ようやく地雷グリコを読んだ。嘘喰いからの影響を公言してはばからない作者らしい痛快な作品だった。
アンデッドガール・マーダーファルスシリーズやガス灯野良犬探偵団では探偵とアクションを組み合わせることで嘘喰いへのリスペクトをにじませていたが、今回はとうとうギャンブルに手を出すということで高まっていた期待に不足無く応えてくれた。
既読者向けのネタバレ感想なので未読の方はブラウザバック推奨。
- 地雷グリコ
- 坊主衰弱
- 自由律じゃんけん
- だるまさんが数えた
- フォールーム・ポーカー
2024年の3月更新で『メギド72』のメインシナリオ11章が完結した。この11章ではいくつかの大きな騒動も収束を迎え、リリースから数えて6年以上もの時間をかけた物語のある意味では大団円とも呼べるような作りになっている。
しかしながら1プレイヤーである私にそういった感慨が思いのほか湧いてこない。それは何も不満からと言うわけではない。むしろ12章以降にどのような展開が待ち受けているのだろうという期待感が大きすぎるのだ。
これだけ長大になると普通であればマンネリや停滞に陥っていてもおかしくないのだけど、ことメギド72に関しては未だに物語の根底を覆しかねない情報がどんどん出てきて本当に目が離せない*1。
失礼を承知で言うとソシャゲのシナリオって「このソシャゲは女の子のかわいさをお楽しみ頂くため、 邪魔にならない程度の差し障りのないシナリオをお楽しみ頂くゲームです。」 だと思っていたんだけどとんでもないね。ソシャゲのシナリオを測る尺度をもたないけどちょっと面白すぎるんじゃないか?
というわけで(ベーシックモード実装でストーリーを読む難易度も大きく下がったことだし)、面白さの割りには今ひとつ浸透しきっていないメギド72のメインストーリーの凄さをネタバレを極力回避しながらお伝えしていきたい。
*1:11章を読み終えた人なら同意してくれるはず
『ウソツキ!ゴクオーくん』を読んだところあまりに面白くて腰を抜かしてしまったので、腰が治るまで養生がてらどこがどう面白かったのか書き残しておく。
まず『ウソつき!ゴクオーくん』について簡単に説明すると、小学生となってこの世を観察に来た閻魔大王さま(ゴクオーくん)が学校で巻き起こる様々なウソにまつわる事件を解決しながらクラスメート達と友情を育んでいく漫画だ。
クラスメートの中でも一際(飛び抜けて)重要な小野天子とゴクオーくんの関係性の凄さはこれまでに800万人が言及してるし、これからも800億人が言及するのでこの記事ではあえて語らない。21話を繰り返し読みましょう。
次いで個人的かつやや特殊な嗜好に基づく本作のストロングポイントを挙げてしまうと「1話完結型の(倒叙)ミステリ短編集」という形式が既に素晴らしい。特撮やキッズアニメに親しみかつミステリを愛する人間にとってこの形式は異様に肌に合う*1。
「ウソ暴き」と呼ばれる解決編で毎回カタルシスを味わいながらも、各話ごとに様々なキャラクターにスポットライトを当てることで徐々に深みを増していくキャラと関係性の味わいはどんな大長編にも負けないほどに濃厚だ。
子供向けコンテンツに間借りしている身でいうことではないが正直コロコロを見くびっていたことにも気づかされた。
ミステリとしても漫画だからこそできる手がかりの隠し方が巧みで、例えばユーリィ編の終盤、漫符の些細な使い分けでゴクオーが仕掛けたトリックを示唆するなどは小説でも映像でも再現が困難な漫画にしかできない描写といえるだろう。
林間学校回での照明が落ちるシーンのようなダブルミーニングも随所に見られる。私は金田一少年の事件簿も名探偵コナンも原作にほぼ触れずにここまでやってきたので、実質的には本作が初めて読むミステリー漫画になるし*2、これらの演出がミステリー漫画としてどの程度洗練されたものなのか分からないがそれでもこの漫画がかなりの高みに達していることは確かなように思われる。
次に倒叙ミステリとしても形式の強みを活かしつつ弱みは完全にカバーしている点に触れたい。
そもそも倒叙ミステリとは、「(探偵に追い詰められる)犯人の視点から事件を切り取るミステリ」だ。よってその強みは犯人の克明な心理描写であり、弱みはどんなに魅力的な視点人物も一話限りの使い捨てになってしまうことである。
「ゴクオーくん」はウソをついてしまう人間の弱さやウソをついてしまってからの罪悪感を取りこぼさずに描ききることで倒叙ミステリの強みをこれでもかと活かしている*3。一方で過ちを犯した子供たちはゴクオーくんに裁かれることで罪を償い再びクラスの輪の中に迎え入れられるため、立体的なキャラクターは排除されることなく作品内に蓄積されていくこととなり些細な描写にも文脈がノりまくる。
たとえば一度は心の弱さに負けたキャラクターたちもその経験を踏まえて、同じく迷いを抱える人間に手を差し伸べることができる。この温かさは子供向けの作品としても非常に真摯なあり方で「ゴクオーくん」の良さの一端を確実に担っている。
(実際には描写の積み重ねは主役回以外でも行われるため主役回を持たないキャラクターでさえ魅力的だ。画山藤子さん!木軽さん!)
