おかわり自由な世界へ

音楽を中心に好き勝手綴る。兎にも角にも、おかわりは自由で。

Running Playlist 2013.9.13

【2013.9.13(Fri) Running Playlist】

01. the people - The Music
 

02. Falling Down
(Chemical Brothers Remx) - Oasis
 

03. 愛ブルーム (tofubeats ¥ enternet-experience remix) - SKY-HI
 
 
04. Get No Sasticfaction! - 坂本真綾
 
 
05. Turn It Up - Factory Floor
 

06. 太陽 - Drop's
 
 
07. Hot fun in the summertime - Sly & The Family Stone
 
 
08. オパビニア - スピッツ
※動画がなかったので代わりにリードトラックを。
 
 
09.  はじまりの日 feat. Mummy-D - スガシカオ
 
 
10. PPCC - BiS階段
 
 
11. Black Skinhead - Kanye West
 

12. Reflektor - Arcade Fire
 
 
13. 夜の踊り子 - サカナクション
 
 
 14. wonder2 - My Bloody Valentine
 
 
 15. Burning Down The House - Talking Heads 
 

『Woman』は男を殺し、親子を産む

『Woman』を観ていて…

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「Woman」

 

 普通にハマってます、『Woman』。タイトルイメージ関係なく、男の自分が観ていても、いろいろ考えさせられるドラマです。

でもこのドラマ、自分の周りだけかも知れないけど男性の視聴者が物凄く少ない気がします。逆に女性と話す際には、かなり高い確率で話題に上がるドラマでもあるんです。『Woman』というタイトルやストーリー自体、確かに女性中心のドラマではあるけど、自分としては性別を関係なく観れるドラマだと思うんだけど…

 

何故男性には響きにくいんだろう。

何故、自分には響いているんだろう。

 

男が入り込めない、男が邪魔とされる世界

主人公である小春(満島ひかり)は2人の子ども(望海と陸)を女身一つで育てるシングルマザー。夫である信(小栗旬)は不慮の事故により亡くなり、家庭を支えていた父親がいなくなった小春たちは、財政面や精神面で追い込まれていくことになる。

そして経済的に限界を向かえようとしていた小春は、20年前に自分と父を捨てた実母:紗千(田中裕子)と、紗千の現在の夫である植杉健太郎(小林薫)との交流を深めていくことになる。さらに紗千と健太郎の間に生まれた栞(二階堂ふみ)も、義理の姉である小春に何か”秘密”を持ちながら接してくるのである。そんな小春と植杉家とのアンバランスな交流の過程で、生活支援、託児保育、社会的地位、医療機関など、これでもかというほどの壁に小春たちはぶち当たる。

そんな困難な状況の中、小春も「再生不良性貧血」という病気であることが発覚。小春自身、また紗千を中心とした”家族”の関係は、一体どんな形となるのか。

 

このブログを書いている時点で第9話までが放送されています。栞が小春に秘密を打ち明けたり、紗千と小春の関係もドラマの序盤に比べれば、幾分か割り切った関係であることを、お互いが受け入れたかのように見えます。

 

このドラマには4つの家族が出てきます。青柳家、紗千を中心とした植杉家、そしてこの2つの家族に直接的な関係はないけど、見落としてはいけない砂川家。砂川家に関しては小春の通院している病院で働く藍子(谷村美月)と、小春たちの住む街の市役所員として働く良祐(三浦貴大)、そして息子の舜祐。実質、藍子は子育てを放棄してしまい、良祐が1人で育児をしている、という状況。あともう1つは春子のパート先のクリーニング工場に勤める蒲田家。ここでは砂川家・蒲田家について話さないけど、この2つの家族こそ、現実問題としては一番リアリティのある、どちらかといえばノンフィクションに近い存在だと思っています。

 

頭の中でドラマを振り返りながら大雑把に説明してみたけど、確かに男がそそられるような魅力は少ない。どの家族も、男は身勝手で、母や妻、とにかく女性が望んでいる言動の正反対のことしかしていない。その反動か、このドラマを男が観た時に感じる罪悪感や嫌悪感は、まさしく男である自分を罰しているかのような気分になるんじゃないかな、と。

 

以前、このドラマについてこんな記事を見つけました。 

 

 

