法、教育、結婚、家族計画などに関与したりすることは出来ない。宗教を利用して正常な社会秩序、労働秩序、生活秩序を妨げたり、宗教を利用して中国共産党社会主義制度、民族団結と国家の統一に反対することは出来ない。

 新疆は国家の信仰の自由という憲法の原則を全面的に貫徹しており、宗教を信仰する自由、また宗教を信仰しない自由を尊重するだけでなく、宗教信仰と不信仰、この宗教を信じるかあの宗教を信じるか、この教派を信じるかあの教派を信じるかで、大衆の間に紛争が作り出されることを決して許さない。新疆は常に各宗教の一律平等を堅持し、全ての宗教を一視同仁(平等)に扱い、特定の宗教を支持したり、また特定の宗教を差別したりせず、いかなる宗教もその他の宗教を超越する特殊な地位を享有することは出来ない。新疆は常に法律の前での人々の平等を堅持し、宗教を信仰する大衆にも信仰しない大衆にも同等の権利を享有させ、同等の義務を履行させ、どのような人間も、どの民族も、どの宗教を信仰しても、違法行為を行えば、必ず法によって処理される。

 それが所属する社会に適応することは宗教の生存と発展の趨勢であり法則である。中国の宗教の発展の歴史は証明している。ただ中国化の方向を堅持することによってのみ、宗教は初めて中国社会によりよく適応できる。新中国成立の70年の歴史はまた証明している。宗教はただ社会主義社会と適応することによってのみ、健康に発展することができる必ず独立自主、自己管理の原則を堅持し、一切の「脱中国化」の傾向を防止しなければならない。世俗化され現代化された文明的な生活様式を強力に培い提唱しなければならず、愚昧で遅れた古くさいしきたりや陋習は放棄しなければならない。宗教の中国化の歴史伝統を発揚し、社会主義の核心的価値観を用いて導かねばならず、中華文化を中国の各宗教に浸透させ、宗教教義と中華文化を融合させ、積極的にイスラム教を含む各種の宗教を中国化の道に導かねばならない。

 

7.イスラム教はウイグル(維吾爾)人の天生の信仰ではないし唯一信仰する宗教でもない

 ウイグル(維吾爾)族の先民は最初は原始宗教とシャーマニズムを信仰し、後に相次いでゾロアスター教、仏教、マニ教ネストリウス派キリスト教イスラム教などを信仰してきた。唐宋時期には、高昌回紇王国と于闐(ホータン)王国では、上は王侯貴族から下は底辺層の民衆に至るまで普遍的に仏教を信仰した。元代、大量の回紇(古代ウィグル)人がネストリウス派キリスト教に改宗した。今日に至っても、なおいくらかのウイグル(維吾爾)族大衆はイスラム教以外の宗教を信奉し、多くの人は宗教を信仰していない。

 イスラム教の新疆地区への伝来は、アラビア帝国の興隆とイスラム教の東方への拡張と関連がある。ウイグル(維吾爾)族がイスラム教を信仰したのは、当時の民衆が主体的に改宗し転換したのではなく、宗教戦争と支配階級の強制推進の結果である。この種の強迫は決して今日ウイグル(維吾爾)族の大衆がイスラム教を信仰する権利を尊重することに影響しないが、それは歴史的事実である。イスラム教はウイグル(維吾爾)族の天生の信仰する宗教でないばかりか、唯一信仰する宗教でもない。

 新疆のウイグル(維吾爾)、カザフ等の民族の先民はイスラム教を受け入れる過程で、これらの民族が元から持っていた信仰や文化伝統を保持してきたし、また新疆地区のその他の民族や内地の文化を吸収した。いくばくかの元から持っていた宗教観念、儀式、風俗習慣は進化を経て存続しているし、かつ相互に影響し、徐々に鮮明な地域的特徴と民族的特色を持った新疆のイスラム教を形成した。例えば、イスラム教はもともとアッラー以外のいかなる人も物も崇拝することに反対するが、ウイグル(維吾爾)族は今なお麻扎(マザ、墓地?)崇拝があり、これはイスラム教の本土化の典型的な表れである。麻扎(マザ)の上には高い棹を立てたり、のぼりをかけたり、羊の皮をかけるなどの習俗があり、これはシャーマニズム、仏教など多元な宗教の残存である。例えば、乾隆年間に初めて建てられた伊宁(イーニン)市の拜拉(バトゥラ)モスク、ウルムチの斉陝西大寺などは、建設された時に内地伝統の梁柱構造を採用している。これは全てイスラム教の中国化の具体的表れである。 

