ADAPTATION DESIGN

東京藝術大学の大学院生と武蔵野美術大学の教務補助の二足の草鞋を履く男のブログ

HOMOLYRIC 「椅子」

重い空気を引き裂くように差し込む朝日が眩しい。脚元の杉の床が呼応するように光を吸い微かに軋めき合う。割れた窓ガラスからは木枯らしが吹き込み、巻き上げた埃がゆっくりと私に降り積もる。既に身体の半分を蝕むカロライナジャスミンの存在を特に否定することもなく時が流れていく。

HOMOLYRIC 「理」

少年はなんとなくそこにいた虫を踏んだ。
それは感触の伴わない命のやりとりだった。
足をどけた先にポツリと残った骸に少年は少しばかりの罪悪と快楽を感じたが、それは刹那であった。
変化のない死骸に興味を失い、少年は次の快楽を求めてそそくさと立ち去っていった。
潰れた虫はしばらく孤独を味わった後、蟻たちによって運ばれ私の前からいなくなった。
言い得ない喪失感ともどかしい感情が心の奥の方で湧き起こったが、それもまた刹那であった。

HOMOLYRIC 「驕り」

待てども待てども来ない
来る気配を微塵も感じない
どれくらい待っただろうか
時間が刻々と過ぎてゆく

 

絶対に来るはずなのだ
来ないとおかしい
そう、来ないとおかしい
来るまで待つがもう我慢の限界は近い

 

もういい加減にして欲しい
なぜ来ないんだ
何が起きたというんだ
きっと来ても喜びよりも怒りが先だろう

 

今は来ないのかもしれない
そうでないと辻褄が合わない
きっとそうだ
今は来ないそう思うことにした

 

いや、そんなはずはない
必ず来ると聞いている
来ないことはない
自分を信じなくてどうする

 

これは来ないんだろうなぁ
こんなに待つとは思わなかった
来ないとどうなるんだろう
私は1人きりで待ち続けるかもしれない

 

待ち過ぎて何を待っていたのか忘れかけてきた
だからそんなものはなかったと思うことにした
この先仮に来たとしても
私にとってどうでもよい存在に変わっている

 

やっぱり来ない
みんなが望んでいたものはこんなにつまらない物だったのか
第一に私は来ないことを望んでいなかった望んでいる人は他にいたのに

 

私は特別な存在なんだろうか
もしかしたら選ばれてしまったのかもしれない
来るはずのものが来ないのだ
今まで感じていた疎外感がなぜか特別感へと変化していた

 

これからどうしようか
来ないことで私は神と呼ばれるようになった
私のいうことをみんな聞く
悪くはない

 

あっ、来た
なんだ来るのか
前に抱いた怒りとは違う怒りが
私を包んだ

HOMOLYRIC 「風」

「地下の車窓から冷たいコンクリート見ると
反射した車内の温風は光の塊に顔を吸われ
小さな箱の無限に夢を定義される
止まった鉄の塊は我慢していた息を深々と吐き
風達は飼い慣らされた羊のように進みだす
斜陽に立ちながら得たものを数え
その儚さに無力さとほんの少しの希望を携え
無常の風に混ざって消える」

 

この半年くらい詩を時々書くようにしています。自身の言語表現力の向上が一番の目標で、その時思った事や感覚をそのまま書き記します。ふとしたブログの息抜きとして時々上げていければと思います。

詩を書くときのペンネームを「HOMOLYRIC 」にしました。人間の為の人間による人間を描いた詩を目指しているからです。

 

Column 「Ready Player Oneは理想の世界?」

暇があれば本を読むか映画を見るかしようと心がけています。まだぼーっとしている時間や生産性のない時間も多く、限られた学生生活を無駄にしないように活動していきたい訳ですが、たまには脳内ドーパミンがドバドバに溢れるようなものも見たくなり、何も考えずに見られる映画を時々見ます。その中の1つにスティーブン・スピルバーグの「Ready Player One」があります。監督のオタク力の塊のような作品でサブカル賛美を促すバイブルのようなものです。ライド感に極振りした内容は、ストーリーテリングの弱さや登場人物の描写の拙さなんて吹き飛ばしてしまいます。

 

2045年が舞台で、廃れた世界の希望となったのがオアシスと呼ばれるVR世界で、そこは自分のなりたい容姿、乗り物、体験、欲しいものが全てある夢のような空間で人類は現実逃避の手段としてどハマりしています。ゲームの進化を目の前で見てきた世代からすれば、ゲームや漫画、アニメ、映画のキャラクターや世界観に没入できるなんて最高としか表現できません。人類が一度は妄想したであろう自分がそこにいたら…身体性の超えられない壁も技術が進歩したら…スピルバーグは映画を通じて私達にその世界を一足早く追体験させてくれました。ありがとうスピルバーグ!

