満足に生きたい

毎日を満足に生きたいが、実際はウジウジな毎日

医療脱毛記 0日目

脇の医療脱毛をすることにした経緯と体験の記録。

 

【経緯】

短〜くまとめると、タンクトップを着用した好きなアイドルがとても美しくみえて、私もああなりたいという極めて浅はかな理由…

もともとは「なぜ脇毛があったら汚く見えるのか?」猛烈なマーケティング施策のせいだし、自然に生えてくるならその自然さを尊重しようや!マインドを持っていました。(脇毛のない人がいるから、脇毛ある/なしによる美/美じゃないという価値観が生まれてしまうので、みんな脇毛なくすな〜と念じていた)

なので、色々思っていたくせに結局世の波にスイスイのっていってしまったわけです。意思薄弱。

でも、実際脱毛をはじめてみると、タンクトップで外にでれる解放感が最高で、やってよかったなと思います。

 

【医療脱毛0日目】

医療脱毛まとめサイトを巡回して、テスト操射のできるクリニックでカウンセリングを予約してみました。少し良くない評判を読んだので、無料のテストだけして、他のクリニックも見にいけばいいかなあとこの時は思っていた

実際クリニックにいってみると、口コミであったスタッフの態度があんまりよくないみたいなことは全くなくて、私の迷走神経反射が心配みたいな厄介な相談にも親身にのってくださった😌(Googleのレビューでスタッフ態度が〜とある場合大体違う印象を自分は持つのでレビューを書く人はどんなサービスを期待しているんだろうといつも思う)

流れとしては簡単に説明を聞いて、医師との面談、腕へのテスト操射、契約という形でした。

特にこの医師の面談で、医師の腕に毛が結構びっちり生えていたのがちょっとおもろかった。話全く入ってこず、どうしてですか!と聞きたくなる

契約の時は、契約する前提で話が進んだので、ちょっと考えますということをいう隙はいっっさいなかった…笑 あまりにも鮮やか。ただ押し売りみたいなのはなくて良かったんだけど、LINEでみていたキャンペーンだけ自分で言わないと適応されないみたいで、言ったら別料金のシートが出てきたのも面白かった。あと人生でクーリングオフの説明を懇切丁寧に受けたのも初で、本当にあるのね…!とちょっと感動。

という感じでさくさくっと医療脱毛の契約をしてしまったのでした。

さらば脇の毛たちよ、来世では誰も脇毛のことなんか気にしない世の中を共につくろうぞ。

2022年9月25日の戯言

 

3連休+3連休を経て、考えることや本、映画をみるなどの能動的な情報の受け取りをする余裕が自分の中で生まれて、ほっとしている。

 

自分よりもたくさんの時間と自らを削った労働をしている人がたくさんいる中で自分はまだましな方だとは思うけれど、日々の労働の中で「自分が消耗される」感覚があり、そうなると本を読むことも集中できず、自分がもともと興味のあったことーフェミニズムだったり、この世の中にある痛み、自らの踏みにじり行為ーに気をむかすことのできずにいた。

 

なので、この3連休で少し労働を頭から追い出して、友人とあったり、手につけることのできていなかった本を読んだり、映画をみたり、そういうことができて、すっきりとした気持ちでいる。

 

って思ったけど、文章を書くまではまだまだみたい。。。

今日はお墓参りにいって、すごくシニカルにこれは家父長制の象徴と思いながらも、それぞれの墓碑の前で手を合わせ、線香をたく方々をみて、なんとも言えない気持ちになる。同時に祖母が、「早く迎えにきてほしい」だなんていうので、本当に何も言えなかった。

黒くつらなる墓碑たちの中で、仏花だけが異様な明るさを放っていて、その切られた花に蜜蜂が集う。その先には、女王蜂による「女系」社会があるわけで。

その反比例な社会が滑稽な感じがして、なんだか言葉にしたいことはあるんだけど、できない。

畳みたいパジャマ

先日、ブログに投稿したように、最近、星座満点柄の少しお高めのパジャマを買った。(ちまたでお布団や人に惚れている人を虜にしているジェ◯〜トピケティさんのものだ)

