今週のお題「憧れの人」

久々に更新する。
今週のお題は「憧れの人」だとか。

以前のお題「甘酸っぱい思い出」で当時好きだった人について書いたが、
その人が思春期の憧れの人でもあったように思う。
いつも明るく気さくで、前向きに物事に取り組む彼女が、とてもまぶしく見えた。



3,4年前からの傾向として、数か月単位で気分に波がある。
ここ数カ月は気分が落ち込んでおり、最近はかなり気持がふさぎこむ日が続く。
残業が続き、寝ても覚めても仕事のことが頭から離れず、
漠然とした不安と絶望感が寝起きから続く。
しっかりしなければと思う一方で、
仕事もそうだが、私生活にも身が入らず、虚無感がぬぐえない。
もう周りから見放されているんだろうなと思うが
以前のように、名誉挽回のために頑張る気力もなくなってしまった。
何をしていても、どこか現実味がないような感覚が常にある。
人と話すことも億劫だが、人と関わると、どう思われるのかを非常に気にする。
アタマの回転も遅くなったように思う。
泥沼の中でもがいているような、必死に頭を働かそうとしても、どうにもならないような、そんなモヤモヤとストレスが常につきまとう。
次にやるべきことが分かっていても、そのためにどう動けばよいのかが全く分からなくなってしまうこともある。

もうすべてがどうでもよくなってしまっている。



2chの名言に、
こんな思いをするのなら 花や草に生まれたかった
という言葉があるが、これと同じ感情が心にまとわりつく。

自分の性格も人生も
いったい、いつからこんなに変わってしまったのだろうかと
夜中にひとり悩む日が続く。
どこで道を間違えたのかなんてことを考え、
いつの間にか疲れて眠り、朝になっている。

どうすれば変わるのか。変えられるのか。
陸地の見えない海を彷徨っている。
答えは出ない。


こうなると、自然と楽しかった過去を思い出すことが多くなる。
当然、当時好きで憧れだった人がいた、
充実した高校時代を思い出す時もある。

あの頃は、なにも疑わず、自分の力でなんでもできると思っていた。
困難なことにも真っ向から向かうだけの心があった。
自分の人生は明るいと心の底から思っていた。

当時の自分が見たら、たぶん今の自分は
ただのダサい、格好悪い大人にしか見えないだろうし、
まさか自分の10年後がこんなになるなんて思っていないだろう。



そして束の間でもいいから、
当時の憧れだった人が、当時のままの姿で目の前に現れたのなら
自分は何を話すだろうか
なんて考える。

あれからの10年間を、この掃き溜めのような、
何の魅力も感じないような今を語るのだろうか。
大学に入ってサークルにのめりこみ、モラトリアムで院まで出て、
必死に就活し、仕事が回らず目まぐるしく過ぎる日々を話すのだろうか。
最愛の人を見つけられて、結婚したことは胸を張って話してもいいかもしれない。
ただ、残業時間や、忙しさの自慢しかできないような今の現状を聞いたら
彼女はなんて言うだろうか。

