不思議台湾
・面積は九州ほど。
・北部は中国語話者が多い。台北を中心に人口が多い。
・南部は台湾語話者が多い。人口は少ない。
・南北と中央に山脈が走り(最高峰は玉山(ユーシャン)約 4000M.西側は漢人が多く、大きな街が多い。
・東側は原住民の住む地域が多く自然が豊か。
・台湾には日本統治時代の日本軍人や軍艦を祀る廟が存在する。
・2024 総裁選 2 日後、ナウルが台湾との国交断絶を発表し中国との国交回復を表明。国交を結んでいる国は残り12 カ国。
・台湾と日本はお互いに好きな国1位同士と相思相愛。将来の夢は「日本人になりたい!」と言うシャイな五~六歳の男の子に会った。
・2020 年、20 代の投票率は 76%!? 日本は 34%。
・世界第2位のベジタリアン国家。
・原住民達の意志はどうなっているの?
・両岸関係の力関係に於いては圧倒的に中国が強い。経済と軍事、外交。
・台湾の武器は質の高い民主制社会。民主主義の模範となる台湾を専制国家の中国に蹂躙させてはいけないと世界に思わせ中国を牽制する。それと半導体。
【台東での一ヶ月】
2023 年の暮れ 12 月 14 日から 1 月 17 日迄、台湾の台東県台東市卑南郷利嘉村に約一月滞在した。今回の台湾滞在の目的は自信の中国語学習の為であった為それ以外の事には余り注意を払わなかったが、1 月 13 日は 4 年に一度の台湾総統選挙と立法委員(日本の国会議員)の選挙があり、台湾人にとっては様々なドラマが有った一ヶ月であった。
しかし如何せん私の中国語能力では日々の会話やニュースなどは殆ど理解できなかったのと、利嘉村という台湾原住民のプユマ族の小さな村であったので選挙の熱からは一定程度距離があった。
“有人在家”という民宿に一月お世話になった。
大体いつも宿泊者がいた。彼らはオーナーの官官(ぐゎんぐゎん)と山猪(シャンジュ)の友人達で多くは台北や台中や高雄などの大きな街からやって来て台東の自然を満喫したり、宿でのんびりと過ごす事を目的としていた。
興味深いなと思ったのが、台湾にもお茶の文化があり、ウーロン茶を中心に多くの種類のお
茶がある。
時間をゆったりと使い、香りや静寂を楽しみたいと、若い層にも一定の人気があるようだった。
台湾滞在中に何度かお茶の時間をみんなで楽しんだが、一度、仏教を勉強、修行しているという 20~30 代の方達に出会った。彼らは現在の修行方法に悩んでいるらしく、日本人の僧侶である私に感心を持ち、一緒に話をした。
彼らの内の1人が、世界で起きている戦争や、社会の中の様々な問題に心を痛めているが、師事している僧侶にどう思うかと聞くと、“その様な問題に囚われるべきではない。物事を善悪で判断してはいけない。己という迷いを捨てて心をおさめなさい。”(うろ覚え。何となくこんな内容だったと思う。)と彼らに話すらしい。
彼らは仏教がとても素晴らしい教えであると思うが、世界の現実的な問題に関与しようとしない仏教徒達に疑問を持っているようだった。
彼らから「あなたはどの様な修行をしているのですか?」と聞かれた。私は自分が仏教やガンディーの思想に出会った経緯などを話し、現在沖縄で座り込みをしたり、平和行進をしたりしている事などを彼らに話した。
台湾仏教は出家主義で、遁世的な性格を持っている事から世俗社会から一定の距離を置き、閑かな環境で修行生活を送る。(大多数の仏教徒はこの様なスタンスに近いと思う。)
後から彼らは以下のメッセージを送ってきてくれた。
「今日、時間を割いて私たちと話をしてくれたことに深い感謝とお礼を申し上げたい。あなたのおかげで、私がずっと抱えてきたとても大きな葛藤を解決することができた。どちらかである必要はないし、両方であることもある。ありがとうございました。」
最初、話しがしたいと言われた時は、“教学的な問答は嫌だな~”と思って緊張したが、話してみるとお互いに有益な時間となった。
台東は都会の生活に嫌気がさした人達が移住したり、小旅行に来たりする場所という一面を持っている。
それと、台東には原住民(先住民とは呼ばない。理由は先住民という言葉の意味が既に居なくなった人々を指すからだという。)の村が多く、漢民族系の台湾人達は彼らの自然と共生した生き方に敬意を持っているようだ。又、台湾人として彼らに対する贖罪の念もあるのではないだろうかと想像したりもした。(過去に漢民族と原住民の闘いがあった)これは沖縄に住む東京出身の私と近い感覚なのかなぁと思った。
【何故台湾が民進党を選び続けているのか?】
日本をはじめ、海外メディアでは『総統選で民進党が勝ったら戦争の可能性が高まる!?』
という警戒する声が聞こえてくる。
それは欧米発信の情報(日本も含まれる)を得ているとそう見えてくる。
確かに台湾でも新聞やニュースを見ているとよく中国の軍事演習などが報道されているし、中国の衛星ロケット発射にスマホの緊急アラーム鳴ったり、皆それなりの緊張感は持っている。
しかし海外と台湾との認識にはギャップがある。
国民党が中国大陸から台湾に敗走してきた 1947 年以降しばらく中国との交戦状態は続き、中国のトップが変わったり、国際情勢などに左右されたりして中国の脅威が大小する時期はあっても一定の緊張状態は継続的に続いているという事の肌感覚だと思う。
みんなこの様な状況には慣れているのだ。今に始まったことではないし、まさか今、中国が台湾に侵攻してくることはないだろうと思っているのが大半の台湾世論だと思う。
しかし一つ重要な点は、現在に於いて武力侵攻を始めるのは台湾ではなく中国であるということだ。その様な点からも私達が台湾に中国を挑発するなというのは違うと台湾の人は思っているだろう。それは中国に言ってくれと。
『台湾はアメリカとの関係を深め、防衛力を強化し、中国との緊張関係を高めるのではなく、中国と話し合い、外交で問題を解決して欲しい。』
台湾国外の人達がこの様に考えるのは“台湾有事“が起きて欲しくないと思う故だろう。私も台湾に通うようになる前はその様に思っていた。
しかし、台湾の人達にその話をすると、嫌な顔をする人が多く、中国政府とはまともに話しなど出来ないと訴える。
現に中国政府は民進党政府との対話を拒否し続けている。
中国は台湾人が選挙で選んだ現政府ではなく、親中派とされる前政権の国民党となら話すというのが中国の姿勢である。
今回の台湾の選挙結果を受けて中国政府は次のように声明を発表している。
「今回の二つの選挙結果は、民進党が島内の主流の民意を代表できないことを示した。台湾は中国の台湾である。今回の選挙で両岸関係の基本的枠組みと発展の方向が変わることはなく、両岸の同胞が近づき、親しくなり、近づくほど親しくなるという共通の願いが変わることもない。祖国が必ず統一され、必然的に統一されるという大勢を阻むこともできない。