この中でライター/イラストレーターである吉田潮さんは、このドラマを観ている男を、ドラマの中での健太郎たちを踏まえた上でこう語っている。

家事も子育ても、表面上だけ手伝って自己満足している男性に、このドラマはひそかに鉄槌を振り下ろしているのである。でも、そういう男だからこそ永遠に気づかないんだろうな。できる人は最初からできるもの。子供を風呂に入れたくらいで育メン気取り、ちょっと料理したりゴミ出したくらいで家事参加と威張る……それはやさしさじゃなくて自己満足。

嫁の地雷がどこにあるのか学ぶためにも、男性は『Woman』を襟を正して観るべき。

 

なるほど、嫁の地雷、というか男の自己満プレイ、か。

確かに重要なシーンに男はいない。いや、男は邪魔。意味もない、くだらない、根拠のない優しさでしか女性をフォローしようとしない。それが男にとって精一杯の優しさや思いやりでも、結局受け取る女性側の意見は殺伐としたモノになってしまう。もちろん、男自身も、その不甲斐なさみたいなモノには気付いてるんだろうけど。

でも、この"ドラマは男が観るべきだ"とまで、自分は言い切れない。そんな自らの立場や行動をドラマ越しに否定されるような危うさを、一日の終わりに感じるのは余りにも辛いだろうし。

じゃあなぜ、男である自分はこの『Woman』を観てるんだろう?

多分それは、このドラマには親子という可能性が見え隠れしているからだと思うんです。

 

"親"と"子"から"親子"へ。

紗千と小春。この2人は戸籍上"親子"です。しかし、このドラマでは"親"と"子"。この間にある「と」には、20年分の溝があることから、この2人は"親子"にはなれずにいる。

その象徴として、紗千と小春はお互いのことを"さん付け"でしか呼ばない。2人が話すシーンでは顔を向かい合わせることも少なく、目を合わせることはほぼ無い。とにかくよそよそしい会話と、しらじらしい時間だけが漂っている。

その溝が栞の存在でより深いモノになる。彼女がこのドラマの中でどういう立ち振る舞いをしたいのか、9話までの時点ではわからない。紗千と小春の関係は、どんなに病気や子どもたちが間に入ろうとも、生涯修復されることはないのだろう。 

 

それでも、2人は"親子"であろうとするんですよ。小春の病気が、紗千の後悔が、母と子の二度と戻らない絆じゃない、それとは別の新しい絆を生み出している。物語終盤では特にこの関係が力強く描かれていることが、まさにストーリー全体の救いにも通じていると思うんです。

男として唯一望みがあるとすれば、こういう再生や修復に目を向けることしかないのかもしれない。だって健太郎や良祐の成長はおそらくあり得ないし(男ってそんな簡単にプライドやらを捨てられない生き物だし)、それこそ、2人ともドラマ内の台詞でもあるように「まるでどっかのドラマの台詞」みたいなことしか言わない。まぁ、このフレーズをドラマで使うこと自体、皮肉ですよね。

そんな男の横槍も含めて、ドラマの中で"親"と"子"が、どんな形の"親子"になるのか。とても興味深く観てます。結局、ドラマの中でも外でも見ているしかできないんですかね、男ってのは。

 

 

家族というコミュニティーに正しい形はないけど、親子にはある程度決まった形があるんじゃないかな。そこに血の繋がりの違いや、何かしらの確執があったとしても、この『Woman』みたいな新しい絆が生まれる場所には、少なくとも"親"と"子"ではない、"親子"がいると思っています。

 

最終回はどうなるのかなぁ...幸せがゴールにはならないドラマだから、どんな最終コーナーを曲がってゴールテープを切るのか。そして男である自分はそんなゴールの瞬間にどんな気持ちを抱くんだろう?楽しみです。

 

 

 

ランダム・アクセスと潮騒のメモリーズ

Daft_Punk_Random_Access_Memory_Suits

Daft Punkの思い出たち

ダフト・パンクの8年振りの新作『ランダム・アクセス・メモリーズ』(以下『RAM』)が発売されてから約2ヶ月。いろんなアーティストの新譜が発売されているけど、今だこのアルバムを1日1回は聴いてる。スルメなアルバムではないと思うけど...不思議とその都度発見があるからか、これが中々やめられない。最近では携帯会社のCMに彼らの代表曲"One More Time"が起用されていたのも記憶に新しい中で、久々に発売された新作。聴いてない方、ダフト・パンクを知らない方にも、是非聴いてもらいたい1枚。

Daft Punk - Get Lucky (MV)
 

Random Access Memories
Random Access Memories [CD]



