ユキちゃん先生は雪野先生なのか
このブログに言の葉の庭の記事が投稿されたのが3年前。その日を最後に更新は途切れてしまった。
そして3年後。衝撃の事実が明らかになる……のか?
——三葉が授業を受けているシーンで登場する、女性教師。科目は古典で、髪型はショートボブ。そしてその声にハッとさせられた人も多いかもしれない。小説版では名前も登場しているが、彼女は「ユキちゃん先生」。新海の前作『言の葉の庭』のヒロインである古典教師・雪野百香里その人で——
スクリーンにユキちゃん先生が映った瞬間、無言で微動だにしないまま絶叫して号泣してしまいました。
信者なので、この段階で心の中でBDポチー。まだ予約もやってないけど。そういえば言の葉の庭のときは劇場でBDも売られていた記憶があります。
さてここでちょっと立ち止まって考えてみたいのが、「ユキちゃん先生は雪野先生なのか?」という問題。わかりやすく言い換えるなら、「ミスター・ブシドーはグラハム・エーカーなのか?」という問題。別の表現を使うなら「UNオーエンは彼女なのか?」。東方のアレンジアルバム組曲Flandreを手がけた作曲家の天門さんは彼女と彼女の猫や秒速5センチメートルなど、これまでの新海作品にも携わっているんだとか。
さて雪野先生が登場する言の葉の庭の舞台は2013年の東京。
孝雄が古典の授業を受けているシーンで黒板の端に「六月四日(火)」と書いているんですが、ここ最近で6月4日が火曜日なのは2002年、2013年、2019年ということらしいので、深いこと考えずに2013年でいいかなーというわけ。
夏休みが明けて学校に出てきた雪野先生は今まで生きてきた中で一番幸せな時間を過ごした後、四国の実家に帰ることを孝雄に告げます。
2013年10月に今治市内の私立高校(3校あるっぽい)で臨時教員として2年半、つまり2015年度まで働いて、その後は愛媛県内の小さな島の高校で古典教師をしていることになっています。
言の葉の庭のラストで雪野先生が教えているのがどちらかはよくわかりません。なんかヤシの木生えてたし、海や島みたいなのが奥に見えるし、それなら後者の島かなって気もするけど、孝雄のモノローグと、雪野先生が孝雄に送った手紙の日付に従って正直に時間の流れを追うならあれは2014年の2月と考えるのが妥当でしょう。
孝雄があの靴を「仮に」仕上げたのもそのタイミングです。
舞台は変わって、君の名は。の前半で三葉が暮らしているのは2013年の岐阜県Z郡糸守町。糸守高校ではユキちゃん先生が古典を教えています。
瀧が事故の事実を知って、旅館でチェックしている地図が2013年度版。地図では宮水神社が健在なので、2013年10月4日がXデーということでいいんでしょう。
ちなみに3年後の2016年では10月2日は日曜日。女子大生と男子高校生が午前中からデートできますね。
ところで三葉と瀧は日付と曜日が合っていないことに気づかなかったのか、という疑問が湧いてきます。
どうやら入れ替わりは週に2、3度のランダム。2013年の9月の間に7、8回。前兆もなしに起こっていて、日付や曜日を認識できないのかもしれません。
本当にそうか? 彼ら日記つけてるんだよ?
