トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『災厄の町』エラリー・クィーン著 やっぱりエラリー・クィーンは私には合わないと思った。

 

途中まではほんとに面白く読んでいたのだが、とうとう嫌になり、後は結末を知るためだけにせっせと読んだ。

エラリー・クィーンが私に合わない理由が分かった。

登場するメインの女性が嫌い。感情移入はまったくできない。

彼らは女性の描き方が下手なのではないだろうか。と言うか、女性を人間として見ていないんじゃないの

事件の中心人物のノラ・ライト。結婚しようとする相手が「自分の力で生きていきたい、ノラの両親の援助はなるべく受けたくない」と言うなら、そうすればいいのではないか。ジムを愛しているなら、そのくらい決断したらどうか。

ノラは感情的で繊細ぶってる私のいちばん嫌いなタイプ。繊細なのとわがままとは違うでしょ。

ライト家の三女パトリシアはノラよりましだが、やたらにエラリー・クィーンにしなだれかかるところが嫌だ。婚約者がいるのに! 寝室に入れたりして、誘惑しているとしか思えない。

ジムやブラッドフォード(エラリー・クィーンも!)がこの姉妹に首ったけなのは、美人だからなのだろうと思う。その他に魅力は感じられない。美人は正しいのだ! と諸星あたるのようなことを主張されたら一言も無いが、納得はできない。

ライト夫人と気が合わない長女のローラやローズマリイという女性はおもしろそうなのに脇役でしかないのが残念だ。ローズマリイは悪女のステレオタイプで、女性の描き方が下手だと思わせるゆえんでもある。でも、この悪女ぶりはいい。

エラリー・クィーンも、パトリシアといちゃいちゃしている間に事件の真相にもっと早く迫れたのではないか。

その他いろいろ納得できないところが多かった。

わたしの「押し」が不幸になる理由を考えたら子どもへのスタンスが変わった

私の「押し」は不幸になる(ことがある)。

きらきら輝く可能性のあるタレントを見つけるのが私はうまいと思う。私の「押し」はたいてい躍進する。

ところが輝きの絶頂でこける(ことがある)。

芸能人の浮き沈みはわかりやすい。見ている間に、そうなる。

もちろん私に人の運命を左右するような力は無いが、それでも少しばかり影響はあるのではないかという気がしてきた。私や、私に似た人たちのエネルギーが注がれると、注がれた人の足を引っ張ってしまう気がしてきた。心に闇があって、暗い気持ちから逃れようとしてテレビや映画の中の人物にすがると。

やっぱり注がれるのがネガティブな人のエネルギーかそうでないかが関わってくるのではないだろうか。

たとえ「応援」であるにせよ、ネガティブな人のエネルギーを受けることはけっして受け手の波動を上げることにつながったりしないのだと思える。下げることもあるのかもと思うと恐ろしい。

芸能人は多くの人間のすごいエネルギーを放射されてスターになっていくのだろう。注がれるエネルギーにはポジティブなものもあればそうでないものもあるに違いないが、それらすべてを揚力として上昇し、天空にあり続ける。

でももしピンポイントでネガティブなエネルギーを受け止めてしまったら…… ちょっとした心の隙に変なエネルギーがぴゅっと入ったりしたら。

どうしても応援したくなる人がいる。

その人のためを思うなら、明るい温かい波動を発したいものだ。そうでなくては贔屓の引き倒しになっちゃうかも。因果関係はもちろん不明だが、そんなこともあるかもと思ったりするのだ。

そこから自分の子どもたちへの対応を考え始めた。

私のいちばんの押しは子どもたちだから。

時々心配でならなくなる。何か言ってあげなければと焦ったりもする。それって良くないのではないか。

成人した彼らに私ができることはもうほとんど無いのが事実だ。

今の結論はこちら。

①相談されないかぎり心配しない。助言もしない。

②信じてあたたかく見守る。

③来る者はこばまず。遊びに来たら歓待していい。

④去りゆく者には祝福を。寄り付かないときは遠くから幸せを祈る。

⑤自分自身が明るく生きて幸せでいる。安心の波動の存在でいる。これがいちばん大切かも。

この五つのモットーで自分も楽に生きれそうな気がしている。

もしかしたら自分の親もこんな気持ちだったのかもしれない。

ERICA MIYASAKA 著『自分を変えるには2週間しかいらない』にインスパイアされた

 

