ブラックボックス展に行った後の話

trhbi.hatenablog.com

 

このブログを書いたあと、友人に付き添ってもらい麻布警察署に行ってきました。

警察に行った方がいいと心配してくださった方がいたので、一応ご報告。

 

麻布警察署に到着すると、階段を上って2階の受付に行く。 

「どうしましたか?」
「被害届を出したいのですが…」
「何の被害ですか?」
「痴漢なんですけど」

 

そう伝えると、5階の生活安全課に案内された。
生活安全課で女性の方が対応してくれた。

 

「いつ、どこで痴漢に遭いましたか?」
「6月17日の土曜日、芋洗坂のAXIOMというギャラリーで開催されていたブラックボックス展です。」

 

そう伝えると、女性の警官は「既にこの件で他にも被害報告を聞いているんですよね」と言う。
でも、麻布警察署に直接来たのは、わたしが最初だったそうだ。

 

部屋が空いていなかったそうで、廊下のソファーにわたしと付き添いの友人が座り、クリップボードを持った女性警官がしゃがむ形で事情を聞かれることになった。

 

わたしがここに相談に来るまで、警察はブラックボックス展での事件を「暗闇のアート会場でお尻を触る男が一人いた」程度だと認識していたようだった。

 

イベントの概要などを聞かれた後、痴漢の具体的な行為について確認された。


「つまり、暗闇でお尻とかを触られたってことですかね?」
「いえ、腕を掴まれて抱き寄せられ、顔をまさぐられて唇の位置を確認された上でキスされました」
「そうなると痴漢じゃないな」


そう言うと慌てた様子で別の刑事さんを連れてきて、担当が変わったと伝えられた。

 

廊下で友人に待っててもらい、わたしは個室に案内された。
なんとなく怖い人が多そうだな…と思っていたが、担当してくれた刑事さん達は親身になって話を聞いてくれた。

 

刑事さんが代わる代わるやって来て、事件の詳細を尋ねられた。


「何ていうイベント?」「そのイベントの趣旨は?」「会場はどこ?」「中には何があるの?」「何も見えないの?」「全く灯がないの?非常灯とかは?」「どんな相手だったかは分かる?」「主催者は誰?」「全員が入場できるわけではないの?」「どんな人が入って行った?男の人も入場していた?」「お金は払った?」「誓約書にはどんなことが書いてあった?」「身分証は求められた?」など網羅的に質問された。

 

他の方がTwitterに上げていた、入場者の選別の動画を見せる。

 

 
女性が通されやすく、男性はおとなしめの外見の人が選ばれているように見えることについて、刑事さん達は口々に「これは故意だなあ」と言っていた。

 

特に会場内に一切明かりがないこと、出口が分からず簡単には出られない構造になっていることを話すと渋い顔で「安全面に問題がありそうだ」と言われた。

 

一通り被害状況について話し終える頃には、刑事さんは憤った様子だった。


一刻も早く主催者を特定し、直接注意するべきと判断したようで、そのまま他の複数の刑事さん達を連れて一緒にギャラリーの現場へ行くことに。

 

as-axiom.com

 

管理人も、当然主催者も不在だった。


他の刑事さん達は現場に残り、私は担当の刑事さんと警察署に戻った。

刑事さんから「24時間いつでも電話してほしい」と言われ、電話番号を含む連絡先を交換し、解散した。

 

 

これからブラックボックス展の事件の捜査が本格的に始まることを望んでいます。

他にも被害に遭った方は(男女問わず)麻布警察署に相談しに行ってほしいです。

相談を通じて、不愉快な取り調べのようなことは全くありませんでした。

警察署に入るのは緊張しましたが、もっと気軽に相談に行っていいのだと思います。

 

以上です。

ブラックボックス展マジで死ねよ

ブラックボックス展に行った。

 

端的に言うが、真っ暗闇の部屋で痴漢された。

以上。

 

