浅い飲酒者と深い飲酒者
吉岡里帆主演のドラマを見た。
アルコール依存症をテーマにした話だった。
カンテレドーガ|関西テレビの人気番組が見られる動画配信サービス
とてもおもしろかったけれど、気になったのは
やはりというか、当たり前にというか、それが常識だからといえば
それまでだけども、酒に対する認識である。
ドラマの中で、アルコールを制御できず、生活保護の金で大量に酒を飲む
アルコール依存症と診断される男と、
仕事終わりに飲み会をする吉岡里帆の同僚たちが、対称的に描かれる。
こうして楽しくお酒を飲む分にはいいけど、
ああいう飲み方をするのはよくない、とでも言いたげである。
まさにアルコール依存者と普通の飲酒者の図だ。
それをあえて図に表すとこうなる。
これが世間の考えるところのアルコール依存者と普通の飲酒者の図式である。
あなたはラインを超えたから、一般の人は違い、お酒を断ち、
忍耐の生活に入りなさいというわけだ。
これではお酒をやめるのは難しい。
なぜなら、普通にお酒を楽しめる人を横目に見ながら、
基本的にお酒は楽しいものと思いながら我慢しなければならないからである。
それに加え、その疎外感、孤独感は
「私にはやっぱりお酒しか頼れるものはないんだ。」
という感情も誘発する。
「私はアルコール依存症だ。だからお酒を飲むしかないんだ。」
とアルコール依存者のラインが、お酒を飲む言い訳にもなり、
さらにそのラインに頼ってしまうことにもなる。
では、普通の飲酒者のほうはどうかというと、
ほとんどの飲酒者がそうであるように(自分ももちろんそう思っていた)
自分はラインを超えないと思っている。
ラインを超える人間は特別な人間だと思っている。
「私は普通の飲酒者だから大丈夫。楽しいお酒だからね。アルコール依存症の人とは違うよ。」
と、普通の飲酒者もまた、ラインそのものがお酒を飲むための言い訳になっているのである。
そこでアルコールをラインではなく、このように考えてみてはどうだろうか。
これは「禁酒セラピー」の食虫植物の話を、自分なりにわかりやすく図にしたものである。
アルコールは依存性の強い、身体に甚大な害のある毒であり、
ラインのこっちにいるから楽しい飲み物で、
ラインのあっちにいってしまったから害のある飲み物というわけではない。
図にあるように、その毒の量と、摂取する期間に比例して
その害が深く体を蝕んでいくものである。
そして浅いから良いというわけではなく、
毎日の少量飲酒習慣が、多くの病の原因になっている。
坂の図を頭に入れた状態で、断酒に踏み切ると
浅い飲酒者をうらやましいと思わなくなる。
なぜなら、自分が深い飲酒者になったのと
同じ坂を転がり落ちる、とても危うい人間だと認識するからだ。
そして、飲酒には一切のメリットはなく、
「アルコール依存者へのライン」の間違った認識からつくられた
世間の常識によって、
ただの毒を飲まされていたのだと気付くのである。
これからは、普通の飲酒者とアルコール依存者ではなく、
浅い飲酒者と深い飲酒者というべきだ。
浅かろうが、深かろうが毒にやられているのは同じなのだから。
「アルコール依存症」という言葉の隙間
お酒をやめる断酒ブログを読んでいると、
そのブログ主は元アルコール依存症だったという人が多い。
で、よくでてくるフレーズにこんなことが書いてある。
「自分がアルコール依存症だと強く認識して、一杯でも飲むと台無しになることを自覚することが大事である」。
たしかに大事なことにちがいないが、
ここにある裏のメッセージに気付くだろうか?
元アルコール依存症だろうが、そうじゃなかろうが、一杯飲むと飲酒生活に速攻で戻るのである。
なぜならアルコールは麻薬だから。
ここにある裏のメッセージとはこうだ。
元アルコール依存症だから飲んではいけない。
↓
自分と違い少し飲んでも大丈夫な人はいる。
↓
お酒は一般的には楽しいものでメリットもある。
↓
そんないいところもあるものを楽しめない自分はどこか損をしているのかもしれない。
↓
再飲酒!
