つかさの自由帳

140文字では伝えきれないこと:自由について本気出して考えてみた


【書評】橘玲著:幸福の「資本」論――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

f:id:tsukasa-h:20170620220622j:plain

 

ぶっちゃけ橘玲ファンであればほとんど目新しいものはないけれど、それでもやはり読む価値があると思うのは「幸福」というテーマで今までの著者の主張を美しく束ねているからだ。

 

身も蓋もない話をすれば、僕たちの人生は3つの資本(=資産)に委ねられている。すなわち金融資産と社会資本、そして人的資本だ。これら三つの資本はそれぞれ「自由」と「人間関係」、そして「やりがい」という幸福の構成要素と密接に結びついている。

 

1.金融資産=自由

2.社会資本=人間関係

3.人的資本=やりがい

 

金融資産が自由を生み出すというのは少し説明が必要かもしれない。例えば唐突に明日北海道にカニを食べに行きたいと思ったとしてもお金があれば飛行機のチケットを手配して、札幌まで数時間足らずで行ける。僕たちは移動の自由とカニを食べる自由をお金によって手に入れられる。もっと言ってしまえば古代ローマの奴隷は、自分をお金で買い戻し自由になったとされるけれども、現代では生涯賃金ほどのお金があればサラリーマンは会社から自分の時間を買い戻し自由になることができる。

 

ただし「自由」は幸せの基礎になるけれど、それだけでは不十分だ。老後を孤独に過ごす資産家が幸せだと思えないのは「人間関係」と「やりがい」という幸せに必要な二つの要素が欠けているからだ。マイルドヤンキーが貧しくとも幸せそうに見えるのは、社会資本である人間関係が充実しているからに他ならない。もちろん彼らのことをぬるま湯の人間関係に浸る井の中の蛙だって笑う人もいるかもしれない。でも僕は大海を知ることが必ずしも幸せではないと思う。

 

さて本書で最も胸に響いたのが「人的資本」すなわち「やりがい」はどこにあるのか、という話だ。著者は今までの著作で「金融資産」を築く方法を示し、詳述は省くが本書では「社会資本」も「お金」によって代替可能であるということが明かされた。

 

しかし「やりがい」というのは難しい。「やりがい」は以前のブログでも書いた通り、好きなことをしつつ生産的な活動をするというものだ。好きでも非生産的な活動は「快楽的な消費」に過ぎないし、生産的でも嫌な活動は「やりがい」ではなく「努力」と言える。だから僕たちはやりがいを得るために「生産的」かつ「好き」な活動をする必要がある。

f:id:tsukasa-h:20170324222409j:plain

幸い、今はYoutubeやブログなんかを通して「好き」をマネタイズし生産的なものに変える方法はいくらでも溢れているし、実際そういう風に生きる人も増えてきた。ホリエモンも「好きなことをして生きろ」と言うし、僕もこの考え方には全面的に同意する。でも多くの凡人にとって自分の「好き」を見つけるのが一番難しいというのが現実ではないだろうか。

 

しかし本書はそこからさらにもう一歩踏み込み、この「好き」を見つけるヒントを僕たちに与えてくれている。僕はメルマガで初めてこの言説に触れたが、かなりエポックメイキングだったのでとても印象に残っている。そのエッセンスを一言で表すと「本当の自分は過去にいる」ということだ。

 

もちろん子供の頃の夢が自分の「好き」という陳腐な話ではない、大事なのは子供の頃の「キャラ」だ。あまり多くを書きすぎるとネタバレになってしまうのでここまでにしておくけれども、今の生き方に悩んでいる人がいたら是非本書を手に取って読んで欲しい。「自分探し」の旅の終着点はインドや東南アジアなんかではなく、自らの過去にこそあるのだ。

 

幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

 

 

ワンピースに見る「自由」と「正義」、そして最終話予想

インターネットの世界ではマイルドヤンキーだ、ワンピース的価値観だと馬鹿にされがちなワンピースなんだけど、実はかなり現代社会に深い洞察を与えてくれている漫画だと僕は思っている。というわけで今回はワンピースに見る「自由」と「正義」についてお話ししたい。

