書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

※番外編※【作家紹介シリーズ】春日武彦

(以下の記事は、当ブログの1つ前の記事「『八月の御所グラウンド』万城目学著」執筆者である関根さんが、講師の豊崎由美さんのリクエストに応え、前月提出書評を3000字にブラッシュアップして再提出した書評です。なお、ここに登場する「捜索隊」が初登場する書評「【作家紹介シリーズ】高瀬隼子」もあわせてお楽しみ下さい。(編集))

 

隊長:作家の作品世界に分け入る、我ら捜索隊もこれで3回目の結成*1です。みなさん積極的なのは大いに結構なのですが、え~、ライバル心だとかはですね、ちょっと抑えてもらってですね、今回は仲良くやっていただきたいなと思います。


隊員1・2・4:(し~ん)


隊員3:はい、もちろんです。


隊員2:(むっ。小さい声で)また、ひとりだけいい子*2になっちゃって。


隊長:(諦めて)古くは森鴎外北杜夫、近年では帚木蓬生や夏川草介など、医師との二刀流を実践する作家は案外多いですが、今回はサイコドクターの呼び名も高い、春日武彦の作品が捜索対象ですね。それでは報告をお願いします。


隊員1:はい!モチーフ担当、隊員№1です。自分は〝猫″も大量採取したんすけど、最頻出モチーフは断トツで〝母″っすね。現代短歌の旗手、穂村弘とは〈ヘタレ系ひとりっ子同士〉で何度も対談していて、それをまとめた『人生問答集』*3や『ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと』*4でも、それから、幼い頃に母親がダイナマイトで若い男と心中したという強烈な記憶を持つエッセイスト、末井昭との往復書簡『猫コンプレックス母コンプレックス』*5等々、採取フィールドは多岐に亘りました。っつうか、むしろ〝母″が登場しない著作はないくらい。


隊長:え、著作数80超えてますよね。


隊員1:〈ルックスは魅力的で(中略)華があり、頭の回転が速〉いが、ときに驚くほどシニカルで子どもの想いなど簡単に蹴散らした〝母″が、カスガ先生にとってどれほど絶大な存在だったか、繰り返し繰り返し繰り返し語られて、そりゃもう、鬼気迫る感じっす。


隊員2:はい!はい!プロフィール担当№2です。これまでは出番が(№1と№3を睨みながら小声で)横取りとかされてぇ、少なかったけど、今回は採取してきたものが多いんで張り切ってま~す!


隊長:(頭を抱えて)それが余計なのよ。


隊員2:(聞いてない)1951年京都府に生まれたカスガ先生は、父も医者、親戚もほぼ医者って環境と、母に認めてもらいたい一心から同じ道に進むことを決意しま~す。産婦人科医として6年間、その後精神科医に転向。〈殺人犯ばかりを収めた超ヘヴィな病棟〉の担当等々を経て、今も臨床医師として勤務しながら、1993年に『ロマンティックな狂気は存在するか』*6を上梓して以来、30年超で著述業も継続中というわけ。初期には『はじめての精神科』*7とか、『ザ・ストーカー-愛が狂気に変わるとき』*8みたいな、テキストっぽい著作も多いんだけど~。


隊長:ああ、興味深い症例から専門分野の知見をレクチャーしてくれる〈精神科医枠〉ニーズに上手く嵌まった感じか。


隊員2:初期は、ね。精神医学史を辿りながら写真や漫画も例に引いて、狂気は顔に表出するかを検証した『顔面考』*9や、不穏な〈幻の同居人妄想〉から、住居と病理の関係性を考察する『屋根裏に誰かいるんですよ』*10あたりから、カスガ先生いよいよ本領発揮し始めま~す。


隊員3:(小さくて誰にも聞こえていないが)その語尾やめてください。伸ばさないでください。


隊員1:穂村弘は初対面で〈「あ、この人は変」と直感した〉って言うし、『「狂い」の調教』*11では、〈グロ系〉ホラー作家平山夢明と一括りで〈鬼畜コンビ〉扱いだものね(笑)。


隊員2:それまでも、しれっと毒吐いたりはしてるけど。でも、カスガ先生が本当に〝振り切った″のは、2015年刊の『鬱屈精神科医、占いにすがる』*12からじゃないかな~。


隊員4:カスガ先生の真骨頂とも言うべき〝鬱屈精神科医″シリーズの1作目ね。あ、プロット担当の隊員№4です。


隊員2:〈「いかがわしげ」な方法〉って冷笑しつつ各地の占い師を訪ねる中で、自己開示度がブワっと上がった感がすごいの。3年前に父が、半月前に母が亡くなったとあるから、その影響は相当あったんだろうと思うけど。美しく聡明な母親に認めてもらうには〈ルックスの良さが絶対条件〉で、〈「さらに誰もが感心するような業績を上げてみせなければならない」という絶望的なミッション〉に挑んだ日々の回顧がこれでもかと。

隊長:ルッキズムなんて、とか言ってあげたいけど相手は精神科医だもんなぁ。


隊員2:〈親が死んでも〉〈患者が死んでも〉30年以上涙を流したことのなかったカスガ先生が、胡散臭いと思ってる占い師の前で、中学生の頃は、母親が睡眠薬中毒でいつ死に取り込まれてもおかしくない、不安な日々だったことを告白して嗚咽しちゃうんだから。(低くボソッと)現役精神科医でさえ、親との関係性の拗れは断ち切れないのかと思うと、その根深さに絶望しましたよ。


隊長:〈ハヤカワ・ポケットミステリを全部揃えているような人だった〉という母が、なぜ子どものカスガ先生をそんなに不安にさせるほどの状態になってたんだろう?