台湾問題を解決し、国家統一を成し遂げるわれわれの立場は一貫しており、意志は盤石である。われわれは「一つの中国」の原則を体現する「九二共識(92年コンセンサス)」を堅持し、「台湾独立」の分裂行為と外部勢力の干渉に断固反対する。台湾の関係政党と団体、各界の人士とともに、両岸の交流と協力を促進し、両岸の融合と発展を深化させ、中華文化を発揚し、両岸関係の平和的発展を推し進め、祖国統一の大業を推進していく。」
継続的に軍事的挑発を受け続け、対話は拒否され、経済制裁を受け、中国の外交圧力で僅かに残る外国との国交も少なくなっている。台湾は米中対立の渦中の駒とされ、どちらに偏りすぎても危険という状況にある。
『例え中国政府とは良い関係を築くのは無理でも、国民とは良い関係を築いた方がいいのでは?』
と私も考えたし、今もそう思う。
しかし、“言うは易し、行うは難し”だ。
2023 年 5 月 23 日、読売新聞記事より。
中国本土で過半数が「中台統一への全面戦争を支持」…シンガポール国立大学などが世論調査香港英字紙サウスチャイナ・モーニングポストは22日、シンガポール国立大学などが中国本土で実施した世論調査で、過半数が中台統一のための全面戦争を支持すると答えたと報じた。
調査は2020年末から21年初めにかけて実施され、1824人が対象。統一のための戦争を55%が支持し、反対は約3割にとどまった。台湾に統一を同意させるための戦争以外の方法としては、57%が「経済制裁」だとした。22%は「台湾が別の政治制度を維持していても構わない」と回答した。
そもそも中国に住む人で、中国政府の政策に批判的になることは大きなリスクを伴う。コロナ対策や経済施策に対する批判よりも更に台湾、新疆ウイグル、チベット問題等への批判は致命的でリスクも大きい。中国国内でこの事に言及することは不可能だ。例え海外にいたとしても、何処かで発言を聞かれ密告されれば、帰国後に様々な困難があるだろうし、家族にも影響が及ぶこともあるだろう。
私達人間は他人に対してよく「こうすればいいのに」とか、「何でこうしないんだろう」というふうに思いを巡らせてしまう。
でもこの様に考えてみると相手への理解が深まるし、不信感も無くなるのではないだろうか。
「何故その選択をするに至ったのか?」と。
相手の立場になって考えてみる。その為にはそこに至る迄の様々な経緯を知る必要があるし、台中関係の場合は近現代史も理解する必要があるし、台湾現地での雰囲気や感覚も必要になってくるのではないだろうか。
それと、当事者達(有権者)は様々な事を考慮し、また家族親戚の影響、多くの日本人が触れることのない中国語圏のメディアの影響等を受けてその判断をしていると考えるべきだ。
自分の国の物差しで相手の国の人達を判断するといつまで経っても理解できないだろう。
特に台湾の事を深く知らないのに、台湾人達の選択を早計に評価することは台湾人達を理解することに繋がらないし、結局はお互いの理解や認識に行き違いが生じてしまう恐れがある。
この事は現在もそして将来的にも両者にとって大きなマイナスとなりえることだと思う。
【台湾と向き合う】
最近、沖縄は中国との関係を深めようと努力している。
この事自体は沖縄県民も反対している人は少ないはずだ。日米中政府間の緊張関係が高止まりする中、多くの米軍基地や自衛隊基地を抱える沖縄県は東アジアの地域紛争を回避する為に信頼関係を作る努力をしている。
私も沖縄県民として、又日本人としてこの様な県政外交、市民外交は大切で継続していくべきだと思っている。
しかし、私達沖縄県民が注意すべき点は、公での中国側とのやりとりは中国政府の方針に沿ったやりとりしか出来ないということだ。
それは多くの台湾人の目から見てどう写るのか?
香港(チベットやウイグルもかな?)の民主化運動に関わった人達がどう考えるか?
何故ならば、台湾は中国政府から武力統一も辞さないという恐怖を与えられているし、香港も中国政府によって民主的な社会は奪われ、10 万人以上が海外へ出て行った。今や香港でも政府に批判の声をあげることは出来なくなった。台湾の人達はこの香港に対する中国政府の一連の弾圧を目の当たりにし(香港から台湾に逃げてきた人もいる)“今日の香港、明日の台湾“という言葉が台湾で流布した。
沖縄が中国との良好な関係を築くことは大事だが、台湾の人達の中国に対する思いよく理解しておく必要があるし、台湾とも更に深い交流を持つべきである。
そうでないと台湾の人達から沖縄が中国との外交を重視する意味を理解してもらえないし、誤った認識を持たれてしまう。
この構図を頭に入れて、私達はもっと深く強く繋がることが必要である。
台湾の現政権(民進党)を支持する層は高齢世代よりも中年世代から若者が多い。政策も保守系ではなく革新系のものが多い。
一国の政治を保守・革新で分けてしまうから混乱が生じてしまうのだが、台湾の現政権である民進党は二大政党のもう一つの国民党と比較すると革新的、民主的な政党になる。
しかし安全保障政策では軍事費を増額、徴兵の期間を延長、米軍との関係強化する方向性だ。(しかし、安全保障政策では国民党も民衆党も大きく異なるものではない。それは何故かというと国民全体が中国の軍事的脅威を認識しているからだ。)
台湾で安倍晋三元首相の人気があるのは「台湾有事は日本有事」との発言に見られるように、日本は決して台湾を見捨てないという、メッセージを発したからだ。
日本の植民地である沖縄の現状の打開策の一つとして自己決定権や琉球独立論があると思う。それなのに台湾が自己決定権や台湾独立を主張すると中国と戦争になるからやめるべき”という考え方はおかしくないだろうか?
台湾は自国の領土を持ち、パスポートも有り、国民から選挙で選ばれた政府もいる。
台湾が国家として足りていないのは各国からの承認、即ち国交である。
【誰が台湾を今の状況にさせたの? 】
日本やアメリカをはじめとする国々は戦後中華人民共和国ではなく中華民国(台湾)と国交を結んでいたのはご存じだろうか?
中華人民共和国(中国)ではなく中華民国(台湾)が国連の常任理事国であったのだ。しかし 1971 年 9 月 25 日に第 26 回国連総会でアルバニア決議「中華人民共和国政府の代表権回復、中華民国政府追放」によって現在の中国が国連の常任理事国となり、中華民国としての台湾は抗議する形で国連を脱退した。
私達は台湾の防衛力強化は戦争への道だと心配しているけれど、その原因はなんだ?
圧倒的な国力で迫る中国から台湾が自らを守ろうとする選択を、私達の立ち位置から(沖縄が戦争に巻き込まれたくない)のみで判断するべきではない。安全地帯からの非軍事論という指摘があったとして、私達にどうやって反論できるだろうか?
私達、日本の憲法九条非戦派は、実は世界最強の軍隊に守られているからこそ非戦論を唱えることが可能だったのだろうか?