まあ瀧はだいぶ離れた時点(10月4日より後の日付)からXデーまで戻ってこられるんだから、そこんとこは結構アバウトなのかもしれない。ほら、西尾維新も神様って結構アバウトなんだみたいなこと言ってたし。
この辺は何度かじっくり観たり読んだりして可能性を色々と模索してみたいですね。
んで、糸守高校の窓からヤシの木は見えないし、島も見えるわけがない。だから君の名は。のユキちゃん先生と、言の葉の庭の雪野先生は少なくとも、同じ世界線の同時刻に存在する同一人物ではないと言っていいのでしょう。
あー、世界線とか言っちゃった……。そうですよ。君の名は。は別の世界線をやり直してるじゃないですか。だから何でもありじゃん。世界線ってすっごく便利! 君の名は。では少なくとも2つの世界線を体験したけど、そのいずれにおいてもユキちゃん先生は、2013年に新宿御苑アルコール持ち込みの禁を犯していた雪野先生ではないと同時に「今まで生きてきた中で一番幸せな時間」過ごしていない雪野先生かもしれない。逆に、夏休み前に東京から糸守に逃げてきた世界線の雪野先生かもしれない。
冒頭で引用した君の名は。のプロダクションノートでは、後半にこうも書いています。
——彼女がなぜ糸守にいるのか、そもそもこれが『言の葉の庭』の雪野のその後なのかは観る人の想像次第。物語の中に、また別のさまざまな物語も隠されている——
自由な設定万々歳ですね。
見切り発車で書き始めてしまったせいで大した結論に辿り着けずに困ってしまいました。というわけで全然関係ない話題なんですけど、三葉のおばあちゃんのお母さんは言葉さんといいます。言の葉の庭の世界とこんなところで繋がっていたんですね。これが「ムスビ」です。この記事の結び。しょーもな。
鳴る神の少し響みて降らずとも我は留まらむ妹し留めば
「日本のアニメ映画ってハズレがないですよね」
そう語るのは私の行きつけの美容師さんだ。
「最近あんまりチェックできてないんですけどね」
彼女はそう付け加え、その場をあとにした。
的な? 会話? をしたことがあるんですけど、たしかに日本のアニメ映画はあまりハズレがありません。このことは私の過去の私のエントリが反証しています。えぇ?! いきなり否定しちゃうのかい?
私が思うに、ラノベ原作でテレビアニメ化した作品の劇場版はやや微妙。新規顧客を取り込むためにやや説明的になるのが原作・テレビからのファンにとって退屈で物足りないと感じる要因になるのではないでしょうか。
そしてもう一つ、いわゆるライトノベルはキャラが立ちすぎているのではないかということ。多すぎるキャラクターそれぞれに魅力があるせいで純粋に2時間では面白さを出しきれないのではないでしょうか。
映画化に向いているのは1冊完結で面白いと認められる小説なのだと思います。
だから私、ジブリのナウシカもそんなに面白いと思ってないんですよ(へらへら
結局のところ、面白いアニメ映画を作れるのは細田守と新海誠だけなんじゃないですかね。
新海誠の最新作「言の葉の庭」もなかなかにいい作品でしたね。
圧倒的に画が綺麗なんですよ、新海作品は。
雨の新宿御苑でチョコレートをつまみに朝っぱらからビールを飲むお姉さんに出会った少年が彼女に恋をする、ただそれだけのお話。
主に雨の日に物語が進展するので、水が描かれることが多いんですが、その水面や雨の雫がとても綺麗。
アニメでは不要な部分は描写を省略することができます。視聴者の意識に残らない部分は描いても描かなくても同じことなんですが、新海誠の画はその細かい描写まで視聴者の意識に残すような気がします。あとものすごくレンズフィルタが効いているというか画面全体が統一感のある光に満ちていてすごく鮮やか。
私は雨が大嫌いなんです。
外に出ると靴下は濡れちゃうし、電車の中ではびちょびちょの傘を押し付けられるし、地下道は公衆トイレみたいなニオイになるし、洗濯物は乾かないし、おふとんはカビ臭く感じるし。
でも、雨をこんなに美しく描かれてしまうと、私もちょっと雨のこと好きになれそうかも、なんて思えるわけないでしょうが!