隊員2:その驚愕の理由がシリーズ第2弾の『鬱屈精神科医、お祓いを試みる』*13や『猫コンプレックス母コンプレックス』(前出)でかなり詳しく明かされてて、これは辛い、無理もない、とも思うんだけどね~。


隊員4:タイトルの〈お祓い〉は、いわゆる神事のことではなく、〈エッフェル塔が嫌いなモーパッサンエッフェル塔を見ないですむように、あえて塔内のレストランで食事をしたというエピソードに因〉んで*14、かつて両親が暮らした三鷹のマンションの一室を、〈ブルックリンの廃工場〉にするというコンセプトのもと、完膚なきまでにリノベーションして住むことで〈母親の呪縛から逃れようという捨て身の作戦〉のことなんです。医者って理系のイメージあるけど、文学や映画にも造詣が深くて*15博覧強記のカスガ先生らしい〈お祓い〉だなぁ、と感じたわけですが。でも、これを読んでハタと膝を打ったんですよ。


隊長:ハタと…どういうこと?


隊員4:〈医療者としても物書きとしても二流以下〉とか〈精神科医という立場を利用して「表現者」を装って〉きたとか、頻々に独白する先生が、それでも両者の立場を手放さないのはなぜか。


隊員2:〈鳥なき里の蝙蝠〉って、よく言ってるもんね~。


隊員4:つまりカスガ先生の著作のプロットは、すべてが〈お祓い〉なのではないかと。自身の記憶や患者の症例を〈モーパッサン式〉に俎上に載せて、検証して言語化して文章にすることで、ようやくあの出来事にはこういう意味があったのだと対象をタグ付けしてカテゴライズして、気持ちの収まり先を見つけることで〈祓って〉いるんじゃないでしょうか。先生も読者も。


隊員3:テーマ担当の№3です。カスガ先生の著作は精神医学分野での考察や、そこに立脚した対談のほか、『様子を見ましょう、死が訪れるまで-精神科医・白旗慎之介の中野ブロードウェイ事件簿-』*16などの小説もありますが、それらから私が採取したテーマは〝異界″です。自分の精神のありようを本当の意味で把握できている人はいません。誰もが自身の中に不可視の〝異界″を内包しているわけです。不安迷い悲しみ怒り(チラリと隊員2を見て)妬み恐れ等々、自分の中の〝異界″に一体何が潜んでいるのか。どこまでが〝正常″で、どこからが〝異常″の領域なのか。最新作『自殺論』*17で述べられているように、正気と狂気のあわいは実に曖昧で、何時その境界を踏み越えてしまうかわからない。そのわからなさゆえの興味と恐怖に唆されて、私たちは〝異界″の水先案内人を求め、その深淵を覗き込むようにして春日作品を手に取ってしまうのだと思います。


隊員2:また、いい子にまとめちゃって。


隊長:も、もう、や・め・て~。


*1 3回目の結成:高瀬隼子がすばる文学賞を受賞した際、高橋源一郎との対談が行われ、この時の高橋センセイの発言により本捜索隊が結成された。〈書いた人間は書いたことにしか関与していない。あとは、そこに何があるか捜索隊が出て発見すればいいんです〉「受賞対談 高橋源一郎×高瀬隼子」『青春と読書』2020年3月号
ちなみにカスガ先生は高橋源一郎と同い年。第2回の結成は、全米図書賞を2度にわたって受賞したジェスミン・ウォードが捜索対象。
*2 いい子:高瀬隼子作品のテーマとして採取されたが、隊員2が隊員3を揶揄するときに使用している。 
*3 『人生問題集』春日武彦/穂村弘著 角川書店 2009年
*4 『ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと』春日武彦/穂村弘/ニコ・ニコルソン著 イースト・プレス 2021年
*5 『猫コンプレックス母コンプレックス』末井昭/春日武彦著 イースト・プレス 2022年 
*6 『ロマンティックな狂気は存在するか』大和書房 1993年(新潮OH!文庫2000年)
*7 『はじめての精神科‐援助者必携』医学書院 2004年
*8 『ザ・ストーカー-愛が狂気に変わるとき』祥伝社 1997年
*9 『顔面考』紀伊國屋書店 1998年
*10『屋根裏に誰かいるんですよ-都市伝説の精神病理』河出書房新社 1999年(河出文庫2022年)
*11『「狂い」の調教-違和感を捨てない勇気が正気を保つ』春日武彦/平山夢明著 扶桑社 2023年3月
*12『鬱屈精神科医、占いにすがる』太田出版 2015年
*13『鬱屈精神科医、お祓いを試みる』太田出版 2017年
*14 モーパッサンのエピソード:*13でロラン・バルトの小著『エッフェル塔』(宗左近訳ちくま文芸文庫1997年)の冒頭に紹介されていると記述があり、カスガ先生の文学的教養の深さが窺える。
*15『鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる』キネマ旬報社 2021年〝鬱屈精神科医シリーズ″第3弾 仕事を辞めてB級映画を観まくり、暗がりでモンスターたちと親しんだ日々が綴られる。
*16『様子を見ましょう、死が訪れるまで-精神科医・白旗慎之介の中野ブロードウェイ事件簿-』 幻冬舎 2014年
*17『自殺帳』晶文社 2023年10月