 

以前の記事にも書いたように、僕は「自由」と「正義」は対立する概念だと思っている。「正義」は確かに素晴らしいが、「正義」の押し付けは時に共通の「正義」を信じない者に対しては信じられないくらい排他的で残酷なものとなる。

 

さてワンピースで「正義」と言えば真っ先に思い浮かぶのが、海軍の背中に大きく描かれてたものだ。「絶対的正義の名の下に!」というシーンは結構印象に残っている人も多いのではないだろうか。

f:id:tsukasa-h:20170528021222j:plain

 

ワンピースの世界では悪役であるはずの海軍が「正義」を声高に叫ぶのは尾田先生一流の皮肉だろう。これは逆説的に「正義」が絶対的なものではないということを物語っている。

 

一方、ワンピースで「自由」と言えば、思い浮かぶのが下のシーンである。曰く「この海で一番自由な奴が海賊王だ!!!」このことから尾田先生も「正義」と「自由」の対立を深く理解しているのではないかと推察する。

f:id:tsukasa-h:20170528021240j:plain

 

しかしながら、やっぱりそこはワンピース「正義」を重んじるコミュニタリアン的な側面も持ち合わせている。

 

f:id:tsukasa-h:20170602080428j:plain

このシーンは一度ルフィと対立して一味を抜けたウソップが、再び一味と合流するシーンだ。この時にゾロはけじめもつけずにウソップが一味に戻ることを頑なに許さない。一見すると「仲間大事にしてないじゃん」と思うのだが、それは逆だ。ゾロがウソップの出戻りを許さないのは彼が「軽々しく一味を抜けた」からだ。そこには何よりも仲間に重きを置くマイルドヤンキー的な、そしてワンピース的価値観がある。

 

とは言え、主人公が目指す海賊王の定義がこの海で一番自由な奴、ということで僕は最終的には仲間はそれぞれの「自由」を求めてバラバラになるのではと考えている。ゾロは世界一の剣豪になるため、ナミは世界の海図を完成させるため、サンジはオールブルーを見つけるため。仲間の思いは様々だが、こうした自分の夢を叶えるために徒党を組むというのは自由を重んじるリバタリアン的な価値感とも一致する。

 

 

 

さてここまではワンピースの根底に流れる「自由」と「正義」という価値観について見てきた。ここからはリバタリアン的な僕の私見による最終話を予想したい。

 

ワンピースファンの間ではまことしやかに語られる最終話予想のひとつに「三つの古代兵器、プルトン、ウラヌス、ポセイドンによりグランドラインとレッドラインが崩壊し全ての海がひとつにつながる(=ワンピース)」というものがある。海王類を操れるポセイドンがグランドラインを開放し、島を砲撃ひとつで消し飛ばすプルトンがレッドラインを破壊するというものだ。そして4つの海が文字通りつながり、同時にサンジが目指すオールブルーも現れる。

僕のワンピースの最終話予想、ほぼ間違いないでしょう。長年のワンピースファンならば... : 【ワンピース最終回】 予想なのに面白い!! ありえそうな予想のまとめ ネタバレ要... - NAVER まとめ

 

仮にこの最終話予想が真実だとすれば、まさしくリバタリアン的な発想であると僕は思っている。リバタリアン的な自由が行き着く先は国家の否定であり、国境の崩壊だ。そしてグランドラインとレッドラインという象徴的な「境」がなくなることで海賊王は海を「自由」に行き来できるようになるだろう。

 

