白玉日和

細々と生きる在宅ライターが、節約したり時間をやりくりする毎日。

わがしかし。

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あんこをいれた、適当なこなもの。

和菓子というと、あんこを思う。

 

お盆となれば、ぼたもち(おはぎ)のためにあんこを作るのが常だった。

小豆を買ってきて、水に浸し、じっとりと炊き上げる。今でこそガス火だが、祖母は『昔は火鉢でやっていた』とつぶつぶ言っている。祖母はかつて『川魚の甘露煮』の名手として名をはせたらしいので、煮物に関しては天下一品だと、孫目線ではひそかな自慢だ。

 

あんこを炊き上げたら、炊飯器で炊いていたもち米をつぶす。これは次第に、私の仕事になった。

母は祖母にくっついて、あれこれ、胡麻の衣の塩梅やすりかげん、黄な粉の味付けなどなどを教わっていたようだが、たぶん母は母でやりたい味付けがあったんだろう。

今となっては、母が好む味付けの、くるみ衣などもお目見えしている。

たまのお盆に帰省した折に、食べるのが楽しい。

 

ところでおはぎと言うと、結構かわいい俳句が多い。

 

父に酒母におはぎの彼岸かな 田村愛子

松蝉やくるみおはぎのそこはかに 諸角せつ子

 

その一方で、

 

病牀に日毎餅食ふ彼岸かな 子規

 

とくるので、日ごろから、おはぎをスーパーの棚で見かけることが多いが、やはりおはぎと言うと葬式やお盆に意識が行く。

懐かしみながら食べるも良いが、意外と、酒を飲んだ後にのんべんだらりと食べるのも美味しい。

海を田んぼだと呼んでいた私とそれを聞いた祖母の一言

今週のお題「海」

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悠然と泳ぐピラルクさん

 

テレビやドラマ、漫画などで人が「海だ―!」と叫ぶシーンを見て、疑問を感じたことはないだろうか?

私はある。

 

まず、田んぼで起きたのが1つだ。

 

田起こしが終わり、水がはられたばかりの田んぼには、まだ稲も植えられていない。それを見た私は、手をつないだ祖母へと、

「ばあちゃん、海、海だよ」

と、何度も語り掛けていたらしい。

27歳を迎えるが、祖母はいまだにこの時のことを思い出すのか、夏が来るたびにその話をする。

 

そして、実体験として、海を見て叫んだことがある。

あれは忘れもしない伊豆の海で、6時間以上かけて父の運転でたどり着いたときだった。高速道路は渋滞して、だけど車の中で私はご機嫌で「しおり」をめくっていた。

なんと、父は、この家族旅行のためにしおりを作ってくれたのだ。

車の外に広がっていた、車自体の波が、気が付いたら海に変わっていた。

「海だ!」

そう叫んだのは、ある種、使命感のような、解放感のような、不思議な感覚に背をつつかれたからだ。

 

つい最近、海を見たのは、新潟へ赴いたときだ。

荒くうねる日本海が、ごうごうと音を立てていた。人気のない水族館に行き、私は一人きり、ピラルクが遊泳する水槽の前にたたずんだ。

おそらくクラゲが居ただろう水槽は空で、水がひたひたと揺れているだけだった。

あの頃よりも知識が広がって、海を見ても単純な喜びだけでなく「あの雲なら、雨にはならないだろうな」「あのペンギンたちは、外に出れなくて可哀相に」「サメが寝ているな」とか、いろんな感想を持てるようになった。

 

海だ!と叫んだあの瞬間が忘れがたいように、強い感情は記憶の中で光り輝き、美しく残る。

でもきっと、何時か、この様々な感想たちがまた、懐かしく思い起こされる日が来るのかもしれない。

そう思いながら、私は「海だ!」と、また叫べる時を、どこか心待ちにしているのだった。

 

若葉を揺らしながら走る今日この頃

もしも君が、これからFF14を始めようと思っていて「だけど頼りになる先輩もいないしなぁ」とか「罵倒されたらどうしよう」とか、考えているのだとしたら。

そうだとしても、どうか第一歩を踏み出してほしい。

そんな思いを込めて、この記事をささげる。

 

エオルゼアに降り立ってから、ずいぶん経った。

あれはまだ、私が、若葉よりなお小さく、新芽にも程遠かったころのことだ。

 

「盾と剣があれば生きていけるやろ」

 

私が悪かったと、言わざるを得ない。

初手タンクでエオルゼアに生まれた我が分身は、運よくFC(フリーカンパニー、固定パーティーだったり、志を同じくする人たちがともに所属する場所のようなもの)に招かれた。

私をオーバーウォッチに誘い、私を暗きヤーナムにいざない、MHでもよろしくしてくれた人のおかげだった。

 

そう言う人が居ない、と言う場合もあるだろう。

そんな時は、どうか、ひとまず、一歩を踏み出してほしい。

心が折れるかもしれない。実際、私は一度FF14に挑戦して、心が折れている。

それで折れたら折れたで、それでもいいと思うのだ。

何故ならそれから季節が巡って、また再び挑戦するタイミングが回ってきたからだ。

 

MMORPGネトゲ、そう呼ばれるものは最終的な結末がまだ見定まらないがゆえに、何度でも私たちの前に形を同じくして、だけど中身を変えて現れてくれる。

だからこそ、何度でも、挑戦することが出来る。

それは人に会う機会と同じくらい、不思議で、不確定で、だからこそ楽しいものだ。

 

私たちは何者にもなれる。

エオルゼアにいない者にもなれる。

この世界に生きている者にもなれる。

 

選択肢をすでに与えてくれているという時点で、あれはまさしく、また一つの世界なのだと、私は思う。