 注意しなければならないのは、20世紀70年代末から80年代初め以来、特に冷戦終結後、国際的な宗教的過激主義の思潮の影響を受けて、宗教過激主義が新疆で蔓延し、暴力的なテロ事件が頻発し、新疆社会の安定と人民の生命財産の安全に重大な危害をもたらした。宗教過激主義は、宗教的な外皮をかぶり、宗教的な旗印を打ち立て、「神権政治論」「宗教至上論」「異教徒論」「聖戦論」などを宣揚し、暴力テロを扇動し、民族対立を引き起こした。宗教過激主義はイスラム教などの宗教が唱導する愛国、平和、団結、中道、寛容、善行などの教義とは全く相反するものであり、その本質は反人道的、反社会的、反文明的、反宗教的である。宗教的過激主義は宗教に対する裏切りであり、絶対に宗教過激思想と宗教問題とを結び付けることは出来ないし、絶対に宗教問題を宗教過激主義思想の言い訳にしてはならないし、絶対に宗教問題を口実にして、宗教過激主義思想の責任を免罪してはならない。新疆は国際的な経験を鑑み、本地区での実際と結合し、断固たる措置を取り、法に従って反テロ並びに反過激化の闘争を展開し、暴力テロ勢力のすさまじい気焔に厳重な打撃を与えた。宗教過激主義思想の繁殖蔓延を強力に阻止し、新疆核族人民の安全に対する切実な期待を満足させ、基本的人権を保障し、社会の和諧(調和)と安定を維持した。新疆の反テロ、反過激化の闘争は、人類の正義並びに文明の邪悪や野蛮に対する闘争であり、支持、尊重、理解に値する。世界のある国家や組織、あるいは個人は、反テロと人権の「ダブルスタンダード」を実行し、みだりに責め立て、デタラメを言うのは、完全に人類の公理と基本的な良識に違背しており、これは全ての正義と進歩を愛好する人々が決して受け入れることが出来ないものである。

 

おわりに

 歴史的問題は重大な原則問題である。歴史唯物主義(史的唯物論)と弁証唯物主義(弁証法唯物論)の立場、観点と方法を運用して、国家、歴史、民族、文化、宗教などの諸問題を正しく理解し、科学的に新疆の若干の歴史問題に回答することは、中華民族の凝集力、求心力に関係し、中国の統一国家の長期の安定に関係し、地域の安全、安定と発展とに関係する。

 現在、新疆の経済は発展を続け、社会は和諧(調和)安定し、人々の生活は絶えず改善し、文化は空前の繁栄を見せ、宗教は温和で仲睦まじく、各民族人民はザクロの種子のように堅く団結し、新疆は史上最良の繁栄発展の時期にある。内外の敵対勢力と「三つの勢力」は気脈を通じて、歴史を改竄し、事実を歪曲し、歴史の流れに逆らって動いているが、その結果は必ず歴史と人民の唾棄するところとなるだろう。

 新疆は新疆各民族人民のものであり、すべての中華民族のものである。中華文化の立場を堅く守り、中華文化の遺伝子を受け継ぎ、各民族共有のスピリッチュアルホームを構築することは、新疆各民族人民を含む全中国人民の共同の責任であり追及しなければならないことである。現在、習近平同志を核心とする党中央の決然とした指導の下、全国人民の関心と支持の下、新疆各民族人民は正に「二百年」の奮闘目標と中華民族の偉大な復興の夢を実現するべく怠らず努力している。新疆の明日はより美しくなる。新疆の明日はきっとより美しくなる!

子欲居(熊猫さん)的列島社会史論

以下の三つをもって列島社会変革の主要三大メルクマールとする。

  1 「大化の改新」を契機とする列島最初の国家・律令「日本」の成立

  2 「応仁の乱」以降の戦国時代の到来、続く織豊政権江戸幕府の成立

  3 明治維新

 

1 「大化の改新」を契機とする列島最初の国家・律令「日本」の成立以降

大化の改新」を契機とした7世紀末の、いわゆる律令国家の成立をもって、日本最初の国家の成立とすることに関しては、近頃、学界などでも異論がないようである。ちなみに、「日本」という国号を初めて採用したのもこの国家である。それまでの、いわゆる「仁徳天皇」陵に代表されるような河内「王権」にしても、国家形成への過程ではあっても、基本的には原始社会末期段階の産物というべきである。

