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だらだらと色々書いていこうと。ブログです

心象風景

今週のお題「好きな街」
いつも思い浮かぶ心象風景は、「新世紀エヴァンゲリオン」の第三新東京市のような数々の屹立するビルの群れを山や湖や森などの自然が囲む人口物と自然との調和された景色。
 街に入ると電柱が規則正しく建ち、目で送電線を追っていくと遠くに大きな鉄塔が見える。道路はアスファルトで舗装され、所々に煙草の吸いがら、鳥のフンの残り滓があり、枯葉が風に舞う。
 住宅は木造の古い建物と新築の現代風にデザインされた建物と高層マンションが道路にそって―学校で子供が整列するように高さや間隔などがちぐはぐではある―並んでいる。
 大きなショッピングモールが駅の近くにあり、施設には様々なテナントがある。外には遊具が並ぶ小さなスペースや車が展示されたいたり、偶に来るアーティストのコンサートスペースもある。内部は中抜きになっており、より建物が広く感じられるようになっている。様々な飲食店があり、匂いも場所によって、アイスや生クリームの甘い匂いやソースの匂いなどに蔽われている。
 街の中央には川が流れており、郊外のほうに向かっていくと大きな橋があり、橋の上に行くと、自然の中に囲まれたビルの群れと遠くにそびえる山々がそびえている。
 空想の私はその景色を缶コーヒーを飲みながら、コンクリートの橋の側面によりかかりながら、たそがれている。沈んでいく夕日でオレンジ色に暗さが混じる。風の音と揺れる木々の音と川の流れる音に囲まれて。

会津磐梯山

お題「登りたい山」
 僕が登りたい山は、会津磐梯山だ。中学二年生の時に学校行事で三泊四日で福島に行った時に磐梯山に登った。当時の僕は強制参加の学校行事にうんざりしていて、やる気もなくくだらなく感じていた。
 クラスにもなじめていなかった僕には、クラスメイトと寝食を共に過ごすことがとても苦痛で、はやく終われ、はやく終われ、と心の中で何度も念じていた。
 最終日にメインイベントで磐梯山に登ることになった。登山前はやはり気持ちがのならないで、心がクサクサしていた。そして、その気持ちのまま登山に出発することになる。
 僕は当時から体が弱く、登山はとてもしんどいものだった。どんどんクラスメイトに距離を離されていく。疲れで意識がぼんやりもしてきた。そんな僕を先生が心配し、励ましてくれた。その先生は中一の時の担任の先生で、クラスの皆から好かれる明るく厳しい中にも優しさもつ人だった。先生は焦らないでいいから、自分ペースで登れと言い、体力回復の為に飴をくれたりした。
 少し心の余裕を戻していった僕は、周りの景色を見るようになり、登山をしていく中で根っこが隆起して外に出ている大きな樹を見たり、ちいさな黄色い花の群生を見たり、土の匂いを嗅いだりしながら、進む。
 ただ黙って進んで行くと段々、頂上に近づき、景色も広がっていった。そして、力を振り絞り、山頂に到着した。
 その時の感動は現在も覚えている。まずは達成感だ。そして、頂上の景色―空がいつも見ているよりも青く、雲が自分の下にある―に感動した。
 現在の僕はあの時の感情を再び味わいたい。たた他の山ではなく、磐梯山に登りたいのだ。
 そのためには自分の健康状態を良くし、病を克服しなければならない。こっちの登山はまさに人生を賭けたものになる。成功するかもしれないし、失敗すかもしれない。
 ただ、今は希望を持って生きていくしかない。磐梯山に登るために。

3月9日 近況

久しぶりの更新です。

 この時期は寒暖の差が激しいので体調は、良かったり悪かったりしています。でも、春になれば気候も温かくなり、体調も落ち着くでしょう。

■近況報告とやろうとしていること
 最近は、ポードレールや中原中也の詩を読んでおり、詩を読むなんて今まで思っても見なかったことで自分でも驚いていますが、実際読んでみると、なんかその気持ち解る!という思いを抱くことが多く、また、新たに気付きもあります。そして、ドゥルーズの著作も少しづつ読んでいます。 まだ解らないことが沢山あるけれども、彼のある文章を読んで、彼自身に対して好意と興味が湧き、ただ彼の本を読みたいという気持ちが強く漲っています。最後に、何故か、僕にはどうしても映像を見るのがしんどい時期があり、その時期にはテレビをリモコンで点けるのもしんどいのですが、それも去年あたりから回復してきており、これからはアニメや映画もより多く観ていくつもりでいます。
 