それ以上でも、以下でもなかった。

詳細に書くが、暗闇で痴漢された話でしかない

 

6月17日土曜日。

ブラックボックス展が最終日だというので、クソ暑い中5時間並んできた。

一緒に並んでいた友人は、並んでいる途中でスタッフのゴツい黒人に肩を叩かれて列から排除された。

喋る相手もいなくなって暇だなと思いながら、ようやく入り口へたどり着く。

どういう基準なのかよくわからないが、ゴツい黒人がTinderのごとくパッパッと入場者を選別する。

わたしは通された。

入場料の1000円を支払い、ネタバレ禁止の誓約書にサインする。

案内にしたがって階段を上り、黒いカーテンの奥へ進むと真っ暗闇な部屋だった。

何も見えない。部屋の広さも分からない。

「あ〜こういう感じか(笑)暗闇の中で五感を研ぎ澄ませる系の体験型アートね(笑)」と心の中で半笑しながら壁伝いに歩き進む。

しばらく他の客と手と手が触れ合うなどしながら、「これで終わりか、クソ展示じゃんつまんね」と思っていた。

 

また誰かと手が触れた。その瞬間、手をぎゅっと握られて力強く抱き寄せられる。

顔をまさぐられて唇の場所を確認された上で、キスをされた。

硬い髭跡が顔に擦れて、男の人だと思った。

逃げようにも腰をぐいと引き寄せられていて離れられない。

そのまま片手で胸を揉まれた。髪を撫でられ、耳を舐められた。

ようやくの思いでその誰かの腕から脱出し、壁伝いに出口の方へ逃げた。

 

たったそれだけだった。

 

この痴漢が展示側の意図していたものだったのか、想定外のものだったのかさっぱり分からない。

意図していたのだとしたら、マジで死んで欲しい。

想定外だとしても、死んで欲しい。

 

もしかしたらわたしが見つけられなかっただけでさらに奥に別の部屋があったのかな。

それとも何か面白いメッセージとかあったのかな。

いずれにせよ、わたしには何にも見つけられなかった。

長居すればするほど知らない人から体をまさぐられるので、とにかくさっさと出たかった。

誰か何か見つけた人がいたら、きっと我慢強い人なんだろうな。

わたしは無理だった。

 

わたしの感想は、ただただ「痴漢キモいブラックボックス展死ね」に尽きる。

 以上。

六月の夜の都会の空

六月になった。

毎年、稲垣足穂の「六月の夜の都会の空」というフレーズを思い出す。

 

 或る昼休みの教室の黒板に、I は「六月の夜の都会の空」という九字を走り書きして、直ちに消してしまった。「いや何でもありやしない」と彼は甲高い声で江美留に云った。「―でも、ちょっといい感じがしやしないかい?」

 

 なるほど! 六月の夜の都会の空。

 この感覚は自分にも確かに在った。夕星を仰いで空中世界を幻視する時、そんな晩方はまた、やがて「六月の夜の都会の空」でなければならない。汗ばんで寝苦しがっているまんまるい地球を抱くようにのしかかっている暗碧の空には、星々がその星座を乱したのであるまいかと疑われるほど狂わしげな位置を採って燦めき、そして時計のセカンドを刻む音と共に地表の傾斜がひどくなって、ついに酸黎のように赤ばんだ月をその一方の地平線におし付けてしまった刻限には、昼間から持ち越しの苦悩に堪えかねた高層建築物たちは、もはや支え切れずに、水晶の群簇のように互いに揺らめきかしいで、放電を取り交わしているのでなければならない。

 

 

わたしは六月の夜の都会の空が好きだ。

毎年六月がやってくる度に、このフレーズを思い出す。

そして、わたしだけの六月の夜の都会の空を蒐集してきた。

 

 

一人で好きなバンドのライブに行った、六月のあの夜。

ステージで照明を浴びる彼らは、目眩がするほどかっこよく見えた。

小汚いライブハウスから一歩出ると、外は肌寒くて、奇妙なほど静寂だった。

 

