アレルギー性鼻炎あれるぎーせいびえん〔内科・耳鼻咽喉科〕
ジャガイモ中毒じゃがいもちゅうどく〔内科・消化器科〕
高山病こうざんびょう〔内科〕
接触性皮膚炎せっしょくせいひふえん〔皮膚科・内科〕
アトピー性皮膚炎によい食品
ガングリオンがんぐりおん〔整形外科〕
インフルエンザ(小児)いんふるえんざ(しょうに)〔小児科〕
人生のすべては、時間の利用の仕方次第で決まる。
人生のすべては、時間の利用の仕方次第で決まる。
私たちが持っている全てのものの中で、最も大切なものは時間である。
時間がなければ、生活の糧を得ることも、成長することも、人を愛することもできない。では、その「最も大切」な時間を私たちは十分に満足できるだけ持っているだろうか?
「自分の所有する時間に対する満足度調査」なるものがあるとすれば、きっと100年前の人類より今の人類の方が低いスコアであろう。
では、過去の人類に比べて私たちに与えられている時間は少ないのだろうか?
もちろんそのようなことはない。
時間はいつの時代も全ての人に平等に与えられている。
いや、むしろ平均寿命が延びたことや、世界の文明が二次関数曲線を描きながらより便利に効率的になっていることを考慮すると現代人の所有時間は多いはずだ。
それなのに、なぜ今の時代を生きる私たちはこんなにも時間の不足を感じるのだろうか?
私たちには選択肢が多過ぎるのだ。
毎秒あらゆる雑多な情報や選択肢が私たちの中に流れ込んでくる。
今地球の裏側で起きている出来事までもが私たちの貴重な時間を奪おうとしてくる。
問題は私たちの時間が圧倒的な量の情報ですでに埋まってしまい、そこから発生するあまりにも多い選択肢の中で身動きが取れなくなってしまっていることにある。
自分の時間を取り戻すには、現状に戦いを挑む覚悟が必要である。
今私たちの持つ時間のスペースを占有している犯人を見つけ出し、それが不要なものであれば即刻私の人生から退場させるという姿勢が必要だ。
時間泥棒を見つけ出す。
時間を取り戻すために戦う覚悟ができたら、まずは時間泥棒の特定に取り掛かる。
時間泥棒は意識の外に逃げるのが非常に上手いので注意が必要だ。
これは、1日の中で何にどれだけの時間を使ったかを思い出そうとしても、重要ではないことに費やした時間は思い出せなかったり、実際より少ない時間であったと認識してしまうということを意味している。
時間泥棒を捕捉するには取り締まりの網の目を細かくしなければならない。
具体的には1日の行動を分単位で記録し、たとえ5分間の行動であっても取り締まりの対象とするのだ。行動の記録は面倒な作業に感じるかもしれないが、1週間だけでもよいので正確に記録をとるようにする。
人は基本的には同じようなルーティーンで生きているので、1週間の時間の使い方を正確に記録すれば、1ヶ月、1年間の時間の使い方も見えてくる。
そして、全ての行動を捉えたら、それらの時間を分類して見極めるという作業を行う。
分類の仕方は自分が何を求めているかで多少変わってはくるが、基本的には「生きるために必要なことをしている時間」「目的のための時間」「それ以外の時間」という分け方で良いだろう。
目的の部分には、「成長」「夢の実現」「家族との絆」「資格習得」などといった自分が時間を取り返したら費やしたい事柄に置き換え可能だ。
分類が済んだら検問を行い、時間泥棒を特定する。
私たちの大切な「目的のための時間」を奪っている時間泥棒は「それ以外の時間」の中にいることが多いので、ここを重点的に検問し人生に不要なものは見つけ次第、人生の外へ強制送還させる。
何かに時間を使いたいと思った時にはまず初めに時間泥棒を退治することが非常に重要なポイントである。
このことに関してよく起こりうる失敗が2つある。
1つは時間泥棒の特定と対処が不十分なまま、新しくやりたいことの時間枠を取ろうとするケースだ。
当然ながら私たちが所持している時間の総量は決まっている。
既存の時間の整理が不十分なままで新しい時間枠を無理に入れようとすることは、すでに水が満杯の器にさらに水を入れようとする行為と同じであり、いくらやる気を注いでも溢れるばかりで定着しない。
もう1つの失敗のケースは、安易に「生きるために必要な時間」を削れば良いと考えるものだ。
例えば一番よくありがちなのが、「睡眠時間を削って時間を確保する」といったものだろう。
「生きるために必要な時間」を削るのは最終手段だ。
安易にこの時間を削るとパフォーマンスの低下が起こったり、場合によっては生活のバランスが崩れて深刻なダメージを受けることもある。
よって「生きるために必要な時間」を削るのは、もう他に削る時間がなくなって、それでもまだそれ以上の時間を要するという緊急事態の時だけにしよう。
大切なのは何をするのかではなく、何をしないかである。
スペースができれば自然に新しいものは入ってくる。もし新しく入ってきたものが自分の人生にふさわしくなければ、またスペースをつくればいいだけの話だ。
ところで、人生を有意義にするための時間の使い方とはどのようなものであろう?
