夏の思い出

ほんとうに話したいことについては、考えすぎない方がいいのかもしれない。

 

中一のときに同級生が弾いてた曲がきっかけで、ずっと久石譲を聴いてきた。

呼び捨てなんておこがましい。が、もうどうしようもないくらい私の中で大きな存在だ。それくらい、好きを超える人だったんだなあと改めて。

 

あんまり、何かに、特にアイドルとか特定の人に「ハマる」ってやったことがなかった。

でも、この前コンサートを初めて見に行って、

同じ空間に

 

なんどもYouTubeで見た、聴いた音楽が

 

それだけで感極まっちゃうくらい、単純な人間が

よく平然と24時間も毎日毎日過ごせているなと

 

やっぱりそういう化学反応を起こしちゃう彼らはすごい!!

としか言えない。言えるだけ幸せなんだな。と

 

 

 

ごめん。それだけ。

8月という季節

この季節はやっぱり戦争のことをいつもより考える。

この前知った、石垣りんさんの詩を。

 

弔詞  ー職場新聞に掲載された百五名の戦没者名簿に寄せて

 

ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ち上がる。

 

ああ あなたでしたね。

あなたも死んだのでしたね。

 

活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。

悲惨にとぢられたひとりの人生。

 

たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。

一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、

ドブの中で死んでいた、私の仲間。

 

あなたはいま、

どのような眠りを、

眠っているのだろうか。

そして私はどのように、さめているというのか?

 

死者の記憶が遠ざかるとき、

同じ速度で、死は私たちに近づく。 

戦争が終わって二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、

覚えている人も職場に少ない。

 

死者は静かに立ち上がる。

さみしい笑顔で、

この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発とうとしている。

 

私は呼びかける。

西脇さん、

水町さん、

みんな、ここへ戻って下さい。

どのようにして戦争にまきこまれ、

どのようにして死なねばならなかったか。

語って

下さい。

 

戦争の記憶が遠ざかるとき、

戦争がまた

私たちに近づく。

そうでなければ良い。

 

八月十五日。

眠っているのは私たち。

苦しみにさめているのは

あなたたち。

行かないで下さい 皆さん、どうかここに居てください。

 

詩集『表札など』1968年 新潮社刊

 

結局、人間って何も学び遺せないのかなあ。

他の生き物だったら、自然淘汰によって、行動パターンの大きな変化は遺伝子レベルでゆっくり継承されていく。

進歩が群を抜いて速いことを加味しても、あまりに同じ愚行を繰り返しすぎじゃないか。

自国の人間すらそうなんだから、一生関わりそうもない外国の話になったらますます心が遠くなる。

 

現に、憎しみは毎日いたるところで増幅し

未だ生きている戦争体験者やヒバクシャの前で、被爆国の代表が、核廃絶へと向かう潮流に背をむける。

これは、日本人全員がある意味罪を犯している。

少なくとも、先の大戦で苦しみ抜いて死んでいった人たちを冒涜している。

 

日本人が、何を誇れるのか。

 

なんで、目の前のひとりは友だちになれるのに

国という形をとった瞬間に、憎み合う敵同士になってしまうんだろう。

 

結局、

滅びを早めているだけなのか。

もし神がいるのなら、もしかしたら火の鳥みたいに

こんな愚かな種は早く自滅すればいいと思っているのかもしれない。

道徳も、人種も、科学も、

全部 生み出したのはヒトのこころ。

己の生み出したものに自ら苦しんで、殺して、滅んでいく。

種としての悲哀が、余計に感じられるのはもう秋だから?

あまりに大きすぎて、でもそれでも

自分の日常の箱庭と切り離しちゃって、そんなことして、いいのかな。

口癖のない人間になりたい。

口癖は楽だ。ある意味怠慢だ。

私は日々を、いかに口癖を撲滅するかに相当の努力を割いて過ごしているような気がする。

他人のは大して気にならないのだが、1日に3回以上同じフレーズを言ってしまったりすると、どうもなんとなく居心地が悪くなる。
別に言ってることは間違ってないのに。

極論だけど、つまらない創造性のない人間だと思われるのを、ありていの価値観以上に恐れているのかもしれない。

最近増えているのは、「ちょっと待って」系のやつ。

いや、待たないわ。
自分で突っ込むけど。

誰もささいなことでは待ってくれない。
そのくらいのスピード感をもってやらなきゃ、私の生活は成り立たないよなと改めてしみじみ感じた月曜日。

生き急ぎはしないけどねー。