 

執筆者:関根弥生

2024年1月講座に提出したものを、トヨザキ社長の3000字で!とのリクエストにお応えして手直しした結果、捜索隊メンバー各々にどんどん我が出てきてしまいました。書評王のおまけとして、お読みいただけたら嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『八月の御所グラウンド』万城目学著

 えへん。みなさま、こんにちは。いやぁ、ついに獲りましたね。万城目学さんの『八月の御所グラウンド』が!え?先に自己紹介を?ハイハイ、ちょっと興奮しちゃって。では、改めまして。
 派手な柄シャツを着た太目のおじさんにしか見えないと思うけど、これでも私、縁結びの神でございます。あ、ご存じ?いや、嬉しいなぁ。そう『パーマネント神喜劇』*1でね、まぁ主役っていうか、私の日々のお勤めの様子なんかを万城目学さんに書いてもらったものだから、ええ、浅からぬ縁というかね。それで、此度の第170回直木賞受賞に際して、私も何か喋れ、なんてことになったわけで。
 何か喋れってね、やっぱりまずは作品のことでしょ。この本には2篇収められてまして、どちらも舞台は京都。先攻は「十二月の都大路上下(カケ)ル」。女子全国高校駅伝で、先輩に代わって急遽出場することになった〈超絶方向音痴〉な1年生部員坂東(あだ名はサカトゥー)。彼女が大会当日、吹きすさぶ雪の中でコースに迷って、必死に走ってるときに〈変なヤツら〉を見かける話ね。
 後攻は表題作の「八月の御所グラウンド」。彼女に振られて旅行の予定もポシャり、大学4回生なのに炎暑にやられ、就活もバイトもせずに〈八月の敗者〉になり果てた朽木くん。彼が借金のカタに早朝の草野球大会に参加する羽目になって、出会うはずのない人たちに出会う話ね。
 え?それだけ?って、そういう話なのよ。野球部だったわけでもない朽木くんが、大学の研究室のメンバーや夜の店で働いてそのまま直行してきた派手スーツのにいちゃんたち、そして人数合わせで駆り出された工場チームという、寄せ集めの面々で野球やるだけ。
 だけど、この野球やるだけ、襷しょって走るだけ、が多分大事だったんだと思うの。あと〝迷ってる″ことかな。サカトゥーは道に迷って、朽木くんは人生に迷ってる。ほら、みなさんだって迷いがないときに、神社に行って神頼みなんてしないでしょ。現世と私たちのいる常世が繋がれるのは迷いがあるときなのよ。
 直木賞の選評では、この2篇のつながりが弱いとか、冒頭の短篇が不要なんて意見もあったけど、酷寒の迷子と灼熱の敗者の2篇が揃ってこそ、京都の季節ごとに違う顔だとか、幾つもの時間軸が交差して存在する不思議が感じ取れると思うんだけどねぇ。それに2篇のつながり方がさりげないから余計に、その仕掛けに気が付くとちょっとニヤリとできるのよ。えっと、例えばサカトゥーが頼まれてたお土産のお香を買いに行ったお店が、朽木くんチームの対戦相手だったりとかね。
 万城目さんて不思議な話を書いてても、あまりフワフワしないのは、実際に御所G(雑誌連載時はこのタイトル)で野球したことがあるとか、〈自分のリアルのエッセンス〉を入れてるからなんでしょうね。
 ひょうたんを栽培すれば『とっぴんぱらりの風太郎』*2(これまで6回直木賞候補になったうちで〈過去イチ、私がもっとも直木賞に近づいた〉と思い込んでたという作品ね)に、その体験が存分に注ぎ込まれてたし、「都大路―」を書くために、7年に亘って地方大会まで追いかけて高校駅伝を取材したそうだし。そして「八月の―」では、朽木くんの研究室の先輩、中国人留学生の烈女シャオさんにリアルが放り込まれてるのよ。野球経験もなくルールも怪しいのに、無理やりメンバーにされたシャオさんが初めて覚えたという日本語が〈オリコンダレエ〉の野次。いったい何処でこんな言葉を?と思われた方は、万城目さんのエッセイ『ザ・万遊記』*3p194をご覧あれ。小学生のシャオさんに会えます。
 え、もう時間?最後に私の本業、縁結びの言霊飛ばしとこうかな。えへん。では、万城目さんと京都の蜜月再び、再び!だって「京都におんぶにだっこの作家です」*4と言いつつ、愛憎半ばする発言もね*5。でもこれで大丈夫、のはずよ。