 このブログでは、伊藤計劃佐藤友哉について長い文章を書きたいと思っています。時期は解りません。彼らの書いた小説の中の一つの作品を挙げ、その作品の登場人物にスポットを当て、さまざまな角度からその登場人物に転移し、多角的分析をしながら、その中に新しい何かを見出す。そのような内容を考えています。また、その他にも、観たものにたいしての感想などもかいていきたい次第です。
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 春も近付いているとは言え、まだ寒い日もありますので皆様。ご自愛のほどを。
 

楽しむということ

 楽しむ。それは自分のなかに起こる言葉にできない感覚や感情の想起。
 言葉にできないのは、様々な喜びや快感などが複雑にからまりあって、大きなうねりを起こしやって来るから。大きなうねりのなかにいるあいだは、時間を忘れてしまう。気づいたときには、心地よい疲れと気分の高揚感が残り、自分は楽しんでいたのだと後で気づく。そして、心の内に新たなエネルギーが湧き漲っていく。

 楽しむ。それ自体の方法―やり方は人間それぞれで違う。例えば、ゲームをしたり、漫画を読んだり、友達とスポーツをしたり、酒を飲んだり等、様々だ。

 人それぞれが様々な方法で楽しんでいるので、時に理解できないことを楽しんでいる人がいることがある。それを観て、理解できないゆえに、またはモラル的に馬鹿らしいという理由で、否定してしまうことがある。否定することは否定しない。言い換えると、頭の中で「馬鹿だな。」と思ってしまうのはしょうがない。でも、思ったことを言葉にして、外に出すことはしてはいけない。それは、他者が楽しむことから得る良い何かのエネルギーを奪うことでもあるからだ。
 
 逆に、他者の楽しむことを観て、何を どんな時に、どのように楽しんでいるかを考えることで、自分のなかに新しい楽しむことを発見できるかもしれない可能性に賭けてみるのはどうだろうか。楽しむということは連鎖する。その連鎖が新たな楽しみを生む。

 

 
 
   
 

スッキリした

 前回の記事を自分で読んでみて、書いている内容がどんどん逸れて、何を伝えたいのか解らない文章の塊だと思いました。ただ、これが現在の僕の文章を書く技術の限界だと受け入れています。

 あえて、前回の記事を書いたのは、自分自身の文章にたいするコンプレックスを晒すために、その瞬間に浮かんだ考えをただ書きました。そこには装飾していない自分の裸のままの文章が書いてあります。 

 裸のままの文章を晒したことで、今はなんだかすっきりしていましす。これからはその裸の文章自体を鍛えなおす。使っていなかった言葉のさびを落としたいと思っています。

 なんで、そこまで文章や言葉についてこだわるのかというと、僕は口べたで、相手と話しても単語が出てこなかったり、うまく伝わらくて悔しい思いをよくします。自分のいいたいことを伝えたいという思いが強い。この強い気持ちが言葉についてのこだわりに繋がっているのかもしません。

 このブログの今の状態は、僕の自己満足的なものにすぎません。これからもしばらくこのような状態が、続くかもしれません。いつか、もう少し視点を自己内からひらけたブログにしたいです。そんな希望を抱きながら今回はここまでにしたいと思います。

では。

書くこと

昨日に続けての更新です。

 

 この記事は、途中で意味が不明になるかもしれません。なぜなら、読者(他者)を意識しないで書くからです。文章を書くのだったら、読者に理解してもらう様に書くのが、基本ですが、今回は許してください。