そんな思いが“むくむくっ“と生まれてくる。
もし沖縄にいる私達が台湾に対して非戦論、非軍事論を伝えたいのだとしたら、台湾の現状を理解し、台湾人の視点に立っても納得できるような非戦論を展開するべきではないだろうか。
【今回の台湾選挙の概観】
民進党(民主進歩党)は二期8年政権に居て既得権益化、汚職がある。でも、中国との関係に於いてはアメリカや多くの民主制国家との連携を上手く作り、中国に対しての一定の抑止効果を生み出せたという評価がある。
国民党、かつて一党独裁。大企業との繋がり。既得権益 親中国寄りで不安。台湾の世論は年々、自分を中国人ではなく台湾人として認識する、所謂台湾アイデンティティが強くなってきている。例え親中派と呼ばれる国民党といえども、中国寄りの主張できなくなってきている。(元々国民党が中国共産党の国共内戦を闘ったのだが。)
民衆党 「新しい政党が出ないと私達の(経済的に」苦しい生活は変わらない」、「民進党と国民党は互いを罵りあってばかり」、「一党による長期政権は良くない」と、二十代の5~6割が支持。ただ六十代以上は1割にも満たない。民進党が政党と認められた民主化以降国民党との二大政党政治で来た台湾だが、若い世代にはどちらも市民から離れたエリート政治に見えた。又、長い一党独裁の時代を経験した台湾社会には、民進党であろうとも、権力を長く持たせることには良しとしない感覚があるようだ。そして党首である柯文哲(KoWen-je)のカリスマによる人気。
今回民進党は総統選では再度勝利したが、立法院では過半数を有していた議席を失い、国民党が第一党となった。しかし国民党も過半数に届かず、第三党の民衆党が大きな力を手に入れた構図となった。
【終わりに】
人間社会は脅威を感じると、例えそれが不確定だとしても過剰に反応してしまうものだ。その事はナチス・ドイツの最高幹部の一人ゲーリングの言葉に詳しい「自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ。」と。
仏教の考え方では、結果に至るには“因”が有り“縁”によって“果”が生じるとする。
その考え方に基づけば、結局は現時点では分からないというか、因と縁次第ではどちらにもなり得るという事になる。
私達はそうならない為の努力を積み重ねなければいけない。
“井の中の蛙、大海を知らず“ 私達人間は自分の見たい世界を見ている。
自分の理解の及ばない事や、見たくないモノに出逢うと、否定してしまったり、見なかった事にしてしまったりする。
私自身、そうならないように気をつけたい。
私の頭の中で台湾が何を望むかを想像する。
“他国と国交を結ぶこと。国連に復帰加盟すること?”
しかしこれは台湾が望んでも、中国が決して許さないものだ。
私は巨大な力を持つ組織や人間達の願いではなく、私が出会った人達、これから出会う人達の願いが実現する世界であって欲しいと思っている。
南無妙法蓮華経
合掌
2023 和平之 海 國際 和平 營 in 宮古島
2023 平和の海のための島々の連帯キャンプ in 宮古島
十一月十日~十三日にかけて、宮古島で「平和の海のための島々の連帯キャンプ」(以下:ピースキャンプ)が開催されました。このピースキャンプは二〇一四年当時、済州島の海軍基地建設問題を一地域の問題とせず、東アジアの島々、諸地域で共有し、連帯する目的で始まりました。その後、沖縄や台湾で開催されています。(毎回主催者が変わる)
今年は琉球弧の軍備強化が著しく、台湾有事という造語によって沖縄の島々の不安が強くなってきていることから宮古島での開催を決めました。
五十名以上の参加があり、その内の約半数が海外からの参加者となりました。
国名、地域名をあげると、韓国、台湾、香港、中国、ハワイから二五名以上の人々が集まりました。
特に中国からの参加者が居たことがとても重要で意味のある事でした。日本人の多くは中国という国に対して不安と不信を抱いています。その理由は勿論、中国政府自身の行為によるものもありますが、中国を敵対視する米国に追従する日本政府とそれを報道するメディアによって、中国を恐れる風潮が作られているからです。確かに中国政府が国民やメディアや宗教などを統制下に置き、思想統制のような事を行っている情勢は実に恐ろしく、私自身中国へ行くのと、その他の外国に行くのとでは、同じ気持ちでは行けません。
しかし、だからといって中国人を全て恐ろしいと思うことは理に叶ったことではありません。十数億人といわれる中国人がみんな同じ様な考えを持っているという事はありえないからです。
しかし実際、中国人の親しい友人がいなかったり、中国に行ったことがなかったりして、日本人は否が応でもメディアから流れてくる中国関連のニュースを元とせざるを得ないのが現状だと思います。
そんな中、中国出身の三人(たぶん二十代位)が、それぞれの考えや意見を話してくれました。その中でも声をあげる事が出来ないという事が一番大変な事で、国外にいても中国国内に居る家族の事などを思うと名前や顔を出すことは厳しいということ。日本人が声をあげられることを羨ましくさえ思うというのです。
一人は「中国の白紙運動で出会った多くの人達は日本の右翼との繋がりを持っていて、中国共産党の打倒さえできれば他の問題は重要では無いという考え方でした。一時日本の活動家達とウイグル問題等で一緒に活動しましたが、私と意見や考え方が違ったので彼らから離れました」と話してくれました。
「敵の敵は味方だから?沖縄で米軍基地に反対する方達の中で中国に親近感を持つ人が多い事に驚きました。しかしその図式もやはり違うと思います。中国はウイグル人に対してやっていることはナチスと同じ反人類的な罪であり、その他にも色んな意味でやばい国です。また、中国国内では沖縄へ対しての関心がないです。何が行われているかのかも知りません。」と話してくれました。
又、「中国は洗脳された一枚岩ではなく、独自の思考の文脈と、様々な独創的な行動が存在しています。ですから日本の皆さんには中国で声をあげ行動する人達の限られた声に耳を傾け、中国の人権問題の為に声をあげて頂ければと思います」。と私達に彼女の想いを直接伝えてくれました。
香港や台湾の人達も参加していて、反目し合う政治・社会情勢の中、この三地域の人達が腹を割って話すことも普段は出来ないと言っていたことが印象に残っています。
香港では今までピースキャンプに参加したことのある仲間やその友人知人達が裁判に掛けられていたり、国外に逃れて行ったりと、直接その実態を聞くとかなり厳しい状況であることが分かりました。所謂国安法(中華人民共和国香港特別行政区国家安全維持法)によって香港の状況は一変してしまったようです。過去にSNSに投稿した内容(香港の若者の多くが民主化や独立、中国批判等を書いていた事は容易に想像できる)で警察が突然家にやって来ることもあるということです。しかし、明確な違反の基準が分からないので、捕まる人、捕まらない人の違いが分からず、いつ自分の所に来るか分からず、夜眠れない人が多いということです。
