introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

不倫警察と化した週刊誌について

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出版というマスメディアは、この時代において、独立性と信頼性の双方が高いレベルで担保されている媒体だと思います。独立性という観点のみで考えればインターネットの方が優れているかも知れないし、現にそういった言説をTwitterなどでよく見かけますが、インターネット上の情報というのは基本的に他のマスメディアの"書き写し"であり、文責者が実際に足を動かして入手した情報が果たしてそこにあるのかと問われれば、それは乏しいと答えざるを得ないでしょう(もちろん、全く存在しないとは言いません)。また、信頼性という観点から考えれば、同じように新聞や放送の方が優れているかもしれませんが、これらのメディアの独立性については?マークが付いてしまいます。これは記者クラブ制度や放送業界のビジネススキームに関わってくる話になりますが、こういった話には往往にして噂や陰謀論のようなものが介在してしまうので、ここでは多くを語らないことにします。

 

前置きが長くなりましたが、僕は上記のような事情があるからこそ、出版というメディアに権力や体制に対するカウンタパワーとしての役割を期待してしまうのです。確かに、出版社はあくまでも営利企業なので、売れるモノを作ることが彼らにとっての至上命題な訳ですが、こうも有名人の不倫スクープに終始されると、どうにも辟易してしまいますね。近年は出版不況によりどの出版社も経営状態は芳しくなく、特に週刊文春の発行元である文藝春秋のようにメディアミックス戦略の源泉であるコミックス部門を持たない出版社については、輪をかけて苦しい状況下にあるのではないかと想像できます。そんな事情もあってのことなのかも知れませんが、このままだと、いよいよ出版というものが世の中から必要とされなくなってしまうのではないかと、僕はとても危惧しています。

コミュニケーション能力とは何か

コミュニケーション能力が大事、と一口に言われるけれど、コミュニケーションって一体なんなんだろうね?人に何かを伝える、人から何かを聞く、人と協力する…色々あるけれど、これらに共通するのは主体として「自分」がいて、客体として「他者」がいるということなんじゃないかな。つまり、自己と他者の関係の中で物事を上手くやっていく力のことを、コミュニケーション能力と呼ぶんじゃないだろうか。

 

当然のことを言っているみたいだけれど、この点を忘れている人って結構いるんじゃないだろうか。単に喋りが達者だったり聞き上手だったりすることが、イコールコミュニケーション能力が高いということになる訳ではないんだな。喋りが達者な人は往々にして人の話を聞かないし、聞き上手を自称する人は大抵自分の話をしない。

 

コミュニケーションを上手くとるために一番大事なことって、相手を思いやることなんじゃないかと思う。逆に、コミュニケーションが上手くいかない時っていうのは、自分に矢印が向いている時なんだ。例えば、好きな子と喋るときや採用面接のとき、俺らは「目の前の人に嫌われたらどうしよう」って考える。すると、本来相手に向かうべきだった矢印がどんどん自分の内側に向いてしまって、結局伝えたかったことは何一つ伝えられない、、というようなコミュニケーションの失敗が起こる。他にも、議論の場なんかで「何とかして自分の意見を通したい」なんて思っていると、全体として何も建設的な結果が出ないまま終わってしまったりするね。

 

なぜ自分に矢印が向くとコミュニケーションは上手くいかなくなるのか?なぜなら、そういう時っていうのは大抵集中力が散漫になっているから。だから、人と会話をするとき、きちんと集中して目の前の相手に矢印を向ければ、たとえ口下手でもきっと自分が伝えたいことは相手に伝わるんじゃないかな。

コンテンツ

北川恵海の『ちょっと今から仕事やめてくる』が発行部数70万超えで映画化されたと聞いて、やっぱりこの手の作品は売れるんだなあと。個人の見解だから全くの的外れかもしれないけれど、昨今の小説の売れ線として、「共感」と「逃避」の要素を満たしていること、というのが挙げられるかもしれない。『ちょっと今から〜』は、ブラック企業で働く主人公が同級生を自称する男と出会ったことで人生を変えていく、というあらすじの物語だけれど、これは前述の「共感」と「逃避」の二要素をどちらも満たしていないだろうかな。

 

