ニートです。

日記とメモ。

大人になったらペットなんて飼わない

 

 

家族でワンコを飼っている。彼はとってもかわいくて、愛おしくて、たまに一緒に布団で寝てあげようとするとしっぽをふって飛びついてきてくれるのが本当にかわいくて、大好きな存在だ。でも、たまに苦しくなる。何か突発的なことがない限り彼は私よりも先にいなくなってしまう、それが見え透いているから、つらい。

 

去年の今頃、私は原因もわからない蕁麻疹に突然襲われた。強い痒みと全身に広がっていくただれに耐えきれなくなり、自分の意思でバイトを早退した。初診の医者に電話で予約を取り、パンパンになった顔で車を運転し、病院に行き、診察を受けて、薬をもらった。

 

私にはそれができる。自分が苦しいと思ったとき、痛いと思ったとき、体に何か異変を感じたとき、自分の意思で行動して、その症状を改善するための処置を取れるのだ。たとえ車が運転できないだとか車を持っていないだとか、そういった条件があったとしても、私は体が痒いんです、蕁麻疹がつらいんです、という意思表示はできるわけで、頼れる人もいるし、グーグルで病状を調べることもできるし、交通機関だって利用できる。

 

でも、犬は、動物は、そうはいかない。彼らは人間と同じ「言葉」という手段を使って意思表示ができるわけではない。体のどこかが痛むときや、苦しいとき、彼らは明確な言葉を使って私たちに意思表示することはできない。だから、犬でも猫でも何か動物をペットとして飼っている限り、もしも何かあったときは飼い主がそれを汲み取らなければならない。毎日を共に過ごしていればそんなの容易いことかもしれないけれど、そうだとしてもやっぱり、私はたまに苦しい。

 

犬は人間がつらいときにはそれを理解して、寄り添ってくれるんだって、そういう話をする人たちがいる。私もそれがわからないわけではないし、そのように感じた経験だってある。でも、そういうエピソードや経験に私たちが感動を覚える理由って、やっぱり人間と犬が完全にわかりあえることは不可能なんだと、そう無意識に悟っているからなんでしょう。それを考えるまでもなく当たり前のこととして、受け入れているからでしょう。だから彼らがそっと私たちに寄り添ってきてくれたとき、私たちは「人間と犬」という垣根を越えて分かり合えたという事実に感動し、嬉しくなる。でも私はそのことについて最近はさみしい気持ちも抱いてしまうから、厄介で、ひねくれ者だ。

 

私がご飯を食べているとき、彼がしっぽをふって物欲しそうな眼差しで人間の食べ物を見つめる瞬間、私は絶対に何も与えないというのを心に決めている。人間の食べ物は当然のようだけど犬の体には良くないんだって、獣医さんに言われたことがあるからだ。でも私以外の家族はその物欲しげな眼差しに負けて、ちょっとだけキャベツの切れ端をあげたりする。もちろん彼は喜んで食べる。このことついて昔は深く気にすることなんてなかったのに、最近はなんでか、すごく頭を悩ませるんです。彼にとってはどちらが幸せなんだろうって、考えてしまう。私は彼にできるだけ健康でいてほしいし長生きしてほしいから、だからこそ、彼の欲しがるものを決して与えない。でも、もし彼が、長生きなんてしなくていいからオレはうまいもの食べたいんだよって、そう思っていたとしたら、彼のその望みを叶えることが彼にとっての幸せで、それが尊重するべき生き方なのかなって、そう考えてしまう。考えすぎかな?気持ち悪いよな〜。

 

私の中で、ばあちゃんとかだったら少し話は変わるんです。ばあちゃんは70年以上の長い人生を歩んできて、だいぶ体は小さく細ってきたけどコミュニケーションだってとれる。ばあちゃん自身が自分の体調の変化や体の衰えを理解していて、それを受け入れて生きているのも、話していて感じ取れる。だからついスーパーでお菓子ばかり買うのだって、本当は体に悪いし止めるべきなのかもしれないけれど、でも食欲あるだけいいよねって、そう言って笑ってるばあちゃんが幸せそうだし、まあ長生きは勿論してほしいけれど、人生100年だとしてもう折り返し地点を超えているんだから、私がとやかく言うよりもばあちゃんがしたいことをして、やりたいように生きてもらったら私もそれで幸せだなあって、自分を納得させることができるわけです。だけど、犬は、動物は、彼らが本当になにを望んでいるかなんてやっぱり、100パーセントわかってあげられないから。どれだけ側にいても、長い時間を共にしたとしても、やっぱりどこかで見えない壁がある気がしているから。長生きしてほしいと思って私が取っている行動だって、私のエゴなのかもしれないし。そもそもペットとして自分たちの生活の一部になってもらったことだって、人間のエゴだし、でもそうやって彼の人生を引き取ったからには、とことん幸せだと思いながら毎日を過ごしていてほしいし、でも彼の気持ちを完全に理解することはきっと一生無理。私はそのジレンマと悪循環にもどかしさを覚えるだけ。