台湾でも中国による武力統一の脅威に対して、軍備増強が進められていて、沖縄で一定の発言力のある非軍事による対話・外交での解決方法などといった考え方は圧倒的に少数のようです。台湾からの参加者の一人が“今まで、国際政治や安全保障論の視点で台湾と中国の問題解決方法を捉えていましたが、宮古島の自衛隊基地に反対する人々との交流を通じて、「反戦」や「平和」を理念や思想としてではなく、生き生きとした個々の人々の「ライフヒストリー」として見るようになりました。したがって、理念や思想は温かさを持ち、生き生きとした人々とのつながりを持つようになりました。このため、軍事基地や戦争に反対する理由を理解することができるようになりました。これは以前の私が理解できなかったものでした”と語ってくれた事はとても印象に残りました。
韓国の人達(済州島)は日々の平和活動の紹介をしてくれました。韓国では平和運動の中でとても陽気な歌や踊りをするのですが、それを自衛隊基地前で、皆で踊り、とても盛り上がりました。韓国の人達の強さと陽気さは平和運動をとても楽しいものにしてくれます。若者たちが多いのもなんとなく理解できます。
宮古島側でも多くの方達が関わってくれました。
最初に仲宗根將(まさ)二(じ)さんという郷土歴史研究家の話を聞きました。済州島と宮古島、台湾と宮古島、琉球王府と宮古島の関係などを話して頂きました。
二日目は仲里盛(せい)繁(はん)・千代子夫妻に話しと、清水早子さんの自衛隊基地の説明、上里清美さんの女たちの碑(朝鮮人慰安婦の碑)の説明を受けました。
午後は弾薬庫が造られている保良の自衛隊基地前で下地博盛さんの話を聞き、公民館で下地茜さんが声を掛けてくれた地元の方達と交流しました。
三日目は三グループに別れ、石嶺香織さんの宮古上布ブーンミ体験(ブーとは苧(ちょ)麻(ま)のことで、苧麻を手積みすることを宮古島では「ブーンミ」という)。楚南有香子さんのノニの実収穫(雨の為予定変更し、博物館とハンセン病資料館へ)。近角敏通さんは下地島歴史ツアー。
午後は狩俣公民館で「労働者協同組合かりまた共働組合」の方の作ってくれたヴィーガン(動物性食品を使わない)料理を食べながら、交流をしました。今回のピースキャンプでの食事提供は過剰な食肉生産による地球環境への負荷と、大量生産の為に家畜に対して余りにも酷い飼育方法を行っている事に与しない為に、肉食を減らし、現地の材料で調理して貰いました。(島で取れた刺身の差し入れもありました)。
最後の夜は蝋燭を囲み、キャンプ中発言の少なかった日本の参加者達が話しをしました。
最終日はお世話になった青少年の家を皆で清掃し、車で漲(はり)水(みず)御嶽(うたき)まで移動し、地元の神人、根間忠彦さんの話を聞き、皆で祈り、カママ嶺公園まで平和行進をしました。カママ嶺公園の憲法 九条の碑では尾毛(おもう)佳靖子(かやこ)牧師の話を聞き、参加者のみづき・あすみ姉妹の九条の歌を聴きました。 そして最後に、九条の碑の近くに在る「愛と和平の碑」(宮古島民台湾遭害事件の和解の碑で台湾南部の牡丹郷の牡丹社事件紀年公園にも同じ物が有る)の前で台湾のパイワン族と宮古島民の歴史と和解への道を振り返りました。
3泊4日の短い時間でしたが、シンポジウムや講演会の様に誰か特定の人の話しを聞いて終わりではなく、車座になり、一人一人の話に耳を傾ける事が出来ました。又、自由時間を使って更に個人個人の繋がりを作り、今回だけで終わる人間関係ではなく、これからも連絡を取り合えるような人間関係を作ることが出来たことが大きな成果であったと思います。
改めて実感したことは、どの国の人間であっても一人一人異なった考えや意見を持っているという当たり前の事です。日本という共同体社会のマスメディアに接していると、中国はこういう国で、韓国はこういう国で、台湾はこういう国(地域)で、香港、ハワイについても特定のイメージを持ってしまっていますが、実際に人と会って話すと、共感できる事があり、また色んな違いについても知ることができます。
考え方や当たり前が異なる事は決して悪いことではなく、その差異を楽しみ、その差異が生まれた背景を学ぶ事はとても面白い事だと思います。
相手を知る努力をすれば、怖がる必要はなくなります。それは誰も心から争いを望んでいる者などいないからです。知り合い、友情を結び、国境など無い新たな共同体を作りましょう。その繋がりは必ず、戦争を生み出す恐れや憎しみを超越する力となると信じるからです。
「人間同士が連帯できないこと、手を取り合えないことは、人間として恥ずかしいことである」
合掌
南無妙法蓮華経 鴨下祐一
東アジア平和行進 in 台湾 2023
台湾第二の都市高雄(たかお)から屏東(ぴんとん)県車城まで台湾の西側を南下し、牡丹(ぼたん)郷を通り東海岸へ出て、北上して台東(たいとん)まで歩きました。
5月27日から6月7日迄の11日間かけて約200kmの道のりでした。(暑かった!)
沖縄から四名、日本から四名、韓国から一名(日本人)、そして台湾人二名が最初から最後まで通して歩きました。
2019年には台東から花(か)蓮(れん)まで歩きました。
その年に比べて今年は日本の参加者が多くなりました。やはり、四年前に比べて台湾有事の報道が増えた関係で台湾に関心を持つ人が増えているのだと思います。
近くて遠い国、アメリカの歴史や文化は知っていても、台湾の歴史や文化は知らないのです。
行進の報告の前に先ずは、私が興味深く思った幾つかの事を紹介したいと思います。
- 台湾の歴史。台湾には大きく分けて二つのエスニックグループが存在する。所謂、原住民と漢民族である。この二つのグループは言葉、文化、外見が同じではない。台湾には先史時代より原住民たちが住んでいて、ヨーロッパ諸国が大航海時代にアジア各地に姿を現しだすと1600年代にオランダやスペイン等が貿易や植民地政策のもとに台湾を支配した。その時にオランダが労働力や土地の開発の為に中国の福建省や広東省から漢民族を移住させた。これが現在の漢民族の台湾の歴史の始まりと言えます。
その後、漢人の父と平戸藩の母との間に生まれた鄭成功(ていせいこう)がオランダを駆逐し、鄭氏統治時代、その後、清朝統治時代(更に多くの漢人移民が来島)、それから日清戦争を経て、日本統治時代となる。日本が戦争に負けると、今度は中国大陸で毛沢東率いる中国共産党軍に負けた蒋介石(しょうかいせき)率いる国民党が台湾へと敗走してきた。国民党(外省人)の所行は悪く汚職も蔓延した。「犬(日本人)去りて、豚(中華民国人)来たる」(狗去豬來)と呼んで揶揄した。行政などの要職も独占し、元々住んでいた台湾人(本省人)が抑圧されると、本省人の不満が高まり2.28事件が起きた。この事件をきっかけに蒋介石による弾圧と虐殺の時代(白色テロ)が始まった。一万人から数万人が殺されたとされているが、詳細は未だに解明されていない。蒋介石が出した戒厳令は息子の蒋経国の時代の1987年まで続いた。
ざっと台湾の歴史を並べ立てたが、どれだけの日本人がこの台湾の歴史を知っているだろうか?