ところでこのアルバム。今までとは全く異なった制作プロセスを経て作られている。各所で取り上げられている通り、ダフト・パンク特有のサンプリングを駆使した表現から生演奏を主体としたレコーディングへシフトしている。それは過去の作品と比べながら一聴すると、初めて聴く人にも分かるほどの違いだ。だからこそ、デジタルからアナログに振り切ったダフト・パンクがとにかく新鮮で仕方がなかったのが初めて耳にした感想。 


なぜ、ダフト・パンクのようにテクノロジーを具現化し、時代の3歩先を行くようなアーティストがアナログ(=生演奏)に興味を持ち、それを形にしたのか。2013年の今、家電もスマートフォンも車も、テクノロジーを駆使したモノは皆ある一定の水準にまで達しているのに。それらは日常的に便利すぎることはあっても、不便だと感じることは少ないはず。ダフト・パンクはこの作品を世の中に放つことで、一体どんな世界を描きたいのだろう…
 

この疑問に対し、本人たちの以下の言葉を引用したい。

「このアルバムを一言で表すとしたら?」という質問に、彼らはこんな風に答えている。

トーマ:「音楽(ミュージック)」だと思うよ。

ギ=マニュエル:そうだね、「音楽(ミュージック)」だ。

トーマ:いや、たぶん「音楽性(ミュージカリティ)」だ。音楽性……現代の「テクノロジー」と言うと、過去30年間進化してきたレコーディングフォーマット、レコーディングのやり方、専門的な楽器の発達などを意味するけど、どんなに技術が進化しても、音楽性(ミュージカリティ)自体を向上させてはこなかった。まるでテクノロジーが真の音楽性の邪魔をしているかの様に。

そう、デジタルからアナログテープにすることもあれば、コンピューター上でアナログシンセサイザーからバーチャルソフトウェアに切り替えることもある。外観的な小型化技術や利便性の追求が進化して、もちろん素晴らしい音楽は今も沢山あるけれど、1つの時代をとってみると確実に音楽性の割合が顕著で重要視されていた時代があるよね。このアルバムではその音楽性にこだわりたかったんだ。

CINRANET
 
音楽に感情を取り戻すために DAFT PUNKインタビュー 


ここで語られている音楽(ミュージック)と音楽性(ミュージカリティ)はまさにハードとソフトのことだと思う。例えば今回の『RAM』の前作『Human After All』は結果として今流行りの"EDM(Electro Dance Musicの略)"の先駆けとなったわけだが、それは本人たちが描いたであろうシナリオではなかったはずだ。その反動として今作が生演奏に振り切れた、ということでもないが、EDMが流行となったからこそ、今作が浮きに浮いているとも取れる。なんとも皮肉な展開だ。

Human After All
Human After All [CD]

その”シーンを作り上げた代償”ではないにしろ、ダフト・パンクという音楽の鉄腕アトムが、そのハートに再び火を付ける起爆剤となったのが「自らの音楽への愛を再確認すること」だったということなのだろう。音楽(ミュージック)をハード、音楽性(ミュージカリティ)をソフトとした時、2人はソフトにこそ、自らの表現の源と新たな可能性を感じたのだ。
 
音楽性(ミュージカリティ)はテクノロジーでは説明できない。使用しているサンプリングや楽器を並べたところで、それは音楽を説明したことにしかならない。そこで2人が出した結論が「思い出(メモリー)」を語ることだったとしたら、『RAM』はまさに"アルバム"というフォーマットがピッタリくる作品になったわけだ。


●自らの思い出を作品にすること~宮藤官九郎あまちゃん
 

ダフト・パンク『RAM』には2人の音楽への思い出が詰まっていることが、制作プロセスやゲストミュージシャン等から伝わってくる。自らの思い出を作品としてアウトプットすることは、何も音楽だけとは限らない。それどころか、世の中にある表現作品の大半が思い出の塊だと言える。他人の思い出は表現されることで自分の記憶に焼き付けられ、思い出は新しい作品を生み出す原動力にもなる。このサイクルは音楽だけに限らず、すぐ身近で、すぐ目の前で繰り返されている。

自らの思い出を作品にする、という形で、『RAM』同様、多くの人の「新たな思い出」になっているモノがある。

それが宮藤官九郎が脚本を手掛けるNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』だ。

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主人公の天野アキ(能年玲奈)が成長していく過程を描くこの朝ドラ。「じぇじぇじぇ!」という方言も流行語となり、2013年で一番話題になっているドラマだ。

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この『あまちゃん』がブームとなった要因として「アイドル」というキーワードがある。