そもそも、この小説を出版しているMW文庫を擁するカドカワは、社会のニーズを分析して売れる作品を作っていくのがとても上手いし、メディアミックスなんかを用いた作品の売り方も大手出版社の中ではダントツに上手い。例えばウォルト・ディズニーのように映画や出版、インターネットなどあらゆるマスメディアを傘下に収める複合企業のことをメディア・コングロマリットと呼ぶけれど、恐らくカドカワが目指しているのはそういうところなんじゃないだろうか。三年前のドワンゴとの経営統合もその一貫だと考えられるね。

 

本が売れない時代に出版社がそういう施策を打つのは至極妥当なことだと思う。というか、出版社以外にもエンターテイメントやコンテンツを扱う企業は最終的にコングロマリット化していくのかもしれないね。十数年後には任天堂がそんなことになっていたとしても何ら不思議はないけれど、こういう流れはものづくりへのこだわりを殺してしまうかもな。ファンとしてはとても寂しく感じる。

大学入試センター試験の廃止について

センター試験といえば大学入試の登竜門だ。国公立大学に進学しようと思ったら、受験生はまずこの試験を突破しなければならない。最近では私立大学もセンター利用入試を導入しているから、今の大学受験生のほとんどはセンター試験を受けることになるんじゃないかな。

俺たちにとっても思い出深いこのセンター試験だけど、どうやら2019年度入試を最後に廃止されるらしい。代わりに達成度テストなるものが実施されるらしいけど、その内容については現在のところ未定であるとのことだ。

 

センター試験廃止の目的は、学力至上主義の詰め込み暗記型教育からの脱却だそう。要するに、受験戦士のようなガリ勉を量産する現行の入試制度は捨てて、主体的に周囲と協働して目標達成できる若者を育てられるような仕組みを作りましょうってことだね。

こういう流れはべつに今に始まったものじゃない。数年前に東大や京大が推薦入試を導入したのは記憶に新しいし、各大学は入学後も机上の勉強に留まらない留学やボランティア活動のような課外活動を学生に奨励している。そして、恐らくほとんどの学生が経験することになる民間企業の就職活動においても、こうした課外活動の経験は学業成績以上に重視されている。

 

こういう流れを悪いことだとは思わない。沢山の場に足を運んで色々な人と交流することでコミュニケーション能力やら主体性といった力は確実に身につくし、ひいてはそれが人間力の向上ってところに繋がるんだろうなと思う。

 

でも、冒頭の大学入試制度改革については反対なんだ。この改革の目的は学力っていう画一的な評価基準に依らない多様な若者を育てるために提案されたようだけど、俺は逆にこの改革こそが強固な「こうあるべき規範」を作り出して、評価基準の画一化を招く気がするんだね。

 

どういうことか。少し話は逸れるけど、民間の就職活動において企業が求める人材像っていうのは、業種や職種の垣根を越えてほとんど一致している。耳タコだけど、「主体的に考え、行動できる人」とか「周囲と協働して目標を達成できる人」とか「コミュニケーション能力がある人」っていうのはほとんど全ての企業で歓迎されるね。そして、これらの人物像は大学入試制度改革によって国が作り上げようとしている若者のあり方と完全に一致している。要するに、国は教育システムを大きく変えることで、社会に適応できる若者の総量を増やしたいんだな。少子化やらニート・フリーターの増加が叫ばれてる中でこういう方向に政策の舵が切られるのは、至極妥当なことだと思う。

 

だけど、街に出たりインターネット上のSNSを観れば分かるように、この国にいるのは上で挙げたようなまともな若者ばかりじゃないんだ。その要因が彼らの内にあるか外にあるかは別として、学校に行かない奴もいるし、他人と話せない奴もいる。かくいう自分も昔はそんな感じだったね。

 

でもね、現行の大学入試制度では、そんな子たちでも試験で点数さえ取れれば大学に入れるんだ。医学部でもない限り大学入試に面接試験はないから、不登校でもヤンキーでもコミュ障でも筆記試験に合格するだけで東大にだって入れる。東大に入れば人生が変わるなんてことは絶対にないけど、少なくとも何かを変える好機は手に入るんだ。これは今の日本では他にありえないくらい平等なシステムで、落ちこぼれにとっては大きな大きな逆転のチャンスとなる。

 