1つの答えとしては、自分のためだけに使う時間を持つことではないかと思う。
社会で生きて行く中では各々に様々な役割があり、その役割の時間を否定するわけではない。
しかし役割の時間だけで、自分の人生を満たしてしまうのは、あまりにもったいないということだ。
貴重な時間を他人と向き合うことだけではなく、自分と向き合うことにも使うことによって、人生はより豊かになるのではないだろうか。
そして、自分のためだけの時間枠を設けることによって、時間の使い方にメリハリがつき、それぞれの役割の時間の能率も上がるであろう。
自分のためだけに使う時間とは、知的好奇心を満たす時間である。内省であったり、読書であったり、瞑想であったり…
時間泥棒から取り返した時間を使い、1週間の中で自分のためだけの時間をどれだけ確保することができるだろうか?
そして、それによって人生がどう変化していくのか?
試してみるのもよいのではないだろうか。
あなたは毎日24時間で生活するしかない。
24時間の中で、健康も楽しみも、金も満足も尊敬も得ていかなければならない。
また、その中で不滅の魂を向上させていかなければならない。
時間を正しく用いること、最も効果的に利用すること、これこそ最も差し迫った切実な問題である。
人生のすべては、この時間の利用の仕方次第で決まるのだ。自分の時間 (単行本)より
どんなにつらくても今この瞬間だけは耐えられる。
どんなにつらくても今この瞬間だけは耐えられる。
心や身体が疲弊してしまっているとき、過去や未来に注意を向けてしまうと、よりいっそう疲れを感じてしまう。
このようなときに注意を向けるべきは「今この瞬間」だ。
先のことは分からないが、少なくとも今この瞬間は耐えられている。
その一点にひたすらフォーカスすることで前に進むんだ。
難しいかな?
話を分かりやすくするためにマラソンで例えてみよう。
私は今100kmのマラソンを走っている。
現在地はスタートからちょうど50kmの地点だ。
身体の節々は悲鳴を上げ、気力体力ともにもう限界だ…
ここで過去に注意を向けるとどのような思考になるか…
「すでにフルマラソン以上の距離を走っているんだ。ボロボロで当然だ。もうこれ以上は走れない…」
では、未来に注意を向けるとどのような思考になるか…
「ここまでなんとか走ってきたが、まだ今まで走った分と同じだけの距離が残っている。このつらさがこの先50kmも続くなど到底無理だ…」
過去、未来のどちらに注意を向けても時間が今のつらさを強化してしまう。
確かなのは今この瞬間だけは耐えられているということだ。
ここまで走った距離はすでに体力の限界を超えているかもしれないし、もう1km先まで走ることもできないかもしれない。
それでも今、足を1歩踏み出すことだけはできている。
今この瞬間の1歩にのみ集中する。
次の瞬間にはその瞬間の1歩を踏み出せるということのみに意識を集中する。
そうやって、今という瞬間のみを愚直に乗り越えて行くことで栄光のゴールまで辿り着くことができるのだ。
心が痛んでいるときに、たとえば将来が怖くて考えられないときや、過去が思い出すのもつらいとき、 私は現在に注意を払うことを学んだ。
私が今いるこの瞬間は、つねに、私にとって唯一、安全な場所だった。
その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。
今、この瞬間、誰でもみなつねに大丈夫なのだ。
昨日は結婚がだめになったかもしれない。
明日は猫が死ぬかもしれない。
心待ちにしている恋人からの電話は永遠にこないかもしれない。
だが、今、この瞬間は、大丈夫なのだ。
私は息を吸い、吐いている。
そのことを悟った私は、それぞれの瞬間に美がないことはありえないと気づくようになった。ずっとやりたかったことを、やりなさい。より
.