まず、今回の記事を書くきっかけについて

僕は、ブログでもtwitterでも、他者に文章を見せること対して、コンプレックスを抱えています。自分の書いていることが他者に理解されているか?正しい日本語で文章を書いているか?などの自意識が文章を書くことの邪魔をしているのです。普段はノートに文章を書いています。それは、去年の大掃除で使っていないノートを見つけて、捨てるのは勿体ないから使ってみようと思ったからです。ノートには、その時々に思ったことを書いています。そこでは、汚い文字ながらもある程度の量の文章が書けるのです。しかし、いざブログに書くとなったら、途端に文章が書けなくなるのです。これはどうしてなのだろうか?という疑問が浮かび、しばらく考えていました。そして、ふとある日、twitterで呟こうとしたら、手が止まってしまいました。そこで、気づいたのです。自分は他者を意識すると文章が書けなくなるということを。 

 僕は文章を書くのは好きです。時間を忘れるぐらい。でも、技術としては苦手です。その劣等感。そして、うまい文章を書きたいという自意識過剰。これが、邪魔をして文章書けなくする。好きなものが苦手。これはとても苦しいです。でも、好きなものは諦めたくありません。だからこそ、今回の記事で、今の自分の文章を書くという技術を最大限に使かってみようと思ったのです。

 好きなことがあるけれども、実際には苦手。ここでいきなり例をだしますが、現在放映せれているアニメ『アルスラーン戦記』で登場してくるナルサスは軍師としては天才的ですが、彼が描く絵はダリューンに馬鹿にされるほど才能がない。でも、ナルサスは芸術を愛していて、アルスラーンに宮廷画家の地位をもちかけられ、ナルサスはアルスラーンに仕えるようになる。ナルサスは地位や名声には興味がなくけれど、芸術は愛している。このように人は好きなものなのに、うまく出来ないことがあります。

 閑話休題

 好きなことを上手くすることは、努力とは違うどこか自己内の快楽の追求なのかもしれないと書いていて、ふと思いました。よく好きなものを得意としている人は、どうしてそこまで上手いのですか?と聞くと好きだったから。と答えることが多いような気がします。その人達を見ている人間にしたら、努力している。または、頑張っているように見える。でも、好きなものが上手い人は、より好きなものを更に

自分の理想に近づけることに快楽というか喜びというか、何かしらの良い感覚を楽しんでいるのかもしれない。その人の自己内だから相手には、見えないので、他者には努力に見える。

 でも、また書いて思ったのですが、好きなものが上手に見える人は、苦手だったけれど、血を吐くような努力をした結果、なにかしらの法則をその努力から見つけて、その法則(自分自身の方法からどのくらいの出力でそのものができるかの自己内の計算)で上手くなる効率を良くしている。けれど、その人にどうして上手いのですか?と聞くと、好きだったから。と答えるかもしれない。他者にはもしかしたら、その人は努力をしてないでその境地に達したと思うかもしれない。

 なんか書いていてわけがわからなくなってきました。今日は、ここまでが限界のようです。このわけのわからない文章を読んで頂きありがとうございました。

近況ー2

久しぶりのブログの更新です。

季節の変わり目にはどうしても体調がすぐれなかったのですが、ここ最近、調子が良くなってきました。

 マイブームというのでしょうか。最近、僕は家の近くの色々な公園に行くことにはまってます。iphoneGoogle Mapのアプリで検索して、自転車に乗って公園に行きます。

 方向音痴の僕は、自転車で公園に向かうのも一苦労です。でも、正しい道を間違って違う道に行ったことで、家の近所なのに新しい景色を発見します。その時の「こんな場所にこんなものがあったのか!」という驚きと発見した時の喜びがたまらないです。

 こうした道中を繰り返しながら、公園に着きます。

 公園では、散歩をして自然にふれます。土や木々や池の匂いを感じたり、風で揺れる木々の音や鳥の鳴く音を感じ、黄色や赤や紫の色とりどりの花の色を感じ、雨で濡れた草や太い樹木に触れて感触を感じたりします。散歩をして喉が乾いたらベンチに座り、コンビニで買ってきたスポーツドリンクを飲みます。こうして五感を意識的に使うことが楽しいです。

 まだ、行ったこともない公園もあり、見落として景色もあります。しばらくは公園に行くことを楽しみたいと思います。