先輩の家で本について語り明かした後の、六月のあの夜。

終電に間に合わなくて、お気に入りのカーキハイヒールで駅まで走ったっけ。

粘度の高い風が、汗ばんだ身体にまとわりついてきた。

 

下北沢で男の子とデートをした後の、六月のあの夜。

街灯のない暗い小道に入ったら、星がいつもより綺麗に見えた。

星座のアプリと見比べた名前の分からない星たち。

 

 

今年も、六月の夜の都会の空を蒐集するんだ。

 

『美味しい料理の哲学』からアシェットデセールについて考える

 今、廣瀬純先生の『美味しい料理の哲学』という本を読んでいる。

 

美味しい料理の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

美味しい料理の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

 

 

 この本の趣旨は、読者に「"美味しさ"について語れるだけの語彙と思考を掴ませること」だ。豊かな現代社会において、もはや「食」は生物学的な機能を必要としなくなった。現代を生きる我々は「美食のコミュニズム」に到達したはずなのに、それを語りうるだけの語彙を持ち合わせていない。美味しい料理を「美味しい」以外の言葉で表現することができないのだ。だから健康的か否かのものさしでしか料理を測ることができない。そんな我々にとって、本書は「美味しさの論理」を掴む契機になるはずである。

 

 本書では一貫して「美味しい料理は骨つき肉の構造を持つ」と述べられている。非常に面白い指摘だ。多面的な美味しさが潜在的に含まれている「肉」と、その美味しさを支える「骨」の構造。そして、あらゆる調理法によって「肉」の美味しさを多面的に引き出す料理人の創造性についても触れられている。

 

 このくだりを読みながら、わたしの大好きなパティシエールの顔を思い浮かべていた。

 

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 彼女のアシェットデセールは、今までどのレストランで食べたデセールよりも美味しい。(アシェットデセールとは「お皿に盛られたデザート」を指す。作ってすぐ提供されるため、冷たいアイスクリームと温かいチョコレートソースなど、異なる温度や異なる素材を一緒に盛ることが可能になる。「この瞬間」しか食べることができない刹那的なデザートである。)

 

 彼女のデセールは、他と何が違うのか。あれこれ考えていたが、あくまで「素材中心」にお皿をデザインしていることではないかと結論付けた。彼女は「ベリーのお皿」では、苺をドライフルーツにしてみたり、アイスにしてみたり、ソースにしてみたりするのだ。たった一つの素材から、色々な表情を引き出してくれる。素材が同じだったり、似ているものだったりするから、お皿全体に統一感が生まれるに違いない。つまり、彼女は苺という「肉」から、その豊かな創造性でもって多面的な美味しさを引き出している。

 

 多くのシェフやパティシエは、アシェットデセールを作る際に味覚と味覚の掛け算をしているように思う。気が遠くなるようなことに敢えてチャレンジする姿勢はかっこいい。しかし、味覚と味覚がお互いを相殺し合ったら全て水の泡。いくらInstagram映えしようが、なんとも首を傾げてしまうような味になってしまう。

 

 は〜。なんと悩ましいことに、大好きなそのパティシエールはもう退職してしまった。偶然わたしが彼女の働くレストランに予約をしていた日が、最終出勤日だった。彼女の最後のデザートは天下一だった。恋しいな。また食べたいな。

『沈黙』の誤読と的外れなコメントに対しての批判

マーティン・スコセッシ監督『沈黙』を観た。と同時に、原作の遠藤周作『沈黙』を読み返した。

 

ただただすごかった。めちゃくちゃよかった。映画では、小説のような書簡形式の一人称での内面描写ができない。したがって心情描写に様々な苦労や工夫があったに違いない。ラストシーンなどは特に顕著だ。主人公のロドリゴが人目を避けてもなお信仰を持ち続けたことを匂わせる表現方法。超感動した。

 