主人公:天野アキは母:天野春子(小泉今日子)に連れられ、東京から春子の故郷・岩手県は北三陸へ引っ越す。その後、アキは海女である祖母の夏(宮本信子)に感化され、自らも海女となり、地域活性化のため、地元アイドルとして活躍し奮闘する。

そして今月7月からは"東京編"と称した後半戦がスタート。後半戦ではアキが”GMT47”のメンバーとしてスカウトされ、上京するところから話は始まる。東京にてアキは真のアイドルになれるのか…というのがアキを主体とした7月現時点までの大まかなあらすじである。
 
 

この作品を手掛けているのが宮藤官九郎なのだが...毎朝、毎回、そして毎シーンごとに「彼の思い出」が散りばめられているのが見て取れる。80年代から90年代にかけて、宮藤官九郎自身が育ったであろう時代の象徴が『あまちゃん』には無数に出てくるのだ。

ヴァン・ヘイレン「JUMP」(1984)やレイ・パーカー・ジュニア「Gorst Busters」(1984)などの洋楽から、YMO君に、胸キュン。」、松田聖子青い珊瑚礁」等に至るまで、幅広いというよりは、ある時代を盛り上げた楽曲がピンポイントでピックアップされている。
 
以下がドラマ内で使用された曲の一部だ。
■『あまちゃん』内で紹介された(カラオケで歌われた/歌われかけた)楽曲
アルフィー星空のディスタンス
斉藤由貴 「卒業」
・杏里「悲しみがとまらない」「CAT'S EYE」
高橋真梨子 「桃色吐息」
一世風靡セピア「前略、道の上より」
チェッカーズ涙のリクエスト
・欧陽菲菲「ラブ・イズ・オーヴァー」
松田聖子時間の国のアリス」「夏の扉」「青い珊瑚礁
・柏原芳恵「ハロー・グッバイ」
吉幾三俺ら東京さ行ぐだ
・吉川晃司「モニカ」
YMO君に、胸キュン。
橋幸夫吉永小百合「いつでも夢を」
村下孝蔵「初恋」
・『ゴーストバスターズ
原田知世時をかける少女
ヴァン・ヘイレン「Jump」
・ジュディ・オング「魅せられて」
郷ひろみ「2億4千万の瞳」
秋川雅史千の風になって」
美輪明宏ヨイトマケの唄
ピチカート・ファイヴ「東京は夜の七時」
吉幾三俺ら東京さ行ぐだ
・BOΦWY「NO.NEW YORK」 

TOWER RECORDS ONLINE
連続テレビ小説「あまちゃん」をより楽しむための音楽ガイド

松田聖子 - 青い珊瑚礁
 

 平成元年生まれの自分にはこれらの曲を聴いて当時に浸る...というフラッシュバックは起こさないんだけど。それでも宮藤官九郎の「思い出」が『あまちゃん』というドラマを彩っているのは間違いないし、ドラマだからこそ「思い出」を視覚的に見せることができるかもしれない。それが若者から高齢の方まで、世代を飛び越える力にもなっているのだと思う。

先ほど述べた「アイドル」というキーワードは、そんな世代を飛び超える力の象徴だと思う。どんな時代にも、どんな人にも、憧れている・尊敬している人=アイドルがいる。このドラマではアキがアイドルになるために奮闘する姿を、視聴者は「アイドル」として観ている。でも、何も若い、めんこい(可愛い)女の子だけがアイドルではないだろうし、挫折したユイ(橋本愛)も種市先輩(福士蒼汰)も、水口マネージャー(松田龍平)も大吉(杉本哲太)も、誰かしらの「アイドル」なのだ。
 
脚本を手掛けた宮藤官九郎に取って、アイドルとは何なのか。
 
それは以下のインタビューで少し語られている。
昔と今では、アイドル像って違ってきていますが、アイドルという存在はいつの時代も絶対に必要だと思います。誰か必ずいなくてはいけない。
子どもの喜ぶ顔が見たくて、アイドルのCD発売日にお父さんが朝一で買いに行くっていう文化はなくしちゃいけないと思う。アーティストではなく、アイドルという存在が絶対に必要です。
ぼくがアイドルに夢中になっていた80年代、特に松田聖子さん以降は、聖子ちゃんのようになりたかったけど、結局みんななれなくてという時代。そういうアイドルに対する憧れとか、なれなかった失望感みたいなものは、僕と同年齢くらいのお母さんたちには感情移入してもらえるのではないかと思っています。