*1『パーマネント神喜劇』新潮文庫 2020年
*2『とっぴんぱらりの風太郎文藝春秋 2013年
*3『ザ・万遊記』集英社 2010年
*4直木賞授賞式でのスピーチにて「本当に京都におんぶで抱っこっていう、そういう作家」
*5『僕らの近代建築デラックス!』万城目学・門井慶喜著 文春文庫 2015年
 第158回直木賞作家の門井慶喜さんと京都の街を巡ったとき、〈京都に対する棘〉が見え隠れするコメントを連発。デビュー作『鴨川ホルモー』を引っ提げて、凱旋気分で乗り込んだ京都の書店回りで、サイン本を置くことも許されなかった体験を語り〈京都はまったくやさしくなかったです〉とえらくはっきりおっしゃってます。

※以下、注釈で紹介された作品

 

 

 

 

2024年3月書評王:関根弥生

 『八月の御所グラウンド』の装画は、デビュー作『鴨川ホルモー』からタッグを組んでいる石居麻耶さん。直木賞受賞に沸く中でも誰も触れていないので、きっとそんなことはないのでしょうが、表紙絵の左のバッターボックスにちょこんといる鳥がどうにも人面鳥に見えるのです。眼精疲労のせいでしょうか。

『続きと始まり』柴崎友香著

 出来事がおこったときはよくわからず、振り返ってはじめて見えてくるものがある。それも、思ったよりたくさん。柴崎友香の新作長編『続きと始まり』は、そんなことに気づかせてくれる。
 視点人物は三人。石原優子は三十代後半。夫の実家のある滋賀県で、雑貨や日用品を扱う会社のパートとして働きつつ、子供二人を育てている。小坂圭太郎は三十三歳。調理師免許を持ち、東京の居酒屋で働いている。五歳年上の貴美子との間に四歳の娘がいる。柳本れいは四十六歳。一昨年に五年間つき合った人と別れた。東京でフリーの写真家として活動する傍ら、知人の女性が木造二階建ての自宅ではじめた写真館を手伝っている。
「1 二〇二〇年三月 石原優子」から始まり、「2 二〇二〇年五月 小坂圭太郎」「3 二〇二〇年七月 柳本れい」と、順番に語り手が替わっていく構成。二三か月おきに二〇二二年二月まで続き、ぐるっと四周した最後に全員が語り手となる「13 いつかの二月とまたいつかの二月」が置かれている。
 各章に年月はあるが、登場人物たちの回想には、阪神淡路大震災東日本大震災の時期も含まれる。緊急事態宣言やまん延防止など、今となっては“思い出す”言葉も登場するものの、地震やウイルスの危機を本書は直接には描かない。あのとき人がどんなことを思い、口にし、ふるまったのか。その日常を、非日常を、静かに振り返るのだ。
 年齢も仕事も家族構成も違う三人だが、彼らが考えること、感じることは、コロナ禍という状況で、それぞれの立場を超えて響き合う。たとえば家族からの心ない言葉。「優子ちゃんはしっかり結婚して、孫も産んでくれて、ほんまに親孝行でうらやましいわ、って言われたわ」という母に、優子は〈「孫」を産んだんとちゃうわ、わたしの子供やっちゅうねん〉と頭の中で毒づく。圭太郎は両親から「子供が生まれたのはよかったよ。でも、男の子じゃないだろ」「お前は馬鹿か! 家が絶えていいっていうのか!」という言葉を浴びせられ、頭の中が〈一瞬空洞に〉なる。そんなとき気の利いた返しもできず、ひとまずその場を納めようとしてしまうのも、優子や圭太郎に限らず誰にでも身に覚えがあることだろう。
 私たちは忘れっぽい。だから振り返る意味がある。優子と同僚の河田さんとの会話が象徴的だ。「なんか時間の感覚おかしくなってるよね」「あのときはまだ、感染者がいるとかいないとか、そんな感じやったのが信じられないですね。マスクとトイレットペーパーを必死で探してたとか」「もう忘れそうやな。二年しか経ってないのに。まだ続いてるのに」「なにも終わらないのに、次々始まって、忘れていくばっかりで」。
 三人は互いを認識してはいないが、ノーベル賞を受賞したポーランドの詩人・シンボルスカの詩によって結びつけられている。以前、とあるイベントで詩に出会い、現在の状況下で三人三様に思い出すのだ。詩集のタイトルは『終わりと始まり』。作中で紹介される「一目惚れ」という詩は〈始まりはすべて/続きにすぎない/そして出来事の書はいつも/途中のページが開けられている〉と結ばれている。
「どうすれば良かったのかわかるのは、いつもそれが過ぎたあとだよね」――複数の人物が同じように口にするこの言葉は、しかし悔恨やあきらめを意味しない。物語の終わりに、れいが振り返る。〈誰かがちゃんとやってくれると思っていた。世の中はだんだんよくなってきてるとこもあるよねと言うときに、苦しんできた人や変えようとしてきた人のことをそれほど切実に考えてはいなかった。いつかのあのニュースやできごとが今のこのことにつながっていて、いつかのあのできごとはもっと前の別のことにつながっていたと、自分が実際に経験してやっとわかりはじめた〉。
 私たちはみな、過去の続きを生きている。現在は未来に続いている。その当たり前のような真実を、振り返ることの意味を、そしてこれからの始め方を、読み手ひとり一人に問う作品だ。