「大変だろうけど頑張れ」なんて言ってくれるのだろうか。
「君ならできる」なんて言ってくれるのだろうか。

そしてもう一度、部活終わりの後のように、
笑顔で「お疲れ」と言ってくれたのなら
自分はまた頑張れるのだろうか。

答えは出ない。

今週のお題「私の年末年始」

例年、年末年始は故郷に帰省する。

やることといえば高校の時の友人に会い近況を報告し合い

両親のそれぞれの実家に新年の挨拶に行くだけで他にやることはない。


今年も例によって高校の友人と顔を合わせてきた。

夏にも一度会っているのもあるがあまり久々な感じはしない。

それでも各々少し疲れ、老けた表情になっていたり

性格が尖ってきたりと会わない間にも変化を感じた。

荒波の中にいるのはなにも自分一人ではないと言われているようだった。


しかし今回はメンバーの一人が婚約し義実家にて過ごすとのことで

会えなかった。

その代り、クラスメートではあるが自分を含め何人かとは

あまり関わりのないメンツも集まった。

普段集まるメンバーと違えばこうも話題も空気も変わるのかというほど

いつもの集まりとは違った雰囲気があった。

近況も一からの説明になるし、自分の知らない話題で

散々盛り上がることもしばしば。

そんな、全員が全員親しい仲ではないからかもしれないが

旧友との再会も数時間程度でお開きとなった。

ファミレスでだらだら話した後、初詣に行っただけ。

徹夜で遊ぶなんて話も出ず、なんだか味気ないような気もするけれども

これはこれでよかったのかもしれない。


それでも、次にいつ会えるのかわからないのに

皆あさりと別れてしまうことに対する寂しさはある。

次また会える保障なんて無いのに。

アルコールが入ればまた少し違った話や時間の使い方も出てきただろうが

田舎では全員が車移動である。なかなか難しい。

一番話したかった友人とも、こんな早く別れるとは思っていなかったため

あまり話せず、もっと話をしておくべきだったと後悔している。

年明け早々失敗である。


次に会う時にはぜひとも居酒屋で

「最近どう?」から始まる積もる話にじっくりと耳を傾け

「あの頃はさぁ」の思い出話にグラスを傾け

ゆっくりと話をしたいと思う。

自分の人生の主役になる

前回のエントリーで

能動的な人生を送る

という目標を挙げた。


今週の自分を振り返る。

今週の自分はどうであったか。

自分は、自分の人生を生きているのか。

自分の人生の主役になっているのか。

自分のための人生であるということを意識、自覚しているのか。


答えはYesが半分、Noが半分であった。

仕事のことになるとやる気がからっきり殺がれてしまう。

さらには、週末の余暇時間も自分の思ったような時間の使い方をできず

だらだらと時間を浪費してしまった。

だがその中にも、自分のやりたいことを素直に行動に移せたこともあった。

だから答えは半分ずつである。


先週、上司に呼ばれ最近の仕事ぶりについて面談を行った。

自分がうまく仕事をこなせていないこと、車中泊を繰り返していること、

とにかく疲弊していることなど、ある程度普段から感じていることを

伝えることができた。

面談の中で上司は、仕事が私生活の充実のためにあることを話してくれた。

より良い生活をするために仕事をする。

だからこそ、仕事がすべての生活になり、擦り減ってしまっては

どうしようもないと話してくれた。

普段会社でしか顔を合わせない人にもしっかりと家族があり、

週末は一人の夫や父として過ごしているのを忘れていた。

そこに気付かされると、なんだか同じオフィスで働く社員が

きちんと、血の通った人間であるということを再認識することができた。

そして、自分の中に溜っているものを吐き出せたのもあり

面談後はなんだがすっきりとした気持ちになった。


話がそれたが、この上司の話にもあったように、人間は、基本的には

自分の私生活のために仕事をしているのである。

いつの間にかそんなことは忘れ、会社のために働くことがすべてのように

考えてしまっている自分がいた。

プライベートでは残った仕事を片付け、月曜からの仕事に備えなければ

ならないという意識が強すぎた。

もちろんそういったことが必要なときもある。

しかし、休日は休日である。自分の時間であると割り切らなければ

いつまでたっても頭の中に仕事のことが残り、

こんなことをしている場合ではないのではないのかという

一種の強迫観念の様なものに追われてしまい

目の前のことを楽しむことができない。

どこかで何かに楽しむことができなければ

それは人生を楽しんでるとは言えない。

それは自分以外の誰かの人生のために生きていることになってしまう。


自分を一番に考え、自分のために戦い、自分の立場を守り、

自分が心から満足できるような行動をとり、その行動に

責任と納得を持てるようになることが

自分の人生を生きる上で大切だと気付く。

自分は普段から誰かの意見を仰ぎ、特に目上の人の意見であれば

疑うことはなく信じ従ってきた。

自分のために自分で選択するという経験が非常に少なかったのである。

だからこれらを実行するにはきっと想像以上の努力が必要になってくる。

それでも少しずつ取り組んでいかなければならない問題である。

それが自分自身のため、自分の人生のためなのだから。


例によってこんな時間まで眠れずにいるが、なんとか今週の日曜にも、