「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」ここでしばらく考えこみます。
それからようやく、さきをつづけます。「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひと休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまたまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。 」
モモ (岩波少年文庫(127))より
蒔いた種からしか刈り取れない。
蒔いた種からしか刈り取れない。
これは世界を司る法則だ。
この法則は何時いかなる時にも作用する普遍かつ不変なもので、「カルマ」や「原因と結果の法則」などと呼ばれたりもする。
この法則は誰にとっても身近なもので、より良い人生を手に入れるためには特に重要なものだ。
しかし、この法則を理解して自分の人生に対して使いこなせている人は決して多くない。
殆どの人はこの法則について聞いても当たり前のことと聞き流してしまう。
例えば、リンゴの果実が欲しければリンゴの木の種を蒔かなければならない。
成長が早いからという理由でクスノキの種をいくら蒔いても将来的にその木からリンゴの果実を得ることはできない。
当たり前だ。
だが、その当たり前なこともそれが自分ごととなると途端に実践が難しくなる。
私たちの普段の生活において
- 食べ過ぎれば太る。
- トレーニングを続ければ身体は引き締まる。
- 過度の飲酒は論理的思考力を低下させる。
- 喫煙は健康を損なう。
- たくさんの人を喜ばせれば、たくさんのお金が入ってくる。
- 無駄な浪費をすれば手持ちのお金は減る。
- 機嫌良く接すれば相手から良い印象をもたれる。
どれも言葉にすると当たり前なのだが、実際には私たちの願望と行動とは必ずしも一致していない。
覚えておくべきは原因なくして結果が生じることはないし、結果があるということは過去にその原因があったということだ。
望まない結果が出るのはなぜなのか?
望まない結果が出るのは、この法則の下においては蒔いた種を刈り取らないという例外はあり得ないからだ。
私たちのとる全ての行動は原因となり、必ず何かしらの結果をもたらす。
この法則から逃れることはできない。
そして、人生は常に選択を迫られる。
「選択しない」という選択では「選択しない」という種を蒔き、同様に「行動しない」という選択は「行動しない」という種を蒔いたことになる。
原因と結果は必ず繋がっていることを忘れてはいけない。
蒔いた種をより良く育てるためには必要なものがある。
蒔いた種が健やかに育つためには、大地の養分、太陽の光、水、時間が必要である。
大地
種が成長するにはしっかりとした土台が必要だ。
土台とは人格である。種を蒔いた者が収穫物にふさわしい人格を持っていれば、種はより健やかに成長する。
太陽
種の成長には太陽の光も欠かせない。
太陽とはエネルギーである。心が曇った状態が続いていると、健康な収穫物はなかなか育たない。
水
種を健やかに育てるには水やりも不可欠だ。
水やりとは日々の行動である。蒔いた種を育てるための行動を日々続けていくことが大切なのだ。
時間
種からの収穫を得るには時間の力も必要だ。
種の種類によって収穫までにかかる時間はそれぞれである。
蒔いた種は必ず収穫できることを信じ、収穫の時を待たなければならない。
つまり、より良い人生を手に入れるためには正しい選択、優れた人格、情熱、行動、時間が必要ということだ。
思考を変えれば世界が変わる。
思考を変えれば世界が変わる。
見えている世界はレンズに映る虚像である。
今、私たちの目の前に広がる世界は私たちの思考が創り出したものだ。
同じような時間・空間の中で生きていても、人によって見えている世界は異なる。
同じものを見ても人によって違って見えるのは、全ての人が各々の解釈のフィルターというレンズを通して普遍の事実を自身の事実として認識するためである。
つまり、今見えている世界は自身のレンズによってつくられているということだ。
不安のレンズで見れば、私の世界は常に混沌に満ちる。
恐怖のレンズで見れば、私の世界は常に危険に満ちる。
疑心のレンズで見れば、私の世界は常に悪意に満ちる。
憤怒のレンズで見れば、私の世界は常に憎しみに満ちる。
