新解『山月記』
『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』
これが李徴を虎に貶めたとするならば、それはむしろ逆である。
今まさに虎であるとする李徴自身が虎であることを恥じていること、これ自体が彼自身の『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』である。
彼は望んで虎になったのではない。
では人で有らんとしたのかと言えばそうではない。
彼自身が望んでいたことを言葉にするとすれば、虎でもなく、人でもない、まさに『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』という絶大な個性を持った彼自身であったのではないだろうか?
ともすると、この作品は『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』は悪であって、なるべく人の世に迎合して生きるのが人の道である、と解釈されがちであるが、視点を変えれば『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』を許容できなかった社会にこそ問題がある、とも言える。
だが、あくまでも外的要因ではなく李徴個人の問題として物語を捉えたとしても、まだそこには一考の余地がある。
物語を通して李徴は一度も自身とその周囲の社会を肯定的に捉えてはいない。
常に物足りなさを感じ、社会も自己をも否定するストイックな人物像がそこに現れている。
『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』という人間社会で生きるにはあまりにも大きなコンプレクス、そしてそれを抱えたままでは虎、つまり人間社会から隔絶した存在にならざるを得ないという現実。しかしこの現実に対してもまだ自らの『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』を認めずにはいられなかったところにこそ、この物語の悲劇性があるのではないだろうか。
社会を愛せない、自己をも愛せない、それによって虎になったことも愛せない。これが物語を悲劇にしているのである。
自身が仮に役人であろうと、虎であろうとそれ自体は問題ではない。
李徴の本質である『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』を彼自身が認め、良きものとして迎え入れることが出来たのであれば物語の結末は変わっていたのではないだろうか。
逆の視点から見れば、この物語を『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』の良し悪しについて論じている我々自身が常に李徴に成り得るのである。
生まれ持った特質をそのままに、良し悪しではなく、その特質を抱えたまま人であろうと虎であろうと、あるがままに与えられた生を生きる、そんな視点を新たにこの物語に付け加えておきたい。
写真はタイガー・ウッズ