自分の中のモヤモヤに自分なりの答えを出すことができたと思う。

少しずつでもいいから、一歩一歩着実に現状を改善していき、

今までの精神状態を取り戻したい。

休日の終わりに

今日もまた一日が終わる。

今日は先日の土曜から代休含めての3連休最終日である。

といっても土曜は、出勤する可能性があったし、しかも一週間の疲れがピークに達していたのもあり一日中寝て過ごしてしまった。

なので活動したのは実質2日になる。


能動的な人生を送る


今週末はこのキーワードを頭の片隅において生活をしてみた。

自分の心に正直になり、能動的に時間を使い、嫌々するのではなく、自分がしたいからするという思いで物事に取り組めば、なんでもそれなりに楽しいことに気が付いた。

自分の一日、大きく言えば自分の人生を自分が管理していること、自分を動かすのは自分であり、自分をつくるのも自分であるということを気付かせてくれる。

これは今まで忘れていたことだ。

自分の選択に納得した、充実した時間を過ごせることに繋がる。

そして、自分のやりたいことをやるという、自分の欲求が満たされたことが妙に気持ちいい。

この意識は今後も持ち続けたいと思える大きな気付きであった。


しかし一方で、いつもと同じで、休みが終わる時に感じることは、翌日からの仕事への憂鬱と、休日への未練である。

充実してたこと、楽しかったこと、もっとあれもこれもしておけばよかったとの反省と、ごっちゃになって頭の中を駆け巡る。

世間でいう、サザエさん症候群というやつかもしれない。

毎週末こんなことを感じてしまうのは、平日をがむしゃらに生きていないからかもしれないし、仕事ができないことに対する引け目を感じるからかもしれない。

今日ふらりと立ち寄った本屋で、何気なく手に取った本に

「新人のうちは何も考えず、がむしゃらに目の前のことをやれ」

と書いてあったのを思い出す。

入社して一年目は自分のできることを増やしたくてがむしゃらにやったつもりである。

しかし、2年目になり、燃えつき症候群のような無気力感と、自分への期待に自分自身が答えられないことへの歯がゆさ、できない中でもがくことで徐々にやる気が殺がれていってしまい、今年の夏くらいからは、毎日のように仕事が自分に合っていないのではないかと考え、目の前の業務に身が入らない日々を過ごしている。

平日に自分の成長を感じられるような、充実した体験、時間を得られれば、その充実した気持ちのまま休日に入り、プライベートでもよい時間を過ごせ、その気持ちを保ったまま新しい週、新しい日々を過ごせるのではないかと思う。休日だけ充実しているだけではやはりバランスとしては十分ではないように思う。

しかし、なかなかそれができず、失敗を恐れ自分の心地良い環境から一歩外へ踏み出すことができていない。失敗を恐れ、怒られることを恐れ、周囲からの目を気にするあまり何もできなくなってしまい、結果今の自分ができることだけに注力し、成長とは程遠い時間を過ごしてしまう。

頭の中ではわかっているつもりであるし、そろそろ軌道修正をかけないと社内で本格的に荷物になってしまうし、何より、自分の思い描いていたなりたい社会人像からはどんどんかけ離れていってしまう。

ちなみになりたい社会人像といえば、毎日バリバリと仕事をこなし、臆することもなく新しいことにも挑戦し、だれからも頼りにされ、一目置かれるような、そんな人間を想像していた。

しかし、現実では、失敗を恐れ、できることなら他人の手を借りず自力でやりたいと思うあまり時間ばかりかかるし、そのせいで失敗もするし、周りの目が気になるし、コミュニケーションも十分に取れず、何を考えているのかもわからないような、そんな人間になっている。


どこで道を間違えたのか。


最近はそんな言葉が頭をかすめる。

小さい時は、それこそ失敗をしても何も苦にならなかった。周囲の目なんて気にならなかったし、それこそ自分の思うとおりに生きてきたように思う。しかし、中学3年くらいの、周囲よりも勉強ができることをアイデンティティと感じ始めたころから、失敗を恥ととらえ、なかなか前にでて何かに立ち向かうことを恐れてしまったように思う。勉強ができるのにこんなのも知らないのか、できないのかと、そう思われるのがひどく嫌だったのだ。

高校は成績は上の中から下のあたりにいて、周りが自分よりできることが当たり前だったから素直にそれを受け入れることができたが、それでも皆の前で答えられないときなどは、顔から火が出そうなくらい熱くなり、血が巡るのがわかった。

さらに、大学に入り、自分に対し、しっかり者で明るく頼られるキャラクターがサークルで出来上がるにつれ、授業では顔を合わせないメンバーとサークルの時間を過ごすなかで、そのイメージを損ないたくないがために失敗を恐れ、弱音なんてごく限られた人にしか見せない人間になってしまったように思う。

そして、研究室に入り、指導教員からの圧力に日々気をもみ、小さな失敗でさえも過大に叱責されるような環境が自分を委縮させ、さらに自分を内なる殻に閉じ込めてしまったと感じる。

内向的な性格はここで完全に形成されてしまったように感じる。

カウンセリングにでもいけば、今はもうそんな環境や人と一緒ではないのだから気にせず自分らしく振舞い、新しいキャラクターを構築していけばよいと言われそうなものである。実際に、自分が相談される立場にあっても同じことを言いそうである。誰も過去の自分を知らない。新しい自分をつくっていけばよいのだ。