そのパジャマ氏が本日、我が家にやってきたわけなんだけれど、まず触ってあらびっくり。生地がすべすべで、静電気がぱちぱちしていることも尊く感じる。

パジャマを着て、家にいるだけでなんだかホテルのスイートルームに滞在しているような気持ちと趣がでてくるのである。

そして、脱いだときになんと、自然にパジャマを畳んでいたのである。自然に畳みたくなるパジャマ。いつもはくちゃくちゃで布団に脱皮の残骸のようにおいていかれているパジャマなのに。恐るべし、ジェ◯〜トピケティさん。

 

2022年 最初に購入したものたち

 

普段は洋服や雑貨など少し生活の中で優先度の低いものを買うのが苦手である。お店をみたりしても、「買いたい」「欲しい」というイ母音で終わる欲求はでてこないし、お店をぐるぐるして、たくさんのものや選択肢があること、それを買うお金があれば何ができるのか、それは本当に必要なのか(大体はなくても生活できてしまうから)ということを考えて、とにかく疲れてしまう。なので、あまりお買い物はしないほうだ。

でも、お正月だけはその感覚が薄れる。周囲がものをどんどん売る体勢になって、無でものを買うことができるような空気になっていることもあると思うが、新しい年ということが私には大きいみたいだ。自分が欲しいものを明確にして、お店に乗り込み、自分をしゃんとしてくれる洋服や部屋をきらきらさせてくれる雑貨たちを迎えて家に帰る。やっぱり少し疲れるのはあるけれど、喜びのために買い物ができてハッピーになる。

今年は、スカート1枚とワンピース1枚、下着上下を2セットと星を購入した。

・IamI in fact...のLoversプリントスカート

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洋服を購入する際の基準がいくつかあって、その中の一つが「自分が大事と思う思想や考えを表明できるものであるか」ということ。このスカートは見た瞬間に、シスターフッド!と思い、そして制作の意図も社会のいろいろな人の関わりの形を示すということがあったようだったから、私が購入したいなと思った。あと、このスカートをはいて、いろんな女女な本を読みたいなと思った。

・Kastane カットベロアキャミワンピース

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Kastaneであった瞬間、きゅんとなった服。以前、母親の似たようなワンピースをきていったら、人に褒めていただいて、自分でもほしいなと思った。ストンとしたシルエットはもちろんかわいくて、同時にエプロンのような動きやすさを持っているのが好きだなと思った。ビビットカラーやしましま模様、いろんなインナーを合わせて、私のワーキング服にしたい。

UNIQLO×mame kurogouchi 下着上下セットアップ

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ウイグル自治区の問題以来、UNIQLOはあまりかわないようにしてきた。自分がそこに加担してしまうことに少し疑問があったし、「安い」が意味することに思考を停止してしまっていたくないから(でも同時にある地域では雇用先を生んでいる側でもあるわけなので難しい問題だなと思う)
今回は、新しい下着がほしいなと思っていて、かつあまり胸を強調しない、リラックスできるものがほしいと思っていた。ワイヤーの入った下着は窮屈だし、必要以上のパッドの入った下着もなんだか自分の身体ではないように感じられて、嫌悪感がある。そのときであったのが、UNIQLOmameのこの下着。さわり心地がとてもよくて、かつ自分の体に馴染むようなデザイン。下着は毎日着るものなので、自分の身体にあうものがよい。

・Dua 星飾り

Duaというリボンやボタンを売っているお店で、大きな星の飾りを購入した。枕元に飾っているのだけれど、布団にはいるのが少しワクワクする。

 

他にも靴下を新調したり、格の上がるだるまを飾ったりした。今回購入したものたちと、日々を一緒に過ごすのがとても楽しみ。終わり。

2021年8月30日の記録

 

記録は続かない。わかっていたけど、やはり続かなかった。

それもそれで自分らしいということで、自分らしさを大事にするくせに実際は蹂躙してくる現代社会の言葉にあやかろう。

 

明日が、配属発表ということで、どうにも心が落ち着かない。
せっかくの休みなのに、気持ちが宙ぶらりんで、何をしても微妙に合わない500パズルのピースのような感じだ。解像度が高まらない。

 

