やすだくんの舞台を観るのも五作目になった。
感慨深い。
オタク元年『忘れてもらえないの歌』に始まり
『閃光ばなし』
『少女都市からの呼び声』
そして今作『あのよこのよ』
作・演出は青木豪さん。
2019年、沼落ちする前に上演されてレビューを読むたびに観たかったとハンカチをかみしめていた『マニアック』を手掛けた方。
やすだくんが演じるのは明治黎明期を生きる浮世絵師、刺爪秋斎。
さしづめって変わったお名前だな~面白いな~青木さんはどんな風にお名前を考えるんだろうな~と意味を検索していたら「さしづめ」にはよく使う副詞としての「つまるところ」「さしあたり」「いまのところ」の意味以外に名詞・形容動詞として「行き詰ってしまうこと」「どんづまり」の意味があると知り、勝手に是政さぁぁぁぁん!!!!!となったところから書きはじめるのであります。
まず言っておかねばならんのは、いち早く発表された長髪に眼鏡のやすだくんのビジュアルです。
ちょっとユーモラスで圧倒的に麗しげなその姿。
青木さんが舞台上で違和感なく眼鏡をかけていられるようにと考えてくれたこの眼鏡はのちにストーリーの肝になっていくわけですが、そんなこととはつゆ知らず、ただただ見惚れるしか人類には選択肢がないのです。
舞台フライヤーのデザインは雅やかでどこか儚く『あのよこのよ』というタイトルも相まってミステリアスな雰囲気ではありますが、あらすじでは「爽快感あるエンターテインメント」なのだという。
絵師だけにその筆力でもって巻き込まれた事件を解決していくのかと想像しておりましたが、ところがどっこいあれよあれよという間に話は展開し、やすだくん扮する秋斎さんが冒頭からバッタバッタと正体不明の敵を刀でなぎ倒しまくる痛快アクション活劇なのでありました。
この殺陣のシーンがめちゃくちゃかっこよくてですね。
やすだくんの身体の隅々にまで張り巡らされた”魅せる”神経がいかんなく発揮されておりまして。
跳んだりはねたり回ったりしながら、その軌跡の最も美しい延長線上に刀があるというかんじで。
なびく髪のひと房から、浮き出た手足の腱から、汗がにじんで輝く肌から、キラキラした発光体がとめどなく溢れ、たなびいているさまが見えるのです。
見えるはずのない情熱や生命力や舞台への渇望や喜びが光の粒となって湧き出ているさまが確かに見えるのです(オタクの妄言)。
腕のないわたしがカメラマンをしても連写したすべてが完璧なる一枚の絵になるだろうと思うほどでございました。
むしろわたしの眼球よ、カメラであれ(毎回言う)。
あと身に余る僥倖にしてお席が最高だったため、激しい立ち回りのシーンでお着物がはだけたり諸肌を脱ぐ場面が
(諸肌を脱ぐ場面があああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁl!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)
眼前で繰り広げられたりなぞしたわけですが
(繰り広げられたりなぞしたわけで…繰り広げられたりなぞしたわけで…………)
直視できない乙女心とすべてを眼に焼き付けようとするオタク心による苛烈を極めたバトルが胸中で勃発し、圧倒的死と圧倒的生のはざまで無をよそおいながら隠しおおせぬ動揺により視線の定まらない怪しい観客となってしまいました。
反省している。
そもそもなんでそんなに剣術に長けているのかと申しますと秋斎さまは旗本の息子でして。
しかしながら時は明治維新後、もはや悪人といえども切って捨てることは許されないのです。
それでまぁ、大立ち回りの末その死体をどこかに始末せねばならんという話から次なる展開が始まるわけですが、なんとも舞台のテンポが速い。
ときに流れるように、あるいはセリフを捲し立てて、軽妙な掛け合いあり、コミカルなステップあり、とつぜん歌が始まるかと思えば神妙な語り口あり。
次から次へと息をもつかせぬ熱気とグルーヴによって劇場全体が高揚へと誘われるドライブ感、
次第に明らかになる謎の女ミツの正体と彼女が抱えていた行李の中身の真実、
あの世とこの世がクロスオーバーして、
現実と地続きでいながら知らぬ間にまったく違う次元へとワープさせられている。
悲劇だけれど悲劇じゃなくて、喜劇であっても喜劇ではない。
さいご全てがその存在ごと赦されて、あなたもそなたもこのよもあのよも混沌としたままあるがままでええじゃないかと清々しく踊りだす大団円へと辿りつくまで、
この舞台はたえまなく惜しみなく燃料を投下し、
観客を沸かせ続ける。
肉体も精神も
生々しさもファンタジーも
静止も躍動も
あのよもこのよも
愉快
痛快
爽快
豪快
天網恢恢
奇々怪々。