 

誰かに出会ったり、その人の生活の一部分になったりすることは、決していいことや幸せなばかりじゃない。私は自分を取り巻く人々が私の生活からいなくなることが全く想像できないし、考えられないくらいに怖い。でもそれよりも、私は自分がこの世からいなくなることのほうが遥かに怖い。それは死という現象の得体の知れなさだけが理由じゃない。私を取り巻く人々の人生の中で、私はその人生を構成するひとつのパーツとして機能してしまっているから、そのあるべきパーツが欠けてしまったときの悲しみを想像すると、心底いたたまれない気持ちになる。人と出会う、その人の生活の一部になるということは、たぶんそういうことなんだと思う。誰か寄り添う人がいるという喜びを感じるとともに、いつかそれを失うというわかりきった事実と折り合いをつけて生きていかなければならない。私はいつのまにか世の中のそういった事実に気がついてしまって、解決策なんてないのにそういうことを深々と考えるようになってしまったから、ペット飼うのにはとことん向いていない人間だなぁって、思っている。

 

それでもいざ彼を失ってしまったら、私はどうしようもなく寂しくなって、また彼のように自分と自分の生活に寄り添ってくれて、癒しを与えてくれる存在を欲してしまうのだろうか。でもやっぱり、ペットという存在はありふれた日常を素晴らしく彩ってくれる代わりに、背負う責任だってすごく大きい。動物を飼うのならば、大人の人間同士のような小賢しさや気まぐれさは、絶対にあってはならない。

 

だから私は、これからきっとペットなんて飼わない。

 

 

大人になれたかどうかはわからないけれど、スティーブジョブズに共感できるようになった。

 

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

 

自分はいつでも宙ぶらりんになっている気がする。世界は分断されていて、あーゆう系の人たち、こーゆう系の人たち、本を読むのが好きな落ち着いた人たち、常に友達と遊んでいる陽気な人たち、みたいに分かれていて、私はそれのどこにも属すことができずに、そういった人たちの両方と、自分の異なる側面を小出しにしながら関わっている感じ。完全に属せるような、自分を分類させることのできるような世界など、この世に存在しないように思う。それは、例えばBTSのジョングクさんのような、黄金マンネだから!超すごいから!前例なんてないから!とか、そういった意味で感じている訳ではないけれど(最近BTSにハマっています)。べつにどこかに属したいわけでもないんだけど。世界が分断されているように感じるのだって、結局のところ私の偏見でしかないし、そんな見えない壁など存在しないのだろうけど。

 

でも、私は、そんな自分が好きです。宙ぶらりんの自分。というか最近、好きになりました。色んな人たちと広く浅く結びつくことのできる自分、そこが好きだし、それが強みだと思っている。でもたまに、少し寂しくなる。完全に自分を理解してくれる他人などいないけれど、他者が思う「私」と、私が思う「私」に齟齬があるなあ、と感じるときがたまにあるから。

 

どうして人は、他人をわかりやすくまとめたり、分類したりしたくなるのでしょう。一度抱いたその人の印象や、一度そうだと思ったその人の属性があったとき、その像から外れたような側面がその人から見えてしまったら、「あー、なんか違ったわ」なんて、そんなふうに思ったり、思われたりしてしまうのでしょう。人間なんて一言にまとめられないからこそ人間で、一括りにできないからこそ面白いのに、なんて思いつつ、それでも私は、そんな自分に自信がなくて、他人から「あー、なんか違ったわ」と思われるのが怖くて、昔はわかりやすい「私」になろうとしてた。極端になろうとしてた。一人が好きならそれらしいキャラでいなくちゃいけない、友達と騒ぐのが好きなら常に元気いっぱいでいなくちゃいけない、でもやっぱり、そんなの無理だった。そんなの自分じゃなかった。

 

新しい出会いはいつだって自分の心を踊らせると共に、その人が抱く「私」という幻想に触れるたび、少し怖くなる。私そんないい奴じゃないから、とか、そういうことを言っているんじゃなくて。お笑い芸人みたいにボケたりつっこんだりをリズミカルにしたいときもあれば、オチのある話なんかクソくらえ、みたいな気持ちで、人生や愛について真剣に話してみたいときだってあるんです。皆んなにおかしいと言われることでも、ダサくね?とか、それはなくね?とか馬鹿にされるようなことでも、自分が好きだからやりたい、自分が楽しいから貫きたい、そういうときだってあるんです。