この作品は「"愛"になる前の"孤悲(こい)"」を描いた作品だそうです。そりゃ花澤香菜に似たウィスパーボイスの美人な社会人のお姉さんの弱い部分を垣間見ながら邂逅を繰り返せば片思いもしちゃいますわね。高校生男子には刺激が強すぎる。ちなみに私はお姉さんの中の人が花澤さんだと知らない状態で観に行ったんですが、第一声の「どうぞ」のシーンで鳥肌と乳首が立っちゃいましたからね。
ところでタイトルが何故「言の葉の庭」だったのか。
作中でそれが明確にされることはありませんでした。
少し考えてみましょう。
「庭」というのは2人が出会い、時間をともに過ごした新宿御苑のことでしょう。高校の校庭という線は圧倒的に薄いと見ます。
ところがこの「庭」での2人の会話が「言の葉」ということになるのかというと、ちょっとしっくりきません。会話の様子は実はそんなに描かれていないのです。現に少年は花澤お姉さんのことを何も知らないまま話は進んでいきます。
相手の素性も知らず、自分の正体も明かさないまま、しかし情報はどんどん出て行くし感情をどんどん吐露してしまう。あれ、これってツイッターみたいじゃないですか?
相手のことを知らないから、自分のことを知られていないからこそ話せることがあるというのは皆さんにも経験があるのではないでしょうか。
あ、ということは交わした言葉の量こそ多くないけれど、立場や肩書きもなく本音を語れる場としての「言の葉の庭」なのでしょうか。
確かに花澤お姉さんが、少年からかけられた言葉を回想するシーンもありましたしね。
他にも何か印象的な「言の葉」があったでしょうか。
初めてお姉さんと少年が出会った際にお姉さんが言い残した「鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」という短歌があります。おお、短歌とは実に「言の葉」っぽい。
ここにはこの短歌の意味は書かないことにしますが、花澤お姉さんの側からの「弧悲」の気持ちを表したものでしょう。花澤お姉さんのボキャブラリーの中には他の短歌もあったでしょうに敢えてのこのチョイスですからね。
ところで、何度か「弧悲」という単語を入力するうちにふと思ったことなんですが、ここでは「弧悲」に「恋」という読み方を充てているわけなんですけど、「弧悲」だったら「オナニー」のほうが適切なルビだと思いませんか? 思いま新海?
今週のお題「梅雨」
完全なる冗長駄文の日記
前回の更新から1ヶ月以上開いてしまいました。そうすると月別アーカイブに空欄ができてしまうわけで、非常に美しくないのです。
映画を観ていなかったわけでもなければ、書く気がなくなったわけでもない、どちらかというと書きたすぎるテーマがあるのに結局まとまらなかったということです。
「Steins; Gate」と「AURA 魔龍院光牙最後の戦い」を絡めて中二病の考察をするつもりだったんですけどね。卒業論文が完成しそうだったのでやめました。
もう一つは「藁の楯」を題材に期待値の話を書きたかったんですけどね。残業続きでPCを開けるタイミングがなかったのでやめました。
ちなみに私は卒業論文というものを書いたことがありません。だからちょっとだけ卒論に憧れがあるといえば嘘になります。
暗い話はやめにしましょう。
今日は6月1日土曜日でした。1日はたいていの映画館が割引をします。ですから公開後最初の土日の観客動員数を稼ぐにはうってつけというわけです。
現に今週は多くの作品が公開されました。
オブリビオン、言の葉の庭、リアル 完全なる首長竜の日、マニアック、グランドマスター、天使の分け前、等々。
私は前3作品を予約し、2作品を観てきました。
「リアル 完全なる首長竜の日」は「センシング」という技術を用いて他人の意識の中にダイブする話。「インセプション」と似たテーマですね。
この作品の中ではセンシングを受け容れる側の意識の届かない範囲は上手く表現できないような描写になっています。
実写作品では、そのものの存在が問題にならなくてもそこに映り込んでしまうものというものがあります。例えばPCのキーボード。例えば窓の外に映るビル群。
ところが全てを人間の手で描くアニメ作品では省略したい部分は描写を省いて情報量を調整することが可能になるわけです。
それぞれにメリットがあるわけですが、次のエントリでも少しそこに触れてみることにしましょうか。
この記事はいったい何が言いたかったんだ?
ブログは日記じゃないんだぞ?