この著者が好きで、出ている本はほぼすべて読んでいる。本を買って、ときおり読み返して気分を上げる。

好きな所は、いじましくないところ、すっきりした言葉を発するところだ。

成功者であってもどこかいじましい人がいるが、彼女の場合は自分に誇りを持っている。でも自慢はしない。彼女が成功体験を語る時、それは「私を認めて!」という自慢じゃなくて、こうしたらこうなりましたという単なる事実だ。後に続く者、彼女と出会った人へのエールでもある。

彼女は失敗や嫌な体験についても淡々と語る。だまされたり、イジワルされたり、イジワルされたと自分が誤解したりしたこと。友達に誤解されたこと。彼女は不用意に「私の周りはいい人ばかり」とか言ったりしない。

そうなんだ、みんなそういうことあるんだよね。それでも元気を出して、自分を信じてサクサク歩いていくんだよね。

いろいろあっても彼女の人生は明るく元気いっぱい。問題はあっても乗り越える。暗くいじましい苦労とは無縁だ。

そういう人生の楽しみ方のヒントが、私が彼女から得る最大のものだ。

P120 毎日の生活にワクワクすることを加える

  なんかごく最近まで「好きなこと=ぜいたく」だと思い込んでた気がする。

 戦中戦後(!)の「ぜいたくは敵だ!」が骨身に染みている母に育てられたせいだ。母の時代はほんとにそうだったのだ。楽しいことはしちゃいけないと刷り込まれた。

 大人になって、良かった。蕎麦屋で昼酒することも、ひとり旅も、していい。好きなだけ本を読んでもいい。そういう楽しいことをするために生きているのだ。

 それは小さなことでもいいとエリカさんは教えてくれる。公園を散歩するとか、気に入りのカフェでまったりするとか、好きな椅子に坐って面白い本を読むとか、そういうささやかなことでいいのだ。「毎日のちょっとしたスペシャル」という言い方もされている。

 一日の中に自分がワクワクする楽しいことを入れていく。それは毎日あっていいことだ。企画も実行も、誰かがやってくれるのではない。自分で考えて、自分にプレゼントするものだ。

 ここまで書いて、私が「気が合わない」人たちがどういう人たちなのかはっきりした。「群れる」人だ。旅行でも散歩でも、一人で行けない人たちがいる。都合よく「仕切りたい」人もいて、引率していく。「一人では行けないし、みんなと一緒の方が楽しいから」とぞろぞろ道を広がって歩く人たち。が、嫌いだ。

 これは女性に限らない。最近では熟年のおっちゃんたちが熟年のおばちゃんに連れられて歩いている。その特徴は、仲間内の人間関係を重んじてまわりの迷惑を顧みないことだ。静かに談笑したり、できない。数を頼んで哄笑し、近くにいるおとなしい人を圧迫する。

 エリカさんは孤立しているわけではなく、すてきな友人や仕事仲間がいるようだ。でも群れない。それは一人の時間が充実していて、自分の時間を自分で組み立てることのできる人だけにできることだと思う。

 たぶん私よりエリカさんはずっと若いとは思うが、私にとってそうなりたいメンターの一人だ。

P121  新しい世界へ自分で自分を連れて行く

P177 未来の自分を応援する

P180 がんばる気持ちを持続させるごほうび

 とにかく自分で盛り上げていくことだと思う。

 

トマトの補足 ⑴自分で盛り上げなければ誰も盛り上げてくれない。

       ⑵「盛り下がる」ことを言う人が必ず出てくる。心に灯した明かりに水

        をぶっかけてくる。そういう嫌な奴は相手にしない。

「お母さんの弁当、見劣りするよ」と息子が言った

今週のお題「お弁当」

下の子が中学生のとき。ある日帰宅して弁当箱を出しながら、

「お母さんの弁当、見劣りするよ」

と言った。

他の子の弁当は色とりどりでぎっしり詰まっていると言う。

今思い出しても申し訳ない思いでいっぱいになる。ごめんね。

しかしその後も弁当は改善されなかった。

仕事してたし、やりたいことがたくさんあり過ぎて、ワンオペだったし……

言い訳だよね。ほんと、ごめん。

しょぼい弁当でもぐれもせず、立派に育ってくれてありがとう。

宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』は最高にかっこいい小説だと思った

 『成瀬は天下を取りにいく』

この題名からして最高にかっこいい。

読んでみてその予想は裏切られなかった。

 

