bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

猫。

今週のお題「名作」

実はずっと前から本を読むことが大変で、もう十数年前から読書の習慣がなくなっていた。

そんななか、昨日、ふと本棚にあった「牡猫ムルの人生観」(以下ムルと表記)の文庫本が目に留まり、手に取ってみたのである。

この小説はドイツロマン派のホフマンの作品であるが、作中のホフマンの分身みたいなヨハネス・クライスラーの飼っているムルが、反故と思われる原稿の裏に、自分のことを書き連ねる、という構造になっている。なぜだか知らんが、ムルの書いた文章の裏にある、反故になった原稿、これも挟まって小説の中に出てきており、なんとこちらはクライスラーの宮廷におけるいろんな音楽のことや、恋愛のことが書かれている。

で、よくよく読むと、ムルの思索と思われる文章も、なんだかクライスラーの中身のパロディではあるまいか?という感じの中身で、もってる文庫本の紹介文には

後期ロマン派の中で最も異様な空想力に恵まれたホフマンが

音楽の無限性を憧憬して滅亡するクライスラー

その主人を模倣するだけの教養俗物牡猫ムルの対比を通じて

卑俗と彼岸への憧憬の交錯する世界を描く

とある。

 

 

 

 

昔、この小説にすごくはまって、そのあとホフマンの小説をたくさん読んだけど、全体的に異世界のような異様な光景の話が多く、それは面白いけど、「ムル」のほうは、その異様な光景、重たい心理描写を人間世界とは別の存在が、パロディのように物語を語っていくことで、重たい世界を軽やかな笑いとともに、堪能できる仕掛けがあるなあ、と感心して読んだのだった。

 

時は流れ、わたしも変わってしまい、ホフマンの暗い重たい空想力の小説はちょっと読めなくなってしまった。「ムル」も例外ではなく、ユーモアを感じても、本を読むということ自体に自分が疲れ、読まなくなってしまったのだが、昨日ページを開いてみて、楽しかった読書体験のことを懐かしく思った。クライスラーの狂えるような恋愛、ムルのような俗物的文章の面白さ。読書もそんな本が好きだった自分。

 

ホフマンも猫を飼っていたらしい。溺愛していたらしい。

猫って、そんな変な役を押し付けられても、なんだかノーブルでそれでいてどこかやっぱり俗な感じで、そんなところが猫好きさんにはたまらないのかなあ、って思う。

 

とか、絶賛したけど、意外に猫が出てくる小説を読み漁ったわけでない。漱石の「吾輩は猫である」くらいか。あれもなかなかぶっ飛んでいたけど。

 

 

 

作家の屈託を解放する猫たち。

猫に託して、作家の屈託が面白おかしく解放されていく。

 

 

 

早生まれの干支は何年になる?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

リンク先の質問を見て、答えを見ていたら、こういう文があった。

うかつだったが、自分は早生まれの干支を考えるときに、(2)立春、と疑いようもなく考えていて、だから東洋の占いなどは2月4日前後で干支が切り替わると考えていた。

ところが、旧暦の元日、というのは年によって新暦に当たる日が違う。

上記の例なら、1987年元日は新暦1月29日からになる。しかし、例えば次の年、1988年の旧暦元日というのは、新暦では2月18日からになるのである。

旧暦1988年カレンダー(祝日・六曜・干支) |便利ジャパン

 

そこで、自分の年の旧暦元日を調べてみると、2月9日であった。

なるほどなあ、なんて、感心してしまった。

 

 

で、急に話は変わる。

ここにのってるホロスコープの日付は1962年2月4日になってるが、2月5日に反キリストになる人が生まれた、という予言があって、直接その予言のことは読んでないのだが、例えば、検索してみると、こういう文章をネット上に残している人とかいる。

ジーンディクソンの予言.反キリスト
(datasea at 02/25 21:38)


[1/2ページ]

1962年2月5日、私は反キリストの夢をみました。…*1

http://datasea.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=187777096

 

 

 

 

それで、1962年の旧暦元旦を調べてみると、2月5日だったりするので、面白いな、なんて思った。

旧暦1962年カレンダー(祝日・六曜・干支) |便利ジャパン

…すいません、話題としてはただそれだけです。

 

 

*1:…以下リンク先ご覧ください…

ある思い出。

少し前、まだ自分が植物鉢植え、そういうものに夢中になって育てていたころの話なんだけど、あるとき図書館へ行った。カウンターに鉢植えの花がおかれていて、何気なく見ると、土がからからで、花も私の目からみると水不足でしおれているのに近い状態だった。

 

カウンターの職員さんは特に忙しそうにも見えず、二人で雑談をしているようだったので、わたしは職員さんに「お花の水をあげたほうがいいのではないでしょうか」と声をかけて、職員さんが一応返事をしてくれたのだけど、なにげなくチェックしたとき、水をあげてる様子はなかった。

 

わたしが帰ったあとにあげていればいいのだけど、後日、行ったときその鉢植えはなかったので、なんだか気になってしまった。わたしの見るところでは水やりを適切に行っていれば、わたしの行った日時の間隔では枯れていない感じがしたのだけど、と、こんな風に少し気になった。