ワンワン泣きながら映画館を出た。すぐにでも、この感動を誰かと分かち合いたいと思った。が、一人で観に行ったため語る相手もいない。こういう時はインターネットだ。ネットで「映画 沈黙」と検索して見つけたのが、この記事である。

 

www.excite.co.jp

 

ふむふむと読み流していたが、どうしても納得いかない部分がある。

 

飯田 奇形化とか言ったらさ、ロドリゴは踏み絵を踏んだけど本当は信仰を捨てていなかったって話になってるけど、あれこそ勝手な奇形化でしょう。殉教するのが筋だから。本来。 

 

飯田 「地獄に堕ちた者にはいかなる救いもない、信徒の親族であっても例外ではない」ってザビエルとかが言ってたから&死ねば天国行けるっていう短絡化した信仰を抱いているからキリシタンは転向しなかったわけで。目の前で誰かが苦しんでるから(かたちだけとはいえ)棄教するなんてのは本来ぬるすぎる(とカトリックの人たちも遠藤周作を批判してました)。

 

飯田 信仰をもたない人間にはロドリゴの悩みは切実な葛藤に見えるけど、ガチな人にとっては「は? あんなの問題にならないっすよ」ってことみたいですね。 

 

飯田氏は「殉教するのが筋」「棄教するのはぬるい(とカトリックの人たちが批判していた)」「ガチな人にとってはロドリゴの悩みは問題にならない」とコメントしている。

 

この記事の中では散々『沈黙』が「誤読」されていることについて批判的なコメントをされていた。

が、正直言って「誤読」しているのはご本人では?と思った。

 

全くもって主題を理解していない。評論家気取りも甚だしい。

ここで彼の言う「カトリックの人たち」および「ガチな人」とは一体誰を指すのだろうか。

この作品は、そういう人々に対しての問題提起であり、「こうあらねばならない」に対するアンチテーゼが描かれていたではないか。

 

「この俺は転び者だとも。だとて一昔前に生れあわせていたならば、善かあ切支丹としてハライソに参ったかも知れん。こげんに転び者よと信徒衆に蔑されずすんだでありましょうに。禁制の時に生れあわされたばっかりに……恨めしか。俺は恨めしか。」 (p.181)  

  

 聖職者たちからは恥ずべき汚点のように見なされているかもしれぬ。だがそれがどうした。それが何だというのだ。私の心を裁くのはあの連中たちではなく、主だけなのだと彼は唇をつよく噛みながら首をふる。( p.272) 

 

(何がわかるか。あなたたちに)

ヨーロッパにいる澳門の上司たちよ。その連中に向って彼は闇の中で抗弁をする。あなたたいは平穏無事な場所、迫害と拷問との嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと生き、布教している。あなたたちは彼岸にいるから、立派な聖職者として尊敬される。烈しい戦場に兵士を送り、幕舎で火にあたっている将軍たち。その将軍たちが捕虜になった兵士をどうして責めることができよう。(p.272)

 

彼らにこの映画を批評する資格などないと思う。自称キリスト教徒の話を鵜呑みにするのは愚かしい。なぜなら、時代も境遇も違うからである。『沈黙』とはそういう話だ。まずは聖書を読もう。しっかり読んでくれ。それから『沈黙』を精読してくれ。頼んだ。批評家の義務だ。

 

 

不完全で不器用な人たちについて

 先日、グザヴィエ・ドラン監督の『たかが世界の終わり』を観た。

 この映画では「こうあるべき」という理想像からはみ出してしまう人間たちが描かれている。「母なら明るく家庭を仕切らなければならない」だとか「兄なら踏みとどまっている妹の背を押してあげるべきだ」だとか、役目を果たさねばならないと思い込んでいる。にも関わらず、その役目を上手に実行できない。どうしようもなく不器用な人間たちなのだ。