さてここからは本当に僕の妄想なんだけれど、未だに役割が不明な最後の古代兵器ウラヌスについて私見を述べたい。ポセイドンがグランドラインをプルトンがレッドラインを崩壊させるものだとしたらウラヌスはきっと概念の壁を壊すもの、つまり情報を取り扱うインターネットのようなものではないかと思っている。古代の三大兵器の存在を示唆していると言われるエネルが眺めていた壁画には空に浮かぶウラヌスらしき天体が浮かんでいる。僕はこれを見た時にグーグルの気球インターネットを真っ先に思い浮かべた。

f:id:tsukasa-h:20170528022056g:plain

 

そう考えると尾田先生は決してマイルドヤンキー的な価値観を賛美しているわけではなく真に自由を愛するリバタリアンなんじゃないかと思えてくる。ぶっちゃけ最近はストーリーを追えているわけではないけれど、何にせよ結末が楽しみな漫画の一つだ。なんだか「自由」と「正義」を語るつもりがワンピースのファンサイトみたいになってしまった。

【書評】すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論-堀江貴文著

f:id:tsukasa-h:20170412124746j:plain

 

僕が勝手にステルスリバタリアンだと思っている堀江さん@takapon_jpの新書についての書評を書きました。タイトルに教育とありますが僕は「自由」と「幸福」のための哲学書だと感じました。

 

ホリエモンというステルスリバタリアン

 

リバタリアンの多くは、リバタリアンを自称しないため普段は目に見えない。何故自称しないのかというと、信じる思想が例え「自由」だったとしても絶対的な価値観を持つことに対して抵抗感というか気持ち悪さを感じているためではないかと思う。言い換えると「自由」を好むがゆえに自分自身を特定のカテゴリーの中に入れたくないのだ。まあ、ただ単に「カテゴリー分け」に興味がないだけかもしれないが。

 

さて僕の私淑四天王の一角であるホリエモンこと堀江貴文氏もリバタリアンを自称しないステルスリバタリアンだ。ただ主張は一貫して「自由」を重んじており、本書についても存分にリバタリアニズムを感じさせるものだったので紹介したい。

 

学校教育はまったく必要ない

 

本書のテーマは教育だ。もっと言えば教育と紐付いた「国民国家というフィクション」に対して疑問を投げかける内容となっている。国家の否定はまさしくリバタリアニズムの本領だ。

 

学校教育の起源を辿れば18世紀のイギリス産業革命にまで遡る。当時のイギリスで必要とされていたものと言えば「高品質な」工場労働者だが、そのために学校教育というシステムは最適だった。決まった時間に決まった学習を行い、教師に対して従順な人格を作り出す。もちろん基礎的な学力や最低限の社会性といったものも学校は提供した。またもう一つの死活問題である軍人の確保にも教育システムは効果的だった。命をかけて敵と戦うためには「国家のために」というフィクションが必要不可欠であり、学校は洗脳機関としても優れていた。

 

さて当然であるがリバタリアンであるホリエモンは教育の強制を良しとしない。というかまったく必要ないとまで言い切っている。おそらく原風景には自らの早熟だった子供時代があり、そこで「自由」が侵害されたという記憶があるのだろう。

 

もちろん本書に書いてあることは「学校が嫌いだからなくしてしまえ」という単純な主張ではない。今後の社会の流れを鑑みても学校教育は不要だとホリエモンは説く。社会の流れというのはインターネットの登場であり、AIやロボットの普及だ。インターネットは国境を溶かし、国民国家というフィクションをも破壊し始めている。また早晩普及するであろうAIやロボットは学校教育の目的そのものであった均質な労働者を真っ向から代替するテクノロジーとなり得る。

 

もっとも今でさえ学校教育の問題点は山ほど挙げられる。様々な習熟段階にある子どもたちに画一的な教育を押し付けて良いのか、TOEICを500点も取れない英語教師に英語教育を任せて良いのか、オンラインで優れた予備校講師の授業を配信したほうが効果的ではないのか、そもそも登校する必要はあるのかetc…。

 

個人的には学校教育をまったく必要ないと言えるほど子供の可能性を信じ切れているわけではないが、そう断ずるホリエモンの主張も理解できる。尖った個性が求められる近未来において、個性を削るような画一的な学校教育はメリットよりもデメリットの方が大きいのかもしれない。