しかし、冒頭の制度改革が実際に運用されれば、もはや試験で点数を取るだけではダメになってしまう。学力に加えて人間力も必要になってくるわけだからね。でも、18歳くらいまでの若者が身に付ける人間力っていうのは、親や生まれた環境に依るところがほとんどだと思うんだ。だからこそ、クソな親を持った子供にもチャンスを与えるために、現行の大学入試制度は絶対に必要だと思う。

 

最後に付け足しておくと、いわゆる高学歴クズなんて呼ばれる、勉強が出来ても人間力が皆無な奴は就職活動で淘汰されることが多いね。でも、それはもう本人の責任だ。なぜなら、就職活動を経験する22歳っていうのは、年齢だけみればもう大人だから。上手くいかないことを親や環境のせいにしていい歳じゃないんだな。このエントリを通して誤解を招きそうだと自分でも思うけど、社会に適応できない奴も認めるべきだって言っている訳ではないんだ。個人的にはそういう人がいてもいいと思ってるけど、国や社会全体の利益っていう観点からみるとやっぱりそれはまずい。そうじゃなくて、周囲にクズや落ちこぼれとして扱われている子供にも、社会で活躍する人間になれるチャンスを与えたいってことなんだ。

 

もう一度まとめると、外部の環境要因によって上手くいっていない子、もしくは上手くいっていない理由が内にあるか外にあるかまだ判断出来ないような子については、現行の大学入試のような逆転のチャンスを与えてあげようぜってことだ。それに、この制度改革によって大学が民間企業のように自由闊達で人当たりが良くて部活やボランティア活動に積極的に励む高校生のみを集めるようになったら、親や教師は確実に子供達をそういう規範のもとで縛るようになる。それではもはや、自由闊達とは真逆の子供が出来上がってしまうよな。

分節

自分の考えを文章に書き起こすというのは、時に難しいことだよ。こうしてほとんど泥酔しているような場合では特にね。でも、極力伝わりやすいよう、誤解のないように書くことはいつだって心がけている。

さて、自分以外にこの世界に存在する他者が自分と同じように思考し、意思決定を行う人間だと仮定すると(敢えて仮定というのは、例えば自分以外の人間がゲームのNPCのような存在でないことを、我々はもちろん証明できないからだね)、我々がこの世界で生きていくには分節という作業が必要不可欠になる。分節ってのは文字通り、ケーキをカットするみたいに物事を分けることだな。これとこれは分ける、これとこれは分けない、そんな風にあらゆる物事を分節していかなければ、我々はこの世界で自我を持って生きていくことは出来ないわけだ。

つまり、自分と他人をしっかり分節していないと、当然の帰結として自分ってものはなくなっちゃうんだな。焼酎と烏龍茶を混ぜてしまった後で、そこから烏龍茶だけを抽出することができないようにね。

まあ、そんなに深く考えなくてもほとんどの人間は分節を生得的な観念として身につけている。だから何も心配はいらないんだ。でもね、俺もみんなも生きていれば混ざり合いたいほどに愛おしい他者に出会うことがあるかもしれない。困ったことに、そんな時だって我々は自分と他者を分節せずにはいられないんだよ。なぜなら分節こそが自分を自分たらしめる唯一の手段だからだ。つまり、自分とは「他者ではないもの」でしかなくて、それ以外に自分を定義するものはまあ恐らく何もないわけだよ。あったら教えてね。

だから、まともなやり方をしている限りにおいては、基本的に人と人は交われない。考えてみれば、こうして言葉にするまでもないあまりにも当然なことなのだけど、このことを孤独と感じてしまうことがあるかも分からないね。ままならないことだ。だけどね、何も交わらなくたって隣に置いておくくらいのことは出来るわけだよ。それで妥協するのはどうだろう?そもそも分節している自分自体いつなくなってしまうか分からないのだから、交わることに固執する必要も、時間もないと思うんだ。

育ち

俺も小さい頃はそんなに幸せな家庭で育ったわけではなかった。だからなのかは分からないけど、初対面の人と話した時に「なんとなくこの人も特殊な育ちをしたのかな」と察してしまうことがある。必ずしも当たるとは限らないけど、打率八割くらいは維持しているんじゃないだろうか。

 

もちろん自分も含めてだけど、特殊な育ちをした人っていうのはなぜだか人間的に薄っぺらくみえてしまうことがあるんだ。気を悪くしないでほしいな。俺が自分の薄っぺらさに常日頃辟易していて、自分とよく似た他人にその嫌悪感をぶつけてしまっているだけかもしれない。だから全員が全員薄っぺらいなんていうつもりはないんだ。ただそんな人が割合に多いような気がして。