2024年1月書評王:山口裕之

がんばって解題しようとするとするりと逃げられてしまうなぁと感じて、順番を考えつつ材料だけを置いていく、料理レシピのような書評になりました。ぜひ読んで、自分なりの解釈をつくってほしい本です。

他人の読書が気になる人にお薦めしたい3冊の「本の本」

 自分以外の人がどのように本を読んでいるかというのは、基本的に分からない。A「あの本読んだ?」B「読んだ!面白かった!」A「面白かったよねー」といった会話が交わされたとしても、AとBが感じた面白さは全然違うかもしれない。私が書評や評論を好んで読むのは、「他人がどのように本を読んでいるのか」が知りたいから、という理由も大きい。 

 2023年は「信頼できる読み手」による、本についての本が豊作だった。その一冊が、書評家豊﨑由美の「QJWeb クイック・ジャパン ウェブ」での連載をまとめた『時評書評-忖度なしのブックガイド』(教育評論社)だ。2020年から2023年初頭の時事ネタに絡めて小説を紹介する凝った形式の書評集で、 Webに掲載された順に章が並べられているが、そのスピード感にまず驚かされる。例えば訃報に接し石原慎太郎の個人的ベスト3作品を解説する「私なりの追悼・石原慎太郎」は、石原慎太郎が亡くなったのが2022年2月1日で、Webへ記事が掲載されたのが2月6日だ。時評書評の名は伊達ではない。 
 取り上げられるトピックはロシアによるウクライナ侵攻といった世界的なニュースから、Twitter(現X)で起きた糸井重里氏の炎上事件といったニッチな話題まで幅広い。編集者の箕輪厚介氏のセクハラ問題を取り上げた回では、箕輪氏の愚行から作家渡辺淳一による女性の口説き方指南書『欲情の作法』(幻冬舎)を思い起こす。そこから帝政ローマ時代のオウィディウスの『恋の技法』(樋口勝彦訳、平凡社)との共通点を見出し、17世紀のモラリスト文学者ラ・ロシュフコー箴言を用いて諫める、というアクロバティックに繋がる本の星座に舌を巻く。読書中に別の本が浮かぶことは誰でもよくあると思うが、読書量と文学に対する熱量によって磨き上げられた関連付けは、読んでいるだけで心躍る。箱根駅伝の青学チームやワールドカップサッカー日本代表など、その年活躍した競技のチームメンバーになぞらえて今年のベスト小説を発表しているのも楽しい。豊﨑氏の書評の技を思う存分味わえる一冊だ。 

 『時評書評』が主に平成・令和に刊行された小説を紹介する本である一方、文芸評論家の斎藤美奈子による『出世と恋愛-近代文学で読む男と女』は、明治・大正時代の近代小説を読み解く本だ。近代の青春小説は「告白できない男たち」の物語で、恋愛小説は「死に急ぐ女たち」の物語でみんな同じだ、と序章から喝破する。青春小説の例として夏目漱石三四郎』や武者小路実篤『友情』などを挙げ、男性主人公たちが軒並み失恋する陰に隠れたモチーフを炙り出していく手つきは、小説の骨格を読み取るレントゲン技師のように鮮やかだ。
 恋愛小説では、片山恭一『世界の中心で愛を叫ぶ』や住野よる『君の膵臓を食べたい』などの悲恋ものの先駆けとして徳富蘆花『不如帰』を挙げ、そのほか伊藤佐千夫『野菊の墓』などを例にとり、なぜいつも死ぬのは女なのかという謎に迫る。〈私だって、べつに死にたくて死んだわけじゃないないのよ。持続可能な恋愛が描けない無能な作家と、消えてくれたほうがありがたい自己チューな男と、悲恋好きの読者のおかげで殺されたのよ〉という死んだ歴代ヒロインの代弁に思わず吹き出してしまう。文体やストーリーを超えて見えてくる近代小説の骨格は、令和の今でもしぶとく残っていることに気づかされる。斎藤の過去作『モダンガール論』(文春文庫)も併せて読むと、さらに明治から昭和までの小説の骨格が良く見えるようになるので、こちらもおすすめしたい。 