ところで「『犯人の内面を描く』といっても所詮小学生の話でしょ。感情移入しながら読むのにはキツいんじゃないか」と考えた人はいないだろうか。しかし、小学生だからといってその人間模様や葛藤が幼稚でくだらないと決めつけてはいけない。
時に友情の間で板挟みになり、時に嫉妬に身を焦がす彼等がつくウソの全てを自分には関係ないと笑い飛ばせる人はおそらくいないだろう。特に自己欺瞞が絡むウソの話は読んでいてつらくなることさえあり、小学生に突きつけるのは酷だろうと頭を抱えてしまう。
次に作中で描かれるウソの意味やそこから類推されるテーマについて改めて考えてみたい。かつて当ブログでは「嘘」をテーマにした「嘘喰い」を通して嘘について考えたが今作では嘘喰いとも違ったアプローチでウソに迫っているようだ。
天子ちゃんの「意地を張るウソ」や作中の大人や地獄に落ちる人物が見せる「醜いウソ」など実に多様なウソが描かれるが今回は長編での描写に焦点を当てたい。
「ユーリィ編」ではユーリィが物証をキセキの力で消し去ってしまった際にゴクオーが怒りを露わにする。
オレっち・・・そして、現世に生きる人間たちは・・・、『現実』というルールの中でウソをついて生きている!オマエの「ソレ」は、ある意味ウソを一番バカにした行動だ!
また、天子が天使化の代償として周囲の記憶から消されそうになる点も終盤の展開を彷彿とさせるため注意を払っておくべきだろう。
「サタン編」ではサタンが物証を排除することでウソ暴きが成立しないような環境を作り出しゴクオーを追い詰めにかかるが、ゴクオーはウソで揺さぶりをかけることでそれを逆手に取り新たな証拠を見つけ出す。いくら消し去ろうとしても過去の痕跡が消え去らずに真実を指し示すことがサタンの敗因となる。
「ネクスト編」では究極のウソとして過去の改変能力が登場し、ゴクオー君本編を丸々無かったこと(ウソ)に変えてしまう衝撃の展開がある。
「魔男編」では長い間異空間に幽閉され、変化のない生活を送らされていた魔男はウソを知らないキャラクターだったがゴクオーや天子と関わり、ある騒動によって時間が動き始めたことでウソをつけるようになった。
・・・・・・読み込んでいけば更に材料を提示することもできそうだがひとまずはこれくらいにしておこう。
ウソとは「過去を覆い隠すベール」ではないか。そして、「ゴクオーくん」の隠された(?)テーマとは「過去に向き合うこと」ではないだろうか。何より示唆的なのは「究極のウソ」が過去の改変として描かれることだ。通常であれば個人の失敗や醜い内面の発露を隠す(過去を無かったことにする)ウソを極限まで拡大することで過去を消去できるのはロジックとしても申し分ない。
ベールの比喩を用いるならばゴクオーくんがウソ暴きで用いるウソはいわば「ベールの重ねがけ」であり、ゴクオーのウソを否定しようとする者は期せずして自らがかけたベールをも剥ぎ取ってしまうことになる。
「ゴクオーくん」を過去に向き合う物語として見つめ直すと、サタンやナナシノが起こす事件はゴクオーくんの過ちに端を発している事に気づく。ゴクオーくんは自らの過ちを認め彼らと新たに向き合い直すことで騒動を収束させる。
ネクストはネク助として過ごした時間を肯定することで救われる。ラスボスがゴクオーのもっとも古い因縁の持ち主である邪仏だったことも偶然ではないだろう。
過去と向き合うのはゴクオーくんだけではない。立体的に作り込まれたキャラクターは折に触れて過去の過ちと対峙する。最後の通常回(第115話 過去を背負って前を向け!)では番崎くんも過去に犯したあまりに大きな過ちに向き合う。
こうして考えると「ゴクオーくん」においてはどのような意味づけをするにせよ過去からは逃れられないというテーゼを感じ取れるし、最終回において天子がゴクオーくんの記憶を取り戻したのもキセキではなく必然だったと考えられないだろうか。
今年も終わるのでまた10冊選んでやっていきます。