 

さて、簡単な感想をネタバレをあんましないであっさりしていこうかなぁと思います。まず思ったのは日本人としてこの映画を見れて良かったですね。日本が世界に誇る文化にアニメやゲーム、漫画があり、世界に多大なる影響を与えていることは語るまでもありません。映画の冒頭部分だけ覗いてもAKIRA、キティちゃん、マッハGoGoGo、カウボーイビバップ、インベーダーゲーム、ソニック、ギャラガ、終盤にはガンダムにストリートファイター、メカゴジラと世代ではないものが多いものの日本人でアニメやゲーム、映画が好きな人なら一度は見たことあるものばかりでしょう!それが実際に動いて活躍している姿は涙ちょちょぎれもので、世界中の人がこの映画を見て湧いてる所を想像すると胸が熱くなります。もちろん、往年の80sの映画や音楽のオマージュの数々の全てに反応できた訳ではないですが知っているものは楽しく見ることができますし、むしろReady Player Oneキッカケに見たものも多く、むしろこの映画は新たな文化を描くというよりも、過去の文化的価値の高いものと今を繋げるワームトンネルの様な役割があると感じました。スピルバーグの戻る事のできない楽しかった時代を思うノスタルジックな思いと今までの実績と信頼によって生まれた唯一無二の表現と言えるでしょう。

 

ここで考えなければならないのがVRについでです。バーチャル・リアリティは、3次元の空間性、実時間の相互作用性、自己投射性の三要素を伴うと言われており、五感に作用するインターフェースを使用します。Ready Player Oneの世界では嗅覚以外のインターフェースを使用しているように見えました。私はこの手の技術方面に詳しくないのでよく分かりませんが、2045年であっても味覚や嗅覚のインターフェースは実装まで至らないという事を示しているんでしょうか?詳しい方、ぜひ教えて下さい。では、視覚/触覚/聴覚によって作り出された仮想現実の世界は人類にとって理想の世界なのでしょうか?この映画ではリアルでしか手に入れないものがあるという割とありがちな答えにたどり着きました。ここで1つ疑問となるのが人間の欲求の限界についてです。人間の欲求は果てしなくそれを抑制する事に美学の様なものがありますが、限界を超えて自分の欲しいままの世界を仮想現実上で手に入れることが出来たとしたら何をして、何を手に入れようとするのでしょうか?私の個人的な意見はあまりポジティブなものではありません。それは使い方によると思いますが…。

マズローが提唱した純粋階段をご存知でしょうか?

 

・自己超越の欲求 (Self-transcendence)

・自己実現の欲求 (Self-actualization)

・承認(尊重)の欲求 (Esteem)

・社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)

・安全の欲求 (Safety needs)

・生理的欲求 (Physiological needs)

 

上に行けば行くほど高次な欲求であるというもので、下から4つは欠乏欲求、上の2つを成長欲求といいます。食べ物や寝るところが無いのに他人に対して尊重されようと思わないように、人間の欲求には段階があるということを指し示した理論です。現在SNSによる発達により社会的承認(Twitterやmixiの様な不特定多数の匿名性の強いツール)から自己承認欲求(バカッターやインスタ映え)のような欠乏欲求に当てはまる行動に満たされている現代人が仮想現実において何ができるのかは甚だ疑問が残ります。想像力が欠如している現代人にとって仮想現実でなしえる自己実現の欲求の程度はしれており、結局他人の作ったプラットフォームに従う事しか出来ないiPhoneを持て余す現代人の様な人間で溢れかえると思います。Ready Player Oneの世界では現実世界の貨幣価値がリンクしていて課金をする事でアバターのできることが増えていくようなもので、夢の世界というよりも現実逃避の手段としか使用されておらず現実において満たされているシーンは描かれていませんでした。むしろオアシスを作ったハリデーも作中で全速力で逆走し、過去に戻りたいと言っていました。きっとハリデーの欲求はオアシスが実現してしまった事で終わってしまったんでしょう。誰かが用意したプラットフォームで満足するような人間にはなりたく無いものです。