 このような人間像は、同監督の作品『わたしはロランス』にも見受けられた。ヒロインは突然愛する彼氏から「女になりたい」と打ち明けられる。「彼のことを愛しているなら、たとえ性別が変わったとしても愛すべきである」と愛する努力をするが、結局頓挫してしまう。彼女が愛しているのは、あくまでも異性としての彼であった。よく聞く「愛に性別など関係ない」などという台詞を言うことができなかったのだ。だから彼女は苦悩した。

 「こうあるべき」という理想と現実のギャップに苦悩する不器用な人々。もしかしたら、グザヴィエ・ドランは彼らのそんな不完全さに惹きつけられたのだろうか。わたしも、不完全な彼らにどうしようもなく惹きつけられた。

 わたしはヒーローになりきれなかった登場人物たちのことを愛している。その理由は、不足の美ではない。たしかに枯山水とかミロのヴィーナスとかサモトラケのニケは、不完全だからこそ強烈に人を惹きつける。しかし、この場合はあくまでも自己愛の延長だ。わたしも彼らと同じように不完全である。不完全な自分のことを嫌悪しつつ、その不完全さも可能ならば愛されたいと思っている。不完全な他者を肯定してあげることで、自分のことも肯定しようとしているんだ。そのままでもいいんだよ、って。完璧を追い求めなくていいんだよ、って。きっとヒーローになりきれなかった登場人物たちに自分を重ねているんだ。『たかが世界の終わり』も『わたしはロランス』も痛いほど不器用な人たちばかりだった。わたしは、わたしそっくりの彼らを一人一人赦し、一人一人愛したいと思う。

 そして、わたしのように不完全で不器用な人たちが赦され、愛されますように。

デセールはクライマックスでなければならない

もう我慢できないから書かせてくれ。デセールはクライマックスであるべきだ。食後のおまけではない。輝かしいフィナーレ、物語の最高潮であるべきだ。

 

わたしは常日頃から、フレンチのコースと文学作品は同じようなもんだと思っている。

 

まず、席につくと何も置かれていないお皿があるじゃない?あれはサービスプレートだとか、化粧皿とか呼ばれているんだ。みんな知ってるかな。あのお皿は、小説のタイトルみたいなもので、これから始まるめくるめく物語の展開を予感させるものなんだよ。

 

アミューズブーシュはエピグラフアミューズはプロローグ。オードブルは起承転結の起。パンとスープは承。転はメインのお魚とお肉。物語の佳境。ここでピークを持ってくるのは、一見正しいように思われる。あとは適当におまけのデセールを結に持ってくる。まあ甘けりゃなんでもいい。珈琲でも飲みながら徐々にフェードアウトして、ハッピーエンドにでもすればいい。そうして人の印象に残らない、つまらないお話ができあがるんだ。そう思わない?

 

デセールに与えられた役割は、佳境を過ぎた物語をいかに締めるか、ということ。せっかくメインであんなにも美味しい料理を出したのだから、華々しいフィナーレを飾ってくれよ。そうだなあ。あの仔牛のコルドン・ブルーはとても美味しかった。きつね色の美しい衣にさくりとナイフを入れると、チーズが溢れて付け合わせのお野菜と絡まってゆく。衣の中の仔牛の肉、ああ罪深い柔らかさなんだ。いやはやメインは美味しかった。美味しかっただけに、デセールのハードルは上がるわけだ。そのハードルを、レストランはどうにかして越えなければならないと思うわけですよ。

 

ただの大学生が知ったかぶって何を言っているんだって感じだけど、文体(あるいはスタイル)を貫通するべきだと思うんだ。物語は完結するまで作者の文体が貫かれねばならない。文体とは、どこを切っても同じように流れる血であって。コース料理もそれと同じで、徹頭徹尾シェフの文体が貫通していなければならない。だから、デセールはおまけなどではなく、シェフの文体をそのままに、物語をより高尚に、より感動的に伝えるためのお皿であるべきなんだ。

 

って、オペラを食べながら思った話。もっと美味しいデセールを食べたい。