また君に恋する自由
思ったより写真大きいですね^^;
背景に写り込んでいるのは薫り華やぐヱビスの2ダースケースです。
というわけで「図書館戦争」の初日舞台挨拶に足を運んできました。
榮倉奈々、思ってたよりずっと脚きれいでした。私もあれくらいのスタイル抜群ボディを手に入れるべく日夜訓練に励んでいます。
映画の舞台挨拶に行くのはたぶん初めてだったんですが、驚いたのはキャストが引っ込んだ後、つまり映画上映前に帰っちゃう客がとても多かったことです。
私が入ったのは2度目の舞台挨拶でしたから、初回も見た人はたしかに連続して同じ映画を見る気にはならないんでしょうけど、、そうは言っても、ねえ。。
っていうか、2回とも当選できる仕組みなのかよ!!
ともあれ、榮倉奈々がかわいいんですよ。途中で日本語がおかしくなっちゃってるところとか、それを計算づくでやってそうなところとか。
脚めっちゃ長いし、ミニのワンピースで出てくるし。私の席は後ろのほうだったんですが、もっと前で、もっと下から見たかったです。
いやあ榮倉奈々はね、「ダンドリ」の頃から好きなんですよ。あんなチアリーダーに応援されたら頑張っちゃうに決まってるじゃないですか。ねえ。
すみません。興奮してしまいました。
さて、ゴールデンウィーク、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
私は初日に図書館戦争、それからどこかでアイアンマン3を観に行くくらいしか予定がありません。
予定がないので溜まっているエントリも消化していきたいですね。
さっそく図書館戦争の紹介に入りましょう。
図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする。この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。
- 第1 図書館は資料収集の自由を有する。
- 第2 図書館は資料提供の自由を有する。
- 第3 図書館は利用者の秘密を守る。
- 第4 図書館はすべての検閲に反対する。
- 図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。
この「図書館の自由に関する宣言」は1954年に採択、1979年に現在のかたちに定められ日本図書館協会の綱領となっています。有川浩の『図書館戦争』はこの宣言を根幹において書かれた作品です。
「メディア良化法」が制定された日本では、公序良俗に反する有害図書を取り締まる名目で不当な検閲が行われ、それは武装した良化特務機関によって言論統制の域にまで達していました。
検閲に対抗する法的根拠を持った唯一の存在である図書館は、良化特務機関に対抗する防衛手段として図書隊を設立。本作は主人公の笠原郁が図書隊に入隊したところから始まります。
これまで原作小説、テレビアニメ、劇場版アニメ等のメディアで展開されてきたこの作品(作中の世界にあっては良化法に基づき検閲対象になると思います)。世界観がきちんと作り込まれているわりに突飛な設定もなく、事前の知識がなくても、どのメディアからでも入っていける作品です。
実際に私は劇場版アニメに全くの初見状態で飛び込みました。
街を歩いていたときに目に入ってきた図書館戦争のポスターに書かれていた「井上麻里奈」「沢城みゆき」の名前に釣られてこう、ふらふらっと。
念を入れていくなら、wikipediaで図書隊の組織について読んでおくと心強いでしゅね。
さて実写版映画では原作小説やアニメでは描かれなかった類の戦闘シーンも盛り込まれていたりします。ネタバレは避けたいので詳しい内容には踏み込まないようにはします。
今のダジャレです。スターお願いします。
逆に、省略する要素に関してはばっさり切り捨てていて、シンプルにまとめあげられていた印象です。
キャストについてはこれが実に面白いことになっています。
まずは堂上篤役の岡田准一。
アニメから入った組としてはもうこの時点で違和感ですね。主人公はあんたじゃないでしょうが!