悩んでもしょうがないし、もう決定していることだし、すべて選択した・提出した自分のせいだし、適当に就職活動をした自分の責任だから、しょうがない。
だけど、明日発表を読んで、頭から血の気が引いて、指先が冷たくなって、笑おうとしてもうまく笑えなくて、涙がでてきて、家族に八つ当たりするところまでは結構はっきりわかっている。そんな選択をした自分、そしてそれを正当化しようとする自分、ばかだなあ。
それでも、いいことがあるかもと6%くらいの期待と妄想を抱いている自分、さらにばかだなあ。

 

最近読んだ、レベッカ・ソルニット「説教したがる男たち」の中で、ウルフの闇について書かれた章で「きぼうは暗闇であること、何が起こるかわからないということだ」みたいな文章があって、たしかにそうだなと思った。きぼうは金ぴかに明るいとかではなくて、期待を少しでももてること、その可能性をさすのかもしれないと思った。

 

8月は不本意な形ではじまった研修だったけど、結果的にたくさんの良い人に出会えて、体を動かして労働することの気持ちよさも体感して、少し自分が目指す世界線に近づけるような仕事もできて、結果的にハッピー、自己肯定感は上昇。

明日から不本意の渦巻に絡め取られても、渦巻にいることに驚いて、巻かれて、息をして、そこで巻かれることに自分なりに対応できたらいいなと思う、そういう希望がある。

 

8月の研修を伴にした人が、一緒に遊んだ次の日に、私に似合うからとハンカチをくれた。優しい、とても。ありがたさが、怖い。けど、嬉しい。「あなたのことはつかみきれない」と言われたことがあるけれど、掴みきれないままで、お互いに近づくことができたらいいな。

 

くどうれいんさんの「うたうおばけ」(とても好きだった、言葉を反芻した)のあとがきで、「あたなの身の回りでも、知らないうちに不思議なことや隠れた幸せが起きているかもしれないです」というようなことが書かれていて、それを大切にしたい自分と大切にできない自分の葛藤を感じた。穏やかな百鬼夜行と一緒に歩み続ける人生がいい。

 

2021年8月17日の記録

毎日の些細な幸せも、ひっかかりも、なんてことのないことも、ちょっとずつこぼれ落ちていくのが怖いので、これから記録をつけることにしようと思う。

 

 

マルジナリア書店よはく舎

 Twitterで見かけて、いつか訪れたいと思っていた分倍河原のマルジナリア書店に行った。

上間陽子さんの「海をあげる」の企画として、筑摩書房が青い糸を募集していて、それを知ったのがマルジナリア書店のツイートだったので、そこで青い糸を預けたいなと思って、25日までということで、訪れた。

筑摩書房 海をあげる 上間 陽子 著

 

駅をでてすぐのところにあって、少しギィ〜と音のする、エレベーターをあがると書店はあった。書店はカフェと併設されていて、ピロシキのプレートをいただいたのだけれど、このポテトサラダがくせになる美味しさでぺろりと平らげてしまう。

 

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コースターの#StandWithMyanmerの文字

 

「青い糸をもってきました」と渡すと、店主さんは少しはっと驚いて「嬉しいです」とメモを渡してくれて、そこに名前とメールアドレスを記述して、お店のはんこを押していただいた。

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上間さんの文を初めて読んだのは、学部3年生の授業で沖縄のセックスワーカーの女性たちのフィールドワークをされていた論文だったと思う。貧困と家族と沖縄と、何より彼女たち一人ひとりの生き方を消費するのではなく、論文として記述されていて、もっと読みたいと「裸足で逃げる」を図書館に駆け込んで、じっと読み切った。彼女たちを追い込んでいる社会への怒りと、でも自分とその無知がそこに加担している可能性と上間さんの綴方、関わり方を一気に受け止めて、しばらく放心しながらもただ、この文が好きで終わらせてはいけないということだけはわかっていた夏だった。「海をあげる」も読んで、淡々とした中に、痛みとある種の救いがあって大切な本の一つだ。

 

遠くのことでも、いつでも海はつながっていて、沖縄のことでも、アフガニスタンのことでも、自分がこの地球に生き続ける限り、自分の世界の延長線上に常にあると思っている。だから、知らんぷりはできないし、忘れることもしたくない。

 