 

大人になったと感じるのはどんなときですか?という問いに対する明確な答えは、自分でもわかりません。そもそも自分は歳を重ねているだけで、大人になったという心地さえしていません(当方、数年前に成人済みです)でも、そんな20数年の人生の中でも、ほんの些細な点と点が繋がって、自分はここまで生きてきました。せめてもの思いで答えるならば、自分が大人になったと感じた瞬間は、スティージョブズに共感できるようになったとき、ですね。かの有名なスタンフォード大学卒業式のスピーチ。Connecting the dots(点と点をつなげる)というお話。ジョブスさんのスピーチに出てくる彼の「点」は、そのひとつひとつが濃厚で、たしかにバラバラではあれど、存在感の強いものでしたが、私にとっての点というのは、そんなに大それたものじゃなかった。でっかいでっかい存在感のあるマル、いかにも大事です!重要です!ターニングポイントです!と主張してくる図々しい奴というよりは、その時点では、これからの人生の中で一つの点になるのかさえもわからない、むしろ、もっと主張してきてよ、わからないじゃん、なんて文句を言いたくなるような、そのくらいにとても些細で小さな粒。

 

それらを無意識に蓄積していくうちに、私は自分のことを少しずつですが、好きになれました。私の点はそのひとつひとつが大きいわけではないけれど、それでも個性的で、色んな場面で色んな経験をして、オリジナリティだけは確固としてそこにある。バラバラな要素で出来上がった自分、様々な人と関わる自分、色々な顔を持つ自分。そんな自分は芯がぶれぶれのようで、どこにも属せていないみたいで、なんだかひどく嫌気がさすときもあったけれど。スティージョブズに共感できる器になった今、私は自分の、そういう多面性を愛しています。そして、これからも大事にしたい。だからもしこの文章と向き合うあなたが、そういう多面性を内面に抱えているとすれば。本音と建前ではないけれど、自分だけのオリジナルルートで、点と点を重ねた人生を歩み、そこにあなたらしさを滲ませているのであれば。そういう人たち、私は大好きだし、自分の個性も他者の多様性も、ずっと尊重できるような人間でいたい。大人というのは結局なんなのか、それは今でもわからないけれど、歳を重ねて筋肉痛が遅れても、二日酔いの度合いが年々ひどくなったとしても(飲み方が悪いだけ?)、私はずっと、そういう人間でありたいと思う。

 

 

 

地元の話

 

 

やっぱり帰ってきて早々、地元が嫌だ。

ここは東京やシンガポールに比べたら土地は大きいはずなのだけれど、人間関係は妙に狭くって街に繰り出せばすぐに知り合いに会う。そして初対面の人でも話し込むうちにすぐに共通の友達とか誰かしらと繋がる。そんな場所だから飲み会のネタになるのはもっぱら他人の噂話ばかりで。それはまあ全然いいんだけど、そういうよくわからない変な好奇心で私の内情にも探りを入れてくる人がいるのがなんとも居心地が悪い。

 

私は他人と分かり合うなんていう現実をとうに諦めていて、だからこそ自分の夢だとかこれからの人生だとか価値観だとかをそこまで親しくもない他人と共有することに何の意味も見いだせないし、そういう会話をしたしくない他人とすることをひとつも望んでいないのだ。特にこの閉鎖された地方都市においては、なおさら。他人と違う行動を起こす人について、その行為の意図とかそこに至るまでに何があってどんなことを考えていたのかとか、そういうのは全く理解されなくて、ただその行状だけを好奇のまなざしで見つめられる感じ。そんな人たちに自分の話をするほど無駄なものってないよ。自分の心に、頭に確かに存在する何かのビジョンとか野望とかが言葉として外の世界に放たれるだけでなんだかもうその濃度が100分の1くらいになる感じがするのに、それが私を取り巻く人たちの間でひとつの話のネタとして他人から他人へとわたっていくことを考えると、その気持ち悪さといったらこの上ない。それはもうなんの中身もない空っぽの、体裁だけを保った言葉でしかないのに、それがまるで私の今を描写する唯一の名刺として自分の知らないところでどんどんばらまかれていくの。もう本当に、私はこの場所のこの環境の、こういうところが嫌いだったんだなと、なんだか実感させられる。私はこんな田舎育ちだから東京に行ったらそわそわするし、ちょっと怖気づいたりするけれど、それでも「東京の人は冷たい感じがする」なんて、よくある常套句を不満げに唱える気なんてさらさらない。そのくらいのつめたさがちょうどいいと感じる人間だって、いる。