下半期のトピックはなんといっても「鵼の碑」でしょう。サプライズにもほどがある。17年ぶりの最新長編は出版がすでにひとつの事件といってもいい。
しかし目下注目しているのは「仮面ライダーBLACK SUN」なんですがね。あの問題作がどう生まれ変わるのかと期待し、今年の第二の目玉とまで思っていたのが刊行すら危ぶまれる事態に。出版中止の報を聞いたときには悲しみの王子になりかけましたがどうやら出版に向けた動きは継続されているようなので来年に期待したいと思います。
(ここの作品で一々断るのも億劫なので宣言するけど以下の文章にはネタバレが含まれていることがあるので注意してください)
この本はとても不親切だ。
たとえば前作にあたる「図書館島」の主人公であるジェヴィックは辺境で育ったので都であるオロンドリアは初めて行く場所だから普通は彼の戸惑いや驚きが読者のそれと重なっていくはずなんだけど、彼は既に文献を通してオロンドリアを深く知っているから、読者にはよく分からないポイントで感動したりテンションを上げたりしている。
固有名詞も山ほどある上に単数や複数、男性や女性で活用してくるので「パルスのルシがパージでコクーン」状態だ。それらの特徴は今作でも変わらないどころか強化されているようでさえある。
文句ばっかり言ってるようだけど、ここまでにあげた「欠点」は作者の中に確固としてある世界をそのまま描いているからこそとも考えられる。現に前作をめくっていたら今作の鍵を握るあるキーワードが既に書かれていたのを見つけて、作品世界の強度に感動してしまった。
ファンタジーが好きならば二読三読するだけの価値はある。
17年ぶりの百鬼夜行シリーズ最新長編。過去に囚われた人々の妄想が寄り集まって巨大な妖怪「鵼」を生みだしてしまう。
鵼の特性である「キメラ」と「声だけしか観測できない」という2点が、それぞれ独立した筋が平行して動く塗仏以来のモジュラー型の話運びと陰謀論じみた話の広がり方に結実しているのが凄いんだけど京極夏彦の頭の中はどうなっているのか。
お馴染みのキャラクターを出し惜しみせずにたくさん出してくれるのもサービス精神を感じて良かった。益田君の軽薄で真面目で厭世的なキャラクターをたくさん味わえて本当に良かった。
こうして「鵼」を読んだ後だから言えることとして、「原発に触れてしまったので出版が許されないらしい」や「百鬼夜行シリーズは講談社から引き上げて文藝春秋に移籍するらしい」などの不確かな憶測や情報に一喜一憂してネット上で騒いでいたあの時間もまた「鵼」だったんだなという世迷い言がある。
今年読んだ中では一番ヤバいミステリかも。
物語は行方不明になったAV女優柏木を探す男性と、ある人物への復讐を誓う出所直後の男性の二つの視点から語られる。柏木の人物像の掴めなさや捜索の資料として挟み込まれる同人誌の講評会の妙な生々しさ、その周りで見え隠れする様々な違和感が一気にひっくり返されそのまま混沌に引きずり込まれる終盤の展開は圧巻。
終盤のあるシーンで「楽しく読ませてもらったけどそれが大オチだったら評価は考えざるを得ないぞ」とか思っていた自分を殴りたい。
邪道もここまで極めれば一つのスタイルとして認めざるを得ません。
一度ネジが巻かれれば戻りきるまで音楽を響かせ続けるオルゴールのように、殺人劇は止まらない。
ミステリなどの書物を封じることで人の死が不可視になった世界で推理の力を使い死の謎に光を投げかけるミステリへのラブレターのような小説だ。
ほぼ必ず殺人を伴う物語であるミステリを娯楽として扱ってしまうことの非倫理性は正直あまり自分事としては受け取れていないけれど、キャラクターがそれに向き合いながらもミステリの力を信じようとする切実さには胸を打たれる。
新キャラのカルテくんが可愛すぎる
ダンスと義足と認知症の三本柱で人間性にどこまでも愚直に迫る足取りから目が離せずに一気に読了してしまった。