 

こんな風に、ほかのよくそのことについて知ってる人が見て、あれをやればいいのに、と思うことはきっとあるのだろうと思う。けれども、わたしは図書館の職員ではないからその鉢植えを持って行って水をやるわけにはいかなかったのと同様、、声をかけても、相手がそれを受け入れて相手が実践しないことにはどうしようもないことが結構ある。どうぞお願いします、と言ってくれればわたしはすぐにでも水やりをしただろうけど、それはなかった。

 

 

どこまで他人のことに介入できるか。

これは人によって距離感が異なるため、一概には言えない。

わたしはそう思っても、もしかしたら、たまたま水筒を持っていた誰かは、職員さんに声をかけて、この鉢植えにお水をあげていいですか?と即座に実行できる体勢だったら、もしかしたら職員さんはお願いします、といったかもしれない。

けど、やっぱり距離感のことで、大丈夫です、わかりました、と答えるだけかもしれない。

子供が親に関して抱くある種のイメージ

わたしはスピリチュアルなことをやっている世界にやってきてから、そこの人々が、意外にたくさんある種のイメージを子供のころに持っていたことに正直驚いたことがある。

それは

「うちの親は本当の親ではなく、本当の親はどこか別のところにいる」

という感覚。

こういう感覚は若いころ読んだ心理学の本で書かれていて、はっきりいうと自分にはピンとこなかった。心理学の本といえば、悩み多き人々のことばかりなので、そういう感覚がその人たちの悩みにつながっているんだろうな、とは思ったけど、一般的なところではそんなことはないだろうと思っていた。

 

ところが、スピなことやっている人々にはこういう人が結構いることいること。まあ悩みがあって、そういう世界に入ってくるから多い、といえることはいえるのだろうけど、それにしてもだ、自分と感覚が違いすぎたので、さすがに考えてしまうことが多くなった。

 

自分が子供のころにもっていた親への関係性のイメージ。

それは、

うちの親はまるで寄宿舎のおじさんおばさんみたいなところがある。うちによってきたので、一生懸命お世話します。けれどもそれは親という役割を一生懸命果たす、という感じのイメージ。

 

断っておくが、うちの親は冷血とか虐待とかそんなことはない。むしろ世間的には立派な親であり、だからこそなのかな?

「親業」

ということを無意識にやっていたのではないかと、今気が付いた。

 

では、私自身、いわゆる「本当の親」というものについてどう考えていたのかというと、実は、「本当の親」という概念というかイメージを持っていない。

変な話だけど、拾われた子でもなく、まぎれもなくわたしはここに住んでいるのだが、それは本当の親と離れたとか、捨てられたとか、そういう話ではなく、わたしは私自身であって、親、というものを知らない、という感覚が非常に大きかったと思う。

 

よく、精神疾患の人で、「自分の家族がインベーダーや宇宙人に変わってしまい、同じ姿だけど、実は違う」

と訴える人がいるけど、あれとも違って、親はまぎれもなく親であるのだが、でも、親という概念、ではなくやっぱりうちの親は「親業」ということをやっているためにわたしを子供として育ててる、という感じがずっとしていた。

 

妹なんかは「血のつながった家族と友達は違う」と明確に思っているらしく、その話を最初聞いたとき、自分はとても奇妙な感覚になった。

このあたりは、今だ言葉にするのが難しいが、そのあと妹の親に対する接し方とかきっと無意識に観察するようになったかもしれない。

その結果、妹は家族と友達の関係性をなんか別のものとしてとらえているらしい感じがした。その文脈でいくと、わたしはどんな人間関係も、なにか一つの価値観の中で距離感をもっていて、その中では血のつながりという要素はあまり重要な位置を占めていなかったことに気が付いた。

 

気が付いた当時は妹の価値観を古いなあと思っていたけど、自分が精神疾患になり、ずっと親がかりな生活を続けていくうちに、血のつながりの強さ、というのをうちの親や妹はすごく重要視しているということがわかってきた。

 

昔、私自身はこの家族の中で異端者だと感じていたことがあったけど、それはこういう価値観の違いからきていたのかもしれない。

 

妹は、あとでわたしのことを

「突然、ふっといなくなってしまうような、そんな怖さがあった」

と伝えてきた。

自分の言葉のサラダ。

統合失調症界隈では、言葉のサラダ、という言い方がある。

気になる人は検索してみて下さい。

なんか自分のことを考えたときに、この表現は結構うまいなあ、なんて感じていて、でもきっとこれを吹聴しまくっているうちに調子が悪くなりそうなので、ほどほどにしておく。

 

そんな中、少しだけ、また人がどう読むか考えずにただ書いた文章を記録した。

18禁に指定してある。検索からも除外してある。

変なものに興味がある方はどうぞ。

 

 