 内藤湖南は、『応仁の乱について』と題する講演の中で次のように述べている。

 「昔、ごく古くは氏族制度でありましたが、その時分には地方の神主のようなものが多数ありまして、それらが土地人民を持っていたのであります。」

 「神主」とは、いわゆる「豪族」と読み替えればいいと思う。内藤湖南の言うような「神主」(氏族の首長)が「土地人民を持っていた」と言えるような段階は、既に原始社会末期の段階と言ってもいいと思うが、このような当時、原始社会末期段階にあった列島の各氏族部族的共同体に対するゆるやかな支配(貢ぎ物を差し出すような関係)が従来言われてきた「大和朝廷による統一」の実態であったと考えられる。

 実際、『隋書・倭国伝』によると、608年に前年の遣隋使への返礼として、倭国に遣わされた裵世清は、まず百済に渡って海路に出、現在の済州島を南に望みながら、対馬壱岐などを経て、「竹斯国」(筑紫国)に至り、そこから「十余国」を経て、「倭国」の「海岸に達する」のであるが、それに付け加えて「竹斯国より以東は、皆 倭に附庸す。」と記している。「都斯麻国」とか「一支国」と書かれた現在の対馬壱岐が「倭の附庸」とされていないことはさておき、「附庸」とは「(小国が)大国に従う」ことを意味しており、決して倭国の一地方であることを意味したわけではない。これを見ても、当時の倭国の実態というものが分かるだろう。「倭に附庸」していた(おそらく瀬戸内の)「十余国」というのは、だいたい地方の「神主」(豪族)の配下にあった氏族部族的集団と見ていいだろう。

 ともかく、律令国家は、中国の法制に習いながら、このような「神主」(豪族)による土地人民の伝統的支配を「私物化」と糾弾し、各地の「神主」(豪族)を支配層に繰り込むと共に、彼らから土地人民を取り上げ、これを国家が共同体単位ではなく、個人単位で直接支配しようというものであった。

 結果として、従来の共同体は破壊され、共同体内部の階級分化が進行した。かつての共同体の中から新旧の有力者が出現するとともに、過重な負担に耐えかねる農民が出現し、これら農民の「逃亡」は、いわゆる「律令国家の崩壊」と言われる現象を生み出した。これら「逃亡」農民を「庇護」(支配)下においた地方有力者と都の貴族や有力寺社が結び付いた時、荘園公領制の全国展開はもう目の前である。

 「律令国家の崩壊」と言いながら、かえって中央貴族の荘園を通じた全国支配は進行したとも言えよう。しかし、荘園制という中央貴族による私的地方支配が発達していけば行くほど、公的国家の地方支配体制は崩壊していく。もっとも、近頃では「崩壊」するほどの実態が最初からあったのかという議論さえ存在していると聞くが、少なくともそういう議論が出る余地のあるほど、この「律令国家」体制が脆弱なものであったことは間違いない。

 ともかく荘園制の進行にしたがって、律令国家の地方支配体制はどんどん「崩壊」していき、特に地方における社会秩序の維持は、おそらく地方有力者が武装化した武士という「私設警察」(暴力団)に頼らざるを得なくなった。結果として、本来、貴族などに入るべき荘園の取り分が、中間で「ヤクザ」のように介在する武士の懐に入っていったのであり、そのパーセンテージは「1」の時期を通じて、どんどん上昇していくのである。

 それでも、西日本では、中央貴族たちから構成される天皇筆頭政権は、なんとか武士を「飼い慣らし」たようであるが、元々文化的基盤の違った東国ではそうも行かず、やがて東国では「広域暴力団・源組」とも俗称される鎌倉幕府が東国の大小「暴力団」(武士団)をまとめあげ、東国を支配下に置き、京都の朝廷もそれを認めざるを得なくなる。

 ちなみに、筆者は一般に「中世」と言われている時期を一大画期とは認めない。筆者の区分では、中世はせいぜい「1」の後期であり、むしろ「中世」的状況とも言うべき範疇のものと考えている。

 一般に「中世」開幕のメルクマールとされる鎌倉時代にしても、社会の基本基盤はあくまで荘園公領制であり、そこに平安後期と基本的な違いはなく、せいぜい武士の荘園からの取り分が格段に大きくなったぐらいしか認められない。その最たるものが鎌倉幕府による東国支配の承認であろう。

 武士を「新興領主」と見、古い奴隷主貴族に対する新興封建領主たる武士の勃興、これら武士階級による鎌倉幕府による日本全国支配の樹立=すなわち「中世」、日本封建社会の開幕という図式は、確かに俗耳には入りやすいが、列島社会史の実態はもっと複雑な状況を呈しているのである。