笠原郁役の榮倉奈々。
郁といえば長身、髪は茶髪のストレート、サバサバした性格、声は井上麻里奈というスペックの持ち主です。
印象としてはちょっと覇気が足りないかなという感じですが、脚本の段階で郁を榮倉奈々に合わせて書き直したのかなと感じました。終わってみれば違和感はないかなという感想です。
続きまして柴崎麻子役の栗山千明。
ルックスそのまんまなんですがそれはまあ当然といえば当然で、原作の装丁の際に柴崎のモデルになったのが栗山千明本人だそうで、今作も「特別出演」となっています。
主役級キャラが特別出演ってどうなの。
そして稲嶺司令役の児玉清。
こちらも原作のモデルとなった児玉清がそのまま出演。
とはいっても当の役者が死んでるわけなので、劇中での稲嶺司令(司令としてではなく元図書館長として登場します)も死んでる設定になってました。かわいそすぎる(´;ω;`)ブワッ
代わりに義足を履いたのは仁科司令役の石坂浩二。
舞台挨拶での貫禄はさすがでした。
ところでこの映画、様々な図書館でロケが行われています。
公式ツイッターでもロケ情報が写真付きで発信されていましたが、どれも魅力的な施設ばかり。
<関東図書隊基地および武蔵野第一図書館の外観>
(北九州市立中央図書館)
<武蔵野第一図書館の内部>
(十日市情報館)
<小田原資料館>
(北九州市立美術館)
待って。
戦闘シーンの撮影現場は全部福岡ってこと?
どんだけ恐ろしい街なの……こわ……近寄らんとこ。
ジャックと軌道エレベーターガール
近未来都市ネオロンドンを舞台にキョジンスレイヤーVSキョジンの死闘が始まった。
ビッチじゃないから恥ずかしくないもん!
「あんな華麗に……なんて美しい女性なんだ……」
アンナ・カレーニナといえばトルストイの名作、その主人公。帝政ロシアの社交界を舞台にした不倫物語です。
ロシアといえば民族的に、名前に「ビッチ」がついてしまうのでどうしても股が緩くなってしまうのは仕方ないわけです。主人公のアンナは夫であるアレクセイ・アレクサンドラビッチ・カレーニン大臣という人がありながら、若きイケメン将校アレクセイ・キリロビッチ・ヴロンスキー伯爵に手を出してしまいます。
アレクサンドラ、ビッチといえば「聖痕のクェイサー」に登場するサーシャことアレクサンドル・ニコライビッチ・ヘル君を思い出してしまいますね。
画像のおっぱいを吸っているほうがサーシャ君ですね。サーシャ君は誰彼見境なくおっぱいを吸ってしまうのですが、男の子なのでビッチと蔑むことはできません。しかしけしからんですね。
他にも有名なアレクサンドラさんといえば、「ストライクウィッチーズ」に登場するサーニャことアレクサンドラ・ウラジミーロブナ・リトビャクちゃん(オラーシャ陸軍中尉)がいます。
サーニャちゃんはこんなにかわいい容姿を武器にして毎晩夜のお仕事に出かけています。毎日朝帰りしてパンツ一丁でベッドに倒れ込む姿はまさにビッチ。昼間のお仕事の最中にも寝ることばかり考えている阿婆擦れ女子なのです。
サーニャヲソンナメデミンナー
他にもどんなアレクサンドラがいるでしょうか。世界で一番有名なのはおそらくこの人でしょう。征服王イスカンダルことアレクサンドロス3世。
画像は「Fate/zero」のライダーさん。世界を股にかけるイスカンダルさんは作中でセックスについて語っていた気もしますし、この世界に戻ってきた理由というのも「受肉」を果たすためというなんとも卑猥な理由でした。
しかもイスカンダルさん、コーランにも「ズルカルナイン」という名前で登場します。何となくズル剥けとかシックスナインとかを彷彿とさせるビッチな名前ですね。ズルカルナインというのは「双角王」と訳され、両刀使いのどうしようもない男であることがわかりますし、イスカンダルを由来とするインドの神「スカンダ」はさらに仏教に入って「韋駄天」となったと謂われています。韋駄天といえば早漏で有名ですね。
ライダーのクラスで顕現したのも数多の女性を乗りこなしてきたからでしょう。
映画の感想? それやっぱりあったほうがいいですか?