 豊崎由美氏と斎藤美奈子氏は長年私の「信頼できる読み手」だったが、ずっと気になる読み手がいた。長年ニューヨーク・タイムズの書評を担当していたミチコ・カクタニだ。人気ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』には主人公でライターのキャリーが初めて本を出版した際、カクタニの書評を読んで落ち込むシーンがある。 辛辣で有名で、彼女の書評が翻訳されたら読んでみたいと思っていたが、初の邦訳書評集『エクス・リブリス』(橘明美訳、集英社)が今年上梓され、その願いが叶った。
 蔵書票というタイトルの通り、カクタニのお気に入りやお薦めの本が100冊以上セレクトされた400ページものボリュームがある書評集だ。選ばれている書籍はマニアックなものではなく、八割方邦訳されているので海外文学好きな人なら読んだことがある本が何冊かは見つかるだろう。どれだけ辛口な書評なのだろうとおそるおそる繙くと、本人セレクトとあってどの本も賛辞が並び少し拍子抜けしたが、本の勘所を押さえた断定調が癖になる。例えばマーガレット・アトウッド侍女の物語』の書評は〈ディストピア小説の名作は、過去と未来の両方を視野に入れている〉との一文から始まる。その通り。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は〈突きつめて言うなら、ガルシア=マルケスの作品の中心を占めているのは政治だけでなく、時間と記憶と愛である〉とまとめる。端的な文章に唸らされる。

 信頼できる読み手がどのように本を読んでいるのかを垣間見て、自分の読みの浅さを痛感したり、ぴったりくる言葉を見つけて「そうそう!」と嬉しくなったり。書評や評論を読むことは、私にとって小説をさらに楽しく読むための合法ピーピングなのだ。

 

 

 

 

2023年12月書評王:三星

6年ぶりに書評講座に復帰して、書評王を獲れたので嬉しいです!しかも書評講座の師匠でもある豊崎由美さんの新刊を紹介した書評で獲得できたので、喜びもひとしお。昨年からライターとしても活動を始めました。書評のご依頼お待ちしてます!

mihoshi.madoka001@gmail.com

『ふぞろいの林檎たちⅤ 男たちの旅路〈オートバイ〉 山田太一未発表シナリオ集』 山田太一著

 名シナリオとよい料理レシピには共通点がある。どちらも文字を追いながら作品を脳内で創り上げることができるところだ。レシピを読めば味や見た目、食感、匂い、温度をイメージできるのと同じように、物語に引き込まれる時間の中で、目の奥にモニターが浮かび、俳優たちが勝手にドラマを演じ始めてくれるのだ。
 そんな名レシピ……ではなくシナリオ作品が、執筆から数十年を経て公開された。作者は山田太一向田邦子倉本聰と共に1970年代から’80年代にかけてのテレビドラマ黄金期を担った脚本家だ。きっかけをつくったのは、文学紹介者の頭木弘樹だった。頭木はこの大御所シナリオライターの全作品に関するインタビューを2017年から行っているのだが、山田邸の書庫で諸事情で映像化に至らなかった多くの未発表シナリオを発見したそうだ。うち数作品が今回、『ふぞろいの林檎たちⅤ 男たちの旅路〈オートバイ〉 山田太一未発表シナリオ集』として1冊にまとめられたのだ。
 収録作品は、松竹勤務時代に初めて書いた習作「殺人者を求む」、2時間サスペンス枠を想定した「今は港にいる二人」、NHKで放映された人気シリーズドラマ「男たちの旅路」第4部の第2話として書かれた〈オートバイ〉、そして「ふぞろいの林檎たちⅤ」(前・後編)だ。巻頭には、山田による「ボツ」という表題のエッセイも掲載されている。
 「男たちの旅路〈オートバイ〉」では、特攻隊の生き残りの警備員(鶴田浩二)とぶつかり合う若手警備員として、今や“ザ・相棒”の水谷豊がキャスティングされているのが目を引く。水谷は第3部まで「男たち~」シリーズにレギュラー出演していたが、初の主演ドラマ「熱中時代」が決まっていたため続投できなくなり、シナリオはお蔵入りになったという。この作品も「今は港に~」も「殺人者を求む」も、題材はともかく、テーマは決して古びていない。
 山田ファンにとって感涙ものは「ふぞろいの林檎たちⅤ」だろう。1983年から’97年まで4シリーズにわたってTBS系列で放映された8人の男女による群像劇「ふぞろいの林檎たち」は、その後のドラマに大きな影響を与えた作品。学歴コンプレックスやパワハラ、自分探しなど普遍的なトピックを詰め込んだ内容はもちろん、サザンオールスターズの曲が全編に流れる演出も人気を呼んだ。特に、1983年放映のⅠ(学生編)と’85年のⅡ(新社会人編)は大きな話題になった。
 ただ、「ふぞろい」シリーズに関して、心にモヤモヤを残す人は多いのではないだろうか。というのも、ⅠとⅡでは8人が一堂に会して感情をぶつけ合うシーンがひとつの見せ場になっていたのだが、ⅢとⅣではこの「集合シーン」がほとんど見られなかったからだ。そしてⅣ以降、シリーズ新作が放映されることはなかった。
 そこへ今回現れたのが、2003年頃に執筆された幻のⅤ。「林檎たち」は40代になっており、仲手川良雄(中井貴一)と水野陽子(手塚理美)が婚活パーティでばったり再会するところからドラマが始まる。驚きのカップルが誕生したり、あの人とあの人が元サヤに戻ったり、風来坊的だったメンバーが堅実に働いていたり。意外な展開もありながら、クライマックスで8人が集まる場面はしっかり押さえてあり、十二分に満足させてくれる。往年の視聴者は、これでやっと「ふぞろい」が完結した、と安心できるはずだ。
 Ⅴのシナリオ完成から20年が経ち、主演俳優たちは現在50代後半から70代。当時のキャストでのⅤ映像化は叶わないだろう。でも、悪いことばかりではない。優れたレシピから料理を想像して楽しむように、読者は既存の映像に縛られることなく。時任三郎石原真理子(現・石原真理)をいい感じの40代に仕立てたり、なんならまったく別の俳優をあてたりして、自分だけの「ふぞろい」を脳内で創れるからだ。例えば西寺実柳沢慎吾)役をディーン・フジオカに、なんて無茶振りも想像上なら問題なし。映像に縛られず自由に空想して楽しめるのは、山田氏には申し訳ないが怪我の功名、いや「ボツ」の功名だろう。