 

G人材とL人材、そしてN人材

 

さて、ここまでが全5章で構成される本書の第1章で、第2章はいわゆる人材論、というか生き方の話になる。すなわちG人材、L人材、そしてN人材だ。僕はホリエモンの著書、文章は大体チェックしているつもりだが、この概念は比較的最近語られ始めたように思う。僕が初めて見たのはNewsPicksの有料記事だったので、この部分だけでも本書を読む価値は十分にあるだろう。

 

ホリエモンは当然リバタリアンでもあるGlobal人材(G人材)だが、リバタリアン的な面白さを感じるのはLocal人材(L人材)に対する彼のスタンスだ。代表的なL人材と言えばマイルドヤンキーが挙げられるが、ホリエモンは彼らの生き方を否定することはしない。そこに幸せを感じるのならば、そう生きるのも彼らの「自由」というわけだ。またG人材とL人材はそもそも接点が少ないので、リバタリアンが最も忌避する「自由」の侵害もほぼ発生しない。

 

ホリエモンが最も問題視しているのは国家の存在を前提として成り立つNation人材(N人材)だ。彼はN人材の最大の問題点を「仮想敵」を作り出すことだと指摘するが、首がもげるほど同意したい。

 

国家というフィクションの背景にあるのは共同体の「正義」だ。そして「正義」という価値感は絶対的なものとなりうる。そのことは以前の記事で書いた通りだ。

 

では凝り固まった「正義」を振りかざすのはどのような人々だろうか。街頭でヘイトスピーチを繰り返す右翼(コミュニタリアン)はあてはまるかもしれない。でもそれだけではない。「平等」を掲げる左翼(リベラル)もまた価値感を共有しない人々に対して凶悪となる。それは沖縄の基地問題や原発問題、SEALDsの活動を見てもよく分かる。寛容を叫ぶ人ほど寛容ではないのだ。その意味で僕たちの「自由」は常に「正義」や「平等」によって脅かされている。そしてこれらを叫ぶのは決まって国家に囚われているN人材なのだ。

 

さて「自由」や「平等」、「正義」といった価値感は、それぞれリバタリアン、リベラル、コミュニタリアンの背景にある思想だ。これらはその言葉の美しさ故に目的そのものだと勘違いされやすいのだが、実は「幸福」を掴むための一手段に過ぎない。結局生きる上で最も大切なことは、いかに自分が幸せになるかということなのだ。従って本書の第3章もリバタリアン的な「幸福」がどのようなものになるのかを解き明かす内容となっている。キーワードは没頭する力であり、僕が以前書いた記事にあるような快楽マネタイズだ。

 

ここから先の内容については本書に譲りたいと思うが、ひとつ注意しておきたいことは、この本における教育は表面的なテーマに過ぎないということだ。僕はホリエモンが本当に訴えたいのは「自由」な生き方であり、「幸福」のつかみ方だと思っている。その意味で本書は、安直な教育論ではなく一種の哲学書だと言える。なので人生に迷いが生じている人はぜひ手に取って見てほしい。そこにはきっと「自由」を、そして「幸福」を掴むためのヒントがあるはずだ。

 

そう言えばG人材はリバタリアン、N人材を左右で分かれるリベラルやコミュニタリアンだとするとL人材にあてはまる思想がない。あえて言うならば「仲間」に至上価値を置くローカリアンといったところだろうか。本書を最後まで読んで、それでもなおかつリバタリアン的な生き方に違和感を覚えたならば残された選択肢はローカリアンのみだ。早々にネットを閉じ、仲間たちとサッカーでもしよう。ネットの世界にローカリアンの幸せはない。

 

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

 

 