宮藤官九郎にとっての「アイドル」は松田聖子小泉今日子であり、ダフト・パンクにとっての「アイドル」はナイル・ロジャースジョルジオ・モロダーでもある。偉大な功績を残したからという外からの評価じゃなく、単純に自らの内側からの憧れとして、彼らがいるのだろう。そして「アイドル」はいつの時代でもいるべきだと、両者とも分かっているからこそ、『あまちゃん』にも『RAM』にも、新時代の「アイドル」たる才能(『あまちゃん』なら橋本愛有村架純、『RAM』ならジュリアン・カサブランカス(trom ザ・ストロークス))が光り輝いているのではないかと思う。

 
 
●「思い出」をキャッチすること

今回は単純に洋楽で話題の作品と人気の朝ドラを並べてみたが、ダフト・パンク宮藤官九郎の「思い出」の込め方とその表し方は色々と学ぶべきところがある。

洋楽は聴かれなくなった、テレビがつまらなくなった、という風潮があるが、それは私たち情報の受け手が、その受け取り方の数を増やす代わりに、単体の、大きな枠組み(「洋楽」「テレビ」という規模)での受け取り方が下手になっているんじゃないかな?、と思う。ダフト・パンク宮藤官九郎も無意識に自らが好きな人と好きなものを生み出しているけど、実際、彼らの作った作品を多くの人が楽しんでいる現状がある。それは今の人が下手なら下手なりに、足りない部分は自らの「思い出」で補いながら他人の「思い出」を楽しむ力があることを証明してくれてる。だったら、楽しんだモン勝ちだと思うんだけど....

ダイノジ大谷さんやスージー鈴木さんのような楽しみ方だって、多いにアリですよね。


あと『あまちゃん』でいうならば「小説トリッパー」での中森明夫さんの"午前32時の能年玲奈"がマスト。「アイドル」の歴史をオールジェネレーションの「思い出」とリンクさせることができるはずです。

小説 TRIPPER (トリッパー) 2013年 6/30号 [雑誌]
小説 TRIPPER (トリッパー) 2013年 6/30号 [雑誌] [雑誌]


そしてこちらも話題のニュースですよね。「潮騒のメモリーズ」発売。
潮騒のメモリー(初回限定紙ジャケ仕様~アナログEP風レトロパッケージ)
潮騒のメモリー(初回限定紙ジャケ仕様~アナログEP風レトロパッケージ) [CD]


だいぶ話が逸れてしまったけど、ダフト・パンク 『ランダム・アクセス・メモリーズ』も、宮藤官九郎あまちゃん』も人の「思い出」から生まれた作品だ。だからこそ、人の「思い出」になってからその真の価値が生まれるのかもしれない。。生み出したのは一組のアーティスト、もしくは一人の脚本家かもしれないが、それは「思い出(メモリー)」ではなく、受け手に伝わって「思い出たち(メモリーズ)」になって初めて完成する作品なのだ。

"潮騒のメモリーズ"という挿入歌も、宮藤官九郎の複数の思い出が生み出した歌詞からなる音楽だし、ダフト・パンクも「メモリーズ」という意味合いについて以下のように語っている。
 

トーマ:20年前、僕たちが音楽を作り始めた頃と今の現代では大きな違いがある。コンピューターの存在が強くなり、社会、社会的行動さえも占領している。人工知能(AI)とまでは行かないけど、インターネットの世界が突如人類の延長線上になったようにさえ感じるよ。テクノロジーという人工産物やそこに付随する情報などが、知能の延長線そのものになりつつあるんだ。

人間の脳とハードドライブの類似点、相違点を例にとっても、ハードドライブは実に、保存するのが簡単だよね。だから、「メモリー」と「メモリーズ」の言葉にも意味を持たせた。「メモリー」は「データ / 情報」であり、「メモリーズ」は同じ言葉でも「感情」がこもる。この「感情」という本質が、ロボットと人間を分ける違いであるという理解を表現したかった。極限まで設計された人工知能(AI)が感情という次元を持てるのか、とかね。

CINRANET
 
音楽に感情を取り戻すために DAFT PUNKインタビュー

”潮騒のメモリー”でも”ランダム・アクセス・メモリー”でもダメだった。トーマのいうように”メモリーズ”という”感情”を乗せて届けたからこそ、普段は届かない人にも届いたのだと思う。テクノロジーも音楽もドラマも、そして時代も、"メモリー”だけで留めてはいけないターンに突入したのだとしたら、両作品とも2013年というタイミングにこそ正しく評価されてほしい。