といった具合になるのは必然の流れではないだろうか。
たしかにアルコール依存症という病気は存在するだろう。苦しんでいる人も多い。
しかし、そんな自分だから一杯飲んじゃいけない、お酒を受け付けない身体に自分はなってしまったんだ。。
こう思うのは間違っている。
アルコールをなんら身体に負担なく受け付けることのできる人間など存在しないのだ。
アルコール依存症になったから、お酒を受け付けなくなったのではなく、はなから受け付けてなんていなかったのである。
「アルコール依存症だから飲んではいけない」という曖昧な認識では、たまたま長いこと断酒がうまくいっている人がいたとしても、その曖昧な言葉にのせられて、再び酒をあおる人がでてもおかしくない。
では曖昧でない言葉とはなにか。
「アルコールは強い毒性のある依存性薬物」
ここには、一杯飲める人がどうのこうのといった曖昧な言葉が入り込む隙間は一切ない。
アイドル?の報道について思うこと
アイドルグループのメンバーの報道が話題になっております。
簡単にいうと、
酒でやらかした
ということになるのでしょうが、ワイドショーなどでは
しきりにコメンテーターなんかが
「お酒は悪くない」「お酒が全て悪いというのはおかしい」
と仰っているようです。
私が思うのは、
そもそも、お酒が悪いのか、はたまた良いのかの議論がなされていない
というところが問題だと思うのです。
「お酒が全て悪いというのはおかしい」のではなくて
マスコミに、
お酒が悪いという声すら上がっていない
ことが問題だと思うんですよね。
善悪というのは小難しい問題ですから、
(人類が地球にとって悪であるみたいも話もあるし)
少なくとも身体には悪い、であるとか
酒による事故や人災が多過ぎるから規制しようぜ、であるとか
そういう議論みたいなことを、
この有名人の報道をいい機会にしてすればいいのではないかと。
でも、こういいつつ途方に暮れる気分に襲われるのは
酒造メーカーがマスコミの大スポンサーであるという事実。
なので議論を期待する前に、ネットで調べて
個人でどんどんやめていくほうが早いのかもしれません。
「普通に飲む」という嘘
酒をやめられるかどうかは、
「酒は普通に飲んでいる分には嗜好品だから良いが、アルコール依存者にとっては毒である。だからやめなければならない」
という考えを否定できるかどうかにある。
いってみれば、この言葉は世間の常識であり、アルコールを断とうと勉強した人でさえとりつかれている考えである。
しかし、上の言葉の酒の部分をコカインに変えてみたらどうだろうか。
「コカインは普通に吸引している分には嗜好品だから良いが、麻薬依存者にとっては毒である。だからやめなければならない」
こんなことを言う人がいたら、麻薬の常習を疑うだろうし、
普通に吸引ってなに?と思うに違いない。
それがアルコールの場合、
普通に飲んでいる、といってもおかしく聞こえないのは、
それが単に合法だからというだけなのだ。
そして、その「普通に飲む」という言葉を認めたとたん、酒を飲みたくなりはじめる。
なぜならそれは、アルコールにはメリットがあると認めることと同じだからだ。
アルコールにはメリットなどひとつもないのである。
メリットがひとつもないことがわかれば、飲みたいという欲求も消え失せる。
すると「普通に飲む」人をうらやむどころか、かわいそうにとさえ思うようになる。
彼らは、過去の自分と同じように
アルコールによって利益を得ている全てにだまされているのだから。
「普通に飲む分にはいいが」という言葉に決してだまされてはいけない。
酒よ、ありがとう。そして、さようなら
昨晩は飲み会に行ってきた。
もちろん飲まない飲み会だ。
会いたい人からの誘いだったので行ったわけだけれど
アルコールなしで参加した初めての飲み会になったわけだった。
そして、なにより重要だったのは
酒なしでも飲み会は楽しめた。
アルコールがないと社交は楽しめないと思い込んでいただけだったのだ。
酒よ、ありがとう。という心境になったのは
今日会いたかった人を含めて
そこには酒というものがからんできたのは事実だからだ。
酒のなんらかの力をかりて、さらにいうなら
その力が大事だと思い込んで今までやってきたわけだった。
その力が幻想だとわかった今、
酒に対する憎悪というよりは、ある種、妙な感謝の気持ちがある。
そして、そこから卒業していく気持ち。
そうだ。この感じは今まで何度か味わってきた気持ち
卒業のときの心境にそっくりだ。
今まで必要だった(と思い込んでいた)ものから
旅立っていくような気持ち。
少し、ものがなしいようでもあるが
ハッキリと決意して、前を向いている感じ。
確かに酒には今までの思い出が含まれている。
だから、酒よ、ありがとう。
そして、もう自分には必要ではなくなった。
酒よ、さようなら。
酒はただの毒
酒をやめてしばらく経ちました。
やめたといっても、前回アルコールを否定した記事を書いてから
何度となくスリップ(再び飲酒すること)したものの、
ようやく断酒が落ち着いてきました。
タバコをやめるときにも
何度となく捨てたタバコをゴミ箱から取り出したり、
シケモクをあさったり、濡らして吸えなくしたタバコをちぎって
火がつくよう頑張ったりし、ついには禁煙に成功した経験から見ても、
スリップは必要な経験ともいえそうです。。
さて、今の酒に対する感覚としては
我慢してやめている、というのではなく
「もういらないから勘弁してくれ」
という心持ちになってきました。
これは何度も繰り返し読んだ
禁酒セラピーによるところが大きいのですが
断酒禁酒かいわいではあまりに有名な本ですが、
この本では酒、アルコールはハッキリ毒だと言い切っています。
しかし、この事実を曖昧に解釈したブログがいくつかありました。それはなぜでしょうか?