ダンスは人に何事かを伝えうるとするならばそれはどのような回路によって可能になっているのか。認知症によって積み上げてきた物を失おうとしている父からどのようにして「その人らしさ」をすくい取るのか。いずれもかなり骨太の話題で、両者を追求する試みはともすれば虻蜂取らずになりそうなところだがこの小説についてはそのような心配は必要ない。
ダンスには全く興味なかったのにちょっとやってみたくなっている自分がいる。余談だがクライマックスシーンの1つでバトゥーキのJOGOを思い出した。身体的コミュニケーションの可能性。
正直なところ大ネタはかなり早い段階から見当がついてた(というか、かなりフェアな書きぶりだったのでそこに重点は置いていないのかもしれない)のだが、だからこそ初読でも嫌な感じをじっくりと味わえた。
基本的には不気味な唄に沿ってある家族が次々に死んでいく話と要約できるこの小説の中にあって、被害者に一人だけ家族とは血のつながりを持たない少年がいる。
これを単に「唄を再現するため」と捉えることもできるのだが、ワイドショー的な関心に晒された一連の事件の中で野次馬の要素を背負わされていた少年の死と虚無への供物で取り上げられた「物見高い御見物衆」との関連も考えてみたくなる。
神様ゲームもそうだけどジュブナイルのイヤミスってギャップがたまらなく嫌で最高ですね。
海や時を超えて紙の上に定住していた言葉が、再び命を吹き込まれて方言や他言語と混ざり合う。町田康が絶賛の帯文を書いているのを見て買ったのが正解だった。
芥川賞の選考会でも「これは小説なのか」という意見が出たほどに評論チックな読み味なのでストーリーの起伏を求める向きには勧められないがイメージの横滑りや暗合を楽しめるならば是非読んでほしい。
ただ私はイメージソースになるプルーストやジョイスがよく分かっていないので自分通い読者だったかと問われると少々心許ない。
エセ物語も買ったので年末年始にじっくり読めたら嬉しい。
実を言うと一度は読むのを中断してしまい本棚でほこりを被らせていたこともあったのだが先日改めて手に取ってみると印象的な小道具や魅力的な情景に引きずられるように読み進めることができた。
P夫人やQ庭園などの元の名前を想像しがたいような珍奇な名前が非現実的な雰囲気を醸成したかと思えばQ庭園は川中島にあるというあまりに現実と地続きな情報がゴロリと投げ込まれたりもする。このような収まりの悪さは小道具などの不明瞭なつながりにもあって作品全体を支配しているように見える。
一方で日本SF大賞受賞の肩書きから連想されるような要素に乏しく見えてしまいこれもSFなのかなと疑問に思いながら読んでいる部分があったので読後にSF大賞の選評を読んだがこれも(これぞ?)SFらしい。
何年か前に比べればSFも読むようになったけど中々難しいね。
第60回メフィスト賞受賞作。謎の無政府主義組織「絞首商會」との関わりが囁かれる殺人事件に元泥棒が挑む。
講談社文庫版に付された解説のタイトル「逆説、逆説、また逆説」で端的に示されているとおり逆説が楽しいミステリで、逆説使いの極点ともいえるブラウン神父のようにある種の倫理的な基盤を持っている探偵がフランボーと同じ元泥棒という点にもニヤリとさせられる。
キャラクターもみんな魅力的で彼らのコミカルなやりとりを私も楽しい物として受け取れるのがデビュー作らしからぬ手堅さ。同作者による昨年の話題作方舟も絶対読みます。
複数世代にわたる物語は得てして登場人物が多くなりがちなので読み始めるまでに時間をおいてしまうし、読み始めても骨がおれるし大変なんだけどそれに見合うだけの価値はあるよね。ということを本書に思い出させられた。
カリブに連れてこられた黒人の子孫が自らの意思で移動し、異なるルーツを持つ血を取り込み次世代へと繋いでいく。そのたびに差別や伝統の問題が重層化してしまう、困難な人生に翻弄されながらも生き抜こうとした一族の拡散するエネルギーに息を呑んだ。
血族と姻族の果てしない広がりはなるほど生い茂る樹のようでもある。