恐らく、大概の日本人はこの歴史を知らないだろう。(私自身知らなかったから)
- 宗教的素地。台湾は菜食者が多い。国民の十数パーセント居るそうだ。街中を歩いていても、素食(スーシー)の看板や卍の看板が有るが、それは菜食専門を意味する。日本では菜食主義者は肩身の狭い想いをしなくてはならないが、台湾では、菜食者は高潔の証ですらあると聞いた。全人口に占める素食人口の割合としては、台湾はインドに次ぐ世界第2位の規模になるそう。この台湾の菜食の文化は仏教や一貫(いっかん)道(どう)、道教の影響が大きい。
僧侶は菜食・独身であり、社会からも尊ばれる存在である。テレビ番組にも各宗派がチャンネルを持ち、教えを伝えているらしい。道教・仏教寺院は巡礼者用の宿泊施設を備え、私達の行進もお世話になった。そして道中、遊行中の一人の尼僧と出会い、行進に加わるという日本では有り得ない事も起きました。
今回台湾を歩こうと思ったのは“台湾有事台湾有事“と、沖縄県では沖縄も米軍基地や新しい自衛隊のミサイル基地が宮古や八重山諸島に造られた事から、沖縄も戦争に巻き込まれるのでは?と心配の声が大きいけれど実際台湾ではどの様な雰囲気になっているのかを先は知りたい。
そして、今回パイワン族の牡丹郷を通るルートになったので、牡丹社事件の事を学ぶのと、犠牲者になった人々への慰霊、そしてその後の日本占領下での原住民達の苦難に対して、日本人としてその負の歴史を学びたい。というような思いから台湾での行進を計画しました。
台湾に行く前に台湾の友人たちの意見を聞いてみると、
中国の台湾侵攻を心配していると言う人は多くありませんでした。逆に日本人あなた方がそんなに心配していることに驚きましたと言われたりしました。
心配しない理由のひとつは、中国の台湾への脅威は今に始まった事ではないという事。
台湾海峡危機=1950年代から1990年代にかけて四度の軍事的緊張があった。
1950年、第一次台湾海峡危機は中国の西南部や舟山(しゅうざん)群島、海南島等に追いやられた国民党軍が中共軍によりそれらの地域からも駆逐されていく。そして、国民党軍は福建省や浙江省の一部島嶼(金門島、大陳島、一江山島)まで撤退していく。1954年中共軍の猛攻により国民党軍は大陳島と一江山島から撤退し、残った金門島も熾烈な砲撃を受ける。この内、金門島のみ現在も台湾の実行支配下に置かれている。
その後も第二次台湾海峡危機(1958年)、蒋介石による大陸反攻計画(1962年)、第三次台湾海峡危機(1996年)と中国と台湾側の軍事衝突、又は挑発行為が度々行われてきた。
この事を踏まえると、昔に比べれば、現在の情勢は安定していて、今になって中国が台湾に侵攻してくると言うことは台湾人にとって想像しづらいという事のようだ。
ただ同時に、台湾と中国(両岸関係)は未解決の問題であり、度々の緊張関係が生じている為、中国よりも国力の小さな台湾にとっていざという時の備えの為に軍事力の維持というものが決して無視できない政策となってきたと言える。
そしてその他の中国の武力行使を心配しない理由には、相互の経済的な深い依存度や、中国が武力侵攻した時の国際的信頼度の失墜=経済の衰退というリスクが大きいという声も聞きました。
今回、台湾滞在中に十数人位の台湾の友人たちに、中国による台湾侵攻の現実性について尋ねました。
台湾に観光に来る多くの中国人達の素行が良くないので中国人は好きではないという台湾人は多いようです。
しかし、中国の脅威は今に始まった事ではない、現在は経済的な繋がりや、台湾侵攻をした時の中国のリスクの大きさを考えると、中国が台湾を軍事侵攻することは有り得ないと言っていました。
一方、台湾以外に住む、フランスやアメリカ、所謂欧米のメディアやシンガポール在住の台湾人などは、中国の台湾への軍事攻撃の可能性の高まりについて強い懸念を持っています。
台湾国内と所謂欧米メディアの間での大きなギャップがあることが分かりました。
そして、私達が知っておくべきもう一つ重要な点は、台湾の国内世論が軍備増強に賛意を示していると言うことです。喫緊の脅威は感じないという世論であっても、防衛力の強化に関しては大多数の国民が必要だと思っているということです。そしてその軍事力増強の要となるのがアメリカの支援であり、米軍事同盟国日本の支援でもあるようです。
足下を見れば、日本も軍備増強路線を強く打ち出しています。中国脅威論に対して台湾も日本も米側に属し、米中対立構造の一部にされてしまっています。(フィリピンにも米軍の駐留が再開されるというニュースがあります)。
自分の頭の中で台湾に対して、中国の覇権主義の脅威に非軍事・外交対話路線で望んで欲しいという期待があったのですが、深く台湾の歴史や現状も知らない自分が、自分達の都合の良いように、台湾にはこうあって欲しいと望んでいた事に気づき、反省する機会となりました。
台湾は既に“新たな冷戦”の狭間にあるとある助教授が言っていました。
台湾国内では武力に頼らないで、外交や対話の力をもって中国に対処するという考え方の人々も居て、その旨を謳った声明文を大学の教授等を中心に発表したようですが、大きな議論を呼び、世論から大きな批判を浴びたと聞きました。現在、非軍事的解決を目指すグループは少数派で、多くの台湾人にその考え方は受け入れられていないと言うことです。
台湾滞在最終日、台湾人ジャーナリスト三名、フランス人ジャーナリスト一名と意見交換する時間を持ちました。その内の一名が私の知り合いで、彼とは済州島の平和行進で出会い、沖縄を案内したりもしました。
台湾人ジャーナリストの友人は、私達が出会った多くの台湾人達とは正反対の意見で、中国は台湾に必ず侵攻してくると言いました。
彼曰く、中国は台湾侵攻への多くの兆候を示しており、侵攻は疑いない。ロシアのウクライナ侵攻の時も、多くのウクライナ人はまさかロシアが侵攻してくるとは直前まで思っていなかったと。
又、「中国と話し合うといっても、そもそも、中国が台湾と同じ土俵、対等な立場で話し合うつもりはなく、話し合いは成立し得ない」と言います。
台湾の非軍事を謳うことは、中国を利する行為であり、批判の的にすらなるとも言います。
台湾の状況は以前とは変わってしまったと、彼は言います。
私の隣に座っていたフランス人ジャーナリストが「もし、中国が台湾へ軍事侵攻を始めたら、あなたは在日米軍を台湾へ派遣する事に賛成しますか? 自衛隊が台湾を支援する事に賛成しますか?」と私に問いました。
この質問は、私の心を揺さ振りました。そして、以前観たテレ東Bizのニュース動画を思い出しました。
台湾の鏡新聞mnewsの蔡滄波CEOに対してのインタビューで、「武力行使が起きた時、日本に期待することは何か」との質問に「在沖米軍の派遣をお願いしたい」と答えていました。
フランス人ジャーナリストの質問に対して私は答えることが出来ませんでした。
私の信条として、米軍を沖縄から派遣し、軍事力で問題を解決する事は賛同出来る事ではありません。
しかし、覇権主義的国家の中国が小国の台湾に脅威を及ぼすのを、何もせずに見過ごすという事は、真実の非暴力的行動ではなく、裏切り行為であり、不誠実的行為だと思うのです。(ガンディーの思想より)
しかし、台湾の友人に、「軍事的に支援しないという事は、台湾とは関わりたくないということですか?」と聞かれた時、私は何と答えたら良いのでしょうか?