政治を五分で理解するための教養

f:id:tsukasa-h:20170328060740j:plain

要約:政治をざっくり理解する上ではリベラルとコミュニタリアンとリバタリアンが持つ価値観を理解していれば十分で、その中でもリバタリアンって最高じゃね?って話です。

裏テーマは恋愛工学批判に対する皮肉と自己紹介です。 

1.はじめに

政治について語るということは、そんなに難しいことじゃない。たまに政治について語る教養がないと嘆く人がいるけれど、結局は「世の中に3種類の人間がいる」ということだけを頭にいれておけば大抵の政治は語ることができる。今日はその3つ、リベラル、コミュニタリアン、リバタリアンについて紹介したい。

この3つはどういった価値観に一番の重きを置くかということで主張が異なる。ざっくり言うと、リベラルは「平等」、コミュニタリアンは「共同体の正義」、リバタリアンは「自由」だ。ちなみに僕は自分のことをリバタリアンだと思っているのでこの記事はリバタリアン寄りの内容となることをご承知置きいただきたい。

政党で考えるとリベラルは社民、共産、民進、コミュニタリアンは自民、リバタリアンは維新となる。公明党は「宗教」というまったく異次元の価値観があるので、ここでは触れない。もちろん完全に割り切れるものではなくあくまで「傾向がある」といった意味で考えて欲しい。

2.リベラル

さて「平等」を至上価値とするリベラルには香ばしいというかちょっと胡散臭い政党が揃っている。それもそのはずで現代社会の基本システムである資本主義と相容れない考え方が「平等」だからだ。

勘違いして欲しくないのは、僕だって「平等」は素晴らしいと思っている。だけどそれはあくまでも身分や出自、人種や性別に関係なく等しくチャレンジする機会が与えられているという「機会の平等」に限った話で、様々な過程を無視して「結果の平等」を求める社会はグロテスクなディストピアでしかない。

この集団の代表的な政策は「大企業や金持ちに重税を課し、弱者に分配する」といったものだが、それが上手く行かないのはソ連が証明してくれた。

また彼らは「平等」を国家を超えた枠組みで適用しようとするので、時に自国の利益と相反する政策を提言しているようにも見える。例えば慰安婦問題なんかを大きく取り上げるのもこの集団だし、ルーピーとアメリカに揶揄されるほど国政に混乱をもたらした鳩山元首相もここに属する。彼は「平等」の精神を世界中で振りまいたために日本国民からは売国奴として罵られることとなった。

またこれは余談だけど、彼は宇宙人という自らに付けられたあだ名を気に入っていたフシがある。なぜなら

『宇宙人の自分だからこそ自国の利益に囚われず地球規模の問題に対処できる。』

という考えがあったからだ。それはそれで立派な志かもしれないが、一国の首相には恐ろしく不向きだった。

3.コミュニタリアン

次に「共同体の正義」を重んじるコミュニタリアン、いわゆる保守と呼ばれる人たちを見てみよう。「共同体の正義」というのは一見わかりづらいが、つまりは長い歴史の中で育まれてきた伝統を大事にしようとする一団だ。これは政党で言えば最もポピュラーな自民党ということになり、いわゆる「普通の人」とも言える。「普通の人」は伝統を重んじ、仲間を大切にする。最近の言葉で言えば「ワンピース的価値観」や「マイルドヤンキー」なんてものがあてはまるかもしれない。これだってもちろん「平等」と同様に素晴らしい考え方だが、やっぱり違和感を感じないだろうか。というのも彼らの目には仲間以外の人々が(あまり)写っていないからだ。

「共同体の正義」を突き詰めれば、ともすれば偏狭なナショナリズムを肯定してしまう可能性がある。かつてのファシズムがそうだったように、あるいは今のアメリカを見ても分かるように徹底したコミュニタリアンは他民族を排斥するムーブメントを醸成しかねない。また「国家のために」という価値観は戦争中に特攻隊という悲劇を生んだ。

 

 

 

4.リベラルとコミュニタリアンに関して特に問題だと思うこと

最後に「自由」を至上価値とするリバタリアンを紹介したいと思うが、その前にリベラルとコミュニタリアンについて僕が最も問題だと感じていることを述べておきたい。それはこれらのイデオロギーが「妄信的で絶対的なもの」となりうる点だ。

