大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

虎に乗り古屋を越えて・・・巻第16-3833

訓読 >>>

虎(とら)に乗り古屋(ふるや)を越えて青淵(あをふち)に蛟龍(みつち)捕(と)り来(こ)む剣太刀(つるぎたち)もが

 

要旨 >>>

虎に乗って古屋を飛び越えて、青淵に棲む蛟龍(みづち)を生け捕りできる、そんな剣太刀がほしいものよ。

 

鑑賞 >>>

 境部王(さかいべのおおきみ)が数種の物を詠んだ歌。境部王は穂積親王の子とあります。どうやら恐ろしいものを取り合わせた歌のようですが、「虎」は日本にはいませんから、大陸伝来の絵図などから想像したのでしょう。古屋がなぜ恐ろしいのか疑問に思いますが、昔は、人が住まない古屋や廃屋には鬼が住むとして忌避され、「虎や狼より古屋の雨漏りのほうが怖い」という諺もあったほどです。虎も古屋の雨漏りを恐れるとされていたようです。「青淵」は深く水をたたえて青く見える淵。「蛟龍」は、水の霊で竜に似た想像上の動物。「蛟」は蛇に似て4本足だといいます。

 

当ブログ制作にあたっての参考文献

NHK日めくり万葉集』~講談社
『NHK100分de名著ブックス万葉集』~佐佐木幸綱/NHK出版
大伴家持』~藤井一二/中公新書
『古代史で楽しむ万葉集』~中西進/KADOKAWA
『誤読された万葉集』~古橋信孝/新潮社
『新版 万葉集(一~四)』~伊藤博/KADOKAWA
田辺聖子の万葉散歩』~田辺聖子/中央公論新社
超訳 万葉集』~植田裕子/三交社
『日本の古典を読む 万葉集』~小島憲之/小学館
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』~小名木善行/徳間書店
『万葉秀歌』~斎藤茂吉/岩波書店
『万葉秀歌鑑賞』~山本憲吉/飯塚書店
万葉集講義』~上野誠/中央公論新社
万葉集と日本の夜明け』~半藤一利/PHP研究所
萬葉集に歴史を読む』~森浩一/筑摩書房
万葉集のこころ 日本語のこころ』~渡部昇一/ワック
万葉集の詩性』~中西進/KADOKAWA
万葉集評釈』~窪田空穂/東京堂出版
『万葉樵話』~多田一臣/筑摩書房
『万葉の旅人』~清原和義/学生社
『万葉ポピュリズムを斬る』~品田悦一/講談社
『私の万葉集(一~五)』~大岡信/講談社

恋の奴がつかみかかりて・・・巻第16-3816

訓読 >>>

家に有る櫃(ひつ)に鏁(かぎ)刺し収(おさ)めてし恋の奴(やつこ)がつかみかかりて

 

要旨 >>>

家にある櫃に鍵をかけ、しまい込んでいたはずの、あの面倒な恋の奴めがつかみかかって来て。

 

鑑賞 >>>

 穂積皇子(ほづみのみこ)の歌。左注に、宴会が盛り上がってきたときに、好んでこの歌を詠み、お定まりの座興となさった、とあります。一説によれば、穂積皇子は「つかみかかりて」と歌いながら、宴席に侍って酒を勧める女性に不意に抱きついて驚かせ、場の座興にしていたのだろうとも言われています。「櫃」は、蓋のついている木箱。「恋の奴」の「奴」は賤民身分の男の使用人のことで、ここでは自分を苦しめる「恋」を擬人化しています。当時かなり流行った言葉らしく、幾つかの歌にも用いられています。穂積皇子は、若いころの但馬皇女(たじまのひめみこ)との恋愛で有名な人ですが、不幸にみちた愛への懊悩からか、その後の皇子は恋をすることはなかったといいます。初老のころに若い坂上郎女をめとりますが、寵愛こそすれ、恋はしなかったのかもしれません。

 この歌を宴会で必ずうたっていたということは、自作の歌ではなく、当時流行っていた歌だったのかもしれません。

 

海原の道に乗りてや・・・巻第11-2367

訓読 >>>

海原(うなはら)の道に乗りてや我(あ)が恋ひ居(を)らむ 大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに

 

要旨 >>>

大海原の船路に乗って行方を託すように、私は苦しんでいなければならないのか。大船に乗ってゆったり構えているだろうあの子のせいで。

 

鑑賞 >>>

 『古歌集』から採ったとある旋頭歌(5・7・7・5・7・7)。「海原の道」は、海上には船を自然に目的地に運んでくれる道(潮流)があると考えられており、それによる表現。また、恋の状態を「道に乗る」と表現しています。「大船の」は「ゆたに」の枕詞。「ゆたに」はゆったりとして。

 

駅路に引き舟渡し直乗りに・・・巻第11-2748~2749

訓読 >>>

2748
大船(おほぶね)に葦荷(あしに)刈り積みしみみにも妹(いも)は心に乗りにけるかも

2749
駅路(はゆまぢ)に引き舟渡し直(ただ)乗りに妹(いも)は心に乗りにけるかも

 

要旨 >>>

〈2748〉大船に刈り取った葦をどっさり積んだように、あなたは私の心にどっしりと乗りかかってしまったよ。

〈2749〉宿駅の渡し場から舟を引いて一直線に向こう岸に渡るように、彼女はまっしぐらに私の心に乗りかかってしまった。

 