死を受け入れることへのいろんな課題が突然変異

↓ ↓ ↓ ↓

https://novel18.syosetu.com/n2203ir/

お上りさん^^

お上りさんしてきた。

東京へ来るときはだいたい適当にビジネスホテルなのだが、今回は品川プリンスホテルの高層階に泊まるというパッケージツアーを利用。観光が目的でなく、少し快適な部屋に泊まりたかったので、贅沢した。

 

以下、写真。

着いた当日。部屋は34階ツインでございます。夜景だなあ

次の日の朝。昨日は気がつかなかったが、富士山が見える方向だった。

高層ビルというものをあまり利用しないので、丸二日間こんな高い空間を見ながら過ごしていると、なんとなく気分も高揚してくる感じがする。いつもこういう階層で暮らしている方々というのはどんな感じで過ごしてるのかな、などということもちらっと思い浮かぶ。この時、実際に生活した時の具体的なことなどは全く念頭にない。折しもその時部屋でつけていたテレビでは災害に関しての番組だったというのに。それほどまでに、高層階ほぼ初体験の自分はドリームの様な意識状態だったかもしれない。

 

おまけ。

羽田空港ロイヤルホストの窓から。向こうは国際線ターミナルでしょ?

お上りさんゆえ、京急線で羽田のターミナル駅が二つあることが変な風に感じていたが、この光景をみて、ああ、そうだよね。こんな感じなら駅違うよね。

とか、食事しながらぼんやり考えてた。

そういえば、お食事の写真撮ってなかったわ。なんとなく外の景色のほうばかり見ていて。

わたしの愛するクリエイターとクリエイトされたものと。

よく、ファンが相手のことを愛するあまり、感情的なトラブルを引き起こすことがある。

そのことを自分は恐れていて、彼彼女たちの作品は大好きだけど、お近づきになって感情的にもめたら嫌だな、と離れてみていることが多かった。

 

それが、46歳を境に変わってきた。

直接作品を見て、その人に興味をもったわけでなく、ただ、相談業をやっていたので、そこに行ったのが始まりだった。

そこでわたしは衝撃的な体験をして、その人に執着することとなった。

後でその人がクリエイトしていて、いくらかの作品を世に出していることを知ったのと、その人がヒーリングの技術を教えていて、その技術は私も興味があったので、習ったのと、そうやって、その人と少し近づけるかな、とか感じていた。

 

あるとき、私はその人自身が好きなのか、その人の教えている技術が好きなのかわからなくなった。無意識ではあるが、同じ技術を教えている別の人のところで、習いなおすということを3回繰り返した。

結果、わたしはその人自身が教えていた技術のより基本的なところまで習って、その人が教えていたのがアレンジされたものだったとわかるのだが、にもかかわらず、その人に対する気持ちがそれほど変化しなかったので、わたしはその人自身に興味があるのだと感じた。

 

が、また時は過ぎて、面白そうな作品、素敵な作品を作る新しい人を見かけ、しかも接触可能な職業にあるものだから、そこに行っては相手との距離を感じ、一生懸命相手と調和しようとしていたのだが、最近力尽きた。

それでも、その人のつくる作品は素敵だと思うし、できれば手に入れたいと感じる。

けど、相手とたぶん調和していくのは今の自分には難しい。

 

そんな体験をしたあとで、クリエイトとは関係ない部分で、ちょっとだけ、心理的な距離を感じて悲しくなった出来事があった。その人はとあるコミュニティで知り合って少し交流していたが、その人のやっている趣味的なコレクションには実はそれほど興味を持たなかった。

しかし、距離感を感じたせいなのかどうなのか、同じ趣味コレクションを発表していていつも見に行っているサイトを見ているうちに、そういえばあの人の趣味コレクションサイトではもう少し緻密に集めていたなあ、と思い出して、見に行った。

そして、この人すごいなあ、なんて改めて感じて、今までブクマしたことなかったのに、ブクマした。

心理的感情的距離が、もしかしてクリエイトされたものに対して少し冷静に見ることができたのかもしれないし、寂しさが、それをよくできたものに見せたのか、わからないけど、けど、こういうこともありなのかもしれないと感じた。

 

少し前、いきものがかりの水野さんが、新聞連載でこのクリエイトされたものと、作者とファンの関係性についてすごくいいこと言っていた。正確な文章は忘れてしまったので、今自分がここで覚えていることを書いて、曲解されても困るんだけど、自分が水野さんのその文章で、理解したことは

結局、作者とファンとの間で感情的ないさかいを感じていたとしても、クリエイトされたものはそれを超えて人々を結んでいる、

 

ということなのである。

そして、こういう考え方が背後にあって、わたしはわたしの愛するクリエイトされたものと、作者との関係性について、悲しみとともに、そういうこともあるなあ、なんて思い出したのだった。

 

ところで。

前に書いた相談業の人だが、最近その人の作品に改めて接してみて、一部とても惹かれる部分に遭遇した。その人のオリジナリティというか本質というか、そういう感じがする部分。

そして、もしかしたら、わたしは知らないところで、この作品に惹かれていて、それを作者と重ね合わせているのかな、とかまたそんな疑惑が芽生えてきている、今日このごろ(笑)