私の隣に座っていたフランス人ジャーナリストに、それではあなたはどう思うかという問いに、「戦争が起きてしまったら、それは私達が失敗してしまったということ。戦争にならない為に何が出来るかです」と私に話しました。
そして、「アメリカも中国も帝国主義的な振舞で他国を抑圧していて、台湾と沖縄はその被抑圧者である。台湾と沖縄は連帯して助け合うべきである。世界中の被抑圧地域と連携して、帝国主義を世界からなくす事が大切だと思う」という意味の事を話されました。
窮地に立たされている者は、藁をも掴む想いで何とかして助けて欲しいと思うのは当然だと思います。
平和行進を一緒に歩いた台湾の友人は、台湾は世界からどんどん孤立していっていると話していました。
世界での中国の力が強まるにつれ、中国の圧力により、台湾と国交を断絶する国が増えていっています。(現在外交関係のある国は13カ国。日本もアメリカも ‘One China policy’ ひとつの中国政策をとっているので台湾との国交は結んでいない)。
彼らの質問に対して、私は苦し紛れにガンディの非暴力運動の例があった事を上げました。
「例え、軍隊を派遣することに賛成ではなくても、それイコール台湾を見捨てるという事ではない。そして、私達のような平和行進はとても小さな力だけど、自分の出来る最善の行為を持って、東アジアの平和に寄与していきたいと言った。政府間のやりとりに直接的に影響を与えることは難しいけれど、私が大切だと思うことは、私達一人一人が今回台湾を訪れ、2週間歩き、生活し、台湾の人々にお世話になったこと。台湾の歴史を学び、人々の意見も一緒ではないという事を知ったこと。台湾人の友人が増えたこと。牡丹社事件について深く学べたこと。パイワン族の村で儀式を受け、伝説を聴けたこと。この経験がとても貴重であった」ことを話した。
安全保障や政府間外交という私の手の届かない議論だけではなく、自分が出来る事の話し合い。
自分の行動が無意味・無力だと思わない為にも、出来る事の積み重ねをしていきたい。
つづく…
2023年ゴールデンウィーク大熊町帰還困難区域
大熊町帰還困難区域
木村紀夫さんと義岡翼さんの二名で運営する「大熊未来塾」は帰還困難区域、中間貯蔵施設などの現地案内や講演活動、季刊誌の発刊等の活動を通して、原発震災からの経験やこれからの人間社会の在り方などを伝える、伝承活動を行っている。
今回は木村紀夫さんの次女、木村汐(ゆう)凪(な)(当時七歳)さんの遺骨を探す、捜索活動に参加させて頂いた。
宿は富岡町のゲストハウス135という所でした。
初日、木村さん達と合流する前に“捨石塚”という、戦時中に特攻兵として訓練していた若者たちが、積み上げたと言われる小さな丸い石積みの跡にお参りしてきました。
現在の福島第一原子力発電所の敷地周辺は戦時中、特攻隊の訓練場であったらしく、滑走路があったといいます。
又、海側には特攻挺の秘匿場であった事も知りました。
特攻兵たちは訓練だけではなく、戦時中に逼迫していた燃料の増産の為、山の木で炭を生産していました。
その折りにひとり又ひとりと特攻兵として戦地へ向かう仲間が出る度に、海岸にある丸い掌(てのひら)大の石を積んでいったのだそうです。
未曾有の福島第一原発事故を引き受けさせられたこの地域の苦しみを、過去の特攻兵たちの避けることの出来なかった、“お国のため”の犠牲となっていった姿と同じとは言わないまでも、重なるものがあるように思えてなりません。
衝撃的な光景でした。
人間の住まなくなった町の風景。
2045年に帰郷すると書いた石碑がかつて在った家の跡地に立っていました。
もぬけの小学校、草が伸びすぎて見えない校庭だったはずの所。
綺麗な新築みたいで今でも住めそうな家も在れば、屋根が崩れ、中まで見える家。
お寺も、屋根が崩れ中が見えていました。
公民館は海側の半分が無くなった状態で残っていました。
その隣には諏訪神社が在り、手前の拝殿は流され、少し高いところに在る本殿は残っていました。ここでは地域の催しをよくやったようで、伝統の祭りもしていた町の中心的な所だったようです。ぼろぼろになった本殿の扉を開けてみると、丸い鏡が手前に倒れていました。木村さんがその鏡を立てて、またこの神社を再興したいと言いました。
中間貯蔵施設では大きな工場のような建物が建っていて、運ばれてきたフレコンバックの中身を分別し、土は遮水シートを敷き埋め立てます。(広大な埋立地が幾つもあるようでした)燃える物は焼却し灰にして廃棄物貯蔵施設に保管します。
県内から集まったフレコンバックの量は相当あったはずですが、だいぶ減量化が進み、フレコンバックはあまり見当たりませんでした。
福島県内の各地から放射能に汚染された土やゴミ(廃棄物)が大熊町に(双葉町にも)集められていました。
思えば原発震災以降、2013年から福島県内を慰霊と核問題をテーマに歩いてきましたが、浜通り、中通りの各地に集積されていた“大きな黒い袋”フレコンバック(放射性汚染物)の集積場は年々見られなくなっていっていました。
福島第一原子力発電所の立地町である双葉町と大熊町に中間貯蔵施設が作られ、2015年から2045年迄の30年間限定で、この地域に仮置きし、それから最終処分場へと運びだすという国の計画から全て此処に集められているのです。
国の発展の為に造られた原発は、高度経済成長期を無事に生き抜き、十分に人々を肥やした後、事故を起こしたのです。
事故が起きた当時こそ、首都圏に住む人々も右往左往し、反省したり、今までの社会の在り方に疑問を持ったりしていましたが、13回忌を迎えた今年の首都圏の様子、更にコロナ・パンデミックからいよいよ抜け出せた雰囲気の中で迎えるゴールデンウィーク中の人々の意識は、大熊町で高い放射線量の中、女の子の遺骨を探す人々の意識とは大きな乖離があります。
(この女の子=木村汐凪さん。津波の後、原発事故による避難指示で捜索隊も瓦礫などに埋まってしまっている人達の捜索・救助を諦めざるを得ませんでした。しかも、捜索隊の証言では、声が未だ聞こえていたのに諦めざるを得ませんでした、ということは、助けられたかも知れない命が原発の事故によって犠牲になってしまったということなのです。そしてさらにそれはもしかしたら、木村汐凪さん、木村王太郎さん、木村深雪さん(木村紀夫さんの娘、父、妻の順、父と妻の遺体は震災後見つかっている)は助かっていたかも知れないという事なのです。)
福島県内も同じような気分が創出されていて、震災からの復興という前向きな出来事やイベントは大いに賞賛され、人々が集まり、メディアも喜々として伝えますが、放射能関連の事となると、メディアは積極的に、批判的に、調査報道的に伝えているという事はなく、放射能関連、原発関連の話題はあいかわらずタブー視されていて、表だって話題にはならないのです。
事故で一旦飛散した放射性物質は、まるで人間社会の抱えきれない欲望がはじけ飛び、そしてまた、人々の無関心と現実逃避の欲求が、それらの毒を立場の弱い地域に押しつけ、忘れ去ろうとしているかのように見えます。
こんなネガティブなことばかり書いていると、誰も読みたくない気分にさせてしまうかもしれません。
しかし、人間の存在の根本が“苦”であると仏様は悟り、説いた事を思うとき、苦しい現実に向き合うことを避けることは、この世の真理から遠ざかることだとおもうので、直視したいとおもうのです。