 鎌倉幕府は、京都の朝廷の皇位継承等にも干渉し、全国支配への野心を見せたが、鎌倉期を通じて、基本的に勢力圏は東国に限られた。かくして、朝廷(天皇筆頭貴族政権)による西国支配と鎌倉幕府の東国支配という一種の均衡がより、列島の「中世」的状況は、鎌倉期を通じて一定の安定を見せるのであるが、その間にも、社会の最底辺では変革が進行していたようである。特に、宋以降、新たな発展段階を迎えた中国社会から列島にもたらされる巨額の銅銭は、どうも列島社会を早熟に変化させたようであり、それはやがて鎌倉幕府の滅亡、南北朝の大動乱として表面化する。

 事態を暫定的に収拾した室町幕府(「足利組」)は、支配範囲を鎌倉幕府より広域化させ、荘園からの武士の取り分は益々多くなったものの、それでも室町時代を通じて、朝廷の権力は微弱ながらも残存した。一方、鎌倉幕府(「北条組」)と違って、「足利組」の「傘下団体」に対する統制力は弱く、室町時代は「安定」というイメージとはほど遠いのであるが、これも社会の奥底で進行していた変動の結果と取るべきであろう。ともかく、このような変動は、「応仁の乱」を契機に表面化し、列島社会は次の段階に入るのである。

 

2 「応仁の乱」以降の戦国時代の到来、続く織豊政権江戸幕府の成立

 「応仁の乱」の画期性に一早く注目したのは、筆者の知る限り内藤湖南であり、彼はその『応仁の乱について』の中で、ここまで言ってのける。

 「大体、今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」。

 実際、内藤湖南も指摘するごとく、応仁の乱を契機とする戦国時代の間に、公家はもちろん、武家であれ、それ以前の旧勢力はおおかた、その勢力を失った。実際、いまだ戦後変革を経ない内藤湖南の上記講演当時(大正十年、1921年)、「華族」と呼ばれた当時の社会上層部の大部分は旧大名であり、それらの大部分は彼が指摘したごとく、戦国期以降勃興したものたち(徳川将軍自体がそうであったが)であり、それ以前から続くものは薩摩の島津など、辺境部に少数残存していたにすぎなかったのである。

 ただ、もはや「遺物」に過ぎない天皇を始めとする旧「日本」国の勢力(公家)が落魄しながらも京都に残存しており、織田信長はともかく、豊臣秀吉徳川家康が自らの権威付けのために、それらを利用したことが話をややこしくした。実際、秀吉は朝廷から関白に「任ぜ」られ、家康は征夷大将軍に「任ぜ」られて幕府を開いたのである。

 しかし、豊臣天下統一政権下の日本の主権者は豊臣秀吉であり、続く江戸期においては徳川将軍である。かの新井白石なども指摘したとおり、徳川将軍こそが、「日本の皇帝」であり、対外的には「大君」とも称された。天皇は、この時期、三万石の一大名たるに過ぎない。言うならば、戦国期に完全に没落した旧勢力が、その後の「天下統一」の際に、実質的には一大名として、江戸幕府支配下に位置づけられたのである。

 また、現在に直接結び付いていることもあるが、天皇の地位、しいては大方の日本人の歴史認識を決定的にややこしくしたのは、ある意味、明治維新であった。これは当時の新地主・新商人と結びついた薩摩・長州などの西南雄藩の下級武士を中心とした革命であったにもかかわらず、それが既に「遺物」となっていた天皇を担ぎ出し、「王政復古」、「本来」天皇のものであった政権を徳川幕府から取り返すのだという「理念」(「尊皇」)を掲げたのである。しかし、その実質は江戸幕府打倒の革命運動(「攘夷」という当時の民族独立保持運動の側面も閑却できないが)であり、実際、明治維新を伝えた清国の書籍などは、「代々国主が握っていた政権を『ミカド』が奪ったのだ」と書いているものもあるという。

 ともかく、列島は明治維新以降、「日本古来の伝統」という「化けの皮」を被りながらも、近代資本主義社会へと脱皮していく。しかし、そういった「化けの皮」を必要としたくらい、革命というか近代化は不完全であり、「2」以来の、いわゆる封建制の問題が完全に払拭されるには、戦後変革を待たざるを得なかった。