あらすじ

成瀬あかりと友人島崎みゆきの小学校から高校までの物語。

「いつだって成瀬は変だ」

何においても常に周囲から頭一つ優っているが成瀬は変わっている。

「走るのは誰より速く、絵を描くのも歌を歌うのも上手」だった幼稚園時代。小学校に上がると学力でも他を寄せ付けない。

そのために孤立するようになるが、成瀬は淡々としている。

ある時、同じマンションに住むみゆきに「島崎、わたしはシャボン玉を極めようと思うんだ」と告げた。そして「天才シャボン玉少女」としてテレビのローカル番組に出演する。

翌日クラスの女子たちは成瀬のまわりに集まった。

そうなっても成瀬あかりは態度が変わらず、飄々としたままだ。

島崎みゆきは成瀬と違って「凡人」だと自分で思っている。小学生時代は自分がいじめられるのを恐れて孤立している成瀬から距離をとっていた。

中学校に入るとクラスは別だったが、同じマンションなので一緒に登下校していた。

成瀬は他人の目を気にすることなくマイペースに生きている。

中学二年の七月三十一日、成瀬は「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」と告げる。

大津市唯一のデパート西武大津店は一か月後の八月三十一日に閉店することになったのだ。西武大津店はデパートと言っても銀座の三越みたいなイメージではなく、地元に密着した普段使いの感じのデパート。そこから五分の所にあるマンションに住む成瀬にとって特別の思い入れのある店だ。みゆきは他所から引っ越してきたのでそこまでの思いはない。

「夏を西武に捧げるって?」

「毎日西武に通う」

そしてみゆきに「ぐるりんワイド」というテレビが毎日生中継するからそれに映り込む自分を毎日チェックしてくれと頼んだ。

ここから物語が動き出し、二人はコンビになっていく。

 

感想

成瀬の生き方は胸がすっとする。マイペースだけれど冷たいわけではなく、友情も地元愛も深い。大きな目標をいくつも上げるが達成できなくても気にしない。たくさんトライしてどれか達成できればいいし、どうなってもそれなりの成果はある、という考え。

こんな生き方ができればいいなと思わせる。独特の話方も好きだ。

対するみゆきは成瀬のような「変」なところはなく、常識人でコミュニケーション能力も高い。空気も読める。

しかしみゆきはけっして成瀬の影ではない。成瀬がマイペースであるようにみゆきの軸もぶれることはないのだ。

ふたりの距離感がとてもいい。

成瀬の痛快な生き方に癒される。

 

ひとりさんからの学び「波動を下げてはいけない」=良いお知らせと悪いお知らせがある

とんでもない間違いをしてしまうことがある。

大失敗。

ものすごく後悔すること、みんなあると思う。だが後悔しつつも、なぜ自分がそんなことをしてしまったのかさっぱりわからないというのが私だ。

だんどりをつけてあり、その通りにすれば何の問題もないという場面。そのとき何者かが私にささやく。「こっちのやり方のほうがよくなくない? いいかもよ」「今がチャンス!」悪魔のささやきだ。

冷静に考えればそんな馬鹿なこととわかるのに、ふっと出来心でやってしまう。

何十年も前だが、ファックスの誤送信というのをやってしまったことがある。いつもくどいくらい確認してから「送信」を押す。それなのにその時に限り、「さっさと済ませようぜ!」「いちいち心配すんなよ」と誰かが耳元でささやき、えいっと押してしまった。その後すぐハッとして確認。(遅いってば!)