「平等」や「正義」は確かに素晴らしい価値観だ。しかしそれ故に絶対的なものとなりやすい。そして「素晴らしい」価値観を持つ人々は他人にもそれを強制しがちだ。ネット上で攻撃的なのもリベラル(exフェミニスト)やコミュニタリアン(exネトウヨ)ではないだろうか。「平等」を叫ぶ人は周りの人も「平等」でなければならないと思っているし、「共同体の正義」を信奉する人はやはり周りにもその「正義」を押し付けようとする。寛容を叫ぶ人ほど寛容ではないという例のアレだ。心当たりはないだろうか。

一億歩譲って彼らが純粋な気持ちから「平等」や「正義」を押し付けようとすることは肯定はしないが理解はできる。でも時に彼らは「嫉妬」や「憎悪」という個人的な負の感情を「平等」や「正義」という仮面で取り繕いながら言葉の棍棒でぶん殴ってくる。僕はそういう人たちを本当に醜いと思う。

「おいおいちょっと待て、じゃあリバタリアンはどうなの?」

そんな反論もあるだろう。だが考えてみて欲しい。「自由」という価値観が絶対的なものだとして、それを人に押し付けることは果たして可能だろうか?リバタリアンからすればリベラルだろうがコミュニタリアンだろうが、彼ら自身のコミュニティ内で、それを主張するのは「自由」だと思っているし干渉する気もない。唯一言える批判的な言葉は「もう好きにすればいいじゃん」ということぐらいで、そこに強制性はない。リバタリアンが唯一声高に「自由」を叫ぶのは自らの「自由」が侵害された時のみだ。だから他のイデオロギーに対して攻撃的な防御に出ることはあっても率先して噛み付くことはない。こう考えると人に押し付けることのできない価値観である「自由」ってすごい。

5.リバタリアン

さてほとんどリバタリアンについても解説してしまったが、最後にもう一度おさらいをしておこう。リバタリアンを政党に置き換えると、強いて言えばだが維新の会ということになる。何故かと言うと、維新の会はほとんど唯一と言っていいほど小さな政府を志向しているからだ。

小さな政府を志向するということは政府の役割を限定し、個人への干渉をできる限り小さくする、つまりは「自由」を最大限尊重するということに他ならない。具体的な政策としては種々の規制緩和や減税などが挙げられる。リバタリアンは国家に対しても「ほっといてくれ」というスタンスだし、重税を課されることは自らの「自由」を奪われることだと捉える。ドストエフスキーが言うように貨幣とは鋳造された「自由」であるからだ。

とは言えこれだけではフェアではないのでリバタリアンの欠点についても述べておこう。

「自由」を突き詰めた社会はホッブズが指摘したように「万人の万人に対する闘争状態」つまり無政府状態に近いところに至る。それはやはり弱肉強食の世界であり、力がなくお金を稼ぐことのできない弱者にとっては生き辛い世界だ。

ここで弱者救済に対するリバタリアン的な回答はベーシック・インカムということになるのだけれど、これに言及するためにはもう一本記事が必要なので割愛する。

念のためもう一度言っておくけれど、ここで言ったのはあくまでざっくりとした分類で、自民党や民進党の中にもリバタリアン寄りな人たちは存在するし、極端なリベラルやコミュニタリアン、そしてリバタリアンというのも中々いないだろう。かく言う僕もコミュニタリアン寄りのリバタリアンだ。

6.最後に

さてつらつらと書いてきたわけだけど、ここまで理解できればおそらくはそんじょそこらの政治通よりもよっぽど政治について語ることができるようになっているはずだ。少なくともリバタリアニズムという思想の上に立脚すれば議論で言い負かされることはない。決め台詞は「好きにすればいいじゃん、でもこっちに迷惑をかけるなよ」だ。覚えておこう。