 

私は他人は他人だと思っていて、話の内容はできるだけ上辺をなぞっていくような浅はかなものであってほしいと思うし、何のためにもならないような、心底どうでもよくてくだらない何かで笑い合っていたいと思う。もし誰かの将来の話や夢の話を聞くのであれば、それはそれを迎え入れるだけの私なりの誠意ある姿勢で受け入れたいと思っているし、でもだからってそんな真摯な対応をいつ何時もあらゆる人に対してとっていけるほど私はお人好しではないから、やっぱり基本的には他人と浅く、自分の親切さを保てる範囲で関わっていたいと思う。だからこそ、他人が私の内情について軽々しく土足で踏み込んでくるのはなんだかすごく嫌で、でもこの考えがわがままっていうのもわかる。いろいろ踏み込むのは好きにして、でもそうするんならそれなりの心構えできてよね、じゃなかったら私はあなたと前日の晩御飯が何だったかについての議論しかしたくないよ、なんて、こんなのだってただの私のルールでしかないもん。私の中の勝手なこだわりと好き嫌いであって、それを他人に押し付けるのは自分勝手だ。それでもなんだか此処に強く根付いている少しだけ時代遅れな感じが居心地悪くてたまらない。あなたに興味がありますという風を装って、でも結局みんなだって私と同じように自分のことが誰よりも大事でかわいくてしょうがないんでしょ。だから、好意とか興味とかそういうののフリをしてやってくるものたちに、私はものすごく冷たい感情しか抱けなくて、ただの野次馬精神をその奥に見据えてしまう。

 

噂話として流れるように浮遊するだけなら、まだいい。それについてとやかく言う人は本当にどうしようもないなと思ってしまう。なんでもかんでも否定する人、いじる人。過去にそういう人に何人も出会ってきたな、そういえば。そういうアウトデートな人たちは、いじったらなんでもかんでも美味しくなるわけじゃないし、面白くなるわけじゃないし、それでいじられた人がいい気持ちになるわけじゃないということに怖いくらいに鈍感だ。何でも揚げ足をとって茶化す文化やめたらいい。本当、それが苦しい。これいじりだからさ、これガチじゃないからさ、なんて、それ言っておけば何でも言っていいわけじゃないことくらい、もうわかってほしい。そういうので抗ったらノリが読めてないみたいなのもばからしい。なんだよノリって。みんな決してデリカシーがないわけじゃないけれど、そのレベルがなんだかすごく緩くて、低い気がしてならない。なんて、こんな私が偉そうに言うのはきっと生意気すぎるのだろうけど。

 

今日は少し攻撃的な表現が多かったかもなぁ。ごめんなさい。

 

※ 2020年3月に書いたものです。攻撃的だけどなかなか好きな感じだったので今更あげます。ちなみに今はここまで尖っておりません。大量の雪に飲み込まれながら、毎日穏やかに過ごしています。

 

 

人間淘汰

 

 

 

 

他人の人生の背景となって生きていきたいと、自分は言ってた。もう二ヶ月以上前になるんだ、まだ私がシンガポールに住んでいたとき。その時すごく心が身軽だった。人と離れること、人と会えないこと、それが物理的な距離で絶対に無理だと約束されている、その環境がすごく心地いいと思えた。だから帰国して、また物理的に人に会える距離感に戻ることに、怯えていた。また心を蝕まれて、他人のことばかりを気にする、そんな自分に逆戻りしてしまう気がして。

 

でもそんなことなかったんだ。世界に大きな誤算が起きた。外に出れないのだ。体は健康で、娯楽施設は整えられ、天気もよく、すぐ連絡をつけて会いに行ける人々が居るというのに、それが突然許されなくなった。まさかここまで事態が大きくなるとはな。それが正直な心の声だった。

 

みんながオンラインであらゆることを楽しむ時代だ。それしか手段がないからしょうがないし、でもしょうがないと形容するのは恐れ多いんじゃないかと思うほど、今ではみんながそれを心底楽しんでいる。いくつかネット記事を読んだ。ワイドショーで取り上げる「オンライン○○の楽しみ方」や、ソーシャルメディアにあふれるZOOM飲み会ネタやその事後にアップされる「楽しかったね」「コロナ終わったらまた飲みたいね」そんなありきたりな決め台詞には飽き飽きして、そうじゃない記事やブログに出会った時は、まるで嬉しくて飛びついた。インターネットが窮屈だと、そんな意見があった。私は結構、それに共感してしまうんだ。