マルジナリア書店では、黒鳥社の「Next Generation Government」を購入した。
政治に苛ついても、自分の今の仕事がどう変化に関わることができるのか、まだ見えていないので、なにか手がかりになればいいと思って、手にする。

blkswn.tokyo

 

やがて満ちてくる光の

梨木香歩さんのエッセイ集、「やがて満ちてくる光の」を読み終えた。

少し飛び飛びの内容で、読んでいてしんどいところやあまり細かい風景描写が得意ではないので、飛ばして読んでしまう部分もあったのだけれど、梨木さんのエッセイ、とても好きだと再確認した。

2回も電車を降り忘れたほど(あまりにも集中していて)、本で流れる時間にどんどん引き込まれる感覚がたまらない。

とにかく静謐で、内面に深々と向き合いながらも、外部で感じた大きなつながり、精神性を日常の生活の記述を通じて綴られている点が好きなのだと思う。生活が梨木さんの言葉や目線からはずいぶん違うように感じられる。

特に好きだったのは、「本には過去の自分が閉じ込められている」という記述や「本を通じて自分の地図作りがされた」というところ。あとは宗教学者のMさんとの日々の対話や風力発電とそこで死ぬ鳥たちについて知ろうとする記録。

 

 

 明日に向けて

明日は久しぶりの出社で、早起きができるか心配で、どきどきする。

それに、なんだかたくさんことが自分のいない間に起きていて、うまくやらなきゃという気持ちが起きてしまい、しんどい。

自分に期待しすぎず、自分を大きく見せようとせず、本にあったように、目の前の仕事に取り組んで行こう。

 

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ひともやりたいけど、やれないこともあるんだよ。

「舌を抜かれる女たち」を読んで、今と照らして

 

近所の図書館でたまたま見つけて、メアリー・ビアードの「舌を抜かれる女たち」(Mary Beard "WOMEN&POWER")を読んだ。

 

内容としては、古代ギリシャやローマの時代から面々と続く、女性の声を封じる、権力につかせない、そのことに「文化」が果たしている側面を指摘しているもの。読んでいて(単純な時間の経過=先進性という図式をつくることはできないけど)、ホメロスの「オデュッセイア」の時代から現代まで、女性の声が巧みに、今も封じられていることに絶望感と、そこに文化が果たす役割という点で腑に落ちる内容でもあった。

 

もちろん、絶望する気持ちもすごいのだけれど、筆者が講演形式で語るように綴られている体裁や筆者の勇気づけられる行動や言葉に力をもらう部分もあった。

特に、第二部の女性が権力をもつために必要なことを語る場面で、男性性を維持した形での権威の獲得やエリート女性にのみ権威が分配されるような構造ではない、オルタナティブな権威のあり方を定義しているところが好きだった。

 

女性が権力構造に完全に入り込めないなら、女性ではなく、権力の方を定義し直すべきなのです。(P87) 

 

つまり、権力をもっと別のものと考えるのです。〜リーダーだけのものではなく、フォロワーたちが団結すればそこにもパワーは生まれると想定する。そして何より、パワーは所有物ではなく、そこに備わる属性であり、動詞(「パワーする」)でさえあると考える。(P90-91) 

 

権力は、誰かのものではなく、ひとりひとりの集まった力である、と。

筆者が、フェミニストであると揶揄されるとわかっていたインタビューに、青いタイツ「青踏」を履いていったという話も、少し悲しくて、でも力をもらえるユーモアのある戦いだった。

 

この本を読んで、今、2021年8月7日に目を移すと、筆者の言っていたことがそのままありありと映し出されていることに気づく。

女性スポーツ選手に対して、「男性化」する動きや男性ホルモン「テストステロン」値が高い選手の出場を不可・無効にする動き。

先日の電車内でのフェミサイドによる切りつけ。

 

私が過剰に反応し過ぎなのだろうか?と考えて、少し発言や怒りを抑えようとしてしまうのだけれど、こういう延長線上に、「女の子は危ないから夜は一人で歩かないように」「(少し頭が良かったり物理的に強いと)男みたい」と言われる、そういう日々の痛みがあるように思う。

 

だから、もう黙らないようにしたい、せめて、怒りを覚えたことには怒りを表明したい。