鑑賞 >>>

 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2748の上2句は「しみみに」を導く序詞。「しみみに」は密集しているさま。2749の上2句は「直乗り」を導く序詞。「駅路」は駅馬が通行する街道。ここでは水駅(すいえき)を指し、川や湖の渡し場などに水駅を設け、駅馬に代えて舟を配置していました。「引き舟渡し」とあるように、舟に綱をつけて、対岸から引き寄せました。2748も2749も、相手のことが心に乗り移って離れない、心を占めることを「心に乗る」と表現しています。

 

君に恋ひ萎えうらぶれ・・・巻第10-2298

訓読 >>>

君に恋ひ萎(しな)えうらぶれ我(あ)が居(を)れば秋風吹きて月かたぶきぬ

 

要旨 >>>

あなたに恋い焦がれ、打ちしおれてしょんぼりしている間に、秋風が吹き、いつの間にか月が西空に傾いてしまいました。

 

鑑賞 >>>

 「月に寄せる」歌。「萎えうらぶれ」の「萎え」は萎(しお)れ、「うらぶれ」は物思いにしおれる意で、同じような意味の語を重ねたもの。男の通いは、月が出ている夜でなければならず、しかも夜が更けてからの通いは禁忌とされました。ここでは「月かたぶきぬ」とあるので、もはや男の訪れは期待できない状況を言っています。

 

防人の歌(26)・・・巻第20-4352

訓読 >>>

道の辺(へ)の茨(うまら)の末(うれ)に延(は)ほ豆のからまる君をはがれか行かむ

 

要旨 >>>

道ばたのいばらの先に豆のつるが絡みつくように、私に絡みついて離れない君を残して、別れて行かなければならないのか。

 

鑑賞 >>>

 上総国の防人の歌。上3句は「からまる」を導く序詞。「延ほ豆の」の「はほ」は「はふ」の方言。「君」は女が男に呼びかける語ですが、ここでは逆になっています。「はがる」は、離れる、別れる。

 窪田空穂はこの歌について、「防人として発足した男を見送りして来た妻が、男がいざ別れようとすると、女は悲しみが極まり、すがりついて離れずにいるので、男は、こうした妻と別れて行くのだろうかと、嘆いて詠んだのである。序は眼前を捉えたものであるが、その時の状態と気分とをきわめて適切にあらわすものとなって、男の当惑と歎息とをさながらに見せるものとなっている。魅力ある歌である」と述べています。

 

布勢の海の沖つ白波・・・巻第17-3991~3992

訓読 >>>

3991
もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の 思ふどち 心(こころ)遣(や)らむと 馬(うま)並(な)めて うちくちぶりの 白波の 荒磯(ありそ)に寄する 渋谿(しぶたに)の 崎(さき)た廻(もとほ)り 松田江(まつだえ)の 長浜(ながはま)過ぎて 宇奈比川(うなひがは) 清き瀬ごとに 鵜川(うかは)立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽(あ)かにと 布勢(ふせ)海に 船浮け据(す)ゑて 沖辺(おきへ)漕(こ)ぎ 辺(へ)に漕ぎ見れば 渚(なぎさ)には あぢ群(むら)騒(さわ)き 島廻(しまみ)には 木末(こぬれ)花咲き ここばくも 見(み)のさやけきか 玉くしげ 二上山(ふたがみやま)に 延(は)ふ蔦(つた)の 行きは別れず あり通(がよ)ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

3992
布勢(ふせ)の海の沖つ白波あり通(がよ)ひいや年のはに見つつ偲(しの)はむ

 

要旨 >>>

〈3991〉多くの官人たちが、仲間同志で気晴らしにと、馬を並べて、うちくちぶりの、白波が荒磯に打ち寄せる渋谿の崎をぐりと廻り、松田江の長い浜を通り過ぎて、宇奈比川の清らかな瀬ごとに鵜飼が行われており、こんなふうにあちこち見て回ったけれど、それでもまだ物足りないと、布勢の海に舟を浮かべ、沖に出たり、岸辺に近寄ったりして見渡すと、波打ち際にはアジガモの群れが騒ぎ立て、島陰には木々の梢いっぱいに花が咲いていて、ここの風景はこんなにも爽やかだったのか。二上山に生え延びる蔦のように、一同が別れることなく、来る年も来る年も、気心の合った仲間同士、こうやって遊びたいものよ、いま眼前にして愛でているように。

〈3992〉布勢の海の沖に立つ白波がやまないように、ずっと通い続けて、来る年も来る年もこの眺めを愛でよう。

 

鑑賞 >>>

 天平19年4月、大伴家持が、布勢(ふせ)の水海(みずうみ)に遊覧した時の歌。「布勢の水海」は、富山県氷見市の南方にあった湖。「もののふ」は、朝廷に仕える文武百官で、「八十伴の男」の枕詞。「八十伴の男」は、多くの役人。ここでは越中国府の役人。「思ふどち」は、親しい仲間同士。「心遣る」は、気を晴らす。「うちくちぶりの」は、語義未詳。「渋谿の崎」は、高岡市渋谷。「た廻り」は、行ったり来たりする。「松田江の長浜」は、高岡市から氷見市にかけての海岸の砂浜。「宇奈比川」は、氷見市北方を流れる宇波川。「鵜川立つ」は、鵜飼をする。「そこも飽かにと」は、それでもまだ十分でないと。「木末」は、梢、枝先。「ここばく」は、たいそう。「二上山」は、高岡市北部の山。「年のはに」は、毎年。