大熊町滞在中に私の脳裏に浮かんだ言葉があります。
福島県三春町在住の武藤類子さんが雑誌のインタビューに答えていた言葉で「私達は絶望することさえも奪われてしまった」。絶望するところからしか立ち直れないのに、絶望すらさせてくれず、「復興復興」と一見前向きな言葉で、深く考えること、社会として反省する機会を奪われている。といった様な内容の話しをされていて、それが今回の旅で思い返されました。
今回、遺骨収集の合間に半日だけ木村紀夫さんに大熊町の帰還困難区域内と中間貯槽施設の区域を案内してもらいました。
少し説明すると、まず帰還困難区域は許可証を持っていないと入ることは出来ません。
私達は木村さんと一緒に、帰還困難区域に入る前にスクリーニング場と呼ばれる、立ち入りの事前と事後に寄る場所で、名前と住所と生年月日を記入し、首から掛ける線量計(積算)を受けとり、放射性物質の防除服(区域内から放射性物質を服に付けて持ち帰らないため)を貰い(貰わなくても良い)16時までに区域から出なくてはいけませんでした。
6号線の海側に開閉式のフェンスがあり警備員が立っているので、許可証を見せてから中へ入ることができます。
持参の線量計がうまく動かず、区域内に設置されている線量計を幾つかチェックしました。
毎時0.4μ㏜、0.6μ㏜、1μ㏜、4.25μ㏜と場所によってその差がありました。
帰還困難区域の外に在るスクリーニング場は毎時0.22μ㏜と表示されていました。
私は域内に計6時間滞在し、計6~7μ㏜の被曝量となりました。
ということは、一時間の空間線量が約毎時1~1.16μ㏜ということになります。
私自身の経験で言えば、2013年から毎年福島、東北地方を命の行進で歩く中で、自分なりに知識を得、東北で出逢う人々達の放射能に対する考え方や接し方を見聞きして行く中で、自分の許容範囲というものを設定していったのだと思います。
1μ㏜という数値に対してどの様に感じるかは、この12年でそれぞれの人生の境涯で、それぞれの処し方が生まれたと思います。
中間貯蔵施設に集められた放射性廃棄物は2045年迄に県外の最終処分場を新たに探し、そこに持って行くことが法律で決められています。(はたして見つかるのでしょうか?)
この事についていくつかの意見を見聞きしました。
・せっかく危険な放射性廃棄物を一カ所に集めたのだから、ここから動かすべきではない。
現在の中間貯蔵施設で永久的に管理するべきだ。
又、放射性廃棄物の県外への移動によって、新たな分断や、その他の新たな問題が生じてしまう事を懸念する。
・国策によって、それも首都圏の為に稼働されていた原発事故の責任については福島県の原発立地自治体のみに押しつけるのではなく、国民全員が責任を負うべきではないか?
各地にしっかりと管理した小規模の放射性廃棄物の最終処分場を設置し、国民が原発事故とはどの様な結果を生じるものなのかを身を以て学ぶ場にする事ができる。
私は以前はどちらかといえば前者の考え方でしたが、後者の意見を知り、多くの日本人が原発事故や放射能問題で苦しむ福島の人々をよそに原発回帰へと向かう中、そういう責任の取り方を提示されたことは衝撃と同時に否定は出来ないと感じました。
私の責任ということから考えると、毎時1μ㏜の空間線量を自分の許容範囲と考えるのも、私達が暮らしてきた東京を中心とした社会の根幹である電力供給の為に、原発事故が起こり、放射能汚染が起きた。線量の高い所に敢えて自身の身を置くことは、私が所属する社会が起こした結果に対して責任を感じるからであり、自分自身への免罪符の為でもあります。
そして、理由があってそこに住む事を選択した人達と関わることが自分にとって大切だと思うからです。
そこに住んでいる人達と少しだけでも一緒に時間を共にする事で、自分自身の責任を果たしていると思うようにしているのかもしれません。
こんな話をしました。
彼、「この果物は30ベクレルだから、基準値内なんです。だからまぁ、食べられるんですよ」。「この野菜は80ベクレルとちょっと高いですが、基準値内ではあるので、食べられないことはないんです」。
私、「えぇ…」。
この地に居続けることを選んだ人の「言葉」に私は「30ベクレル、80ベクレルでも高いと思います」。「私は食べられないです」。とは言えませんでした。
モヤモヤ、モヤモヤ…
人間はいつも色々な問題について、ひとつの答えを見つけたいと思うものだけど、ひとつの答えというものは無いんだと、私は思う。
とにかく、相手の決定、その人の出した選択に敬意を持つ事。想像力を働かせること。
そんな事が、特に今の“分断分断”と叫ばれる時代には必要なような気がします。
今回の福島来訪は5月の暖かい季節でした。
私は今まで、2月や3月のまだ寒い、木々や植物が、ひっそりと、灰色に覆われている時期に福島に来ていました。
いつか、福島、東北に春や夏に来てみたいと思っていました。
今回、山道に入ると、多くの花々が咲き、小川の流れる音、鳥たちの鳴き声が聞こえ、とても気持ちの良い所だなぁと感じました。
同時に、人に棄てられた家々が寂しく朽ちていて、元々畑や家で在っただろう所にソーラーパネルが並んでいました。
私達はなんて取り返しのつかない事をしてしまっただろうと思うのと同時に、それでも、この大地も海も、すべてを飲み込み、結局は人間の犯した過ちも、あらゆる営みも、宇宙に在る無数の星たちの世界から見れば、ほんの一瞬の、小さな出来事なんだろうかと思わずにはいられないのです。
だからといって私達は、人生をむなしく感じる必要はないと思うのです。
良い行いを努めることで、自身も幸福を得ていけるのですから。
南無 常不軽菩薩
南無妙法蓮華経
那覇アメリカ軍港の浦添西海岸移設
那覇市長選挙が始まっている。
今年も異常気象のニュースが世界各地から聞こえている。
1980年代、既に科学者達によって警鐘は鳴らされていた。
88年、気候学者のジェームズ・ハンセンは米上院公聴会に呼ばれ、次のように発言している。
「地球は温暖化している。温暖化の原因は大気中の二酸化炭素濃度の上昇であり、これは99パーセント人間の活動によって引き起こされたものだ。このまま放置すれば、近い将来には地球全体で危機的な温度上昇を招くことになるだろう」と。
この数年、世界各地の若い世代が声をあげ、地球レベルで気候危機の問題が強く認識されるようになった。
そして沖縄県も気候非常事態宣言を出した。
地球温暖化を含む気候変動というのはCO²排出の問題だけではない。
産業革命を機に人類の営為が生態系循環のバランスを崩し続け、自然の生態系だけではバランスが維持できなくなり、因って既存の生命体の中で著しい環境の変化に適応できない種が絶滅する事で、種同士の相互依存関係の上に築かれていた絶妙な生命のバランス(Web of Life=生命の網)が崩れてしまい、人智の予測を超える現象が起きてくるだろう。
仏法ではこの理(ことわり)を因果(いんが)応報(おうほう)という。
今年は沖縄の施政権が日本に返還されてから50年の節目の年である。
日本政治の沖縄に対する“基地か経済か“の揺さぶりから未だ抜けられていない。
経済発展=幸せが妄想であることは近年いよいよ証明されてきているはずなのに…
又、沖縄の海が埋め立てられようとしている。
子供達にどう説明するつもりだろう?