嘆きのレンズで見れば、私の世界は常に不幸に満ちる。
感謝のレンズで見れば、私の世界は常に幸運に満ちる。
愛のレンズで見れば、私の世界は常に光に満ちる。
変化の原点にあるのは、自身の「ものの見方」である。
ものの見方が変わると思考が変わる。
思考が変わると姿勢が変わる。
姿勢が変わると行動が変わる。
行動が変わると結果が変わる。
相手や環境の変化を求めても本質的な解決はできない。
もし、今の世界を変えたいと思うのなら、内側の変化で外側に影響を及ぼすということを考えてみよう。
真の成功を得るために自身の視野を広げる。
ここまでで述べたように、全ての人は独自の世界の中で生きている。
様々な立場の人達がいて、彼らのレンズに映る世界はどれも彼らにとっての真実なのだ。
よって、人間関係において、相手の世界を「それは事実ではない」と否定することは理にかなっているとは言えない。
できるのは相手の見えている世界を知ろうとすること。
そして、「それもひとつの解釈」として受け入れること。
そうやって自分の見方を拡げることで自身の影響力を外に拡げていくことができるようになる。
真の成功、長期的な豊かさを得るためには、自分の内面(世界の見方)を変えることで影響力を高めることが大切なのだ。
状況を変えたければ、まず自分たちが変わらなくてはならない。
そして自分が本当に変わるには、ものの見方を変えなくてはならない。7つの習慣 デイリー・リフレクションズより
明確な目的意識をもって活動する。
明確な目的意識をもって活動する。
何かを成そうとするときには、目的を明確にすることが大切だ。
それは明確な目的をもって活動する事で潜在意識の力が十分に発揮され、より成功する可能性が高まるからである。
明確な目的意識を持つとはどういうことか?
明確な目的意識を持つということは、なぜそれを成し遂げたいのか理由を明らかにし、それを成し遂げたときに自分がどのような状態になっているのかを鮮明にイメージすることである。
明確な目的意識の有無で結果にどのような違いが出るのか?
明確な目的がない場合の問題点に関して考えてみよう。
明確な目的がないことにより、3つの問題が生じる。
1.進むべき方向が定まらない。
最初の問題は目的が把握できていないことで、間違った努力や決断をしてしまうことだ。
目的地が明らかになっていないことが原因で、いざ行動を起こす時に、本来進むべき方向ではない間違った方向に進んでしまうことが往々にしてある。
そして、自分は目的地に近づいているのか疑心暗鬼のまま進んでいると、次第に自分の決断、行動に自信が持てなくなってくる。
このような状態では、他人の意見や周囲の環境に流されやすくなってしまう。
(他人の意見を傾聴することと、他人の意見に流されることとはまったくの別物である。)
他人の意見に流されていると、難しい判断を迫られる場面で、間違った決断を下してしまうことがあるので注意が必要だ。
2.前に進むためのエネルギーが枯渇する。
次に問題となるのが活動のためのエネルギーの枯渇に関してだ。
目的が明確になっていないと、潜在意識の力を活用することができない。
必然的に顕在意識の力のみで進まなければならないということだ。
顕在意識の力には3つの特徴がある。
- 顕在意識は自発的に意識している間しか使えない。
- 顕在意識での活動(思考にしろ行動にしろ)では、エネルギーを消耗する。
- エネルギーがなくなると顕在意識での活動はできなくなるので、睡眠や瞑想でエネルギーを回復させなければならない。
つまり、顕在意識の力のみで目的を成し遂げるには限られたエネルギーをやりくりしながら前に進まなくてはならないということだ。
そして、当然のことだが目的地が分からず走り続けるのは精神的な負荷が大きい。
これを続けることで時間の経過とともに、活動のためのエネルギーを激しく消耗していくのである。
3.ゴールに辿り着けない。
最後の問題はゴールが明らかになっていないことで、いつまで続けても目的達成がされないことである。
目的が漠然としたものだと、目標地点まで到達できたとしても、そこに到達したことに気がつくことができずに永遠に見えないゴールを目指して彷徨い続けるといった状態に陥る。
このような状態になってしまうと達成感が得られないばかりでなく、次の目標地点を設定することもできないので成長が遅くなってしまう。
明確な目的を持っている場合はどうであろう?