 

デザインやアートを志すものとしてやはり仮想現実や現実社会の欲求にはついては常に考えなければならないコンテンツの1つです。想像を促すツールがいくら増えたところで人間が進化しない事には何も始まりません。次のクリエイティビティがどのフィールドで起こるかは分かりませんが、面白いことがしていたいと願います。あれ?何も考えないで見ているつもりが結局頭使ってますね。

「Zamia furfuracea」

No.65 丸い葉が特徴的な生きた化石です。

 

f:id:takuto-interior:20181014091909j:image

 

「Zamia furfuracea」ザミア フルフラセアです。またの名をヒロハザミアといいます。和名はメキシコソテツです。

 

Zamiaはソテツ科の裸子植物です。Zamiaはラテン語の「a zaniae(松毯)」から由来しています。葉は羽状葉で硬く、半光沢の黄緑色で丸みのある形状をしています。雌雄異株です。

 

Zamia furfuraceaはメキシコ南東部のベラクルス州原産のザミア科の常緑小低木です。乾燥した石灰質な土壌や沿岸の砂丘上の温かい砂上に生息します。幹は短く肉厚でそこから長い茎をのばし、葉を羽状葉に展開しています。葉はとても厚く楕円形の13㎝程の葉をつけます。生きた化石と言われるほど古代から存在する種です。

 

成長が極めて遅く、丈夫な為、観葉植物として優秀な種になります。丸い葉がすごくかわいく、インテリアとして部屋におくのもいいと思います。光を好むのでなるべく太陽光の差し込むところに置いて管理します。

 

「Eucalyptus tetragona」

No.64 四角い実がかなり特徴的です。

 

f:id:takuto-interior:20181010235033j:image

 

「Eucalyptus tetragona」ユーカリプタス テトラゴナです。

 

Eucalyptusはフトモモ科ユーカリ属の常緑高木です。学名Eucalyptusはラテン語の「eu-(良く)+ kalyptós(〜で覆った)」から由来しています。これは蕾の萼が花弁と合着して蓋になる様子や乾燥地でもよく育って大地を緑で被う様子から来ているとされています。主にオーストラリア原産で500種類以上見つかっており、とても成長が早いことで知られています。ユーカリの葉には種類によって様々な成分が含まれており独特な匂いを感じることができます。コアラが主に主食とするユーカリは12種類ほどあり、そのほとんどに青酸と呼ばれる毒性のある成分が含まれています。また、ユーカリの葉からは引火性の高いテルペンと呼ばれる物質を放出する。オーストラリアは山火事が多いことで有名だがその原因の一端には夏期にテルペンの濃度が上がり引火する事で引き起こるとされている。ユーカリの樹皮は非常に燃えやすいが、すぐに剥がれ落ちるため、幹自体は燃えることがなく根に蓄えた養分でまた新しい芽をつけます。

 

Eucalyptus tetragonaは、Eucalyptus属の雑種です。最近、Eucalyptus pleurocarpa(ユーカリ・プトゥロカルパ)とEucalyptus extrica(ユーカリ・エクストリカ)て現在知られている種が混同していたことが分かり分類されました。石灰質でない砂上で成長し、4〜6mほどの大きさまで成長します。葉は固く緑色の割とユーカリの中では大きく、楕円形や卵型をしています。花は11月〜2月に咲き昆虫によって受粉します。白く四角い実が特徴的で、中に細かい黒い種子が入っています。

 

ユーカリはドライにすることが簡単で、長持ちするのでおススメです。また、色味も落ち着いていて香りもするので部屋のアクセントとして凄く優秀です。ユーカリも様々な種類があるので、他の種類も紹介できたらと思います。またこの発火するユーカリの性質についてもまた違う機会に考察していこうと思います。