「しかたないんだ~だから」と言って良いのだろうか?
アインシュタインは言った「同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という」と。
なぜ沖縄が新しい米軍基地の為に海を差し出さなくてはいけないのか?
こんな不条理が続いていいのか?
私はこの“容認”という言葉が腑に落ちない。
両候補とも那覇軍港が返還されて跡地利用することに価値を見出しているのだろう。
浦添の海を埋め立てる事に賛成しているとは思わない。
ぅんめー・たんめーのじんぶんを忘れたら沖縄の未来はどうなる?
私達は海に生かされてきた。海は私達の母であり私達と一体であることを、次の世代にも教えよう。海にふりかかる事は全て、次の世代の身にもふりかかる。海を傷つける事は子供達を傷つける事なのだと。
祈りと感謝と畏敬の気持ちと共に。
広島 出会い直し 原爆供養塔 遺骨と個の歴史から見えてくるもの
2013年から毎年、8月6日は広島で迎えている。
日本山妙法寺の僧となって15年、インドに居た時期を除けば、10年以上広島に来ている事になる。
広島の街を平和行進し、原爆ドームの前でお断食御祈念したりと、毎年濃厚な数日間を過ごしてから、8月9日の長崎原爆投下の日に向けて長崎へと移動する。
他の人がどうかは分からないが、自分の中では、この広島・長崎の一連の行動はルーティンとなってしまい、深く掘り下げることをせずにいたようだった。
堀川恵子著「原爆供養塔-忘れられた遺骨の70年ー」という本を読んで衝撃を受けた。
今まで毎年通っていた広島の平和記念公園内にある原爆供養塔の歴史を知らなかった。
原爆投下の翌年、仏教でいう三回忌にあたる8月6日は家族を失った多くの市民が自然と供養塔の周りへと集まった。まだ平和祈念公園が出来る前、焼け野原の中に供養塔が建っていたという。
その原爆供養塔に通い続け、清掃し、納骨堂の中に納められていた御遺骨を遺族の元に返すという事をされた被曝者の佐伯敏子(2017年没)さんの事を知らなかった。
納骨堂の中には一家全滅などで身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨約七万柱が今も納められている。1955年当時、氏名が判明しているにも関わらず引き取り手のない遺骨は2432柱あった。そして現在824柱残っているという。
広島が軍都として、日清戦争の時は大本営が東京から広島に移され、当時の首相伊藤博文をはじめ帝国議会、各議員、そして明治天皇まで広島にやって来た(広島城に住んだみたい)事、広島市の宇品(現在の広島港)に陸軍船舶司令部(暁部隊)があった事、その港から中国や東南アジア更には南洋群島の戦争にも物資を供給していた一大補給基地であった事も知らなかった。
<継承>
あと5年~10年すると、戦争体験者たちもほとんどが鬼籍に入ってしまうだろう。
戦争の記憶を継承することは用意ではない。戦争体験者が居なくなってしまえば、どの様に非体験者である私達が、戦争の悲惨さを理解し、更にはそれを次の世代に伝えていけるだろうか?
忘却することは自然なこと、忘却できるから平和もあるという意見もよく聞く。
それもそうだろうが、過去を学ぶということはことは、決して過去だけを学ぶことではないのだ。
また、誰かの人生を通して歴史を学ぶとき、それらはただの情報としてではなく、感情を伴い、想像力が働き、その人の歴史が自分の中に落とし込まれていくのだ。
中には、歴史を学ぶ事を軽視する人もいる。
勿論箇条書きにしたように歴史を学べば、面白くもないし、人生の役にたたないかもしれない。
継承するということは、戦争体験者の“想い”を受け継ぐということだ。
過去に何があったか、何故起きたかを学び、色々と想像を働かせると、ふと、今と繋がってくる。人間の愚かさ、人間の尊さというものを見えてくるのだ。
そのような意味に於いて、過去を学ぶ事で、人の暮らし、営み、その移り変わり、何故現在目の前の光景となるに到ったかに想いを馳せることは、決して無駄ではなく、社会の理を見出せる行いだと思うのである。
今回広島で、今まで幾つかの点だけしか広島を知らなかった私が、更なる点を知ることが出来たことで、より深く、より広く、広島の原爆投下の以前以後、多くの点と点が線となり、又、更に広島を知りたいと思うようになっている。
何事にもモチベーションがなければ続かない。
今回、広島の新たな歴史の一面を知れた私は、広島の街に興味を持ち、もっと歩いてみたいと思っている。
佐伯敏子の言葉
〈そりゃあ、昨日今日のことじゃないから、大昔のことはもういい加減にしてくれっていうのが当たり前よね。それが人の心。生きている人の気持ちはコロコロ変わる、さっきまで泣いていた人が、ひょいと忘れてしまう。だから迷ったときは、いつも死者の気持ちになって考えたらいいんよ。20万もの死者達は、親子であったり、夫婦であったり、先生であったり、それぞれの務めがあったんよ。20万もの死者がおられるという事実は、自分ひとりでも、知ったものの責任として伝えていかなきゃね。たったひとりでもやらんといけんよね。
今は伝わなくても、歩き続けることが大事なんよね。その人が知りたくなるのを待たないといけんよね。いつか通じ合う時がくる。目には見えないけどね、蒔いた種はいつか芽が出てくるからね。〉
“戦後生まれの私達には過去に起きた戦争の加害責任はないだろう。しかし将来、同じ過ちを起こさないようにする責任はあるはずだ。だからこそ、歴史を学ぶ事は大切なのだ”。