1.進むべき方向が確信できているので、迷わずに最短で進むことができる。
明確な目的があれば、そのためにやるべきことや判断することは自明である。 そのため、見当違いの努力をしたり他人の意見に流されるといったことがなくなる。
2.前に進むためのエネルギーが無限になる。
目的遂行のためのエネルギーに関しては、潜在意識の力を活用できる点が大きな違いとなる。
潜在意識の力とは「求める結果を脳に入力すると、それを現実にするために脳が自動で処理して出力する力」である。
潜在意識の力の強みは以下の3つだ。
- 睡眠中も含め24時間休むことなく働き続けること。
- いくら使ってもエネルギーを消費しない。
- あらゆる情報にアクセスし最適解を出力する。
これらの強みにより、エネルギー残量に左右されることなく質の高い結果を出すことができる。
3.ゴールが自明である。
当然ながら、目的が明確であれば達成された状況というのも明確に示される。 これによりゴールに至ったら十分な達成感を感じ、次に向けての切り替えができるようになる。
明確な目的を持って始めるということは、潜在意識を使って結果を出すということである。
目的が大きなものである程に潜在意識の力の有用性は高くなる。
何か大きなことを成し遂げたいと思った時には、目的を明確にすることに十分に時間をかけよう。
結果的にはそれが一番の近道なのだから。
潜在意識の偉大な働きを知った者の行動と、それに気がつかない人とでは同じ行動といってもその行動様式には大きなちがいが出てきます。
たとえば、ふつう何事かを成し遂げようとするとき、その行動のプロセスは「得る」→「する」→「成る」と進みます。
野球を例にとると、まず道具が必要になる。 グローブやバット、ボール、ユニフォームをまず手に入れます。
これが「得る」です。
次にこれを使って、野球に打ちこむ。
これが「する」の段階です。
ここで技術を身につけて、プロ野球の選手になる。 ここで「成る」に到達するわけです。
これがごく一般的な行動パターン。
しかし潜在意識を十分に活用すると、このパターンが「成る」→「得る」→「する」となります。
つまり最初に自分がプロ野球の選手として活躍する姿がある。
もちろん、この場合の「成る」はイメージの世界でのことですが、まず自己のイメージが先行することが非常に大切である。
ここから出発するのと、ただ懸命に練習をして、結果として目標に到達するのとでは同じようでいて、ずいぶんちがうものです。新装版 マーフィーの黄金律より
幸せは探しにいっても見つからない。
幸せは探しにいっても見つからない。
幸せは物質ではない。
幸せは目に見ることも手に取ることもできず、定量的に量ることもできない。
「幸せ」はあらゆる生物の中で人間のみが持つ独自の概念だ。
「幸せ」が「人間のみが持つ独自の概念」ということは、「人間の外側には存在しない」ということだ。
(どこかに落ちていたり、埋まっていたり、売っていたりするようなものではない。)
では、「幸せ」はどこにあるのか?
「幸せ」は確かに存在するが、「人間の外側には存在しない」…ということは、「人間の内側に存在する」ということになる。
つまり、幸せな人と幸せでない人との違いは、内側に存在する幸せに気づいているか否かということだ。
例えば、同じ食事を食べるにしても、ある人はそこに何の幸せも感じないが、別の人は涙が出るほどの幸せを感じるものだ。
「幸せになりたい」と思うのなら、まず「既に自分は幸せである」という可能性について考えてみよう。
幸せは、新しい家、新しい仕事、新しい友人などの中に隠れているものなどではなかったのだ。
それはまた、決して売り物などでもない。
自分自身の内側に満足と安らぎを発見できない者は、それを求めて他のいかなる場所を探し回ったとしても、ただ時間を浪費するのみである。
幸せを外側に求めたとき、手にできるものは落胆のみである。あなたに成功をもたらす人生の選択より
困難にぶつかったときには…
困難にぶつかったときには…
もし、困難な障害が私たちの目の前に立ち塞がって途方に暮れてしまうような時には、この試練から得られるものについて考えよう。
その困難には意味がある。
困難が現れたということは、「今」が次のステージに上がる機会だ。
何ができるか考えよう。
闇雲に悩むのはもう終わりにしよう。
悩んでも事態は好転しない。
悩む代わりに考えるのだ。
上手く切り替えられなくてネガティブな思考を繰り返してしまうのなら、頭の中に浮かぶ思考を全て紙に書き出そう。