ただ、それでも自分の殻から外に出ることができないのは、きっと、自分の中の弱さがそうさせているんだと思う。明日こそは、今週こそはと思うがなかなか殻から外には出られない。失敗した時のイメージが付きまとい払拭できない。

失敗、叱責、委縮、失敗、叱責、委縮・・・・

いつの間にか、この負の連鎖の中から抜け出せなくなっている。

何をしてもだめかもしれないという思いと、いったい自分はなにをやっているんだろうという思いが日に日に強くなる。

一方で、こんなはずではなかった、やればできるはずだという思いが内面からまだ心の芯には残っている。

自分が変わらなければ何も現状は変わらないのではないか。

ネガティブな感情に飲み込まれてしまうのも自分の人生だし、そこに立ち向かい、克服し、明るい自分を取り戻すのもまた、自分の人生である。

今のままでは、周囲はただのできそこないの社員としか見てくれない。

いい大人なのに何をしているんだろう。

しっかりしなければ。

いつのまにやら

気付けば社会人になっていた。

すでに2年目も折り返しにきている。

ここに書く気になったのは

昔に感じた事をふと思い出したくなって読みに訪れて

今と昔の2人の自分に大きな乖離があることに改めて気付かされたから。


今までのエントリーを読み返すと

どうしてこうも過去の自分が希望に満ち溢れていたのか

その原動力、モチベーションとはなんだったのか

その根源が全く思い出せない。


今の自分は、日々の生活に追われ

慣れない仕事、人間関係にあがきながらなんとか

一日、また一日とその日をこなしている。

日々の仕事は溜まっていくばかり。

簡単な仕事すら先延ばしにし、毎日逃げるように家に帰ってくる。

周りの目ばかりを気にしするくせ、いつになっても甘さが抜けない。

簡単に言えば自分が一番かわいいのである。


そしてなんとか一週間を乗り切った後の週末は疲労で寝て過ごすか

何の目的もないまま街をぶらつき、気付けば日曜も夜になっている。

そして日曜の夜は決まって憂鬱な気分になる。

何に憂鬱になるか細かく考えたこともあるが、原因ははっきりしない。

週明けに持ち越した溜まった仕事、人間関係、漠然とした将来への不安、

仕事への適性、これから自分はどうなりたいのだろうか、

そして、なんのために生きているのか。

だいたい考えることは毎週末同じである。

にも関わらず気が付けば明け方まで眠れない。

いや、少しでも眠れただけマシかもしれない。

寝ずに仕事に行くことなんかもここ最近は増えていったように思う。

睡魔に襲われてもなお、考えがまとまらず、堂々巡りが続く。

答えなんか出ないが、いったん家を出て仕事に向かえば

なぜこんなことで悩んでいたのかと思うほど切り替わったアタマも

先週あたりは一週間一日たりとも切り替わらず、

一刻も早く帰りたく、気持ちが仕事モードに切り替わらない。

夏から顕著になったこの現象はかれこれもう3カ月になった。


最初はなんとなく月曜になるのが嫌で、

それに抗うかのように夜更かししたのがきっかけだった。

それが今では日曜の昼過ぎにはすでに憂鬱になり

休みが終わるのを考えるだけで胸が苦しくなり、

胃が何かに掴まれたように縮み上がるようになっている。


何が原因なのかとネットで原因を探せば、鬱だとか、診療内科、

自己憐憫パニック障害アダルトチルドレン自閉症

内向的性格、パーソナリティ障害などなど、穏やかではない単語が並ぶ。

現状を改善しようとさらにネットサーフィンを続けると

やれポジティブに生きようだ、やれ運動しようだ、

やれやりたいことをしようだ、やれ充実した一日を過ごそうだなどと

日曜の夜だけではどうしようもないことばかりしか見つからない。

なにかこう、一気に現状が改善するような「何か」があればいいのだが

そんなものは見つかったためしがない。


自分なりに答えが出ているとするならば、それは、

自分を見ていてくれる人が必要

ということになりそうである。

家に帰れば暖かく迎えてくれ

その日に感じた事をしっかりと聞いてくれ

一日の労をねぎらってくれ

嫌なことがあっても笑って励ましてくれ

寝付けない日にはその温もりで包んでくれ

朝になれば優しく送り出してくれる。

そんな人が必要なのである。

こうも書けば母親の元を離れられない甘えた子どもの様だが

実際にこうなのだから仕方がない。