 

 

人に会わなくなるのが必然だ。皆んな口を揃えて寂しいと言う、SNSをスクロールするたびに溢れる言葉たちに、そこからはみ出る各々の手に、私は首を絞められた気になった。まるでそれが今の模範解答みたいで、苦しかった。私は別に、寂しさなんてなかったから。

 

稀に誘われるzoom飲み会のふんわりとした断り方を体得して、自分を囲う人間関係は淘汰に飲まれていく。暇さえあれば飲みに出かけていたくせに、一人に慣れると一人に対して我儘になる。自分の時間を蝕む人をどんどん排除して、気がつけばこんなときでも繋ぎ止めておきたい、そんなものだけが私の周囲をわずかにかくまっている。

 

この生活がずっと続くのも、これが生活のスタンダードになるのも、悪くないよな。そう思い始めていた。緊急事態宣言が解除される中、だから私は、少し置いてけぼりを食らっている。

 

 

 

 

不要不急の感情ごっこ

 

 

みんな必死に、自分が生きる毎日に抑揚をつけようとしている。人々が疲弊し、心を荒ませ、自分の意見や主張、感情、考えをここぞとばかりにオンライン上で爆発させるのは、このおバカなウイルスが急速に拡大しているせいなのか。そのストレスのせいなのか。私はそんなの、今に始まったことじゃないよなあ、なんて思って、人々の叫びをスクロールする。なんでもかんでもそいつのせいにするのは如何なものか、とも思う。誰かを標的にして、何かを標的にして、それを責めることで、心を紛らわす。その行為が自分の心に余裕を与える。こんな自粛ムードの世の中で、激動の感情を内包し、それをここぞとばかりに発信することで、この味気なくて先の見えないシチュエーションに味をつけようとする。旅先で出会える新しい景色や、おしゃれして出かけるときの高揚感、外で食べる美味しいご飯、おしゃれなカフェやレストラン、そして、それらを顕示することで得られる優越感と、満足感。私たちの生活を彩っていたのは間違いなく「不要不急」にあたるものたちばかりで、それを突然、一気に奪われてしまった私たちは、そうやって何かを標的にしたり、それに対して大袈裟な感情を抱いたり、そういうことを通してしか人生に色をつけられなくなっているのかもしれない。

 

このソーシャルメディア時代に流れる意見や批判の殆どは、直接的な被害に対する糾弾ではなく、政治家であったり、著名人であったり、何も知らない他人だったり、そういう人々に対するものだ。直接的な関わりのない他人に対して、みんな怒る。みんな物申す。なんだか気持ち悪いなあ、と思ってしまう。そんな私は甘ったれているのだろうか。何かを強く批判する人を見ると、じゃああなたがやってみたらいいのに、とか、じゃああなたがその立場だったらどうしてたの、とか、私は言いたくなってしまう。そんな私は冷たくて、底意地が悪いのだろうか。もちろん私も、いや、それはないだろ、なにしてんだよこいつ、なんて思うことがないわけではない。けれど、それはそれであって、起こってしまったことはもう、変えられないのだから。そんな事象をいちいち引っ張り出して、揚げ足をとって、感情を爆発させることは、私はしないし、やる気が出ない。それが遠い存在の他人であればあるほど、どうでもいいと思う。なんて言ってたら、もっと問題意識を持てとか、今起きている現実と向き合えとか、こういう若者がいるから日本はだめなんだとか、私自身がまさしく何かに対して怒りたい人や物申したい人の矛先として、大活躍するのかもな。その可能性は全然、ありえる。でも、それで誰かの人生に刺激を与えることができるのならば、悪くはないよな、なんて思う。

 

死ぬまでにやりたいことは?と聞かれても、とくに何もないかなあ、と答えるような人間が、自分だ。恋愛や対人関係で頭を悩ませ、そのおかげで泣いたり、眠れなかったり、必死に他人の気持ちを探ったり、昔はそんなことをしていたはずなのだけど。私はいつのまにか、そんなのなくたって人生生きていけるんだって、気持ちから可能な限り目を逸らして、事実だけを抽出するような生き方ができるんだって思って、不要不急の感情の起伏を、どこかに置いてきてしまった。そういった人生は生きやすいということに、たかが20数年生きただけの若造だけれど、どこかで気がついてしまった。そのライフハックのようなものを抱えながら、ここまで生きていることに気がついた。どうしようもなく乾燥しきった自分の感性を、私は結構気に入っている。