しかしこう考えてみると「自由」「平等」「友愛」を同時に掲げるフランスの国旗って、楚の国の商人も裸足で逃げ出すレベルの矛盾を抱えていると思うよ。

参考図書:

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

(日本人)

(日本人)

 

 

実戦ではまったく役に立たないTOEICが普及した理由

f:id:tsukasa-h:20170316214519j:plain

140文字以内でまとめると「TOEICは役に立たないからこそ普及した」って話です。

裏テーマは「インセンティブの所在を明らかにして真実を見極めよう」です。

TOEICが普及した理由

TOEIC批判には様々なものがあるけれど、それらをひっくるめると大体「実戦では役に立たない」という意見に集約される。それもそのはずだ。TOEICにはスピーキングやライティングのテストがない上に、リスニングはネイティブが本気で話した時の半分ぐらいの難易度しかない。よってこの実践では役に立たないという批判についてはなんら反論の余地はない。

それでは何故この役に立たない試験が日本社会で重宝されているのだろうか。いくつか要因は考えられるけれど、僕は「実戦では役に立たない」からこそTOEICは重宝されているのだと思っている。

TOEICは誰のためのもの?

そもそもTOEICは誰のためのものかということを考えてみよう。就活生のためのものだろうか?それとも企業の採用担当者だろうか?あるいはスキルアップに燃える若きビジネスマンだろうか?

答えは全てNoだ。そう、TOEICTOEIC運営のものなのだ。彼らの視点に立ってインセンティブを読み解けばこの不思議なTOEICというテストの存在意義が見えてくる。

TOEIC運営からすれば、受験生の実際の英会話能力なんて知ったこっちゃない。関心があるのは受験生をたくさん集めることであり、集めたことで稼げるお金だ。つまり、この「実戦では役に立たない」テストは、TOEIC運営が「どうしたら受験生を集められるか」ということを追求した結果であり、巧みなマーケティングの成果なのだ。それをひとつずつ見ていきたい。

排除されたスピーキングとライティング

まずTOEICにはスピーキングとライティングのテストがない。これは実践的な英会話能力を身につけるためのテストとしてはありえない。冷静に考えてみればインプットのみでアウトプットのない試験なんてサッカー部が筋トレのみで試合に望むようなものだ。ではなぜこれらのアウトプット系のテストがTOEICから排除されたのか。それはスピーキングやライティングが多くの受験生にとって難し過ぎるからだ。

ここで言う「難し過ぎる」というのは二つの意味がある。ひとつは話すことや書くことそれ自体、そしてもうひとつが学習する難しさだリスニングやリーディングとは異なり、スピーキングやライティングには相手が必要だ。英文は添削してもらう必要があるし、壁に向かって話しかけるわけにもいかない。オンライン英会話が市民権を得たとはいえ、時間に追われるビジネスマンや金銭的に余裕のない学生にとって、このことは依然として高いハードルになっている。TOEIC運営が受験生を集めるためにこれらのテストを排除したとしても何ら不思議なことではないだろう。

ちなみに「実戦では役に立たない」という批判をかわすためか、お情け程度にTOEIC SWというスピーキングとライティング用のテストも用意されている。しかし通常のTOEICとは別々に実施されている上に受験者数もわずかだ。2013年度のTOEICの受験者数が236万人であるのに対し、TOEIC SWは1.47万人に過ぎない。別々に実施されている理由はもちろん目玉商品である既存のTOEICの受けやすさを維持するためだ。

 

 

役に立たないリスニング

TOEICは少なくともリーディングとリスニングには役立つという意見を耳にするが、これも嘘だ。いや、リーディングには多少なりとも役立つかもしれない。でもリスニングは例え満点近くのスコアを叩き出したとしても、ネイティブの発音を聞き取れるようにはならない。なぜならばTOEICの発音はきれい過ぎるし遅過ぎるからだ。