カットの切り替えが紙芝居(?)っぽくっていいということでしょうか。ノンストップで展開されるミュージカルのような軽妙さが心地よいですが、「舞台装置」を使い回しているせいで「レ・ミゼラブル」よりはインパクトに欠ける気がします。
しかし舞踏会のシーンはアンナとヴロンスキーのダンスを際立たせるための演出が施されていて、それがかなりわざとらしいのですが、意図がこちらに伝わってくるので安心して観ることができます。ダンスの前半は「ブラックスワン」を思わせるテンポ感があってとてもよいです。
原作を読んだことがない立場から言うならば、原作の豊かな言葉遣いに触れたほうがいいんじゃないっすかね。まあ映画のほうが濡れ場がリアルで楽しめるんですけれども。
エイガヲソンナメデミンナー
私、もっと輝きたいんです……!
久しぶりに部屋のカーテンを開けたらすぐそこに桜の樹があることを知って今日は部屋の中から花見をしていたかというと今日も今日とて映画を観に行ってました。
今日は劇場版 花咲くいろは HOME SWEET HOME。花いろといえば「戸松がやかましい」というクソアニメの条件を満たした作品ですが、どの層を狙っているのかわからないアベレージさと、なこち(押水菜子)のかわいさと、「ホビロン」という意味不明な名言でごくごく限られた一部の人々の一世を風靡したセピアな作品です。
意味わかんないっすね。
私は主題歌が好きで見てました。そういう選び方よくやります。
http://www.youtube.com/watch?v=8GMrg7d7AQk
こちらはテレビアニメ版のオープニングテーマです。目を閉じて視聴することをおすすめするわけではないですが、実力派の歌声です。褒めてますよ。「そばかす」とか歌ってる人を彷彿とさせる感じじゃないですか。そばかすを歌ってる人ってデーモン小暮閣下のことじゃないですよ。
花いろ劇場版は、おはな(松前緒花(うるさい))役の伊藤かな恵さんがその母親である皐月の若かりし頃を演じている場面が多いというところが大きなポイントです。かな恵ちゃんの声かわいいよね。演じるキャラがいつもウザいから嫌いですけど。
今回の劇場版公開、実はちょっと心配していたことがありまして、何と言うかプロモーションが弱かった印象だったんです。あまりテレビCMも目にしなかったですし(もちろん私が常に深夜アニメに張り付いているわけではありませんからたまたまかもしれませんが)、劇場にポスターが掲出されるのもずいぶん遅く(たまたま私が見逃しやすい狭くて暗い廊下に貼られていたからかもしれませんが)、しかもそのポスターではいつ公開なのかよくわからないという、踏んだり蹴ったりぼんぼったりの状態だったのです。
まさか館内に5人くらいしかいなかったら嫌だなあとか思ってたわけです。結構あるんですよ、そういう映画。イチオシのつもりだったライフオブパイとか。
ところが実際ふたを開けてみると、夜までの全ての会ばっちり予約が埋まってまして、さすがの先着入場特典かなあと関心しました。イラスト色紙ですね。スキャンが汚い。
本来ならここで、テレビアニメ放映直後に私が聖地巡礼の旅として金沢まで出向いた話とかも展開していきたいんですけど、紙面の都合上、あと実際にはそんな旅行なんてしていない都合上、簡単に私の妄想だけ述べて終わりにしようと思います。ってか読者の皆さんがどの映画を観るか観ないかの判断材料になればと思って始めたこのブログ、まともに映画の評価をした記憶がないというかする気がないというか、小並感ブログ感がものすごくなってきたのでちょっと解消してみようと思って音楽や画像を貼ってみたりしました。
何の話でしたっけ。
そうか、妄想ですね。
私も若い(女子高生)の仲居さんがハプニングを起こしまくる温泉旅館に泊まって彼女たちを輝かせてあげたいです。
今週のお題「お花見」