何度も繰り返し思うのなら、何度も繰り返し紙に書き続ける。
書くときには判断をしない。ただひたすらに思考を書き写すことに集中する。
しばらく続けると気持ちが落ち着くはずだ。
気持ちが落ち着いたら自分の書いた内容を眺めてみよう。
そして、事実と解釈を切り分けてみよう。
冷静に見ると大半が解釈であることに気づくはずだ(他人がどう思うかなどは全て解釈だ)。
ここまでくれば、「悩む」から「考える」への切り換え準備は万端だ。
「事実」に対して、自分が行動しなければならないこと、行動した方が良いと思われること、新しい解釈を考えていく。
そして、行動に移すのは早いほうがよい。
行動している間は「不安」や「恐怖」を感じにくい上に、行動から生じる結果により新しい解釈を得られることもあるからだ。
新しい解釈については常に意識しよう。
その困難にどのような意味付けをしたのかによって得られる経験が変わってくる。
良い経験をしよう。
大丈夫。
明けない夜はない。
難題に挑戦するなら、困難な時もあるだろうと覚悟する必要がある。
難題や困難を避けようとしてはいけない。
難題や困難を歓迎しなさい。
心から歓迎しなさい。
神からの偉大な贈り物だと思いなさい。
他との関係のなかで-そして人生で-するべきことができる栄えある機会だと思うことだ。
困難にぶつかったとき、パートナーを敵だの対立相手だのと考えないように努力しなさい。
どんなひとも、どんなことも敵だと思わないこと、それどころか問題だとも思わないことだ。
すべての問題をチャンスだととらえる力を養いなさい。
意識の力を利用して大切なものを手に入れる。
意識の力を利用して大切なものを手に入れる。
今、私達は本当に大切なものを優先して生きているだろうか?
もし大切なものを優先できていないと感じるのならば、一度立ち止まって自分にとっての大切なものについて考えてみるのがよいだろう。
大切なものを手に入れたければ、大切でないものを棄てるという決断が必要である。
なぜ、そう言えるのか?
私達に与えられた時間には限りがあるからだ。
限られた時間を何に使うのかは選択することが出来る。
選択権があるということは選択の結果に対して責任があるということだ。
大切でないものに時間を使うということは、大切なものに時間を使わないということを選んだということである。
その選択の結果として大切なものを失ってしまったとしても言い逃れの余地はない。
それでも大切でないものを選んでしまうということは往々にしてある。
問題は大切でないものに時間を費やしている時にはその状況を自覚できないということである。
私達が意識できることには限りがある。
大切でないものに時間を費やしている間はそちらに意識が集中し、大切なものは意識の外に押し出されてしまうのだ。
では、どのようにして大切なものに意識を向けるのか?
大切なものを常に意識するための方法は2つある。
1つ目の方法は大切なものの事で頭の中が一杯になるほど熱中すること。
これは人生を捧げる程のレベルで、そのものに向き合っている状態だ。
既にこのような状態で大切なものと向き合えているのなら幸運だ。
大切でないものに意識を奪われることはない。
他人が何を言おうと関係ない。
今、自分は純度の高い素晴らしい人生を生きていると確信できるだろう。
このような状態で日々過ごせたら理想的ではあるが、私達凡人は当然ブレてしまうこもある。
そこで2つ目の方法だ。
2つ目の方法は常に大切なものが意識に飛び込むような仕組みをつくるということ。
意識のブレを補正するために、大切なものが五感を通して外側から訴えてくるような仕組みを人為的につくってしまうのだ。
五感のあらゆる刺激を利用するのが最も効果的なのではあるが、その中でも大切なものを見失わない人々がよく利用するのは視覚からの刺激だ。
『大切なものの見える化』
やることは単純で「大切なものを書き出して日に何度も見る」ということ。
それは、ミッション・ステートメントであったり、ノートや手帳に書き込む10年後の自分の姿であったり、常に持ち歩く大切な人の写真であったりするのだが、要は「大切なものを忘れないように何度も繰り返しインプットする」ということだ。
「大切なものがある状態」を繰り返しイメージすることで、脳はそのイメージと現実世界との差異をなくすべく自動運転を始める。
成功者がゴールのイメージを描くことを大切にするのは、この見えない力の大きさを実体験として知っているからだ。
もし大切なものを優先できていないと感じているのなら、まずは自分にとって大切なものを書き出すことから始めてみよう。