誤送信。わりと個人的な情報を関係ない人に送ってしまった。

このささやきは、いわゆる悪霊ではないか。

波動が下がっていると悪霊が寄ってくるそうだ。波動が下がっていたのでは。

実際その仕事が嫌になってきていた。でも頑張らねばとカラ元気を出してせかせか仕事をこなしていたのだ。自分がへこたれていることに気づいていなかった。

波動が上がっている時は直感で行動してOKだけれど、波動が下がっているときに直感で行動すると飛んでもないことになる。

波動が下がっているときに苦しい気持でがんばってはだめなのだ。まず一回休んで、クリアな気分になってからでも遅くない。その、うっと落ちている自覚がないとき、悪魔のささやきがやってくる。このままではだめだ。なんとかしなければという不安に突き動かされて何かやってしまう。「がんばろう」とエネルギーを振り絞る。

魔が差すってこういうことかもしれない。だまされたり、いじわるをしてしまったり、悪事に手を染めてしまうときって、そんなときではないだろうか。このままではだめだ。こうするしかない。って。

子どもに対する言動を考えるとそのことがはっきりする。

子どもが心配になり、自由にさせておくのが怖くなる。ごく幼いときに突然危ない方へ走り出したりするときは素早い対応が必要だが、そうでない普段の場合だ。何もないのに不安になる。いろいろ禁じたり、今まで自分が身に付けたタブーみたいなものを押し付けてしまったり。お前が心配なんだよという思いをぶつけてしまったり。

子どもに対してできるのは、できるだけ楽しく自分が明るい気分でいることと、信じることだ。安心の波動を出していることが大切だ。ほかにできることは無い。

これもひとりさん(斎藤一人さん)の教えだけれど、ほんとうに腑に落ちることだ。

でもって自分自身に対してもそうなのだと思う。楽しく明るい気分でいて、安心している。自分を信じる。そういう状態で初めてちゃんと行動できる。そういうときに思いついたことはけっこううまく行く。よいお知らせが来るのだ。

暗い気分で不安で自信がない状態で、なにかせねばと悩み苦しみながら行動するとさらなる苦難がやってくる。悪いお知らせが来る。悪魔のささやきが降りてくるのはそういうときだ。

なんてことを考えた。

 

 

モンゴメリ『青い城』のヴァランシー・スターリングにエール! しかし結局シンデレラなのか?

赤毛のアン』のモンゴメリプリンスエドワード島じゃない場所を舞台に描いたロマンス。そして中年にさしかかった惨めな女の自立と再生の物語。

 

あらすじ

ヴァランシー・スターリングは29歳の「オールドミス」。たぶん現代語で言うなら「負け組」って言葉になるだろう。

細いまっすぐな髪、血色の悪い顔、平たい胸、低い身長、輝きの無い褐色の目。美しくも醜くもない。そんな外見の彼女の心はいつもひどく惨めだ。一度も結婚していないということではなく、一度も男から望まれたことがないという事実が彼女を惨めにさせている。

そして悲惨な毎日。彼女が母フレデリック夫人と従姉妹のスティックルズの三人で住んでいる家は美しい所がちっともなく、殊に彼女の部屋は醜く住み心地が悪い。その部屋で許されているのは眠ることと着替えをすることだけ。高圧的な母のもとで彼女はくしゃみすら遠慮しなくてならない生活を強いられている。

親戚縁者たちも彼女を馬鹿にしている。支配する者、マウントしてくる者たちはいるが彼女を愛し大切にしてくれる人間はいない。叔父や叔母たちのパワハラ、セクハラ、モラハラ雨あられと彼女に振りかかってくる。名前すら、大嫌いな呼び方の「ドス」と呼ばれているのだ。

ヴァランシーは好きな本を自由に読むことが許されていない。小説ではないということでぎりぎり許されているジョン・フォスターの本だけが楽しみだ。動物や昆虫など自然を描いたその本を、ヴァランシーは暗記するほど読み込んでいる。次の本を図書館に借りに行くことさえ、許可を得るのが至難のことなのだ。

彼女のもう一つの楽しみは空想の中で「青い城」に住むこと。美しいその城の主である彼女はあらゆる美しいものに取り巻かれ、大切にされ、ロマンスもふんだんに味わうのだ。

彼女の生活に転機が訪れ、彼女が自分の「青い城」を見つけるために出発するきっかけとなったのは雨だった。

雨のため彼女の大嫌いな「ピクニック」が中止になった。ヴァランシーはしばらく前から心臓に痛みを感じることがあった。彼女は一族のかかりつけの医師ではなくトレント医師の診察を受けに行く。トレント医師の息子の事故の知らせがあり、ヴァランシーはその日診察の結果を聞くことができなかった。