 

 

2023年11月書評王:田中夏代
書評王をいただいた直後、山田太一さんの死去が発表され喪失感でいっぱいに…。脚本家教室の最前列で山田さんの特別講義を聴いた時間を思い出します。1980年代刊行の長編小説『異人たちとの夏』がイギリスで映画化され、2024年春に日本でも「異人たち」として公開予定。頭木弘樹氏による全作品インタビュー本も、国書刊行会から遠からず出版される模様。じっくり味わいたいと思います。

『未来散歩練習』パク・ソルメ著 斎藤真理子訳

 かかとを浮かせて、その分だけ少し詩に近づいたような軽やかな文体で、1990年頃と思われる時期の中学生スミと、現在の物書きの〈私〉、人生のいっときを釜山で暮らす二人の物語が交互に語られる。二人はそれぞれ日常のなかで、時空や虚実の境を越えて他者と混じり合い、過去をまといながら未来に滲んでいくように見える。

 スミは、蔚山で父親の事業が失敗し、一時的に釜山にある母親の実家に身を寄せている。そうした事情はあるものの、ごく普通の中学生といえ、同じクラスのジョンスンと図書館に行って他愛ないおしゃべりをし、遠い外国で働く大人の自分を夢見たりしている。

 そこへある日、祖母が刑務所から出てきた〈ユンミ姉さん〉を連れてきて、一緒に暮らすことになる。姉さんは〈前に龍頭山公園近くのアメリカ文化院に放火して捕まった中の一人〉だった。スミは事件の詳細を知らないし、誰も直接語りはしないが、姉さんのやせた体から放たれる池の水みたいな匂いや、姉さんが変な行動をしたら報告するように言う担任の先生の言葉や、姉さんの背中を撫でる旅先の小さくて固い皺のある手からさまざまなものを感じ取る。そしてそれらがスミの中から溢れ出したとき、自分の目の前の出来事がすべてだった彼女の世界観が変わりはじめる。

 1980年、朝鮮半島の釜山とはちょうど反対側にある都市光州で、民主化を求めて蜂起した学生や市民を軍部が武力制圧し、多数の犠牲者を出した光州事件が起きた。ユンミ姉さんが関わっていた〈釜山アメリカ文化院放火事件〉とは、1982年、大学生のグループが、こうした韓国軍部の独裁を容認しつづけたアメリカの責任を問い、釜山にあるアメリカ文化院に火を放った事件である。死傷者を出し、主導者は死刑判決を受けた。

 この放火事件を接点としてスミの物語とつながるもう一つの物語の主人公〈私〉は、現在のソウルで会社員をしつつ、ときどき原稿を書くために釜山に滞在する物書きだ。銭湯での出会いを縁に、60代の実業家女性チェ・ミョンファンがもつ古いマンションの一室を借り、少しずつ日用品を買いそろえながら、彼女と食事をしたりテレビで映画を見たりし、知り合いのような友人のような関係の輪を広げて、釜山の街になじんでいく。

 事件後のまだ濃密な空気を肌で感じるスミとは違い、〈私〉は数十年経った釜山の街を歩き、物書きらしい想像力で、同じ道を歩いて新しい世界を夢見た学生たちのことを、デパートの六階からビラをまいた男性のことを、会社の窓際に立って文化院から噴き上がる煙を眺めた若き日のチェ・ミョンファンのことを、その人の中に入り込むようにして思い描く。

 現在は近現代歴史館となった旧文化院の階段を下りながら、〈私〉は放火した人たちについてこんなふうに思う。〈現在と未来について考える人たち 来たるべきものについて絶えず考え、現在にあってそれを飽きずに探し求める人々は、すでに未来を生きていると思った。絶えず時間を注視し、来たるべきものに没頭し、人々の顔から何かを読み取ろうとする人々は、来たるべきと信じるそのことを、練習を通してもう生きているのだと。〉

〈放火した人たち〉は、建物を破壊し結果的に人も殺し、その行いは全面的に肯定できるものではもちろんないだろう。でも、スミと〈私〉の物語は、彼らのテロリスト的側面ではなく、彼らがものを食べて街を歩き家で眠る一個人であることや、彼らが理想の未来を信じ実現しようとしていたことに目を向けさせる。『未来散歩練習』のなかで誰かが信じる未来のイメージは、柔らかな光に満ちている。ふと思う。今の自分は、火を放つほど強く、光の未来を信じることができるだろうか。