 

どうしてそんな印象を抱くのか?俺自身の内省も含めてちょっと考えてみたよ。たぶんだけど、特殊な育ちをした人っていうのは子供の頃に周りの人間の顔色を伺ってきたことが多かったんじゃないだろうか。いや、そうせざるを得なかったともいえるね。俺も小さい頃はいつも家庭内の空気を察知して上手く両親の気持ちを慮っていたな。そうしないと夫婦喧嘩に巻き込まれたり、思わぬとばっちりを食らうことがあったからね。前にも何かのエントリで書いた気がするけど、長く続けている習慣っていうのは大人になっても頭に強固に刻まれ続けるようだ。今となっては必要以上に他人に気を遣う必要なんて全く無いのに、昔の癖が抜けずに俺も大変困っている。

 

そんな風に自分以外の人間ばかり見つめて行動を決定していると、自分はどんどん他者からみて好ましく、害のない存在に適合化されていってしまう。同年代の子たちが彼ら自身と向き合ってアイデンティティを確立していく中、俺たちはいつだって人の顔色ばっか伺ってたんだ。だから大人になった時、アイデンティティの土台がしっかりと確立されている彼らとの間にはとても大きな差が開いてしまうんだな。

 

つまり人間的な薄っぺらさっていうのは、確固とした自己というものの欠如がもたらすものなのかもしれないね。小さい頃に苦労した分、経験値を与えてレベルアップさせてくれればいいのに、なんて思うけどな。どうやら小さい頃の苦労は、レベルアップどころかレベルダウンを招いてしまうらしい。乾いた笑いが出てきちゃうね。

潔癖

潔癖症というほどでもないんだけど、ちょっとした不潔に過敏なところがある。不潔といっても、自分のものなら大丈夫なんだ。そこまで散らかすことはないけど、自分の部屋が汚かろうがそこまで不快には感じないし、変な話、鼻水とか唾液みたいな自分の体液を触ってもなんとも感じない、まあそりゃそうか。汚い、って感じてしまうのは他者の介在があったときなんだ。そもそも、俺自身はそんなに綺麗好きな方ではないからね。他者の介在っていうのは、例えば、水筒の回し飲みとか、一つの皿に盛られた料理をみんなで箸でつついたりするああいうのだ。

 

しかし最近気付いたけれど、親しい人とであれば、回し飲みも直箸も別に不快には感じない。あまり慣れていない人だったり、どこか清潔感のない人だなあと感じている相手だったりすると、ちょっと不快になっちゃうね。そして全く知らない初対面の相手だと、不潔に感じる行為がぐんと多くなる。咳とか鼻をすする音とか咀嚼音とか頭をポリポリする音とか、そんなのですら嫌な気分になるし、生理的嫌悪感を感じる相手だと、喋り声や笑い声を聞くだけで嫌な気分になっちまう。

 

お前は一体何様なんだよって話だと思うけど、俺も治したいなあと思ってる。というのも、俺がこんな風に初対面の人にどこか不潔感を感じていることは、間違いなく相手にも伝わっているんだ。でも、それが原因で嫌われちまったら思われたら悲しいじゃないか。

 

前に、セックスよりAVの方が好き、みたいなことをブログで書いたけど、それは単にこういう理由によるものなのかもしれない。要するに、人と粘液が触れ合うような清潔と言い難い行為は、俺にとってはとてもハードルが高いんだ。そのハードルを超えるには、そんな不潔感すら快いと感じるような人が相手である必要がある。つまり、しっかり付き合っている恋人だね。お酒の勢いで一夜の付き合い、なんてのは俺には到底無理な話だ。もしそんなことになっても、きっと上手くいかないと思う。とっつきにくいとは思うけど、事実上浮気をすることが不可能である所は美点だと思わないか?

 

ちなみに、悪や過ちを許さない性格のことも潔癖と呼んだりするね。俺は精神的な面に関しては全く潔癖ではないなあ。悪や過ちもあって仕方ないと思うし、時には自分も犯してしまうことがあるからな。物理的な潔癖よりも、精神的な潔癖の方が生きにくそうだ。