後日届いたトレント医師の手紙は衝撃的だった。ヴァランシーの命はあと半年だと言うのだ。

その知らせがヴァランシーを覚醒させる。

このままの人生がいつまでも続くのだと思っていた。「いつもおびえていて逆らうこともできず言いなりになっていた」ヴァランシー。しかし余命いくばくもないと知った時、もう何も怖いものはなくなった。恐れから自由になったのだ。

これまで、あたしはずっと、他人を喜ばせようとして失敗したわ。でもこれからは、自分を喜ばせることにしよう。もう二度と、見せかけのふりはすまい。

今までやりたいと思っていたことを全部やるのは無理かもしれないけれど、やりたくないことは、もう一切しないわ。

おかあさんがふくれるなら、好きなだけふくれていればいいわ。

ヴァランシーの住む町には「がなりやアベル」と呼ばれる便利屋の老人がいた。便利屋は彼一人しかいず、町の人たちは飲んだくれで口の悪いアベルに辟易しつつも家のメンテなどは彼に頼るしかない。ヴァランシーの母も玄関のポーチの修繕をアベルに依頼する。

作業しているアベルに話しかけるヴァランシー。母はそんな男と話をするなと家の中へ入るよう命じた。しかし、「一度やってしまったら、反抗することなどいともたやすいこと」なのだ。ヴァランシーはがなりやアベルと話し込む。

アベルには父親のわからない子供を産み、その子を病気で死なせてしまったシシイという娘がいる。かつては美しかったが不運な娘だった。今シシイは病身で死を待つばかりだ。それなのに家政婦を追い出してしまったためシシイのめんどうをみてくれる者がいないとアベルは話した。町の者たちはみなシシイはふしだらな女だと言い関心を持とうとすらしないのだ。

ヴァランシーは自分がシシイのめんどうをみようと決意する。家政婦としてアベルの家に住みこむことにしたのだ。

それからのヴァランシーの行動はスターリング一族を震え上がらせ、憤慨させることばかりだった。しかしヴァランシーはもう一歩も退かなかった。

ヴァランシーは幼いころ自分の作った泥饅頭を友達に奪われたことがある。彼女の泥饅頭は美人で人気者の従姉妹オリーブの泥饅頭を大きなものにするために使われてしまったのだ。彼女は「死ぬ前に一つでいいから、小さくても、自分の泥まんじゅうをこしらえたい」と決心した。

アベルの家で家事とシシイの看病をし、生き生きと働く毎日は楽しかった。自分が他人の役に立っていると実感できたし、誰に遠慮もなく自由にふるまうことができた。

アベルは粗暴だが悪い男ではなかった。アベルの友人のバーニイ・スネイスはアベル以上に評判の悪い男で、犯罪者ではないかとすら噂されていた。ミスタウィス湖の中の島に一人住まいをしているバーニイ・スネイスは実は親切で、温かい心を持っている。シシイのために買い物をしたり花を持ってきてやったりする男だった。

シシイを看取った後ヴァランシーは母の家に帰るよりはとバーニイ・スネイスと共に暮らすことにする。ここからまたヴァランシーの人生は急展開を見せるのだ。

感想

怯えと怖れに捉われていたヴァランシーが自分のために生きようと決意する姿は感動的だ。

斉藤一人さんの「他人の機嫌を取らず自分の機嫌をとれ」という教えにまさに該当する学びを、死を目前にして得たのだ。

これって、でも、余命宣告を受けなくてもありうることだ。いつ死ぬかわからないという点では全員がヴァランシーと同じなのだ。

だから私たちは今すぐにでもヴァランシーと同じ決心をするべきだ。他人の機嫌を取るのを止めて、自分を幸せにすることに専念する。自分の泥饅頭を作る。

ここまではいいのだが、そしてヴァランシーが自由と幸せを手に入れる結末もいいと思うが、大団円の内容が「金と名声を持つ男との結婚」というシンデレラ的内容。これってどうよ? と思ってしまう。せっかく家政婦という仕事で経済的に自立したのに、こうなるか。

そう言えばレドモンド大学を卒業して文学士になったアン・シャーリーも結局教師を止めて医師の妻になったんだっけ。自分も専業主婦だしべつに悪いとは思わないが、なんだか残念ではある。

時代なのだと思う。