 著者パク・ソルメは、1985年光州生まれ。邦訳にはほかに、日本オリジナル短編集『もう死んでいる十二人の女たちと』(斎藤真理子訳、白水社)があり、その中の「じゃあ、何を歌うんだ」も光州事件を扱っている。

 

2023年10月書評王:肱岡千泰

 あいだにお休みをはさみましたが、書評講座に通いはじめて一年と数カ月。同じ本でもつづけて複数回読むと、全然印象がちがって驚きます。今回の本は、本文から引用箇所候補をパソコンで抜き書きしていると、文字を打つ手が楽しくなるほどリズムの美しい文章でした。

『ラウリ・クースクを探して』宮内悠介著

 優れた建築家が自然の地形を生かして美しい建物を建てるように、世界の歴史と現実を土台に見事な虚構を組み立てるのが宮内悠介という作家だ。『あとは野となれ大和撫子』(2017)では、環境破壊によって干上がった中央アジアの湖の上に架空の国を興し、少女たちが政治の舵取りをする活劇を展開した。『遠い他国でひょんと死ぬるや』(2020)では、フィリピンを舞台に民族紛争・宗教対立・テロなどさまざまな問題を取り込みつつ、竹内浩三という実在の詩人の足跡をたどることで太平洋戦争の記憶を掘り起こした。新作『ラウリ・クースクを探して』が足場とするのはバルト三国のうちのひとつ、旧ソ連から独立し、近年では電子政府の先進事例が注目されている人口130万人の小国、エストニアだ。
 ソ連時代、1977年にのちにエストニア共和国首都となるタリン近郊の村に生まれたラウリ・クースクは、幼少期から数字だけに強い興味を示す子どもだった。学校に入学しても仲間はずれ状態だったのだが、教室にКУВТ(KUVT)という電子計算機がやってきたとき、彼の運命が大きく変わる。
 冷戦期、規制により西側の高性能計算機を輸入できないソ連は、代わりにホビー用の8ビット機を輸入し、コピーして、さまざまな分野で、宇宙開発にさえ活用した。КУВТはヤマハ製のMSX機・YIS503のローカライズ品で、約7000台が輸入され、90年代初めまで学校で使われたという。機械技師の父が手に入れたTRS-80という計算機にすでに親しんでいたラウリは、先生からもプログラムの才能を認められ、КУВТで次々と自作のゲームをつくるようになる。作品はコンペティションにも出され、3等になった。メダルもうれしかったが、ラウリは1等作品の星空のスクロールに、そのプログラム的美しさに心を奪われる。作者はレニングラード在住のイヴァン・イヴァーノフ・クルグロフ。ラウリと同じ十歳の少年だった。
 ラウリとイヴァンはのちに運命的な出会いを果たす。進学先でカーテャという同い年の女子生徒も加わり、何をするのも一緒というチームとなった3人。初めて自分の居場所を見つけたラウリは精力的にプログラミングに取り組み、イヴァンとКУВТのコンペティションで競い合う。ところがソ連から独立しようとするエストニアの政治運動が、やがて3人の関係に大きな亀裂をもたらして――。
 本作の語り手はラウリではない。物語の大枠は、エストニア人の通訳をつれた「わたし」による手記だ。彼は現在時点にいて、過去のラウリを知る人を取材し、伝記を書こうとしている。この工夫によって、読み手はラウリという人物が歴史の中に実在したかのような錯覚に陥る。語り手は一体何者なのか、そしてラウリにたどり着くことができるのか。宮内は謎をたくみに配置して、本書を成長小説としても、青春小説としても、一種のミステリーとしても読めるように仕組んでいる。
 2002年から電子IDカードの発行を始めたエストニア。現在では国民のIDカード保有率は98%を超え、あらゆる行政手続きが電子化されている。どうしてそれが可能になったのか。ラウリにКУВТを使う許可を与え、卒業したのちも励まし続けたライライという教授が同国独立以来の理念を訴える。「この国は小さく、隣にはロシアがある。いつまた占領されるかもわからない」しかし「領土を失っても、国と国民のデータさえあれば、いつでも、どこからでも国は再興できる」「わたしたちは、情報空間に不死を作る」と宣言するのだ。独立を維持するため領土にこだわらず、電子で国民をつなぐことに注力してきたエストニアという国の覚悟が、本作の背骨にある。
 コンピュータに魅せられ、プログラミングを通じて友情を育み、歴史の荒波に翻弄されたひとりの人間を描くことで、世界の来し方行く末に思いを至らせる。宮内が虚構の土台として描き出す「現実」の豊かさとスケールに、いつもながら脱帽するのである。

※MSX機:子供に買い与えられる安価なコンピュータとして構想された、米マイクロソフト社と日本のアスキー社による共通規格「MSX」(1983年)に準拠した電子計算機。当時はパソコンではなくマイコンが一般名称。

2023年9月書評王:山口裕之

あぁ、懐かしのMSX。当時MZ-700というグラフィックメモリのないマイコンユーザーだった自分としては、うらやましい機体でした。字数制限のなかで、どうしても削りたくなかったのは「YIS503」「TRS-80」という機種名です。