心の拠りどころとなるような人、この人のために生きると思えるような

そんな人が必要なのである。


考えてみれば過去にも、少年期を懐かしみ

郷愁に思いを馳せる日々が続き、大学2年になった頃は顕著であった。

基本的に精神的に幼いのだろうと思う。


無いものねだりというわけではないが、それに加え、自分には

責任感も、緊張感も、自覚も、大人として持っていなければいけない

それら感覚が欠如しているようである。

やはりこの人のためなら自分は恥をかこうが、怒られようが、

どんなに苦しい思いをしようがどうなってもいいと思えるような

そんな人が必要なのである。


そろそろ夜が明ける。

外が少しずつ騒がしくなってくる。

暗かった窓の外が少しずつ白んでくる。

いつまでも夜が続けばいいのにと思うのと同時に

月曜が始まることへの焦燥感が全身を巡る。

こんな生活をしていてはいつかは身体を壊すし、

一日一日を精一杯生きていかないと夢描いているような

幸せな家族生活を築き上げることはできない。

そんなことはわかっている。

わかっているが、それでもできないもどかしさや不安、苛立ちを

だれにも打ち明けることのできないまま

また一週間をやり過ごすことになりそうである。

今週のお題「2011年、私の3大ニュース」

そろそろ2011年が終わる。

テレビやラジオからは、「今年も残すところあと○○日」なんて

毎年聞くセリフを耳にするようになった。


世間を賑わせたニュースを思い返してみれば

国内では京大カンニングや震災・原発事故

地デジ化移行に和歌山の台風被害などがあった。

国外に目を向ければアラブの春やタイの洪水被害

ウォール街デモ活動など様々な出来事が起こった。

正直、自分にとっては3つも大きなニュースはないが

自分なりに今年を振り返ってみる。


今年は、自分にとっては就活という大きなイベントがあった。

そして、その就活の合間に地震が起こり

2週間くらい、ろくに食料が確保できない日々が続いた。

また、学会発表と就活の最も多忙な時期が重なり

3週間くらい毎日2時間程しか寝ずに過ごした。

不安だった就活も、終わってみれば

自分が納得できる会社に入れたように思うし

このブログで毎月立てた目標が自分を律するきっかけにもなった。


9月以降はあまり生産的な生活を送ることが出来なかったが

そんな中でも、自分と向き合う時間を十分に持てたり

読書や英語の勉強に時間を使うなど

今後自分にとってプラスに働くようなことが出来た。

特に自分と向き合う時間を持てたことで

自分を客観的に理解する良い機会になったし

今後自分の気持ちをコントロールする上で、大いに役に立つと思う。


思い返してみて気が付いたが、辛くても濃い時間を過ごしている時期ほど

後々振り返ってみるとよく思い出せるし

良い思い出として残っている。

来年も、年末に振り返った時に、たくさんの思い出ができるように

毎月きちんと目標を立て、自分を律し、

濃い毎日を送っていきたい!

理想像

先日なんとなく、ふと

自分はどんな大人になりたいのかなんて考えた。

これから社会に出て働き出し、いつかは結婚して子供ができて

週末は同僚と飲みに行ったり、子供と遊んだりするとき

自分はどんな人間でありたいか。

そんな目標となる人物像を考えた。


自分の中でまず思いついたのは

遊び心や童心を忘れない大人になりたいということ。

このブログの「滑り台のぼり階段を降りる」も

子供の頃滑り台で遊んだときのような遊び心を

忘れずにいたいという意味で付けた。

それに、父親は子供の「友達」にはなれないけれど、それでもやっぱり

子供と接する時は、子供の気持ちになって一緒に遊びたいし、

同僚と遊ぶ時もそうありたい。


しかし、そんな童心を忘れない大人になっても

やる時はやる、しっかりする所はしている大人になりたいとも思う。

やはり、いつまでも子供っぽいままでは格好悪いと思うし、

決めるところを決めるからこそ、メリハリがあって様になると思う。


そして、最後に思ったのは、

教養があり、頭のキレる大人になりたいということ。

正直なところ、同僚との間に差をつけたいという思いがある。

そしてそれ以上に、子供に何か聞かれた時はなんでも答えられる大人に

なりたいと思うから。


理想の大人像について朧げながら少しは輪郭ができてきたように思う。

ちょっとずつ、ちょっとずつ形作っていきたい。