僕はアメリカに来る前にリスニングで満点近くのスコアをマークしたが、ネイティブの会話をまったく聞き取ることができなかった。そもそもネイティブの会話では単語はいくつも省略されるし、前後のワードは有機的に結びつき複雑な発音となっている。TOEICの教科書通りの逐語的な発音を学習しただけではネイティブの会話についていくことは到底できない。

ではなぜ現実と大きく乖離したものとなっているのか。その答えもライティングやスピーキングのテストがない理由と一緒だ。つまり実践的なものにしてしまうと難し過ぎるからだ。

ネイティブレベルの英会話が出題されると今までの英語教育におけるリスニングとの大きな違いに多くの受験生は面を食らう。具体的に言うと①スピードが早く②日本語にはない発音があり③前後のワードが有機的に結びついている、というのが主な理由だろうか。これはアリアハンを出発したばかりの勇者の前にいきなりバラモスが出てくるようなものだ。

一方TOEICの発音はきれいだし遅い。もちろん初学者が完全に聞き取ることは難しいが、ゲームを始めたばかりのプレーヤーのモチベーションを維持するためには程よい難易度が設定されていると言える。

良くできているリーディング

最後に唯一効果がありそうなリーディングについても言及したい。僕はこのリーディングパートは良くできていると思っている。何故なら文章は平易なのに、時間に強めの制約をかけることで難易度の調整に成功しているからだ。TOEIC初心者にありがちなのが時間が足りなくて最後まで解けないというものだが、これこそがTOEIC運営の狙いなのだ。

TOEICは時間の制約がない独学においては意外にも解ける、高得点取れちゃうかも、とすら思う。でも本番では時間が足りなくて最終問題までたどり着かない。甘い誘惑におびき寄せられながらも、絶妙に届かない目標に邁進する受験生の姿はあたかも人参を目の前にぶら下げられた競走馬のようだ。

ここまで書けば言いたいことは伝わっただろうか。「実戦で役に立たない」英語というのはすなわち「受験生のモチベーションを刺激する程良い難易度を保つ」ということを意味する。TOEICは①スピーキングとライティングを切り捨て②リスニングとリーディングの難易度を絶妙に調整したことで受験生を的確にモチベートしているのだ。

やっぱりTOEICはクソなのか?

なんだよ、やっぱりTOEICってクソじゃん。受験生の立場からそう結論を下す人の気持ちも分かる。でも僕はこういった意見にも与しない。なぜなら利害関係者それぞれの立場に立ってみないとTOEICの意義が見えてこないからだ。

まずTOEICは「英会話能力向上を目標としている人」にとっては間違いなくクソだ。そして多くのTOEIC批判はこのカテゴリーに属している人から発せられる。理由はこの記事で散々書いてきた通りだ。

でも就活生や企業の立場から見るとどうだろう。一般的に就職や昇進に必要なTOEICのスコアは700点以上とされており、下の記事によれば総合商社ですら730点が海外赴任の基準となっているらしい。http://www.toeiclab.com/toeic-level/

900点オーバーでも実戦では役に立たないのに一体何故?と思うのだが、これはTOEICが「英語に対する学習意欲の有無」など最低限の資質を見極めるためのテストとして機能しているからだ。従ってそこそこの知性がある人が少し頑張ればクリアできる700点という基準はそれなりに妥当だと言える。

さて以上からTOEICにも少しは弁護の余地があるのかな、というのが結論になるけれど、最後により大局的な視点からTOEICのメリットを述べておきたい。

もしこの世にTOEICがなくTOEFLやIELTSしか存在しなかったとしたら、みんなは英語の勉強をするだろうか?僕はそうは思わない。TOEICがなければ英語は「本気で海外を目指す人」しか勉強しなかっただろう。なぜならTOEFLやIELTSでは難し過ぎるからだ。

絶妙な難易度で設定されているTOEICという試験があったからこそ、辛うじて一般的な日本人も英語学習のモチベーションを保てている。2020年に東京オリンピック開催を控える中、片言でも英語に理解のある日本人が日本にいる。これは存外重要なことだと僕は思う。