酒をやめるくらいですから、なんとなく身体に毒だとは認めつつも、
結局、
「自分はアルコール依存者であり、
普通の飲酒者は幸せ」
というところから抜け出せていないのです。
禁酒セラピーによれば、普通の飲酒者は
アルコールの毒にまだあまり犯されていないだけであり、アルコール依存者と同じ坂を転がりはじめている、といっています。
酒は毒と認めるということは
アルコール依存者と普通の飲酒者をわけないということです。
ただ毒を身体に入れている量や期間、体質などの程度の問題だけだということです。
また、自分はアルコール依存者だといえば
それが酒を飲む言い訳にもなってしまいます。
アルコール依存者だから仕方ない、というふうに。
この事実を思い知ったとき、
酒を飲みたいと思わなくなりました。
やめて1週間くらいはアルコール自体の依存性のためか、ちょっと一杯という気分になりましたが、それ以後は我慢している感覚はありません。
自分へのいましめの意味でも、このあたりは
ハッキリと認識しなければと思います。
私はこうして糖質制限をやめました。
めちゃくちゃ久しぶりに書きます。
ただ単純によくあるアレで
面倒になった。とか、もっといいように言えば
書く習慣が続かなくなったということだと思います。
そんな言い訳はどうでもいいのですが、
この間も「食」に対しての関心は続いていて、
いわゆる流行りの糖質制限をしておりました。
それ系の本は大体は読んだと思います。
とか、
などをはじめ、江部先生の本とかなど結構読みました。
さらには糖質制限の元祖といわれる釜池豊秋先生の本も読みました。
さらにはmec食なるものまで取り入れたりしました。
などですね。mec食というのは
meet,egg,cheeseの頭文字をとり
主に肉、卵、チーズを食べようという食事法です。
結論から先に言うと、これらはやめました。
いや、全否定ということではなくて理論というか、内容はとても納得のいくものだと思いますし、それらは今後も当然取り入れていくことと思います。
なんというのか、こういう「〇〇食」みたいなそういう考え自体をやめよう
って結論に今はなっています。
前も書いたような気がしますが、人それぞれ体質や、それまでの傾向、体の偏り具合も違いますからね。
確かに糖質制限は痩せます。まわりの人に半ば心配口調で、もう飽きたよってくらい
「痩せたね〜どうしたの?」って言われました。なので、それは自分にとっては
痩せるということに関してはあってるってことなのかもしれません。
しかしながら、まあこれが決定的な理由かもしれませんが、
糖質制限をしてからでしょうか、
肌が荒れてきたんですね、特に顔の。
あれ〜おかしいなと思って、さらに糖質制限を徹底してみたり、
抗酸化作用のあるものを多く取り入れてみたり。
で、あるとき炭水化物の摂取を戻してみたんですが、
そうすると肌の調子がどうもいいんです。
まぁ減らし過ぎたということなんでしょうか糖質を。
糖質制限をしていると、炭水化物は悪だ!いうならば毒だ!といわんばかりの勢いになります。いや、僕はなりました。寿司を食べるとき、ネタだけ食べてシャリを残すどこかのモデルの気持ちがわかるくらいに。。
なので今の課題は、
いかにして炭水化物をいい感じのふうにするか。。!
筋トレでいうところのカーボローディングってやつでしょうか。
でも、気をつけないとどうしても炭水化物は多くなってしまいます。
外食はほとんどが炭水化物だらけですからね。
現代食といわれるものが糖質過剰なのは間違いない事実ですしね。
また、炭水化物を取るということは必然的に油にも気をつけないといけません。
糖質をとっていなければ、油を多く取らなければいけませんが、
なんせ、糖質と油の組み合わせが一番太る!らしいですから。。
とりとめない文ですが、近況でございました。