 このような「2」と「3」の一種の継続性を考えた時、むしろ「1」と「2」の差異が内藤湖南の指摘するがごとく際だつのである。

 つまり、戦国期において、一端崩壊した「日本」国は、戦国期を通じて、再び下から再編統合されるのであり、まさに内藤湖南の指摘するごとく、これは「日本全体の身代の入れ替わり」であった。「2」から「3」への以降などは、せいぜい同じ日本国内の革命に過ぎないのであるが、「1」から「2」への移行というものは、革命どころの騒ぎではなく、「2」以降、現在に続く日本が成立していくのであり、確かに「1」以前のことは、「外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬ」という内藤湖南の言葉も真実味を帯びてくるのである。はっきり言えば、国号こそ同じ「日本」であれ、「1」の「日本」と、「2」「3」の日本は違う国といってもよい。筆者が、律令「日本」と「1」の段階の日本国を「 」付けにしたのは、そういう考えからである。

 

3 まとめ

 正直言って、荘園公領制の実態、更にはそれがどのようにして崩壊し、江戸時代に現れるような農村並びにそれに対する領主支配体制が出現したのか、そして江戸期の農村支配体制の中で、どのようにして農村の分化が起こり、戦前まで続いていたような地主制が生じ、発展したか、というような問題に関して書くには作者はまだまだ研究というか、学習不足である。

 ただ言えることは、「1」の時期と「2」「3」の時期の隔絶であり、荘園公領制下の農民と、江戸時代初期の幕藩体制下、更には戦前まで続く地主制下の農民との間には、大きな差異があると言うことである。

 これは武士についても言えることで、「1」の時期の武士と「2」の時期の武士は大きな差異がある。筆者などは「1」の時期の武士は荘園体制下に巣くう「暴力団」のような集団であり、これが「2」の時期になって完全に凋落してしまい、替わって初めて領主と言えるような武士が勃興していったものと考える。もちろん、これは社会下層の農民の動きと連動しているのであるが。

 天皇にしても、古代の一時期を除いて、天皇が親政を行うと言うことは日本にはなく、貴族政治の時代には藤原氏が、武家政治の時代には、それぞれ鎌倉、室町、江戸などの幕府が日本の実権を握っていたという歴史観がはびこっているが、天皇個人の実権はいざ知らず、天皇筆頭政権は権力をどんどん狭められながらも、「1」の時期を通じて存続していたのであり、武家が完全に日本の実権を握り、名分上はともかく、天皇を実質一臣下のようにしてしまったのは「2」の江戸期の問題に過ぎない。

 ついでに言えば、「藤原氏が実権を握った」などというが、一定段階以降、ほぼ聖武天皇藤原不比等の娘から生まれ、別の不比等の夫人から生まれた光明子光明皇后を妻とした)以降、天皇家の実質は母系から言えば、基本的に藤原氏(それ以前は実質的には蘇我氏)と言う他はない。

 更に根本的な違いは、前章でも述べたが、内藤湖南などが「2」の時期に「(現在の)われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史」が始まるのであり、下手をすると「それ以前のことは外国の歴史と同じくらい」でしかないと言うように、「2」以降、本当の意味で現在の日本の国の歴史が始まるのであり、それ以前は、「日本」と言っても、現在の日本とは別の国と言ってもいいぐらいの隔絶があったと言うことである。

 我々は、非常に単線的な日本歴史を学校などでも教えられてきており、実際、世間にもそのような「単線史観」が広まっている。しかし、そのような単線的な日本がなんとか成立したのは、「2」以降の問題であり、それまでは律令体制に始まる「日本国」も、その(列島支配の)実態はさておいても、その残存物も実際には「2」の初期の戦国期に完全に崩壊している。しかも、いわゆる「中世」期には、鎌倉幕府のように東日本の支配権を及ぼす政権が出現したり、南北朝期には天皇さえ同時に二人存在していたのである。

 日本(大和)民族と言えるような文化的一体性にしても、果たして「1」の時期にそのようなものが存在していたかどうかは疑問であり、中国文化の流入によってようやく形成されだした日本(大和)文化も、まだ都の貴族のものでしかなく、それが何とか本土に広がり、アイヌ琉球と並立する大和民族(いわゆる日本人)※というものが形成されたのも「2」の時期であり、「1」の時期には、まだまだ列島全土は本土さえも、さまざまな民族的要素を抱えており、特に東日本と西日本の差異は今以上に大きかったものと考えられる。

 筆者の論には、まだまだ研究不足の面もあるが、従来の単線日本史観ではなく、複線的に列島史をとらえる必要があると筆者は考えるのである。それで言えば、他の文章でも書いたが、戦国時代に入る前の列島というのは、ちょうど雲南などと同じような中国の辺境部とでも言うべき地域であり、戦国以降の社会発展(これも列島の内在的発展と中国から渡来する新文化との両方の要因を考えねばならない)によって初めて、大小の差はあれ、中国とも対等な日本という政治的文化的実態が誕生したと考えるのである。

 

2007120